鍼禅の集い

特定の団体や所属に捉われず、 東洋医学や禅に興味を持つ者が横田観風先生の元に集い、 それぞれの学びを深めてゆく。 その活動を紹介いたします。

平成29年6月 「一鏃破三関」(いちぞくもてさんかんをやぶる)

強い春風が少し肌寒い日となりました。
風に吹かれた雲が、散ったり、また集まったりして良い形を作っています。

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この集いにご興味のある方は、参加要項を参照の上、ご連絡を下さい。
また横田先生の講話を『鍼禅茶話』として冊子化したものがありますので、興味のある方はご覧ください。

[ 準備 ]

今月は13名が横田先生の下に集いました。
メンバーは20年を越す古参から、数ヶ月の新参まで、それぞれのご縁に導かれていらっしゃいます。
どの方も初めはしんどいお顔をされていますが、一年、二年と経つうちに肚も据わってきて、その人らしい働きを見せるようになってきます。

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皆で和気あいあいと準備をします。

[ 随意座 ~ 二炷 ]

だいたい座る時間は25分、そして5分ほど間を置いて、また25分ほど座ります。

気持ちが落ち着いてくると、虫の声、蛙の声、今夜も賑やかであることに気がつきます。
しかし人工的な音と違って、あまり耳障りに感じないのが不思議です。

[ 茶礼 ]

座禅の後は、語らいの時間となります。

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数年ぶりにいらっしゃった春風先生から挨拶がありました。

今月も、いろいろな話で盛り上がりましたが、主なテーマは「どうすれば良きいやし手(治療家)を育成できるか」だったでしょか。

学校教育の問題や、東洋医学特有の曖昧さ、流派毎に異なる理論や技術論などがあり、学ぶ者の迷いは増すばかりです。
その中で真に会得すべきは「患者とのやりとり」でしょうか。
最近テレビにて、いろいろ国の言葉で「痛いの、痛いの、飛んでゆけ~」と言うCMがあるそうですが、横田先生は「これこそ医療、いやしの原点だ!」と思われたそうです。
患者に対した際、この気持ちが何よりも先行して出てくることが大事とのお話をされました。
こういったことを学ぶ機会はなかなかないと思いますが、医療関係者に限った話ではなく、誰でもが大人になる過程で知るべきことだと思います。

毎月0時ごろまでお話は続きました。

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横の部屋では風邪の治療が行われていました。

[ 起床 ]

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起床30分前、ちょうど陽が昇り始めるころです。

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起床後は雑巾がけをしますが、トロトロと写真なんぞ撮っていると、自分(ブログ筆者)の拭く場所がなくなっています。(皆さんスミマセン)

[ 朝課 ~ 四炷 ]

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皆で40分ほどお経を読みます。
その間は正座となりますので、なかなか辛いです。

その後は、2時間ほど座禅をします。

[ 粥座 ]

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玄米粥を頂きました。

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写真を撮るタイミングが悪く、お説教をしているように見えますが、、、食事作法の復習です。

[ 作務 ]

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ふとんが気持ちよく春風に吹かれています。
入梅前の貴重な日の光を受けています。

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落とした枝を薪になるくらい細かくします。

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はて、畑の大将は何をされているのでしょう。
今後が楽しみですね。
畑では大根や玉ねぎ、カブなどが採れたようです。

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お茶の木にまとわりつく葛の蔓を取りました。
植物は力強く、したたかに生長しています。

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典座役が、患者さんから頂いたという枇杷を供して下さいました。
非常にしっかりした実で、やさしいお味をしていました。

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クワガタ。

[ 講話 ]

今月は『碧眼録』第五十六則から「一鏃破三関(いちぞくもてさんかんをやぶる)」という語を引いてお話くださいました。

96一鏃破三関

一本のやじりを以て、三つの関所を破る、なんて聞くと時代劇の一コマの様に感じますが、横田先生がいつも仰るように、禅では「こころの問題」として捉えます。

我々の日常生活で関所とは何かと考えると、例えば家族や仕事でのトラブルとか、病気のことなどと、いろいろなことが通過し難き関門として存在すると思います。
これらをサラサラと通過するには?という問いのようですね。

