ふっきーの演劇ワークショップ日誌

演劇ワークショップと言ってもいろいろ。自分の考える「演劇」や「ワークショップ」を、現場だけでなく率直な言葉で発信していきたいと思い、このブログを作りました。が、最近は地元葛飾区立石の関係の発信が多くなってきております。

観劇の感想

地域の物語「生と性をめぐるささやかな冒険」女性編と男性編を観てきた

SPT_chiki_p_0217-1-724x1024

















どちらも「ささやか」では全然ない!
というのが、第一の感想だ。

3月26日(日)、世田谷パブリックシアター主催の
2017年度の地域の物語の発表会
を見に行ってきた。
(「女性編」のプレビューと「男性編」の長編)


今回は昨年に引き続き、テーマが「生」と「性」。
誰もが当事者であるのに立ち止まることがなければ、
またはきっかけがなければ、
誰もが当事者だとは思いづらいテーマである。
そして語るのに勇気がいるテーマだとも思う。
舞台では、参加者たちが自らの「性」を手掛かりに
ワークショップを通じて「生」について考えてきた様子が発表される。


まずは「女性編」。
「ゆきのおばあちゃんの話」がとても印象的だった。
おばあちゃんの遺品である、
90歳のときの日記を、舞台上で20代の女性(孫)が読み始める。
おばあちゃんは子どもを埋めず、
病弱だった弟の子どもを引きとって
自分の子どもとして育てたそう。
歳をとってなお、
「子どもを産まなかったこと」を自問自答していたり、
自分の行動の結果、生まれてきた孫娘を愛おしく思ったり。
とつとつと読む女性が祖母の葛藤と愛情を
そのまま引き受けているように見える。
数十年を超えた家族の物語とつながりが垣間見えた瞬間だった。
前年は「男性性」を強く意識した「女性性」が強く出ていて、
同時に怖さも感じた発表だったが、
今年度はいい意味で肩肘が抜けた分、
それぞれの人たちのメッセージが強く伝わってくる舞台だった。


次は「男性編」。
発表はシアタートラムから打って変わって、
稽古場Aに。
発表場所やワークショップの回数も鑑みて、
ある意味、後発で「女性編」のカウンターパートだと油断していたら、
あまりにも堂々とした発表で「女性編」以上に衝撃を受けた。
ゲイやトランスジェンダーの人、アブノーマルな趣味の人、
軽そうな若者からストレートな初老の男性まで
参加者が幅広い。
冒頭の「はぎさんのモノローグ」で出てくる
女性を初めて意識したという「フォークダンス」の話から、
舞台は参加者全員のフォークダンスのシーンに。
いきなりこれでやられてしまった。
全員が男性で、ペアになって手に手を取り合い踊る。
そして音楽に合わせて、パートナーを替えていく。
圧巻!
男性同士で踊るユーモラスさがありながら、
多様性を尊重することが表現されていて、見ていてとても心地よい。

さびしさを感じる男性が知り合いに
ただ「上にのってほしい」と頼み、
身体の上に覆いかぶさるシーンがあったり、
ひたすら「〇〇年〇〇回」
(その年のセックスの回数を暗示し、後でわかる)と叫ぶ人がいたり。
発表の仕方が自然体で自由。
また途中で出てくる異性とのエピソードも
すべて男性参加者?が演じるため、
性への見方もマヒしてくる感覚があった。


極めつけは、最後に出てきた「まんこにいさん」だ。
性同一性障害(身体は女性、心は男性)の20代の若者が
性別にとらわれてきた過去をふりかえり、
最後に「ただいまんこ」と言い放つ。
いやあ、すごいなあ。


両方を観た後、観る前とでは、
自分の「生」と「性」への距離が
あきらかに変わっていることがわかる。
そして、自分の歴史を誰かにしゃべりたくなっていた。


「ささやか」と書いておきながら、
「ささやか」では全然なかった発表会。
今年度は大いにだまされた。

演劇の底知れぬ恐ろしさを見た『アクト・オブ・キリング』

poster2














みなさんは「演劇」と聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。

「劇団四季」を思い浮かべる人もいるかもしれないし、
ちょっとかじったことがある人であれば、
「小劇場」、や「アングラ演劇」を
イメージする人もいるかもしれない。
それ以前に、「うそくさい」とか「料金が高い」とか
「つまらない」とか考える人もいるだろう。
かく言う私も演劇に関わるまでは、その性質の人間だった。


