ふっきーの演劇ワークショップ日誌

演劇ワークショップと言ってもいろいろ。自分の考える「演劇」や「ワークショップ」を、現場だけでなく率直な言葉で発信していきたいと思い、このブログを作りました。が、最近は地元葛飾区立石の関係の発信が多くなってきております。

表現について

「人を傷つけたい」と思う子どもたちに演劇をやってもらいたい

「人を傷つけたい」「むしゃくしゃする」
「自分なんていなくてもいい」

子どもからそう言われたら、どう答えますか?


「そんなことを言っちゃダメ!」なんて答えていませんか?


子どもは意外にネガティブなことをたくさん考えています。
実は、どんな大人も子どもの頃、
一度はそんな想いを抱いたことがあるはずです。
にもかかわらず、
自分の気持ちときちんと向き合った経験がないと、
子どもの気持ち自体を否定したくなります。
※言い方にもよるかもしれませんが。


でも、本来、子どもからそう言われたら、
その言葉を受け止め、
表現できる環境を作ることが大事ではないでしょうか。


先日、某所で子どもたちと
演劇ワークショップをやりました。
子どもが描いた絵をもとに、
みんなで芝居作りをしたのですが、
一人の子が描いた絵に衝撃を受けました。


色はほぼ黒と赤のみ。
月夜に照らされて
たくさんの人と動物が血を流して倒れていました。
傍らには包丁が転がっています。
まさに凄惨と表現した方がよい絵でした。


私は率直に「いい絵だ」と思いました。
描いた子のやりきれない想いが伝わってくるのです。

ほのぼのとする絵が多い中で、
その子の絵は異彩を放っていました。
他の子どもたちもその絵を見たとき、
「怖い」と言っていました。

でも、みんなはその子の絵を選び、
全員で凄惨なシーンを演じきりました。
それはどの話よりも生き生きとしていました。


なぜでしょうか。

思春期の子どもたちは多かれ少なかれ
ネガティブな想いを抱えています。

私も同じくらいの年齢の頃、
たくさんのコンプレックスを抱えていました。
しかし、周りの大人たちからは
「よい子」「できる子」を期待される。
そんな状況では、
ネガティブな想いは絶対に外には出せません。
むしろ、親や先生が望むことを先読みし、
器用に実現できてしまうイヤな子でした。
そんな自分を嫌悪しつつも
それ以外の表現をすることができずにいました。
逃げ場所がどこにもない悪循環。
表現する場も方法も知らなかったし、
身近な大人を信頼したこともなかったからです。
表面は明るくても、中身は鬱々とした子どもでした。
なので、先日の子どもたちの想いが
ちょっとはわかります。


私は幸運にも
大学時代に演劇と出会うことができました。
演劇であれば、堂々と人を刺したり、
自殺したりができるのです。
暗く救いがないように見える
私の芝居は賛否もありましたが、
人を本気で泣かせたり、怒らせたり、
笑わせたりすることができました。
そして、そのことはコンプレックスを
反転させる大きな自信になったのです。



以上のことから、
私は思春期の子どもたちにこそ、
演劇をやってもらいたいと考えています。
演劇は安全な場所にいながら、
ネガティブな想いに触れ、
周りの人たちと一緒に
力強い表現にしていくことができるからです。

というわけで、
思春期の子どもたちとどう付き合っていいのか
悩む先生のみなさん、
演劇ワークショップをやってみませんか(笑)

エンターテイメントとエンパワーメント

私は「演劇をやっています」とは
一度も言ったことがないのにすぐ誤解される。


「演技をしてみてください」とか
「台詞を言ってください」とかなんとか。


ひどいのは「役者を目指していたんだよねぇ」とか、
「将来テレビに出るんだから」とか、
勝手なイメージまでつけられる。


はぁ・・・、こういうことを言われると、
どっと疲れる。



かく言う可能性がある人には、
「福祉の人」とか「まちづくりの人」
と思われる紹介をするようにしている。
※これすら誤解がたくさんあるんだけれど、まだマシ!