【本則】
 良禅客(りょうぜんかく)、欽山(きんざん)に問う、「一鏃(いちぞく)もて三関を破る時、如何(いかん)」。
 山云く、「関中の主を放出し看よ」。
 良云く、「恁麼(さよう)ならば則ち過(あやまち)を知りて必ず改めん」。
 山云く、「更に何時(いつ)をか待たん」。
 良云く、「好箭放つに所在に著(つ)かず」と。便ち出づ。
 山云く、「且(まず)は来たれ、闍黎(そなた)」。
 良、首を回(めぐ)らす。
 山、把住(つかま)えて云く「一鏃もて三関を破ることは即ち且(さ)て止(お)く、試みに欽山の与(ため)に箭(や)を発し看よ」。
 良、擬議す。
 山、打つこと七棒して云く、「且(まず)は聴(まか)す、這(こ)の漢疑うこと三十年なるを」。
【頌】
 君の与(ため)に放出す関中の主、箭(や)を放つの徒、莽鹵(もうろ)なること莫(なか)れ。
 箇の眼を取れば耳必ず聾(ろう)し、箇の耳を捨つれば目双(ふたつ)ながら瞽(こ)す。
 憐(め)ずべし一鏃もて三関を破る、的的分明なり箭後の路。
 君見ずや、玄沙(げんしゃ)言えること有り、「大丈夫は天に先だって心の祖と為(な)る」と。
良禅師という方が欽山老師の所に客として訪れていたときの問答のようですが、「一つの矢じりで三つの関を破ることができるか?」と質問しました。
禅は言葉遊びや、屁理屈では通りません。
逆に欽山禅師から「では実際に関の中の主を出してみよ」とか、「今ここで矢を発してみよ」などと攻め立てられます。
この答えにもたついた良禅師は、最後に棒で叩かれてしまいます。

いくらかっこよい言葉を発したところで、身をもってそれを現し、伝えることができなければ、何も認められません。
禅の世界はその工夫がとても大事で、自身の力で関を破る力を養わなくてはなりません。
鍼の世界、普段の生活においても同じことが言えるのではないでしょうか。

行動をすることをせず、頭でばっかり考えていることが、心身に悪い影響を与えることは、よく知られたことだと思います。
とりあえず、行動してみた方が却って上手く事が運ぶという経験が皆さんにもあると思います。
しかし、闇雲に行動ばかりしても盲進と言われてしまうので、どうやったら解決するのかという考察も大事です。

ともかく、欽山禅師のように、仏心の上に大きな安心を得ている方は、あれこれと無駄に思い悩む前に行動することができます。
我々もそうなれるように、工夫をしてゆく必要があるということですね。

以上、詳細については冊子『鍼禅茶話』をご覧下さい。

[ 斉座 ]

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すばらしいお昼を頂きました。
トマト風味のめんつゆです。

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休憩時間は睡眠をとったり、先輩に背中を借りて実技練習をしたりと、有意義に過ごしましょう。

[ 実技稽古 ]


まず横田先生の模範実技を拝見しました。

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モデルの症状は眼の奥から後頭部まで連なる痛みとなります。
吐き下しや口渇、足の冷えがあり、小便は黄色く、量が少ないとのことです。
脈はやや速く力強く、胸骨辺りに熱があり、心下にはつまり感があるとのことです。

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「ちょっとやってみようか」と、手から鍼を始められました。

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眼の奥の頭痛は、鼻の中に炎症があることが多く、更に鼻の中の炎症は胃腸の関係が強く、
発症前に冷食や、食べ過ぎなどで負担があったのだろう、という分析でした。

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治療の最後には、目頭辺りから刺絡をされました。

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治療後は頭痛や腹の張り、胸の痞えなどもすっかり無くなったのでした。

病態の理解は、『傷寒論』霍乱の章にある五苓散の条文を参考にすると良いとのことです。

特に治そうと思わずとも、必要なところにきちっと刺してゆけば、身体が勝手に治ってゆく。
あれこれ考えていると、鍼数も増えるし、治りにくくなる。
とのお話でした。
なかなか、そこまでは何十年もの工夫が必要ですね。。。

