鍼禅の集い

特定の団体や所属に捉われず、 東洋医学や禅に興味を持つ者が横田観風先生の元に集い、 それぞれの学びを深めてゆく。 その活動を紹介いたします。

平成29年8月 「万里清風」(ばんりせいふう)

当に盛夏の候、一年の中で一番キツイと言われる月、立っても座っても汗が出てきます。
今年は台風の影響か、薄曇で、湿度の高い気候となりました。

この集いにご興味のある方は、参加要項を参照の上、ご連絡を下さい。
また横田先生の講話を『鍼禅茶話』として冊子化したものがありますので、興味のある方はご覧ください。

[ 準備 ]

今月も14名が横田先生の下に集いました。
ご縁によって集い、またそれぞれの道を進んでゆきます。
同じ時は二度と訪れませんから、一時一時をを大事にしたいですね。

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夜の座禅が始まるまで、作法の予習をします。
優しい先輩が丁寧に教えて下さるのではじめての方でも安心です。
一年くらい続けて参加すると、一通りの作法を覚えると思いますが、どうしても「他人を観察して覚える」ことが大事になります。

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迷い込んだカブトムシも参加です。

[ 随意座 ~ 二炷 ]

風はほとんど無く、ムッとした湿度の中、集中を切らさないように座ります。

蛙はどこへやら、今はセミやバッタの奏でる音ばかりです。

[ 茶礼 ]

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座禅の後は、語らいの時間です。
暑い中、温かいお茶が更においしく感じます。

会の報告などがありました。
参加者の中には自主勉強会を主催されている方もいて、鍼灸師以外の医療関係者との交流もあるようです。
専門性が増している現代では、チーム医療の必要性が言われるところですが、はり灸師がその一端を担うこともあると思います。

その話の流れで、産婦人科の話となりました。
東洋医学でも古来から研究が行われている分野であり、現代でもその有効性は認識されていると思います。

さて、逆子の灸といえば、至陰が有名です。
こういった特効穴は、誰でも覚えやすい反面、「とりあえず試してみよう」というニュアンスが強いように思います。
きちっと腹診や問診をした上で、逆子となってしまう理由を考察し、アプローチをするべきだ、との意見がありました。

そして鍼禅では相手の身体が求めるところに鍼や灸をしてゆきます。
至陰が灸を求めていたのか、よくよく観察すると良いのかもしれません。

その後、鍼灸師が『傷寒論』をどう活かすか、という話になりました。
今までも言われる通り、例えば「葛根湯の鍼(法)」といった、湯液の証に一致する鍼灸技法、治療理論は成り立ちにくいところです。

では、『傷寒論』から何を得るのか。
横田先生が書かれた四部録を基礎にして、臨床に照らし合わせてゆきたいところですね。

[ 起床 ]

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どんより曇り空となりました。

[ 朝課 ~ 四炷 ]

朝のお経の後、いつものように二時間ほど座りました。
お経は大きな声をだしましょう。

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寝てるのはいないかと先生が見回ります。

[ 粥座 ]

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黒豆いりのお粥をいただきました。
粥座は、食事の時間と言うより、一連の作法といった感があります。

[ 作務 ]

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草刈、剪定をやらせて頂きます。

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皆、汗でびっしょりですが、清々しい表情をしています。

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そして、スイカがおいしいです。
身体の細胞ひとつひとつがウマイと言っています。

[ 講話 ]

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今月は『碧眼録』第61則から「万里清風」という語を引いてお話くださいました。

禅では言葉で表現できないものを、身近におこる事象を借りて表現し、悟るためのヒントとするそうです。
さて、清風とはどんなことでしょうか。

【本則】
 風穴(ふけつ)垂語して云く、「若し一塵を立つれば、家国興盛し、一塵を立てざれば、家国喪亡す」。
 雪竇、拄杖を拈(とりあ)げて云く、「還(は)た同生同死底の衲僧(のうそう)ありや」。
【頌】
 野老は従教(たと)い眉を展(の)べずとも、
 且(まず)は家国に雄基を立つることを図らん。
 謀臣猛将今何(いずこ)にか在る、
 万里の清風只だ自知するのみ。

塵は思い(煩悩)の例えで、それが浮かばない空っぽの状態が悟りということになります。
思いが浮かぶと、大脳による認識(分別)の世界が拡がります。
まるで赤子が大人となるように、この世で生きてゆくためには、道徳や家訓、文化などを学ぶ必要がありますが、度が過ぎれば悩み苦しみの種となります。

