2013年12月05日

ある資産家の患者さんに鍼治療を頼まれた。
どうしましたと尋ねると、「邪気を抜いてください。」と言われる。
夜横になると誰かに首を絞められたり、恐ろしいものが見えたりするのだという。
普段も首肩の凝りが、揉んでもなにしても、なかなか抜けないようで困っている様子だった。いろいろとトラブルも抱えておられるようで、ストレスも強烈そうだ。
東洋医学でいう邪気とは風、寒、暑、湿などの自然の気だけれど、話を聞くと、この患者さんは憑依霊とか生き霊とかいう意味で邪気と言っておられる。
普通だったら、いや専門外だからとか、お門違いでしょと返すところだろうが、身体的な苦痛という意味では、鍼灸でなんとかしてあげるべきものだと思う。
なぜなら、この患者さんは、きっとトラブルのストレスから、目に見えない世界にとらわれて、こんな症状になっているのだろうから。

人は人間関係や仕事のトラブル、先行きの不安だとか、肉体的苦痛だとか様々なものにとらわれる。「とらわれる」とは精神の自由度が失われることで、精密機械のように精巧な心と体の連携システムは、その不自由さを正確に身体に表現する。つまり、痛みや凝り、疲労などになるということだ。場合によっては悪夢や幻を見たりするのも含まれるかもしれないし、憑依霊とか生き霊を実体化させてしまうかもしれない。
楽になるのに最も有効なのは「とらわれ」の観念を捨ててしまえるようになることだけど、トラブルの現実は変わらないのに「とらわれ」の観念だけ放棄するなんて器用な真似はなかなかできることではない。「なんとかなるさ」とか「たいしたことじゃない」とか「楽しめばいい」とか違う観念を入れて解決するのが一般的だ。でも、この観念の変えかたを、はん用的にして、あっさり説いてしまったのが般若心経だと私は思う。お経として唱える効果を云々しているのではなくて、中身の意味がそういう内容なのである。

有名は色即是空 空即是色のサンスクリット版の直訳は「およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないということである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。」という意味になる。ちょっと直訳は増々わかりにくいけれど、実体がない世界は増えも減りもしないし、損も得もないし、永遠だから焦ることもない。
あなたが感じている世界は、変化し続けていて、心も周囲もいろいろな様子に変わるけれど、実体がないと観れば、とらわれて、なんとかしようとする苦しみもないのですよと。そんなことが言いたいのだと私は受け取っている。
金剛般若経では、こんなふうにも語られている。

現象界というものは、
夢・幻・泡・影のよう、
露のごとく、また雷のよう、
そのようなものと、見るがよい。


これだと少しわかりやすい。ちょっと自分が死んで肉体がなくなり、幽霊にでもなったつもりになってみるといい。それはもう、この世との関わることはできない状態である。自分の普段の生活を幽霊としてみれば、古いサイレント映画のように、夢のように見えるかもしれない。もちろん、見えたものについて云々考えない。ただ見るだけである。どうせ関われないのだから。すると、なぜが不思議と胸が軽く、気持ちよくなっていくような感じがする。般若心経のいう、心に引っ掛かりがない、苦しみも怖れもない状態とはこんな感じではないだろうか。
お経が真理かどうかは知らないが、苦しいときに「とらわれ」から離れるのに役立つのは確かである。ブッダや古代仏教徒の知恵をストレス除去に役立てるのも一興である。