その後は、各自ペアとなって稽古に励みました。

[ 反省会 ]

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虫や蛇の被害もなく、また怪我もなく、無事に終えることができました。
まったくありがたいことです。

体調が悪いときでも、誰かが治療をしてくれるので安心です。
また辛い中での修行は、いろいろと気付きが得られることが多いと思います。
ここでしか出来ない体験がありますので、どうぞ是非ご参加ください。

次回は7月1日(土)、2日(日)の開催となります。

ご質問などは、こちらまでどうぞ。
harizennomichi@gmail.com

(文責・石水)

平成29年5月(聞こう会)「」(ちかごろいずこをはなれしや)

『碧巌録』第五十四則「雲門の近ごろ甚処を離れしや」からお話いただきました。

本日の掛軸「近ごろ甚処を離れしや」

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オオヤマレンゲ
奈良県の自生地では国の天然記念物に指定されている。さっきまで蕾だったそうです。

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本日の茶菓子
Nさんがご用意してくれました。晩柑饅頭です。皆で美味しくいただきました。

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【垂示】
 垂示に云く、生死を透出し、機関を撥転す。等閑に鉄を截り釘を斬り、隨処に天を蓋い地を蓋う。且道、是れ什麼なる人の行履の処ぞ。試みに挙し看ん。

【本則】
 雲門、僧に問う、「近ごろ甚処を離れしや」。
 僧云く、「西禅」。
 門云く、「西禅には近日何の言句か有る」。
 僧、両手を展ぶ。
 門、打つこと一掌す。
 僧云く、「某甲話在り」。
 門、却って両手を展ぶ。
 僧、語無し。
 門、便ち打つ

【頌】
 虎頭虎尾一時に収む、凛凛たる威風四百州。
 却って問う、知らず何ぞ太だ嶮なる。
 師云く、「一著を放過す」と。
垂示には、この公案はどういう所に眼目があるか、簡単に書いてある。

禅は何をやっているかというと、簡単に言うと「宇宙人」になる事。
頭が空っぽになっていくことが大事。
例えば赤ちゃんの場合は、脳みそを使っていないけど宇宙から生まれてきたそのままの格好だから、言ってみれば「宇宙人」。
だんだん見えるようになってきて、耳が聞こえて喋れるようになるともう「宇宙人」じゃなくなる。
そのうち小学生や中学生になり大人になってくると、頭の中が(知識や規則などで)目一杯になり自分が宇宙人だった事を忘れてしまう。
脳みそには、大脳だけで働いている部分じゃない脳みそがある。
いわゆる心。そういうものに出会うのが坐禅である。
悟りはそれに出会う旅みたいなもの。
これがなかなか出会えない。
宇宙には、人間が考える概念が無いから、この人は生きているとか死んでいるとかいうのは無い。
宇宙の場合は、変化していくだけ。
人間が、ある状態を停めてみた時は生死はあるが、瞬間瞬間変わって行くから、生きてるとか死んでいるとかは同時。
禅的に言う、生き死には一緒に言って、生死(しょうじ)と言う。
生きるという事はどこかが死んでいるという事。
生きてる、死ぬは、宇宙の命のままにある。
宇宙から生まれ、生きて、形が無くなって、還っていくように見える。
「行くも帰るもよそならず」(※白隠禅師坐禅和讃 中にある一節)で、いつも宇宙の生命の中で生き死にをしている訳である。
ただ人間は、形が有るか無いかで判断するから、その概念から離れられない。
そこから解放されると何が良いかというと、悩みが少なくなるという事。
そこへ落ち着くまでが大変。
自分が癌になったり大病をして、もうすぐ死ぬぞという時にジタバタしないでいられるかというと、これもなかなか難しい問題だが、心をいかに安心の所に定められるかという問題が禅にはある。
そのために坐禅をしている訳である。

「生死を透出し」は、生きるという事と死ぬという事と相対する物がある訳で、この問題から抜け出るという事である。
宇宙は(生き方を他人と比較するなど)「比べ」が無い。(その人らしく生きなさいという事)
価値観を固めてしまっているために色々苦労している部分がある。
そういうしがらみから抜け出ていけるという事。