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鍼灸の世界でも、位置の定義された経穴や、理論的な証立てなど、塵(分別)を立てて治療をすることが多いと思います。
しかし、先生は塵の無い治療をされています。
昔は一生懸命、塵を立てて治療をされていたそうですが、身体で覚えてしまった後は空っぽのまま治療ができるようになったそうです。
武術などでもいちいち考えていたのでは負けてしまいますね。

もちろん、人はいろいろな思いを抱いて生きています。
大善知識たる禅の高僧達も常に塵無しで生きているわけではないと言えます。
しかし、どんな塵かというと、恐らく、世の中を良くしようとか、弟子たちを育てようと考えていたことでしょう。

座禅をしたからといってすぐに高い境涯とはなりませんので、今の自分を見つめ、課題を立てて頑張って欲しいとのことでした。

以上、詳細については冊子『鍼禅茶話』をご覧下さい。

[ 斉座 ]

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ズズっとおいしく頂きました。
とても豪華ですね。

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少しの休憩時間です。

[ 実技稽古 ]

横田先生の模範実技を拝見しました。

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モデルは、ひと月前に風邪様の症状となり、その後、頭痛となった方です。
副鼻腔炎を起こしやすい体質の様で、右目の奥と、項の奥がちょうど交わる辺りに拍動性の痛みを感じるとのことでした。

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腹診では右季肋下が顕著にスジばっており、ここから胸、ノド、副鼻腔へと影響しているとのことでした。
季肋、右の頚、右側頭部、鼻、額には熱感が見られます。

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先生の治療は、前腕から腹、ノドまわり。
天突、鼻額、項背、足へ引く。

これでだいぶスッキリされたようです。
先生は、迷わずにスパスパ治療をされるので、見ている方は簡単そうな印象を受けてしまいます。
しかし、数分の治療時間で同じことができるかと考えると…簡単では無いことはわかると思います。

このブログにクドクドと書いても伝わるものではありませんので、ご興味のあるかたは是非ご参加ください。

その後は、各自ペアとなって稽古に励みました。
最近は、人数的にマンツーマンが多いです。

[ 反省会 ]

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研修会は自然に近い環境で行いますので、都会のものと比べると不便もあります。
しかし、何とか続けていると、自然がいろいろなことを教えてくれるようになります。
そういった学びや気付きが各人の胸に刻み込まれてゆき、その積み重ねが人間の内面を少しずつ変えてゆきます。
これは「心田を耕す」と言うようです。
日本的な学びといえるでしょうか。


次回は9月2日(土)、3日(日)の開催となります。

ご質問などは、こちらまでどうぞ。
harizennomichi@gmail.com

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隠れる蛙。

(文責・石水)

平成29年7月(聞こう会) 「拄杖子化為龍」(しゅじょうすかしてりゅうとなる)

今月は、『碧巌録』第六十則「雲門柱杖化して龍と為る 」についてお話いただきました。

今月の掛け軸
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一景
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今月の茶菓子はSさんがご用意いてくれた「太鼓餅」。
白胡麻と小豆、青えんどう豆等を用いた大変美味しいものでした。
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【本則】
 雲門、拄杖(しゅじょう)を以て衆に示して云く、「拄杖子(しゅじょうす)化して龍と為り、乾坤を呑却(のみこ)み了れり。山河大地、甚処(いずこ)よりか得来たる」。

【頌】
 拄杖子、乾坤を呑む、徒(むな)しく説(い)う、桃花の浪奔ると。
 尾を焼く者も雲を拏(とら)え霧を攫(つか)むに在らず。
 腮(えら)を曝(さら)す者も何ぞ必ずしも胆を喪い魂を亡わん。
 拈じ了れり。
 聞くや聞かずや。
 直に須らく灑灑落落たるべし、更に紛紛紜紜(ふんぷんうんうん)たることを休(や)めよ。
 七十二棒且(まず)は軽恕す、一百五十、君に放(ゆる)し難(がた)し。
 師、驀(いきな)り拄杖を拈(と)りて座を下る。
 大衆一時に走り散ず。

【本則】
雲門(無門関の著者でもある)が脇にあった杖を取って、修行者達に示して、「この杖が化けて龍となった。そして天地宇宙を呑み込んでしまった。我々が見てる山や河や大地は呑み込んでしまったら無いはずなのに、見えるじゃないか。どこからどこに見つける事ができるのか」と言った。

