2015年03月

えんどう豆 佐藤さんへ



今まで多くの方々にお世話になりながら震災後の混乱状態から今日の一応平穏な状況までになりました。

南相馬市にある、ちっぽけ(失礼)な障がい者支援施設「えんどう豆」は、震災後に一躍有名になりました。

それは1人の真面目で不器用な男が障害を持った仲間達を助ける為に必死に頑張った結果なのです。

もともと佐藤さんは人前に出て話が出来るタイプではなかった。一度、あるフリーペーパーの特集記事に出てくれと震災前に頼んだ事があったのだが彼は「裏方なので、そういう事は勘弁して下さい」と頑なに断ってきた。

そんな彼は震災後に変わった!!!

いや、変わらざるを得ない状況になったのだ。

えんどう豆の利用者は、なんとなく仕事して一日をえんどう豆で楽しく過ごす日々だった日常が、たった一日で激変してしまった。

それに追い打ちをかけるように原発が2基も爆発しえんどう豆がある南相馬市は人が生活して行けない状況になってしまった。

僕は、その時期の佐藤さんを今でも忘れない。

もう「ふぬけ」状態だった。

えんどう豆の仲間は各地に避難したのだが、障害を持った方々に避難所生活は困難だった。

ある方は、耐えられず大声を出したり、また別な方は自らトイレに行けない為に何日も不衛生な状況をじっと耐え忍んだり・・・etc

障害を持った方そして家族の方も避難所に居づらくなる、しかし帰る場所もない。

避難指示区域のえんどう豆を開けることも出来ない。

この状況だと仲間たちの生命も危険な状況になると、佐藤さんはえんどう豆を半ば無理やり再開したのだ。

でも、職員の方々も避難しているので佐藤さん1人

まさに必死で仲間を守る為に孤軍奮闘していた。

僕は、何もする事が出来なかった。

今でも悔やんでいるし申し訳ないと思っている。

そして避難指示も解除され、本格的にえんどう豆を再開しても職員は相変わらずいない、そして何より仕事が無くなってしまったのだ。

仕事の中心だった野菜も作れず藍染も出来ない。

人間という動物は極限になるといろんなアイディアが出るもので、依然「とっておきの音楽祭」という障がい者と健常者が共に同じステージに立って音楽を中心に1つになるイベントを開催した時に、たまたま作った「缶バッヂ」

その缶バッヂを作ってみようというアイディアが浮かんだ佐藤さん。

その話を僕の所に相談に来た時の不安そうな顔ったら忘れられない。

でも、その時点で「やれる事は、取り敢えず何でもやってみるしかない」と言う状況だったので彼は、突然セールスマンになった。

プレゼンの為の資料を作ったり見本になるバッヂを作ったりシステムを考えたり・・・その努力は並大抵のことではない。

人の心を動かすというのは意識的にできるものではない。

あの時の佐藤さんの障害を持った人たちは俺が守るという強い意志が人を動かしたのだ。

ヤマト運輸からバッヂの製造機械を寄贈されたり藤沢の仲間がバッヂのデザインを提供してくれたり。静岡のデザイナーが「南相馬ファクトリー通信」のデザインをしてくれたり全国の輪が佐藤さんを中心に徐々に広がっていった。

えんどう豆をサポートしようと全国のボランティア団体から職員の代わりをしてくれるサポーターも各地から来てくれた。

多くのミュージシャンや様々な団体から大量のバッヂの注文が入りだした。

そして、職員の方も徐々に戻って来て「えんどう豆」は、また震災前の、のどかな状況に戻りつつある。

震災後たった一人で寝ずに働いた佐藤さんだったからこそ全国各地の方々から暖かいサポートが受けられたのだと思います。

そして、これから佐藤さんは、また新たなステージに向かって歩み始めます。

佐藤さんの夢が書かれた絵を頂きました。

きっと実現できるでしょう。

あの時の死にもの狂いになって守っり切ったえんどう豆の仲間たちは、素晴らしい女性にバトンを渡しました。

えんどう豆と佐藤さんの今後を、どうか皆さん見守っていて下さい。そして楽しみにしていて下さい。

僕も微力ながら佐藤さんを応援しようと思っています。

さて、佐藤さん
今までお疲れさまでした。

これからまた仲間を増やしましょう!!!

まだまだ困っている障害をお持ちの方やご家族のためにも佐藤さん、まだまだ楽できないですよ。

佐藤さんの日記





あれから、まる4年。



あれから、まる4年



なにが変わってなにが変わらないのでしょうか?