「機関を撥転す」は、「機関」は働きという事。
いろいろ困った時、つっかえた時など、どういう働きをして行くかみたいな事。

「等閑に鉄を截り釘を斬り」は、大変な事を突破するという意味。

「隨処に天を蓋い地を蓋う」は、いつでもどこでも、天地一杯になって生きなさいという事。

「且道、是れ什麼なる人の行履の処ぞ。試みに挙し看ん。」は、どういう人がそういう事をしている所だ、その例を今から挙げるからこれを見てみなさいという事。

【本則】
「雲門、僧に問う、『近ごろ甚処を離れしや』」
雲門和尚が修行僧に「最近、どこからやっていたのか」と尋ねた。

「僧云く、『西禅』」。
修行僧は西禅という道場から来たと答えた。

「門云く、『西禅には近日何の言句か有る。』」
雲門和尚は、西禅道場では最近どういう説法があったか?と聞いた。
これは、わざわざこういう事を言って、相手がどういう奴か試している。

「僧、両手を展ぶ。」
それに対して、修行僧は答えないで、何も言わずに両手を伸ばした。(身体で語っている訳である、私には何もありませんとか、宇宙一杯に生きているとか、何かを態度で表現した)

「門、打つこと一掌す。」
そうしたら、雲門は修行僧にビンタをくらわした。(雲門はこれで終わりにしたかった)

「僧云く、『某甲話在り。』」
(修行僧はこれでお終いにされては困ると思って)私も話す事があるとさらに食い下がった。

「門、却って両手を展ぶ。」
今度は雲門が相手のおかぶをとってパット両手を拡げた。

「僧、語無し。」
(雲門が手を拡げた意味がわからなくて)修行僧は黙ってしまった。

「門、便ち打つ」
そうしたら、雲門は修行僧を棒で打ってケリをつけた。

【頌】
「虎頭虎尾一時に収む、凛凛たる威風四百州。」
虎の頭は、(修行僧が手を拡げたら、雲門は即座にビンタした)雲門の働き。
(雲門が両手を開いて修行僧が黙った後、雲門が棒で打った事を)虎の尻尾を収むと。
そのように凄まじい雲門の禅の教えみたいなものが天下を圧倒したと表現している。
それ程凄いやり取りをしたのだと。

「却って問う、知らず何ぞ太だ嶮なる。」
雪竇が読者に質問している。雲門が日常気合充分に生き、全く平常心のままに(この問答を)やっている事を知らないだろう?と。

「師云く、『一著を放過す』と。」
師は雪竇の事。一著は囲碁の一手。その拙い一手を許してやるから、活路を開いて生き返らせるかよく考えろという事。
それは実際の人間社会の中で、どういうふうに働いて、鉄を切り釘を切って生きていくか。
こういう問答もただ問答していれば良い訳ではなくて、生きていると生じる難しい問題に対して、どうやって切り抜けるかという事を学べと言っている訳である。

以上。

内容の詳細は冊子『鍼禅茶話』に掲載予定です。

本文の内容や、会に関する詳細はこちらまでご連絡ください。
 harizennomichi@gmail.com
 
(文責・高橋、石水)

平成29年5月 「塵塵三昧」(じんじんざんまい)

八十八夜から幾日か過ぎ、夏を思わせる陽射しを感じるようになりました。
つくば研修所では草木が萌黄色の新芽を伸ばしています。
田んぼは水がナミナミと張られ、蛙はゲコゲコと鳴きどおしです。
なんとも心がワクワクとしてしまう季節ですね。

その中に心の静けさを求めようというのか、横田先生の元に12人が集いました。

この集いにご興味のある方は、参加要項を参照の上、ご連絡を下さい。
また横田先生の講話を『鍼禅茶話』として冊子化したものがありますので、興味のある方はご覧ください。

[ 準備 ]

参加者は、各々最寄り駅に待ち合わせ、相乗りにてつくば研修所を目指します。

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皆が集えば、まずは先生に挨拶します。
挨拶は、ただ頭を下げて簡単そうに思えますが、気合を抜かず、心を込める、というのは結構難しいものです。