こういうふうに禅の話は、言葉にならないものを相手にわからせるために、何か(物を)を使ってやっている訳である。だから何でも良い。
指導者がそばにあるもの、(例えば)払子(ほっす)を持ち上げたり、何も無ければ「喝」と言ったり、円を描いたり、指を一本立てる人もいた。皆同じ。そういう風にして気付かせる。

何を気付かせるかという問題だが、人間が宇宙からオギャーと産まれた時の赤ちゃんの状態というのは、大脳にまだ何の知識も入っていない、大脳がまだ働かない状態というのが誰にもあるぞと。それは宇宙とつながっているので、宇宙一杯の心という訳。

大脳に(知識が)入るとどうなるかというと、認識して区別する力があるわけで、名前が付けられる訳。これは茶碗だとか。するとだいたい禅のお坊さんは「(それは)違う!」とか言う。違うんだったら何だとかいろいろやるのだが。

認識で持っている世界と認識じゃない世界が本当はあるのだけれども、年を取れば取るほど、勉強して一生懸命社会で生きれるように、立派な人になろうと思っていろいろな物を詰め込む。
そうやって頭に詰め込むと、今まで赤ちゃんの時の状態の脳みそは、全て覆われて隠れている。
我々が、こういう本(『碧巌録』)を読んだ時、気づいた時はもう隠れてそういうのを知らない。
禅をやって初めて(何をしてるのかを)知ったのだが。
で、一生懸命座禅をすると結局は、雑念とか妄想とかいろいろな物が湧いてくる。皆そういうものを消そう消そうと努力するが消えない。
「流せ」と我々は教わる。浮かんできたら、それに引っかからないで流れるままに。
「流れる」というのは一人でに消えていってしまう。
思い浮かんだら浮かんだで良いから、そんな物は流して、そのまま座っていなさい、と、ずっと言われ続けてきた。
ある程度呼吸と身体が禅をやる状態になってくると、だんだん丹田が出来てきて、気が上に上がらない身体になってくる。

雲水さんなんか、摂心で夜12時まで座り、3時半くらいなると起こされて、作務でこき使われるような生活を毎日していると、物を考えられなくなり、慢性寝不足症候群みたいになっている。
その位、宇宙人のような脳に出会う為に、生半可な事をやっていたのでは出会えない。

それで「龍と為り」の龍とは、エネルギーが強くていろいろな働きを縦横無尽に出来る代表的なもの。
雲門が杖を持って、これが龍と化して、天地宇宙を呑み込んでしまった。さあどうする、みたいにして言った。
これもひとつの働きとしてやっているので、何も杖が龍になったのではなくて、その物を借りて言っている。

この杖のように(お前たち)龍になれ、と。
それだけの苦労をして、修業してようやく出会えた世界が、何の事はない誰もが最初に(我々に)あったものだったということだ。

出会ったら終わりかと言うと、ただ出会っただけなので、今までグチャグチャと脳に詰め込んだ物はまだ消えていないから、それを改善しなければいけない。
偉いお坊さんになったり、立派な仏教徒になるためにはいろいろな仏典を読んだりして、これは良いとか悪いとか頭の中を整理していく。
そのような修業をして一人前になって行く。
そういう修業の事を雲門は、ただ一言で言う。「どうする?」と。
ここだけではわからないので次の(後の時代に雪竇が漢詩で意見を述べている)【頌】へ。

【頌】
「柱杖子、乾坤を呑む。徒しく説う、桃花の浪奔ると。」
桃花は3月3日の桃の節句、桃の花が流れに浮かんでいく姿。

「尾を焼く者も雲を拏え霧を攫むに在らず。」
魚が激流を上がって行くと雷が鳴って尻尾が焼かれて無くなるという話があるが、これも同じ。尾を焼かれたというのは(上に)上がれたという。龍が上がって行く時に雷雲が出たりいろいろあるがそういう物で無いぞと。