『アクト・オブ・キリング』の舞台になったインドネシアでは、
演劇を、日本以上に立派な「ショービジネス」と
捉えられていることがわかる。
少なくとも、かつて大殺戮を行なった二人の主人公は
本気で考えていたようなのだ。

『アクト・オブ・キリング』は
インドネシアで1960年代に行なわれた
共産主義者の大量殺戮を題材にしたドキュメンタリー映画である。
当初、被害者を撮ろうと企画をしていた監督が
当局から許可を出されなかったため、対象を加害者に変えた。


監督は殺戮の加害者である二人の男に言う。
「では、あなたたち自身で、カメラの前で演じてみませんか」と。

その言葉を真に受けた彼らは
「ハリウッドに負けるな」とか
「笑いの要素が必要だ」とか
玄人気取りで、殺戮シーンを演出し始める。
そして、周りの人たちを巻き込みながら、
殺戮を再現していく。


この映画の本当の恐ろしさは、
彼ら二人が「ショービジネス」と捉えていた
演劇によって復讐されていくことにある。

もともとは自らの殺戮を演技化し、
エンターテイメント化することで、
「勝者の歴史」として肯定することに狙いがあった。
しかし、監督のカメラは、
冷静なまでに、殺戮されるエキストラの戸惑いや悲しみ、
知人とされる人たちの反抗心を映し出す。
再現の中でさえ、
子どもたちは癒えることのない傷を負っていく。

これまで、語られないことで保ってきた均衡を
殺戮の再現劇は残酷なまでに破壊していくのだ。

そして、主人公の一人アンワルは、
自らが好んだ針金を首に巻きつけ、
引っ張る方法で、殺害されるシーンを演じ、
それを自分の孫たちに見せる。
当然、孫たちは嫌がり、祖父から逃げてしまう。
後日、殺害現場で殺戮を語ろうとすると、
からだが痙攣し、嘔吐する。


彼らのの今後はどうなるのだろう。
「過去の殺戮の再現劇」という方法によって
パンドラの箱を開けてしまった今、
少なくとも幸福な老後は望めまい。


常日頃、平和的に
演劇ワークショップをやっている私も
非常に驚く映画だった。
演劇のこういう恐ろしい使い方もあるのだ。


アウグスト・ボワールの言葉が反芻される。

「すべての演劇はどのみち政治的であらざるをえない」



私は『アクト・オブ・キリング』を、
利用しようとした演劇に復讐された
二人の悲惨さを描いた映画と見た。

ナイロン100℃「パン屋文六の思案〜続・岸田國士一幕劇コレクション」が面白かったわけ

nylonA













5月2日。
青山円形劇場にて、ナイロン100℃
『パン屋文六の思案〜続・岸田國士一幕劇コレクション』を観劇。

青山円形劇場。ナイロン100℃。
岸田國士。そして、井手茂太さんの振り付け。
大好きなものが重なり過ぎていて、
これは私のために作られたかと錯覚するほど。
つまらないわけがない!

子どものように見入ってしまった
期待に違わぬお芝居だった。


どれが面白かったかというと。

文句なしは「恋愛恐怖症」。

男(植本潤)に好意を持つ女(緒川たまき)が
友人関係の距離を縮めようとする。
しかし、男はかたくなに拒むのだ。
和装をした緒川たまきさんの色気がすさまじい。
世の男性なら、コロッといきそうな迫り方を
植本氏はなんだかんだと理由をつけて拒み続ける。

両者の応酬は
先日行なわれた世界卓球の
ハイレベルのラリーのごとく。

いやぁ、見事だったなぁ。

結局、男は逃げ出してしまうのだけれど、
その後、女は嫌っていたはずの別の男と縁を結び、
別の男がその男の前に顔を出すという筋書き。

藤田秀世さん演じるもうひとりの男性役も
淡々とひどいことを言う。その残酷性。
私が岸田國士の戯曲が好きな理由も、
救いがどこにあるのか
全くわからないところにあるのだ。


