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理論考古学のすすめ、魏志倭人伝から邪馬台国v(^0^)/

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おはようございま〜す。

歴史のお話もほぼ終了〜

邪馬台国九州説にしても鳥栖や久留米などの筑後川中流域を想定するお偉いさんが多いですね。
確かに吉野ヶ里以東の大きな平野部には遺跡をはじめ、副葬品の出土も多く。
たくさんの国々が密集していた穀倉地帯と思われます。

しかしぃ〜
きっとここではないぃ〜のね。

↓のように〜吉野ヶ里東部だと思ってま〜す。

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ちょうど博多湾から長崎を回って有明海の最深部。
筑後川でもなくって船が着け安い所。
陸からだと大宰府を回って鳥栖で西に向かって曲がってぇ〜到着。

地図を見てみますとぅ〜

和歌山一の宮である「日隈」がぁ〜
なんで有るのぅ〜

「日隈」って奈良大和の統一後の勢力だもんね。

それからぁ〜

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和歌山県天野の「丹生都此売」神社の祝詞でおなじみの「松瀬」
「松瀬の丹生」だわぁ〜

分かりにくい人は丹生の祝詞を読んでみて下さい。
丹生の領地のシンボルとも言うべき場所です。


それに探してみるとね。
「巨勢」も近くにあります。
これも祝詞でおなじみ「巨勢の丹生」




きっと白浜って言う名前が黒潮に乗って和歌山や千葉に存在するように。
ヨークが有ってニューヨークが有るように。
その勢力地名が残っているのかも。

佐賀県大和町。

嘉瀬川流域上流には巨石が立ち並び、今は巨石パークとなっています。
また古代の祭祀跡と思える淵なんかも多数。
筑後川と異なり、それなりの小川。
丹の分布。
淀姫神社とまつわる神話。
(嘉瀬川のお魚食べると天国に行っちゃうって、、、、、
 何らかの低温鉱物の存在を思わせますね〜)
(丹生都此売と同様、水や治水、農耕の神様です)

ここにいつか丹生の祖となる能力を持った人の集団が居たはずで〜す。

何故発掘されないのか
田んぼばっかりで田舎なんだも〜ん。

それにきっと当時の邪馬台国は、丁寧に発掘しないと分からないほどに破壊されている可能性が高いです。
卑弥呼のお墓も同様に。
卑弥呼は後の世の儒教にとって異質な鬼道。

古墳時代の幕開けとともに流れ来る儒教思想。

鬼道を信じた集団は、後には追われる身。
吉野ヶ里が物語っています。

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もっと絞ったら↓のあたりぃ〜
田んぼばっかりぃ〜

現在の発掘成果や理論、それに複合的な視点から導き出しても楽しいですよ。
今は固定観念にとらわれてばっかりで、シュリーマンみたいに夢を追う人が居ないですもんね。

夢有ってこその学問だと言いたいぃ〜


これで魏志倭人伝の全ての疑問が解消で〜す。
後はのちの成果に期待しましょう。



次は何しようかなぁ〜

今日もみなさまにとって楽しい1日になりますように〜

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山茶花さんと歴史の付録〜v(^0^)/

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こんにちは〜

パソコンいじってる時間がなくってすみません。
ちょっと忙しさのピークが過ぎるまですみません〜ペコペコ


haruさんちの山茶花さ〜ん。

やっとお写真撮れるぐらいに咲きました。

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みんな可愛いんですよぅ〜

↓の文章は付録で〜す

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邪馬台国で思ったんだけどねぇ〜
魏志倭人伝で「馬」って書いてるのは女性の王なりシャーマンが居たんじゃあないかなぁ〜?
「じゃじゃ馬」ってやっぱり女性だも〜ん。笑
 
「馬」って書いて(マ)と読んでいますよね。
(マー)は中国では「お母さん」の意味ですよね。
邪悪の邪とマー
 
悪いおばさんの国〜
きっと当時の國の名前なんてそんな感じで付けられていると思います。
 
 
んでぇ〜
「狗」はきっと男性だぁ〜
天狗はやっぱり男っぽいぃ〜ワハハ
 
そんな感じで発掘された時期の一致する墳墓を研究してみると面白いかも。
高貴な女性が埋葬されてたら、魏志倭人伝で「馬」のつく國かもね。
きっと國名を特定する一助にはなりますよ。
 
 
 
それで思いついたんだけどぅ〜
卑弥呼の本名って何でしょう?
もちろん後世では卑弥呼が名前として使われていますがぁ〜
 
これって、「卑しい巫女」って事でしょうに。
もっとも日本では八百万の神様の国ですから「日の巫女」でしょうが。
 
これじゃあ「お坊さん」や「神主さん」と一緒だよねぇ〜
飲み屋さんの「社長〜」や「先生〜」と一緒だぁ〜
 
名前には違いないけど、役職名だもん。
 
 
本名は何だったんだろう
きっと子供の時は卑弥呼じゃあなかったはずぅ〜
 
 
邪馬台国の周辺國を見てみますとぅ〜
邪馬壹國(邪馬台国)じゃあなくってぇ〜
 
邪馬國って言う國が有るんですよね。
 
邪馬國も悪いおばさんの国になっちゃうよ。
違いは「壹」って字ですねぇ〜
 
ひょっとしたらぁ〜
これが卑弥呼さんのお名前ではぁ〜
 
「悪いおばさん「壹」の國」
 
うん、うん、良いかもぅ〜
 
最近の研究ではぁ〜
当時の読み方では「邪馬壹」を「ヤマト」に近い音で読んでいたそうですね。
そして当時の読み方はね、「つくり」が同じならみんな同じ音らしいぃ〜
 
「壹」は豆がくっついてるから「ト」、「登」も豆がくっ付いてるから「ト」
でも、壹って言う字はお豆が1個みたいで貧弱。
きっと「邪」なんかと一緒で下げずんだ使い方かもね。
 