「腮を曝す者も何ぞ必ずしも胆を喪い魂を亡わん。」
滝を上るのを失敗して岩にぶつけて(魚の)鰓を晒して落第した者。そういう者でも本来仏の身であるから決して失望するには及ばないぞ、と、ここで救いの手を述べている。
大脳の認識、知識に対してはなかなか消しきれない自分がいるが、誰もが宇宙人だった時の物を持っているのだから、そんなに失望しなくて良いと。ここのところが大事。
座禅をやってもやっても悟れない人とかもいるし、悟ったからといっても別に偉くもなんともないので、元々救われているのだという立場。
これなんかは、禅の方は座って偉くなるというとこだが、浄土宗なんかは、生まれつき元々人間は救われているのだという立場。どっちから見ても良い。見方を変えた訳だ。
弟子連中には修業して頑張って立派な坊さんになれよ、と言っていながら、それだけではないぞと。禅の人って面白い。
丸(円相)だから、こっちの意見があると反対の意見もある。同じ意見ばかりハアハア言っている奴はロクな者でない。反対の事を言えないような人物は修業ができていない。
雲門が大脳を消していく方の龍になれよという立場で言ったなら、雪竇はそればかりではないぞと。本来、仏の所もあるぞと。そんなに失望すのではないぞとここで言ってくれた。雪竇はなかなかの人物。

「拈じ了れり。聞くや聞かずや。」
雪竇が三つ詩を読んだが、これで終了と言って終わるかと思ったら、念には念を入れて、「どうだ、わかったか?」と言った。
終わったかと思うと後にまた(漢詩が)三つくっついている。

「直に須らく灑灑落落たるべし、更に粉粉紜紜たることを休めよ。」
常に心の中はサッパリとしていろと。胸の中がゴチャゴチャしているんじゃない、と。
修業した人としない人がどこが違うかというと、この一点だけである。
別に偉くなったわけでもないし、みんなと変わっているところもほとんどない。
とにかく(皆と違って)あまり悩まない。
胸の中が清々して頭が余分な事を考えないでいるから、その方が頭脳明晰になる。
原稿を書いていて頭を使うが雑念がない。
これを書いたらどう思われるだろうかとか、取り越し苦労がないとか、余分な事で胸の中が騒がしいとか、そういうものか少なくなる、というのが違いかな、と最近思っている。
だからここに書いてあるのも、ゴタゴタガヤガヤ騒ぎ立てるのはやめよとある。
禅の人は全く悩まないかと言うと悩む時はある。ただ解決が早い。考えているより行動しろと。
鬱の人とか悩んでいる人は走馬灯のように同じ事ばかり考えている。寝る時は寝るがよろしとか。

「七十二棒且は軽恕す、一百五十、君に放し難し。」
もしも、サッパリした悟りの心のままに生きられないなら、ともかく今日の所は(警策を)七十二棒で勘弁してやろうと。本来なら百五十棒でも許せんところだと。雪竇が後の修業者に向かって頑張れと、警策を受け気づけよと言っている訳だ。

「師、驀り柱杖を拈りて座を下る。大衆一時に走り散ず。」
師とは雪竇の事。雪竇も弟子がいっぱいいたから、そう言っておいて柱杖を持って席を降りたら、皆、殴られると思って逃げてしまった。

禅の人は何も考えないのかと勘違いしている人もいるが、考えるときは良く考える。大脳かあるから。ただグチャグチャしていないのと、赤ちゃんのような状態にも、普通の人の状態にもどっちにもなれる。努力としては、なるべく赤ちゃんのような状況でいつつ、必要に応じて考えよという事。
だから老師も、修業に関係ない時は本当に好々爺、のほほんとした感じで、花をいじったり掃除したりいろいろな事をやって楽しんで生きている。
これを読んで私が何を思ったかと言うと、柱杖を一本の鍼と思った訳だ。
皆、一本の鍼を普通の鍼と思っているが、柱杖も結局何かと言ったら心の問題。
龍のような活き活きとしたグチャグチャしない心を持って、いろいろな人を救済できるような人になれみたいな事。
それを我々は鍼でやっている。鍼一本の世界に自分の心を全部注ぎ込んで分身みたいになっている。
鍼を縁にしていろいろな人が寄ってくる。
鍼で作り上げた世界観の中で、どうやって人間世界の中で働き出せるかというのと同じでないか。

そこまで行けたら鍼禅になる。鍼一本の世界が龍となる。
私の心がここ(鍼一本)にある。それで日本国中、世界中の人達にとって良い働きが出来れば良い。
「一鍼、乾坤を貫く」もそういう事。そうやって生きていればすごく良い人生にもなる。
単なる技術だけを習いに我々の所に来る人が多いけど、そういう世界まで観てくれる人がなかなかいないので孤独を感じる時がある。


内容の詳細は冊子『鍼禅茶話』をご覧ください。

本文の内容や、会に関する詳細はこちらまでご連絡ください。
 harizennomichi@gmail.com
 
(文責・高橋、石水)