「パン屋文六の思案」「遂に『知らん』文六』
「長閑なる反目」「世帯休業」もすごくよかった。
もちろん、「かんしゃく玉」や「ママ先生とその夫」も。
ああ、全部だ。


時折、舞台上に出てくる匂いを観客も嗅げる
においシートの試みはいまいちだったが、
岸田國士の日常と非日常が重なり合い、
解体されていく世界観が
すごく丁寧に表現されていたと思う。


夢に出てきそう。

女性たちの凄惨な過去を希望に変える『トークバック〜沈黙を破る女たち』を見てほしい

poster2















「トークバック」を見た。

HIV(エイズ)に感染した女性たちが
自分たちの経験を演劇にしていくドキュメンタリーだ。

主な登場人物は8人。
全員が強姦、貧困、薬物、売春、DVなどの末、
HIVに感染した過去を持っている。
それを聞くだけでも自分の見知らぬ恐ろしい世界。
ついつい目を背けたくなってしまう。
でも、坂上監督は
それぞれの登場人物の過去を丹念に取材していく。

正直言って、映像を見続けるのがつらい・・・。
のどがひりひりしてくる。感情が激しく揺さぶられる。

でも、今見るべき映画だった。



舞台はアメリカのサンフランシスコ。
セックスやドラックで感染するHIVへの偏見は根深い。
HIVになってしまうと、自らの責任の有無にかかわらず、
偏見を恐れ、口をつぐんでしまう。

最近亡くなったHIV感染者7人全員の死因は、
HIVそのものではなく、自殺や他殺、ドラック中毒など。


この問題に気づいた医師が
女性演劇家に仕事を依頼したことが始まりだった。
彼女の名前はローデッサ。
刑務所に服役する女性たちが自分自身の問題を元に
演劇をつくることのサポートしてきた人物だ。
医師はローデッサの経験が
HIVの女性たちの問題にも活かせるのではないか
と考えたのである。


HIVに感染した女性たちに接する
ローデッサの姿が印象的だ。
あたりまえだが、そこには偏見の”へ”の字もない。

間違っていれば怒るし、
成長があれば、我が事のように喜ぶ。
全身を動かし、手をたたき、大きな声で挑発し、
女性たちの表現を引き出していく。

アフリカ系アメリカ人の彼女も
10代で望まぬ妊娠をし、出産。
そんな彼女を支えてくれたのが、
兄から紹介された演劇だった。
彼女自身が自らのコンプレックスや過去を
演劇という形で表現することで
乗り越えられたサバイバーだったのだ。


私は恩師如月小春の言葉を思い出した。

「危うさを抱えた人と関わる人は、
 強いテンションを自分の内に持っていなければならない」



ローデッサはHIVではない。
しかし、彼女の言葉はHIVの女性たちを変えていく。

「もっと声を大きく!」

ひとりひとりが凄惨な過去に向き合い、
舞台上で表現する。
自分が彼女たちのような立場や環境にあったら、
果たしてできるだろうか。

でも、この映画は凄惨な過去を乗り越え、
希望にしていく軌跡が事実として描かれている。


終了間際になってしまったが、
渋谷のシアターイメージフォーラムで
上映は4月25日(金)まで。
女性はもちろん、男性にも見てほしい。
凄惨な過去を負ったり、負わせたりするのに、
男女の境はないのだから。