その後、板の間の雑巾がけや、食器類の準備などをします。

[ 随意座 ~ 二炷 ]

だいたい20時から30分間座禅をします。
それを3回繰り返し、21時30分ごろには終了となります。
座禅中は、もちろん、言葉を発せず、音も立てず、身体を動かしてはいけません。

そんな中、蛙がゲコゲコ、蚊がプ~ンと、板の間には黒い虫が走り去ります。
繰り返しますが、身体を動かしてはなりません(^^;

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夜の座禅が終わり、少し反省会。
先生に木魚、板木の打ち方を教えていただきました。
鍼もそうですが、手首の柔らかさと、それを利用したスナップが重要です。

[ 茶礼 ]

座禅が終われば、皆でお茶や菓子を頂きながら語り合います。

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今夜もいろいろな話題で盛り上がりました。
三年ぶりにいらっしゃった大先輩を交え、非常に有意義な時間となりました。

ここで何年も研修された方は、この会が生活の一部になっていると思います。
鍼の道を歩む上での「家」とでも言ったら良いでしょうか。

臨床や日常生活に忙しく、歩む道が見えなくなってしまった時には、また「家」に戻り、自己を見つめることで軌道修正をすることができます。
こういった場所があることは(鍼の世界に限らず)とても貴重なことだと思います。
またそういった場を維持し、広く門を開き、受け入れて下さる横田先生は貴重な存在です。

よく言われることですが、現代は情報に溢れ、それに振り回され、悩みは増すばかりです。
生き物としての人間自体は『傷寒論』が書かれた後漢の頃と同じですが、その頭脳(の使い方)が変わってしまっているようです。
横田先生はなるべく原始感覚を大事にしようと、「素直な生き方」を心がけているとのお話でした。

その他、非常に多くのお話がありましたが、割愛させて頂きますZzzz

[ 起床 ]

5時に起床です。

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少し湿っぽいような、薄曇の朝となりました。

[ 朝課 ~ 四炷 ]

起床後、お借りしたお布団をしまい、床の雑巾がけをします。
終われば皆でお経を読ます。

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その後は、30分の座禅を4回、計2時間ほど座りました。

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座禅中は、横田先生がジリッ、ジリッとした歩みで皆の姿勢などをチェックします。

[ 粥座 ]

座禅後は粥座と呼ぶ朝食を頂きます。
基本的にお粥とタクアンのみです。

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本日はおいしい玄米粥となりました。
お粥は栄養や水分を手軽に摂れる不思議な食べ方ですね。

[ 作務 ]

2時間ほど、草刈や畑、室内の修繕などの作業となりました。
これも修行の一環です。
気を抜かずに丁寧に作業をします。

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前に植えたにんじんを間引きます。

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これは休憩中。

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2色のカラフルなムカデがいたそうです。
横田先生は以前3色のムカデに噛まれてだいぶ腫れたようです。

作業では軍手、長袖シャツ、長ズボンなどで肌を覆った方が良いですね。

[ 講話 ]

今月は『碧眼録』第五十則から「塵塵三昧(じんじんざんまい)」という語を引いてお話くださいました。

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【本則】
 僧、雲門に問う、「如何なるか是れ塵塵三昧」。
 門云く、「鉢の裏(なか)の飯、桶の裏(なか)の水」。
【頌】
 鉢の裏の飯、桶の裏の水。
 多口(おしゃべり)の阿師(ぼうず)も觜(くち)を下し難し。
 北斗南星位殊(こと)ならず、白浪滔天平地に起る。
 擬するも擬せず、止(とど)むるも止まらず、箇箇無コンの長者の子。

先生による本則の意訳は、以下となります。(『鍼禅茶話』第八巻より)

 修行僧が雲門文偃禅師に「『華厳経』にある塵塵三昧とは一体どの様なものでしょうか」と問うた。
 すると雲門は電光石火「それはなあ、飯鉢の中には飯があり、水桶の中には水があるわい」と答えた。