それだけ、「演劇」って、
日本では変なイメージがついているめんどくさい言葉なのだ。



これはひとえに、
「演劇」=「エンターテイメント」
と思われているから生じる誤解なのではないか。
もちろん、そういう演劇もあるけれど、
それは全体の一部に過ぎない。

私は「演劇」を見せて、
人を楽しませようなんて思ったことはない。
むしろ、見せる演劇に関しては、
お客さんを挑発するようなことばかりをやってきた。


私がやりたいのは
「エンパワーメント」の演劇なのだ。

この言葉は、最近読んでいる
パウロ・フレイレが提唱した言葉だ。

私のイメージでは、
その人自身が本来持っている潜在的な能力を
働きかけによって呼び起こすかんじかなぁ。

「元気が出る」とか「行動したくなる」とかに近い。


細かい説明は、
フレイレの「被抑圧者の演劇」を
もう少し読んだら出てくるのかもしれないから割愛する。

で、もう一度言う。

私がやりたい演劇は、
見た人、関わった人をどんどん
当事者にしていくようなものだ。

楽しませてもらいたいと期待する輩は
ディズニーランドにでも行っておくれ。

ブログ&SNS分析

私はネットでいろいろな情報発信媒体を持っている。
ちょっと並べてみる。


2006年3月〜
☆ブログ「ふっきーの演劇ワークショップ日誌」

2008年7月〜
☆かつしか地域づくりネット(通称かちねっと)

2010年2月〜(実際に活発に始めたのは2011年3月)
☆twitter @happyfukky

2011年4月〜
☆facebook

2012年4月〜
☆mixi


すごい。5つもやっている。


自分の考えを伝えたり、
イベントに興味を持ってもらったりするために
どの媒体もすごく大事なのだが、
最近は「葛飾まちづくり劇場」のホームページの更新も増え、
メルマガも発行するようになったので、
意識的に使わなくちゃと思い始めた。


もちろん、SNS自体を共有している友達も多いので、
何度も同じ情報が行ってしまって、
申し訳ないなと思ったりもする。


なので、整理をしてみた。
グラフ



最近、圧倒的に新たな出会いが多いのはtwitterです。
たぶん、出会う機会を定期的に発信していることに加え、
フォローをしている基準(対象)が明確なので、
コミュニケーションがとりやすく、
出会う敷居が低いのが原因だと思います。


またfacebookは新たな出会いはそこまで多くないのですが、
高校、大学、演劇関係、まちづくり・NPO関係と
幅広い人たちとのつながりが復活しました。
身近な人たちと日ごろ、情報交換できるのは利点ですが、
注意をしないと、
必要のない情報にあふれている可能性があり、
依存性が高くなるのが欠点です。


かちねっととmixiは更新頻度も少なく、
新たな出会いも少ないかんじになっています。
以前はかちねっとはfacebookに近い場所にあったのですが、
かちねっとのメインユーザーがfacebookを利用するにつれて、
どんどんリアクションが薄くなっている気がします。

mixiはコミュニティで葛飾区外の人と
知り合いたいという目的で入りました。
しかし、怪しすぎる友だち依頼も多く、
なかなかうまくは使えていません。


で、意外と大事なのがブログです。

私はこのブログを通じて、
長いスパンで付き合っていけそうな方々と出会いました。
特に、そういう方々は定期的に読んでくださっている方が多く、
事前に共感を持って出会うことができています。
初めて会った方から、
「ブログを読んでいます」とか「ファンです」とか
言われたこともあり、
ほそぼそとですが、
きちんと発信していかなくてはと思います。

このブログを通じて、
想いを伝えることの大事さを勉強させてもらっています。

シヌコトとシルコト〜中学1年生の女の子の自殺に思うこと

先日、葛飾区新小岩のマンションで
中学1年生の女の子が自殺?をする事故があった。
原因は不明だが、
数キロ圏内の若者の自殺はとてもショックなことだ。


突然だが、私が大学生のとき、少年・青年の事件が相次いだ。

神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇に始まり、
池袋の通り魔事件、西鉄バスジャック事件、
岡山金属バット母親殺害事件、豊川市主婦殺人事件・・・。