※参照
「サヨナラ満塁逆転ホームラン」(2006.10.8)
胎児性水俣病患者・障害者のみなさんと演劇をつくっているときにも
同様な気持ちを持っていました。

地域のサークルの発表会のイノベーション

本日、すごい!と思うイベントに行ってきました。
内容よりも手法が斬新だと思ったのです。


よく、地区センター等のおまつりで、
利用しているサークルの発表会があります。

コーラスグループや踊り、カラオケ、楽器演奏なんかが
混然と並んでいるものです。

参加者同士が見合うことはあっても、
それ以外の人たちが見に行くことはあまりありません。
せいぜい家族程度でしょう。


しかし、今日のイベントは約200人が集まっていました。


所沢市中央公民館ホールで行われた
構成劇「読むー三ヶ島葭子」です。

↓詳細は
構成劇:もっと「三ケ島葭子」知って 地域サークル団体、あす所沢で披露 /埼玉


内容は、戦前の地元の歌人三ケ島葭子さんの
生い立ちや短歌、生き方などを朗読や対談などを通じて、
紹介していく構成になっています。


でも、私が面白かったのは、
ハンドベルや踊りや歌、楽器演奏などが
自然に盛り込まれていることでした。

これが実に心地よかったのです。


三ケ島さんとは直接関係ない?(関係あるのかもしれませんが)
ハンドベルが時々挿入されることで、
本編のアクセントになっています。

また踊りや歌、楽器演奏は三ケ島さんの作品に
触発されたものになっているため、
いろいろ想像しながら見ることになります。
それぞれのサークルの特技が
地元の歌人三ケ島さんの生涯を追う動機に支えられ、
活きていました。


私は演劇デザインギルドの成沢さんが
構成・脚本を担当した関係で見に行ったのですが、
通常のサークル発表であれば、
所沢まで見に行くこともなかったでしょう。
参加費を500円をとって、200人近く集まっていたのですから、
すごいイベントです。


内容については、私のコンディションが悪く、
途中、何度かウトウトしてしまったのですが、
所沢の三ケ島葭子さんについて2時間ほど知る機会になりました。


これって、すごい面白い手法かもしれません。

今までは特に何の共通点もなかったサークル同士が、
地元に眠っている有名人を取り上げることで、
一緒に表現をすることができる。
しかも、そういう人を地道に調べてきた人たちにとっても、
他のサークルを巻き込むことで、
興味を持つ新たな層を開拓できます。

う〜ん、無駄がない。

葛飾でも、豊田正子や半村良、つげ義春などの有名人がいるので、
演劇を使って面白い発表はたくさんできそうです。

そうすれば、所沢から人が来てくれるかしらん。

『美しきものの伝説』観劇

201101021833000
12月26日。
彩の国さいたま芸術劇場まで
さいたまネクスト・シアター『美しきものの伝説』を観に行った。
蜷川幸雄による若手俳優育成プロジェクトの二回目の公演。

1968年に劇作家宮本研の戯曲を文学座が初演。
以前、文学座の研究所の演出部にいたとき、この戯曲に出会った。
大正時代の大逆事件後の東京を舞台に
政治と演劇などで社会の変革を試みた実在の若者たち
(大杉栄、堺利彦、荒畑寒村、平塚らいてう、伊藤野枝、
島村抱月、松井須磨子、小山内薫、中山晋平、久保栄など)を描いた作品。

この作品は常々「青春群像劇」と評されるが、
宮本研は「青春群像劇」としては
決して書いていないように思う。
大正デモクラシーとして、
のびのびとしたように描かれることが多い大正時代。
その暗部を政治と演劇に携わる人間を通じて
切り取ったひりひりとするような作品だ。
しかも、それを演劇で表現するところに、
宮本研の挑発的な意図があるように思われる。

今回、私は同世代か、少し下の人たちが中心の配役。
若い人たちがこの戯曲をどう舞台化するのか見てみたかった。

昼食を駅前のおそば屋さんでとると、
常連客がご主人に声をかける。
「今日は空いているね」
「そうだね。いまネクストシアターっていうのをやっているから、
 いつもは若い人たちでもっと混んでいるんだけどね。」
なんて会話をしている。
町に劇場が根づいている証拠。いいなぁ、こういうの。

三方囲み舞台。
客席からはお互いの客の顔が見える。
もちろん、蜷川さんも反対側に見える。
後半の政治や演劇の議論の場面では
寝ているお客さんが見えた。
言葉と格闘する若い役者の向こうに
寝ているお客さんも見せてしまう現実。
高齢の演出家に役者も客もなめられている。
あぁ、腹立たしい。

宮本研の書いたものを見ながら、
宮本研の挑発を感じ続けた、
そんな時間だった。
♪ラブ・ユー立石(先輩&友人柳田さんの人気ブログ)
Profile

ふっきー

Recent Comments
Recent TrackBacks
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