hariqinhariqin at 17:30│コメント(0)トラックバック(0)院長のひとり言 | こころと病気

2013年07月02日

  昨年から息子はK式の教材で英語を学びだした。
  英語は中学からでよい。先ずは日本語をしっかり学べという両親の意志は、小学校で始まった外国語指導助手 (ALT)による授業中、ついていけなくて呆けた顔をしている息子の様子を観て簡単になえてしまった。しかも、習い事嫌いの息子が、なぜか英語は学びたいと言う。
  学びたがった理由は教材を見て納得した。ペン型の再生機は、教材のプリントにあてるだけでネイティブイングリッシュを喋ってくれるのだ。機械好きの息子にはたまらないだろう。プリントを見て、発音をまねるの繰り返しだが、数か月もすると発音もきれいになり、聞き取り能力もアップしているのが、傍目にもあきらかだった。
  羨ましい!
  俺の子供時代にはこんな教材なかったし、せいぜいリンガホンくらいだったよなぁ。と、感心することしきりである。だがちょっと待てよ。本当にこれでいいのだろうか?便利で効率的に学習できるのはありがたいことだと思うけど、大切なことが抜けてる気がする。


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  そんなことを考えていると、苦労した先人のことが思い浮かんだ。
  江戸時代の杉田玄白である。
  ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの医学書"Anatomische Tabellen"のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』を江戸時代の日本で翻訳した人である。
  1771年、蘭方医の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らは、小塚原の刑場において罪人の解剖を見学した。玄白と良沢の2人はオランダ渡りの解剖学書『ターヘル・アナトミア』をそれぞれ所持していた。実際の解剖と見比べて『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆した玄白は、これを翻訳しようと良沢に提案する。かねてから蘭書翻訳の志を抱いていた良沢はこれに賛同。淳庵も加えて、翌日の3月5日から前野良沢邸に集まり、翻訳を開始した。
  当初、玄白と淳庵はオランダ語を読めず、オランダ語の知識のある良沢も、翻訳を行うには不十分な語彙しかなかった。オランダ語の通詞は長崎にいるので質問することも難しく、当然ながら辞書も無かった。そこで、暗号解読ともいえる方法により、翻訳作業を進めた。そして、1774年『解体新書』を刊行するのである。


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  語学の知識も少なく、辞書もない、教師もいない、難解な専門書。これだけ悪条件が揃うなか、よく翻訳して出版しようなどと考えられたものである。お仕着せの語学教材で指示通りにこなすだけで楽々学習できてしまう今とは大違いである。しかも勉強が即、実用書の翻訳である。ハロー、ハウアーユーを繰り返すのとはわけが違う。
  逆に言えば、なんにもないからこそ、少ない情報に食らいついていくしかなかったのだろう。その未知のものに挑む勇気と創意工夫する力は感嘆に値するものがある。

  そう、今の学習に抜け落ちてる大切なこととは、まさに未知のものに挑む勇気とか
創意工夫する力なのだ。息子の英語は数年もすれば、かなりのものとなり、TOFELで何点とったなんて自慢するようになるかもしれない。でも世の中に出て必要なのは、未知のものに挑む勇気や創意工夫する力であり、そのための補助として語学能力があったほうがいいということなのだ。

  だがさて、未知のものに挑む勇気や創意工夫する力を教育することはできるだろうか?
私が不安を覚えたお仕着せ教材では、すくなくとも創意工夫する力は必要ない。それは英語でなくても他の経験や勉強で苦労すればとも思えるが、すべてが益々楽に勉強ができる方向になるものばかりなのだ。学生たちは辞書も引かず、計算もせず、文章も考えず、スマホから情報をとるのばかり早くなる。能力はあるけれど、未知のものには興味を示さず、臨機応変に欠き、機転が利かない。楽々学習の弊害として、そんな若者が増えていくのだろう。便利さとは人間の進化にとってはもろ刃の剣なのだ。