平成29年7月 「唯嫌揀択」(ゆいけんけんじゃく)

期間中雨に降られることはありませんでしたが、なかなか蒸し暑い陽気です。

あじさいの下にもぐって雑草を刈っていると、葉についた水滴がポタッと首に落ち、驚きと同時に清涼感を感じます。
地面を見ればモゾモゾと、カエルやみみずなどのオアシスになっているようです。

この集いにご興味のある方は、参加要項を参照の上、ご連絡を下さい。
また横田先生の講話を『鍼禅茶話』として冊子化したものがありますので、興味のある方はご覧ください。

[ 準備 ]

不思議なご縁に導かれ、今月は14名が横田先生の下に集いました。
ここで何を学ばれるかは、もちろん本人次第となりますが、居心地の良い場を皆で作ってゆきたいと思います。

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皆が集まった時点で一度先生に挨拶をします。
深々と礼をすることは、今の時代なかなか機会がありませんね。
簡単そうでなかなか難しく、心に迷いがあると、不思議と動作にブレが生じます。
これも一つの修行といえますが、上手くできると、なんとも言えないスガスガさがあります。

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膝を曲げずに雑巾がけをするのは、なかなか気合が必要です。

[ 随意座 ~ 二炷 ]


しっかりと1時間半ほど座りました。

横田先生が警策を持って、皆の姿勢をチェックされた際、「雨滴声」のお話をしてくださいました。(『鍼禅茶話』では第三巻にありますね)
我々は、意識して音を聞き取り、過去の経験などから分析し、「あの声」「この音」と名づけます。
禅では、この頭で考え、分別するといったことを嫌います。
分別が生じる直前はどんな声だったのでしょうか。

[ 茶礼 ]

座禅の後は、語らいの時間です。
互いに場所を譲り合わないと皆が座れませんね。

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今月は、村田先生の所に学びに来ていらっしゃるフランスの大学生が参加してくださいました。
東洋思想にご興味をお持ちとか。
若くとも本当に良く学んでいらっしゃって頭が下がります。
次の世代の人たちのためにも、オジサン達も頑張ってゆきたいと思います。

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皆でいろいろな話をする中で、我々が学び、伝えようとしている「いやしの道」や「伝統」とは、そもそも何か? 一隅を照らす人材とは? などといった話題になりました。

現代の鍼灸学校では一般的に「試験に受かる」レベルの人間が出来上がると思います。
しかしそれでは、なかなか患者さんを治せないと思いますので、まずは技術を向上させ、改善できる力をつけることが先決です。
そして努力の中で、いろいろな疑問や迷いが沸いてくると思います。
本当に治っているのか? 治すだけで良いのか? そもそも治る見込みの無い方もいらっしゃると思います。

技術や知識をためるだけでは乗り越えられない壁に直面したときにどうするか。
長く続ければ続けるほど、壁は高くなってゆくと思います。
他人のせいにしたり、諦めてしまうのは簡単ですね。

会の先輩達は長い経験の中で、さまざまな壁を越えるために、一生懸命やってこられたと思います。
稽古などで一緒に学ぶときは、そういった先輩の苦労や工夫が見られると、「私もがんばろう」という気持ちになるかもしれませんね。
人の工夫を見て自分の工夫が生まれ、人の背中を見て自分の背中を作る。
その目的は「他者をいやしてあげたい」という純粋な気持ちにあるわけですが、その思いの連鎖自体が伝統であるといえるのかもしれません。

喜ばしくも、この業界にはいろいろな名人も居て、研究会も多いと思います。
学ぶ人は、自分自身が学びやすく、高い目標が持て、長く続けられる場所を見つけるのが良い、といった結論だったでしょうか。

皆での語らいの一割も記せていませんが、「道」に興味のお持ちの方は是非ご参加ください。


[ 起床 ]

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五時。
「開静!」という声がかかり、起床となります。
皆さんよく眠れたでしょうか。
外はとっくに明るくなっています。

[ 朝課 ~ 四炷 ]

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掃除後、お経を読みました。

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その後、二時間ほど座ります。

外では季節柄、果樹園の害虫駆除が行われているようです。

[ 粥座 ]

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出汁をとった昆布や、野菜の端などは捨てずに調理して食します。

[ 作務 ]

雨は降らず、少し蒸し暑い中、草刈や剪定などを行い、良い汗をかくことができました。

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いや~、潤されます。

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畑で立派なニンジンや紫蘇が採れたようです。

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刈った草を腐葉土にするとか。。。囲いから溢れています。

[ 講話 ]