今一つわからない。

「福島を忘れないでください」とか聞きますが。

福島を忘れるようになるまで逆に何年かかるのだろうと思います。

福島第一原子力発電所は、4年経った今でも「毒」を撒き散らしているし震度3くらいの地震は頻繁におきている。

もし「もう原発事故も収束したんでしょ?」「原発は必要だ!」と思っている方がいたら一度、開通した国道6号線を通ってみると良いと思います。
被曝はするけれど、おそらく衝撃を受ける光景が次々と目に飛び込んでくるでしょう。

ここが、同じ陸続きの国なのかと思う。

僕が初めて開通した6号線を通った時に強烈に感じました・・・おかしいよってね。

震災前には、よく通った道だから尚のこと衝撃だったのかも知れないけれど?



来月、自分は借り上げアパートから「公営住宅」に引っ越しする事になった。

歩くこともままなら無い母親は、これで階段の昇り降りをしなくてすむ。

ありがたいことです。

しかし意外と家賃が高くて驚いたけどね!

それを考えると「復興」は、少しずつ進んでいるようにも思います。

しかし心の復興となると中々難しい。

ヘリコプターが上空を飛んでいると原発に何かあったのでは?
と思ったり。

地震が来ると、夜寝られなかったりと、未だに不安定な自分の心。

「安心」する時間が震災後ないようにも思います。

それは、この国が大きく変わってしまった事が何よりの原因だと思います。
この国をコントロールしている方々は、相変わらず自分の事しか考えていないようですし。

なにより経済最優先で借金しまくりの政策。

とても、まともな国家運営とは思えないニュースばかりです。

まぁ~残念でなりません。



話は変わりますが

この4年間というもの全国の方々と沢山お知り合いになれた。

これは震災特需と思うほど、自分の人生の中で大きな宝物になっています。

逆に、中々私たちの想いと遠方の方との想いとのギャップで悲しい思いをした事も正直ありました。

でも、それは仕方のない事だと思います。

この震災は今までと違う複雑な問題が絡み合っているから。

いろいろ書くことは避けるけれど。

たった数分で今までの人生が予期せぬ方向へと変わってしまったのだから・・・

それは誰しもが心に打撃を少なからず受けているし、同じ被災者でも個々人で状況も全く異なるから。

実際に自分の身がそこに置かれている人じゃないと理解できない事は沢山あるんです。


まずは、これから放射能被害が大きくならない事を願いながら日々前向きに歩んで行こうとは頭の中では思ってはいます。

しかし年齢によるものなのか?
例えば自分は目だけには自信があったのに「白内障」と診断され近々手術をするなど53才にもなると気力・体力が衰えていろんな所にガタがきています。
まずは身体に気を付けて頑張ろうと思っております。


さて
昨年、NHK東北限定で放送された「まちのうた」という番組に出演させて頂きました。

自分はマスコミに出るのは好きじゃないから、今までオファーを頂いても断っていました。

出ても自分の想いが伝わらない事が殆どだったし、自分は裏方なので表に出る事も好きではないから。

それは、一緒に出演した佐藤さんも同じだと思います。

でも、「soma」という曲が本当に素晴らしい曲で、この曲で自分が救われたという想いもあった。

しかし、地元である相馬では僕の力不足で市民の方々に知られていない事が「くるり」のメンバーやスタッフの方々に申し訳なく思っていました。

そこにNHKのYディレクターから話を持ち掛けられて彼を信じて出演しました。

彼はテレビマンらしくなかった、普通のくるりファンだった事が大きな理由でした。

昨年は、この事が自分の中では大きかった。

何より相馬の方々に「soma」を「くるり」を知ってもらえた事が嬉しかった。

年配の方から「somaを聴きたい」と言われることも嬉しかった。

番組に関わって下さった皆さんに感謝です。

13日深夜2:20から全国再放送が決定致しました。

録画して、ご覧頂ければ幸いです。


まだまだ、原発事故は収まる気配もないし、また巨大地震がくる可能性も高い。

私たちだけではなく日本人全員が、今の現状を踏まえて日本を考えてくれるきっかけに今日という日を迎えられたらと思い久しぶりにblogを更新させて頂きました。

支離滅裂な文章で失礼いたしました。

また、みなさん自分と遊んでやってください。



まだまだ福島県は何も終わっていません。

むしろ、これからが大事なのだと思います。

共に良い日本を作って行きましょう・・・これからの子供たちのためにも。

読んで頂きまして
ありがとうございました。









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