  さて、うちの息子はどう教育していくか。いろいろ考えさせられる。
でも杉田玄白・前野良沢と比肩するなんて、ちょっと親ばかか・・・。



hariqinhariqin at 13:49│コメント(0)トラックバック(0)院長のひとり言 │

2013年06月29日

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昨年夏、軽井沢に遊びに行った帰りに妙義山に立ち寄った。
非常に険しい山塊で、見るものを圧倒する美しさがある。
長野自動車道からよく見えるので、
通るたびにいつか寄ってみたいと心惹かれるものがあった。
山の方へと車を走らせていくと妙義金洞山の麓に至る。
眼前に直立した金洞山の威容に圧倒される。
ここには巨大な剣持ち大黒で有名な中之嶽神社がある。
境内に神社を中興した加藤長清という人について書かれたものがあった。
長清は戦国から江戸時代初期の人らしい。
家は小田原北条氏に仕える武家だったようだが、仇討ちの宿願を果たしたのを機会に仏門に入り、ここ妙義金洞山で悟りへの修行に没頭した方らしい。
たしかに、いかにも山岳修験にふさわしい修行場であろう。


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私はふと、彼の最後の様子記したものが気になった。
本当かどうかは確認できないが、なんと140歳まで生き、
老衰で死亡したというのだ。
そのとき、彼は「このことを後世に伝えよ」と遺言したそうだ。
このこと?
そうか、140歳まで生きたことだなと合点がいった。
140歳まで厳しい自然環境の中で元気でいることは偶然できることではない。
肉体的にも、精神的にも養生の道に適った修行生活をおくられたのだろう。
たしかに並みの精神力ではできなさそうだ。
人は人生の目標に社会的成功を考える人は多いが、
養生の道で自己の完成を夢見る人は少ない。
普通は80歳過ぎたらヨボヨボで、元気な人でも90から100の声を聴くころにはみんなこの世とオサラバしているものである。
140歳まで元気でいることは奇跡に近いくらいすごいことだ。
自己を完成したことを誇った長清の気概が
「このことを後世に伝えよ」の一文に込められている。
周囲の人もきっと、この爺さんを只者とは思えなかったのだろう、
 死後、長清は妙義山に棲息する天狗の頭領となり、大勢の天狗を率いて今でも山岳仏教の修行者や山中の神社の崇敬者を見守っていると伝説化した。

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東洋医学は養生の道そのものだ。最高齢は120歳で天寿と呼ぶ。
「黄帝内経」もまっさきに、この問いから始まる。
「大昔の人は100歳を過ぎても動作が衰えたりはしなかったのに、現在の人は50歳ほどで衰えてきてしまう。これはどうしてなのだろう?時代が変わって、こうした力を失ってしまったのだろうか?」
2千年前の本が、昔の人は・・・なんて笑えてしまうが、今でも通用する文面には驚かされる。
まさに長清みたいに生きるにはどうしたらよいかという本なのである。
しかし、東洋医学が養生の道と言っても、100歳をこえて実際に元気で、今でも鍼灸してますよ。・・・なんて鍼灸師はなかなかいない。
治療法としての東洋医学は盛んだが、養生の道として自ら実践して、
道を達成しきれる人は少ないらしい。
さて、自分はどうだろう?養生の道を自ら実践しているだろうか?
今のまま過ごせば、80代くらいまでは元気にしていられるだろう。
だが100歳をこえてとなると、かなり厳しい。
養生の道を実践しているとは言えない自分にちょっとショックを受けた。
では120歳まで元気に過ごすことを目標とした場合、なにをしたらよいか?
これはかなり厳密な自己管理を要求される。
たとえば食事ひとつとってみても、飲食の節度が重要になるが、
腹八分目の食生活や、ゆっくりよく噛んで食べるといったことを終生外さずに生活することができるだろうか?
臓腑の精気を消耗しないように生きるとはまさにそういうことだと思う。
時々、暴飲暴食するけれど・・・なんて甘えは限界まで生きようとするときは許されないのである。
もちろん、食事だけではない。運動や仕事の仕方、精神性など120歳まで元気に過ごすと言ったとたんに、改めなくてはいけないことは山積みとなる。