さて、頭で考えてもさっぱり意味が分かりませんね。
小さいものを指して「塵」ということはあると思います。
しかし大宇宙から見れば、地球もヒトも塵みたいなものです。

三昧は雑念のない無の状態にいること、でしょうか。
スポーツ選手などが競技中に無心の状態になり、高いパフォーマンスをすることを「ゾーンに入る」などと言うようですが、禅的な無の状態はそれとは異なり、その人の人生、生き方がガラッと変わるといった精神性の「安心」を伴う体験や状態を指すようです。
素人でも、僧堂などの接心に参加させて頂き、熱心に求め続ければ、いつか心身共に無となり、悟りが得られ、塵塵三昧というものがわかるかもしれません。

我も無く、彼も無く、塵も宇宙も同一であり、飯粒や水のように、そこにあるべくしてある。
そんな中に身をおきつつ、宇宙いっぱいの宇宙人となって鍼を行じよう!というのが鍼禅の世界とのことでした。

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もみじとこでまり。

[ 斉座 ]

昼食を頂きました。

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典座という料理番が始めてとは思えない出来栄えです。
非常に美味でありました。

[ 実技稽古 ]

横田先生の模範実技を拝見しました。

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モデルの症状は、だるさ、咽の痛み、痰のへばりつく感じ、などです。
一週間前には38度の発熱があったとのことでした。

脈は浮いていて、右腕の方が強いようです。
それと対応するように、右の頚部リンパに腫れっぽさと、圧痛がみられます。
腹部は心下に広くガスがあり、右季肋部はスジが強く張っています。
臍下部にも熱感があり、両方の大腿前面にだるさがあるようです。

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腹診の結果、「メインはここ」と右季肋部から右脇腹がポイントとなるようです。

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右前腕から鍼をすると、ちょうどこの部分に響くようです。

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咽を見ると、左に比べ右側はスジが明らかに張っていて圧痛が強いです。
先生がチョンチョコと鍼をすると、だいぶ痛みや痰のへばりつく感じが少なくなったようです。

先生曰く「だるさとは皮膚の下に熱が篭っているときに感じる。その熱が外に出ればよい。」とのことでした。

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ポイントとなる右季肋部ですが、いきなりは刺さず、まず左脇腹にアプローチします。
すると腸がゴロゴロと動き出しはじめました。
その後、ピッと右季肋部に刺鍼しました。

この右季肋を中心にてスジが上下に連なり、身体が虚すと邪に入られ咽に症状が出るようです。

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他、項や背、腰などへ刺鍼します。

腰部は痞根、志室辺りに、他の部分とは異なる、「悪そう」な状態のようです。
モデルの方も発熱の前には、ここの部分に違和感を感じていたそうです。

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その後、足の甲へ鍼をして気を下げて、治療は終了となりました。

モデルの方は全体的に症状が軽くなったことを実感されたようです。

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我々が治療をするとなると、どうしても症状が「ゼロ」になるまで施術を続けてしまうところですが、身体が自分で治すべきところは残しておいた方が良いとのことでした。

身体が自ら変化する部分と、人間が手を加える部分、この兼ね合い、バランスに妙があるように感じておられるようです。
人間が手を加える部分は最小限にし、後は自然、宇宙の法則に任せる、これこそ鍼禅の目指すところとのお話でした。

先生の模範実技の後は、各々ペアとなって稽古をしました。
先ほど、良い模範実技を拝見したのに、すぐに頭であれこれ考えてしまう自分を見つけます。
なかなか道は険しいですね。

[ 反省会 ]

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慣れない係や、初めての典座など、チャレンジの月が続きます。
事前にイメージトレーニングをしても、実際にやってみるとまったく違っていた、という感想が印象的でした。

昨晩の茶礼でも情報過多というお話がありました。
思えば、情報というのも体験を伴わないものであればイメージの世界と一緒ですね。
横田先生からは、いろいろと外部からの情報があってもそれに流されず、「これでゆく」という自分自身の信念を持つことも大事とのアドバイスがありました。
信念を貫くためにも胆力をつけなければなりませんね!


次回は6月3日(土)、4日(日)の開催となります。

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茶礼菓子の雲平(うんぺい)。
秋田ではこの食感を「じなじな」というそうな。

ご質問などは、こちらまでどうぞ。
harizennomichi@gmail.com

(文責・石水)
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