私はこれらの事件の凄惨さに衝撃を受けながらも、
不思議な共感があった。
(もちろん、人殺しや暴力はいけないという前提の上で)

なぜ彼らは人を殺したのか。

この先、どうやって生きていったらいいのか・・・。
彼らのあせりや絶望感、自己肯定感の希薄さ、
時代の閉塞感みたいなものは共有できた。

事件後、マスコミや偉い人たちは
少年法の改正や命の教育の大事さを叫び続けた。
「(加害者の少年を)理解できません」と
一言で片づけた有名アナウンサーすらいた。

バカだなと思った。

意図的に向き合おうとしていないのか、
それとも向き合えないのか。

どちらにせよ、今以上に純粋だった
私は激しい怒りを覚えた。


その当時、本を書き、演出をしていた私は、
若者がテロを起こしたり、人を殺したり、
自殺をしたりする作品を多くつくった。

同級生の女の子からは
「もっと明るければ、人を誘いやすいんだけどね」と言われた。
通し稽古を見て、数十分泣き続けた女の子もいた。


私にとって、
演劇は社会とうまく折り合いをつける楽しい道具だった。続きを読む

100万通りの生き方

自分が演劇をやっていてよかったなぁと思えることは
ひとつの生き方だけではない生き方を想像できたことだ。

本を書くには・・・
役を演じるには・・・
人と関わって演出をするには・・・
ありとあらゆる生き方を夢想する。
する必要がある。
そして、夢想するだけでなく、
実際に作る方法を考え、現実を変えていく。

あぁ。
今日もひとつの悲しい現実があった。
いろいろな人が100万通りの生き方を夢想する時間を作りたい。

どうやって自由になるのか〜アートカフェかつしか

IMGP2910
12月4日。葛飾区市民活動支援センターの
芸術とまちシンポジウムにパネリストとして出演した。
他のパネリストは藤堂直子さん、いちむらみさこさん、傍嶋飛龍さん。
藤堂さんは建築家でディスレクシアの息子さん高直さんとご一緒。

昼にエチオピアカレーを食べながら、
みなさんの話を聞いた。
今回のテーマは「アートで自分らしく生きている人たち」
子ども時代からの生き方が大いにかかわるようで、
どんな子どもだったかが話題になった。
ディスレクシア(解読症)、授業に全く関心がない、多動症・・・
小学校はなかなか大変だったようで、
先生を困らせたエピソードに花が咲いた。

その中でも、私はいたってふつう。
いや、ふつうどころか優等生だった。
生徒会長もやった。勉強もできた。
スポーツも人並み以上にできた。

みなさんの中ではマイノリティだ。
逆に場違い?
その場では無口になって、
居心地の悪さを感じてしまった(笑)

でも、優等生は優等生なりに
大変だったことを思い出した。
厳しい先生に優遇され、
期待された6年生は特に大変。

先生からの期待に
過剰に応えることができてしまうものだから、
怒られてばかりいる友人たちの前で
ひとり称賛された。
当然、友だちからは嫉妬と反発があった。
そして、中学受験による塾通いと異常な勉強時間。
孤独だった。
家族にあたったこともあった。

人生で一番ストレスを抱えていた時期だったかもしれない。


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『ザ・キャラクター』観劇

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野田秀樹さんのお芝居を久しぶりに見てきました
2004年の『赤鬼』以来でしょうか。

大学時代、NODA・MAPの公演は
毎回通ったのではないかというくらい、
魅了されていました。
特に1999年にタイの演劇人と作った『赤鬼』は
村八分にされるコミュニティの問題を扱っていて
役者のアンサンブルと身体表現で語られる
ダイナミックな演出と叙情的なストーリーに
大いに影響を受けました。

野田秀樹 赤鬼の挑戦
野田秀樹 赤鬼の挑戦


去年あたりから
一度見ておきたいなと思ったのですが、
去年やっていた芝居は当日券を並んだものの、
私の直前で売り切れ。あきらめました。

今日は休みだったので、
昼の回に一念発起して並びました。
池袋の芸術劇場についたのは10時30分。
さすがに一人女性が並んでいただけ・・・。
2番目でした。
11時過ぎから徐々に人が増え始め、
チケット発売の13時には50人以上が列をなしていました。
平日昼間の回なのにすごい。