余談になるが、ある90歳をこえて元気なお爺さんは厳密に腹八分目を守っている。一日2回の食事を自炊し、過去何十年も外食したことはないそうだ。たまにバナナを買ってきてデザートにするときも、その分ご飯の量を減らすそうである。結果として彼の体重は何十年も変化していないし、頭脳明晰、いまでも文章を書いたり、英語で仕事ができるそうで、最高血圧も120から変わらないそうである。医者に健康の秘訣を尋ねられるそうだが、「僕と同じ食生活をおくれる人はいないからねぇ」とあきらめ顔でおっしゃられる。話を伺ったとき、かっこいいと思わず唸ってしまった。

こうして、かなり厳しそうだが私も鍼灸師である以上、東洋医学で天寿とされている120歳まで健康で仕事ができるくらい元気でいるという目標を掲げることにした。もちろん、途中でオジャンになる可能性は高いが、そういう自己完成の目的意識を持つことは大事だと思うのだ。死ぬときに「このことを後世に伝えよ」なんて言えたらいいのだけど。しかしいきなり修行生活に入れるほど意志強固ではない。食事、運動、生活、精神面にいたるまで、生き方の見直しと変更はどれも少しづつしかできない。なにせ、終生つづけなくてはならないのだから。とりあえず、腹八分目とか、定期的な運動からかなぁ。道は遠いが、目標があるのは楽しくもある。


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hariqinhariqin at 11:58│コメント(0)トラックバック(0)院長のひとり言 | 古典

2013年03月16日

最近読んだ本の受け売りだが
目を閉じてゆったり座っているときの脳の活動。
つまり、なにもしていないときの脳の活動は作業中の脳の活動時と比べると
95パーセント程度の活動状況だそうである。
つまり脳は作業中もそうでないときも活動状況はさして変わらない。
治療院でよく疲労を指摘すると、
なにもしていないのに何故疲れているのかしらと、
不思議そうにする患者さんがいらっしゃる。
なにもしていないからといって本当に機能停止している人なんていない。
脳はむしろ活発に仕事をしていたりする。
エネルギーは消耗しつづけているのだ。

この、なにもしていないときの脳の活動が現れる部位をデフォルト・モード・ネットワークというのだそうである。
もちろん、作業中、このネットワークは沈静化している。
じゃ、いったいこのネットワークは何をしているのか?それは明確ではないが
ひとつには自分について振り返る思考をする脳機構の可能性が推測されるという。
これは鬱病の患者さんのデフォルト・モード・ネットワークが活発に活動することからわかったらしい。
デフォルト・モード・ネットワークが活発に活動しすぎるといろいろ後悔しすぎてウジウジになるということか。
また認知症の患者さんではデフォルト・モード・ネットワークの活動が低下することから脳が行動準備をしている機構ではという話もある。
外部状況が変わるたびにパッパッと行動をとれるのは、脳が前もって準備をしているからだというのだ。
たしかに認知症の人はなにか言われたり、状況がかわったときの反応がにぶくなっていく。
脳が前もって準備をしていないからというわけだ。
目の前にリンゴが現れて、それを見てすぐ食べるという反応がとれるのは、
おなかへったなぁ、なにかないかなぁと考えていたからなのだ。
つまり行動の事前シミュレーションが存在するというわけである
忙しいけれど、手があいたらタバコを吸って休憩したいなぁと考えていたとしたら、
暇の到来とともにタバコを吸い出すだろう。
好みの女性を雑誌とかでイメージしていて、
そういう女性と親しくなる機会に遭遇すれば、ドキドキワクワクするだろうし、
前もって作ってあるイメージにそぐわなければ何も感じないだろう。
つまり、デフォルト・モード・ネットワークは人の社会行動の元であるということである。