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今月は『碧眼録』第五十九則から「唯嫌揀択(ゆいけんけんじゃく)」という語を引いてお話くださいました。

なんでも、禅の話は活字にすること自体難しく、またその活字を読み下し、読みやすく訳したからといって、その内容が真理を表しているとは限らない、と冒頭にお話下さいました。
さて、どういった内容でしょうか。

【本則】
 僧、趙州に問う、「『至道は難きこと無し、唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う。纔に語言有るや、是れ揀択なり』と。和尚は如何(いか)に人に為(おし)うるや」。
 州云く、「何ぞ這(こ)の語を引き尽(つく)さざる」。
 僧云く、「某甲(それがし)は只だ這裏(ここ)に念じ到るのみ」。
 州云く、「只だ這(こ)れぞ至道は難きこと無し、唯だ揀択を嫌う」。
【頌】
 水灑(そそ)げども著(つ)かず、風吹けども入らず。
 虎のごとく歩(あゆ)み龍のごとく行(ゆ)き、鬼(き)号(さけ)び神(しん)泣く。
 頭の長きこと三尺、是れ誰なるを知らん、
 相対して無言、独足(かたあし)にして立つ。

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「揀択」は選り好みをし、執着すること。
頭で考える人間にはなかなか難しい課題です。
自然や社会といった環境の中で生き延びてゆくには選択が必要であることも確かです。
ただ、その際に、「こっちが得か、あっちが得か」などと感情が湧き上がり、決断ができないことがあると思います。
また一度決断をしても、後から「ああすればよかった」などとクドクド思い悩むこともあると思います。
禅ではこういった執着を嫌うということとなります。

横田先生は禅に近いものの例えとして、赤子のように大脳がまだ発達していない、分別をする知恵が固まっていない状態のように、腹が減ったら泣き、満たされれば笑うというような、素直な働きと表現されました。
雨滴声の問答のように、知識によって「雨」と名づける以前の声(消息)は何か?ということに通じるとのかもしれません。

臨床の場でも、施術者側の執着や選り好みもあるかもしれません。
ツボの位置や、証決めなど、身体の実際が(机上の)理論通りにならず、迷うこともあると思います。
患者さんも悩みに囚われていることが多く、それが身体症状に繋がっていることも多いと思います。

悩むことは人間の根元的な問題かもしれませんが、その悩みを改善するための一手として、こうった「至道無難、唯嫌揀択」という発想を持つのも良いのかもしれません。
(当然、施術者自身が、そういった生き方を実践できるように努める必要がありますが)

以上、詳細については冊子『鍼禅茶話』をご覧下さい。

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使った茶碗を洗ってくださいます。

[ 斉座 ]

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夏と言えば、そうめん。
と選り好みをしてはいけませんが、、、ありがたく頂きました。

[ 実技稽古 ]


横田先生の模範実技を拝見しました。

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モデルは項の痛みと、手の示指あたりがシビレるという症状です。
項から、肩甲骨、肘の外側が重だるいという感じもあるようです。

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睡眠不足の傾向があるようで、疲労時には左肩甲骨に詰る感じがするとのことです。
何かと左側に症状が多いのかもしれません。

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先生は手に鍼をした後、左横腹から胃あたりへと鍼をしてまずは腹部を整えます。

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下部頚椎の横には圧痛があり、しっかりと刺鍼されます。
肩背部もちょこちょこと刺鍼されます。
右肘、合谷に瞬間的に鍼をした後、右手を使って運動鍼をします。

背には細絡が多いようで、左示指とあわせて刺絡をされました。

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最後に足からひっぱります。
結果的に、シビレは半減、血流がよくなったのかだいぶ寝むたくなってしまったようです。

先生のアドバイスとして、こういった症状では、内臓から症状が出ているのか、首だけの問題か判別することが大事とのことです。(是動病や所生病、また所生病的是動病のように)

その鑑別のためにも、一度に悪そうなところを全部施術するのではなく、的を絞りつつ施術をしていった方が良いようです。

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その後は、各自ペアとなって稽古に励みました。

[ 反省会 ]

暑い中、体調を崩す人もなく、無事に終えることができました。
8月はもっと暑いかもしれませんね!

次回は8月5日(土)、6日(日)の開催となります。

ご質問などは、こちらまでどうぞ。
harizennomichi@gmail.com

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みんなでパチリ。

(文責・石水)
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