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フジノぼん03

201006231208000

「芸術村と芸術家」うそまこと氏のコラムを読んだ。
短い文章なのだけれど、
外から藤野を見ている人たちの芸術と生活の乖離を見事に言い当てていて、
非常におもしろかった。

論旨を簡単に書かせてもらうと。

・フジノは芸術村といわれるけど、別に芸術村があるわけでもない。
 イメージ先行では・・・。

・ホモサピエンスとネアンデルタール人の違いは、遺跡から
 壁画、工芸品、楽器などが出てきたこと。
 現在、我々が生き延びているのは、
 遊びや芸術を手に入れたからではないだろうか。

・芸術家は食える食えないとか、職業として成り立つとか
 低次元なものではない。


そして、最後のまとめ

「つまり芸術とは一個人の好みとか趣味で存在するものではなく、
 人類を絶滅から防ぐためにある。
 人生の目的は遊ぶことであり、芸術家とは人類そのものである。
 そして芸術村とは、この地球そのものであると私は思う。」



如月小春さんもこんな言葉を残しています。

「芝居なんかなくても生きていける」と言います。
しかし、例えば政治的に一番悲惨な状況に置かれている人たちが、
そうしたときにすがるものは何でしょうか。
共に歌うわけです。共に詩をつくるわけです。
人間にとって、そういう精神的な活動というのは、
生きていく上でどれほど大事か。
芸術というのは、ただの道楽ではないのです。
人間が生きていく上で、本来必要なことであるわけです。
(「文化の時代の理想と現実」”変革の時代を探る”第45回講演録)



以上、備忘録として。
今日は一日雨かな。

イルミネーションからバランス感覚を考える

200911250031000
ラブホテルではありません(笑)
立石にもクリスマスシーズンになると、
この種の装飾をした家が数軒出てきます。

今年は地元企業のタカラトミーのイルミネーションが
少なくなったそう。
やはり不況の影響をもろに受けています。

しかし、この写真の家の数軒は、
例年以上に力を入れている感じがしました。
この時期から毎晩点灯しているので、
電気代もバカにならないのではないでしょうか。

この表現の過剰さは、バランス感覚なのだろうと思いました。
このように表現したい理由。なんなのでしょう?

実はこの数軒は非常に仲が悪く、
年がら年中、いさかいや暴力が絶えなかった。
当然、近所迷惑にもなる。
そこで反省の意味も込めて、
クリスマスの時期は
近所の住民を楽しませるイルミネーションを飾ることにした。
しかし、相手への対抗意識もあるため、
また「怒り」の表現手段として、
すさまじい装飾をしている。

こんな想像をしてみました。

常々、人はいろんなバランスのとり方を
持っているなぁと思います。
自分の場合は「演劇」です。
ある人の場合は「ブログ」だったり、
「恋愛」だったり、「仕事」だったりします。

この数軒はどのような人たちが
住んでいるのか非常に興味があります。

華と気品

「あの人は誠実なんだけど、もう少し華があるとねぇ・・・」
昨日、知人がそんな話をしました。

自分がかつて所属していた
文学座の研究所時代のことを思い出しました。
当時、冊子作りの際、自分はこのふたつを
「役者に必要なもの」の項目に書きました。

「華」はその人が持っているオーラとか、色気みたいなもの。
お客さんからもっと見たいなぁ・・・と思われるかどうか。

「気品」は人前に出る以前に、必要な礼儀とか格式みたいなもの。
人が見ていないところで、人や物事に気づかえているかどうか。

このふたつは習って身にまとえる種のものではないので、
とても難しいものだと思います。
でも、役者ではなくとも、人の心を動かす場合には
必要なのかなぁなんて思いました。

200911250032000
二年ぶりに、立石の星の王子様と再会しました。
雨の中、地味に立ち続ける姿に「品」を感じました。
♪ラブ・ユー立石(先輩&友人柳田さんの人気ブログ)
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