人は無念夢想ではなかなかいられない。ふだん、なにげにぼーっと考えてることは、
実はその人の社会行動の原点であり、自分の行動を振り返り修正したり、
次の行動予定だったりするのだ。もちろん無駄になる事前シミュレーションも多いだろうが、
打てば響くみたいな人はきっと様々なパターンを思い描いていることだろう。
なにげにぼーっと思考が、自分の人生行路を決定するような、そんな重要なものと
思っていない人は多いのではないだろうか。
だが、考えてみると習慣性でやめられない悪癖、普通だったら絶対しないような
行動や犯罪もなにげにぼーっと考えていなければ、行為自体存在しえないのである。
思うだけなら自由なんて考え方はとても危険だ。
人は脳に振り回されて生きているものなのだ。

こういう理由だからだろうか、道家や東洋医学の世界では欲を少なくし、
心を静寂に保つのをよしとする。外物にとらわれ、精神をあちこちに働かすと
本来からだを保つためのエネルギーを消耗し、
不老長生の道からはずれるというのだ。デフォルト・モード・ネットワークのことを知ると、
なるほど道家や東洋医学の言うのはもっともだと思えてしまう。
だけど、欲を少なくし、心を静寂に保つ・・・
デフォルト・モード・ネットワークをあまり活動させないと
認知症の老人のようになってしまうのでは。
たしかに、なにが起こってもあまり心を動かされない様子は、
悟りを開いた聖人のようでもあるが・・・。

老子はそんな状態をたくみに表現している。
不老長生の道は、社会のなかで、人の中で価値のあるものではないのかもしれない。
自分が大自然と一体化して生きるというのはこんな感じなのかもしれない。

世俗ののひとびとはきらきらと輝いているが、私だけはひとりぼんやりと暗い。
世俗ののひとびとは利口ではっきりしているが、わたしだけはひとりもやもやしている。
ゆらゆらとまるで海原のようにたゆたい、
ひゅうひゅうとまるで止まない風のようにそよぐ。
多く の人はだれもがそれぞれなにかの役にたつのに、
わたしだけはひとり融通のきかない能無しだ。
わたしだけひとり、他人とは違っている、
そして母なる根本の「道」に養われることを大切にしているのだ。


参考文献 脳からみた認知症 伊古田俊夫 BLUE BACKS
       老子 金谷治   講談社学術文庫  


laozi



hariqinhariqin at 15:04│コメント(1)トラックバック(0)院長のひとり言 │

2012年10月04日

 先日、ためしてガッテンを久しぶりにみてしまった。
タイトルのアルツハイマー新予防に惹かれたからである。
最近、父も軽度の認知症であるし、親戚もアルツハイマーがいっきに進行してなかなか大変な状況なのである。鍼灸やマッサージではどうも限界を感じている。もちろんいい薬もいろいろでているようだが、
副作用もあり、すくなくとも私が知る認知症の患者さんにおいて薬で改善がみられた例はない。

番組では先ず糖尿病の患者さんがアルツハイマーになる危険性が通常の倍になることを示した。アルツハイマーは脳にアミロイドβというたんぱく質が付着して、脳が萎縮していくという病理になるわけだが、高血糖とアミロイドβがどうつながるのか、わかりやすく解説していた。
要は血中の糖分はすい臓から分泌されるインスリンで細胞に取り込まれる。そのインスリンは用がなくなるとインスリン分解酵素で分解される。実はこのインスリン分解酵素は脳でアミロイドβを分解する役目を負っており、高血糖になりインスリンが大量にでると、それを処理するためにアミロイドβを分解する仕事ができなくなる。そしてアミロイドβが脳細胞に沈着していくというのだ。
確か聞いたことがあるような話だったが、番組でわかりやすく解説されると、
自分の理解がイマイチだったことが思い知らされる。
番組中ではお医者さんが、糖尿病の食事療法が有効であるとか、
炭水化物の多重摂取がとくに悪いとか解説していた。
炭水化物の重ね食い!!
ちょっとギクッとした。飲み会とかでさんざ食って飲んで、帰りにラーメンを一杯なんてまずいわけだ。うどんを食べてもイナリ付とか、ラーメン食べてもチャーハン付なんてのもマズイわけだ。うーーん、人ごとでないな。自分もアルツハイマー予備軍か・・・・。

で、他にも認知症に効果的なものとして
認知症予防活動をし、劇的な効果を上げているグループを紹介していた。
その活動とは長時間頭を使い続ける料理や、脳を活性化させる有酸素運動を自分たちで考えながらやっていくというもので軽度認知症とされていた人たちが3年ほどで18人中16人、「正常」と診断された。つまり、進行せずに回復したわけである。
老人たちが、わいわいいいながら楽しそうに活動している様子をみていると。まぁ料理とか有酸素運動というよりは、人と交わり、役目を負ったり、決めたことを実行していくという、ごく自然な社会行為がいかに脳に刺激を与え、活性化させるかわかったような気がした。

私が時々訪ねる認知症のグループホームでは歌を歌わせたり、ゲームをさせたりしているが、ほとんど回復している人を見たことがない。むしろ悪化していくのを不思議に思っていたが、考えてみればアルツハイマーに悪いことばかりしている。
美味しい食事。10時と3時にはお茶とお菓子。なんでもしてあげる親切丁寧な介護。ゲームや歌や体操もすべてお仕着せで、考えさせるとか役目を負わさせるとかはほとんどない。温度環境も一定にたもたれ、寒さ暑さを感じることもない。進行してあたりまえだったわけだ。

そんなことを考えていたら、ふと以前「病気と鍼」のカテゴリーで自分が書いた若年性アルツハイマーと列子の教え」の記事を思い出してしまった。中国の古典、列子の話で、儒者が一週間で若年性アルツハイマーと思われる病気を謎の治療法で治す話を紹介した。その記事では治療法は謎のままだったわけだが、その謎が解けたように思えたのである。
 儒者は患者が裸にすると服を求め、暗くすると明かりを求め、飢えると食事を欲しがるのをみて、これは治ると言ったのである。そう、つまりこれが脳を活性化するための方法だったのだ。
‘飢える’つまり断食療法のようなことをすれば、血中糖分は減り、インスリン分解酵素はアミロイドβの分解作業にフル活動できるし。生命の危機的状況と脳が判断すれば、脳は自身への血流を維持しようと活性化することはよく知られている。飢えて体が動かなくなっても意識だけは活動を維持しようとする非常事態機能だ。これは寒さに対しても同じことがおきる。先ず壊死していくのは指からで、顔からではない。意識だけは失わないように最後まで脳に血流を維持するのだ。
暗さはどうだろう?漆黒の闇の中では、生命の危険性を察知できなくなるため、感覚器官はフル活動状態になる。つまりそれをコントロールする脳は活性化していくわけだ。宮本武蔵が漆黒の闇の中で修行したとか、達磨大師が洞窟の中で修行したのは、闇がまさに脳を活性化させることを知っていたからかもしれない。
つまり、列子に登場する儒者は飢え、闇、寒さを使った脳活性化のトレーニングプログラムを提供したのだろう。
ちなみに「断食療法、認知症」でインターネットを検索してみたら、既に断食の効果に気づいて認知症治療を実践している人たちもいるようである。

なんかほっとしてしまった。
認知症のグループホームでひどいアルツハイマーの患者さんたちを見ていて、自分も将来、こうなるかもとプレッシャーを感じていたようである。
薬に頼らなくても、人と交わり社会活動にがんばって、食事や運動に気をつければまず発症することはないだろう。
また治療法としての脳活性化のトレーニングプログラムはまたいろいろ汎用化できるようなシステムを考えなければならないけど、まぁ・・親父で実験すればいいか。虐待と思われない程度にね(笑)。
なかなか示唆を与えてくれる番組でありました。


hariqinhariqin at 15:02│コメント(0)トラックバック(0)院長のひとり言 | 病気と鍼