当然お豆がいっぱいの方が良いのでぇ〜
当時、そういう字が有ったかどうかはわかりませんがぁ〜
後世に伝えるならば「豊」
同じ豆がついてるから「ト」かもぅ〜
を使うような気がしますのね。
 
みなさまも邪馬豊國ってどう読めちゃうでしょうか
今は「豊」は「トヨ」ともよみますよね。
ヤマトヨ国って読んじゃうかな?
ヤマト国になっちゃいそうだよね。
 
卑弥呼の幼少本名は「ト」もしくは「トヨ」だったのかも。
 
 そうするとまたまたこんがらがっちゃうんですよね。
卑弥呼の跡継ぎは「壹与」なんですよね。
これも「トヨ」って読めちゃうんだもん。

それに豊の国って言うと筑後川周辺だもんね。

 
お話を戻しましてぇ〜
本命予想は
 
佐賀県吉野ヶ里西部ないし筑後川中流域かな。




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魏志倭人伝の解読異説〜v(^0^)/

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おはようございま〜す。


昨日は夜のアップも出来ずにすみません。
やっぱり年末が近づいてきてちょっと忙しっぽいで〜す。

今朝はブログの調子も悪く、やっとお写真のアップができました。


年末で忙しっぽいので、邪馬台国をチャチャッと行こうかと思うんですが。
なかなかはかどりませんねぇ〜


そこでぇ〜
ささっとぅ〜
 
その地区の伝承や地名なんかを見てみよう〜
 
でもぅ〜こんがらがって来ちゃったもんね。
魏志倭人伝と卑弥呼についてもう1度考えてみよう〜

 
 
どうもひっかかって前に進まないのよねぇ〜
 
九州説にしても畿内説にしても邪馬台国の人口が多すぎるのよね。
これも魏志倭人伝の疑問点とされています。

 
う〜
脳みそ動けぇ〜
ハイ〜


 
 みなさまぁ〜
 下のお写真の魏志倭人伝原文を合わせてみて下さいねぇ〜
 
通常って言うか、普通の人は原文読まないかもだけどぅ〜
 
多分研究してる人も訳を読んでるよね。
 
 
お写真↓,僚蠅諭

それぞれ「二萬余戸東行至不彌國百里」(二万余戸、東行不彌國に至る百里」
      「千余家南至投馬國水行二十日」(千余家、南投馬國に至る水行二十日)
って読むのね。
家の戸数はその前に書いてる國の戸数だから、「戸」や「家」の後に点をつけて読むんです。
文が切れてるんだもんね。
 
続いてお写真↓△僚蠅諭
「七萬余戸自女王國以北」(七萬余戸有り、女王國以北)
って、戸数はその前に書いてる邪馬台国の事って、,汎韻犬茲Δ貌匹泙譴討い泙后

 
ですが、この文章訳で良いのでしょうか。
魏志倭人伝は句読点やレ点が無く、続いて書かれているの解読しにくいのですね。
もう1度矛盾点を考えてみましょう。

 
吉野ヶ里遺跡の研究も進み、当時の吉野ヶ里の人口は5000〜6000人と言われています。
対する邪馬台国は七萬余戸ですよ、1世帯が4人としても28万人。
卑弥呼が女王になる前は長らく混乱し、争っていた様子ですが、数千人対二十数万人だとぅ〜
争いにならないよね、力の差が歴然ですもの。
 
そこでharuさん、考えた。

魏志倭人伝翻訳当時の考えでは、「日本の楚となる邪馬台国は大きいものでなくてはならない」って思っていたのではないでしょうか
お偉いさんの固定観念ですね。
 
邪馬台国は混乱をきわめていた様子から、各國は同じような規模ではと。
確かに邪馬台国は小さくはなかったでしょうが、とびぬけて大きな國では無かったんじゃあないでしょうか
 
 
世界的にみてもローマ法王の在住している国は飛びぬけて大きい必要はないのです。
 
卑弥呼はその軍事力では無く、鬼道にすぐれ仲裁役として各國の意見を取りまとめ、決定していた様子ですもんね。
 
 
 
今現在のお偉いさんによる訳〜

「南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行・・・・・・・
・・・・・・・・七萬余戸あり。(ここで切ってる
女王國より以北は戸数、道里は得て略載すべきも、その余の國は遠絶にて得て詳らかにすべからず」

 
おバカ〜のharuさん訳〜
「南、邪馬台国に至る、女王の都する所なり、水行・・・・・・・。(ここで切っちゃう
七萬余戸あり女王國、以北は戸数。道里は得て略載すべきも、その余の國は遠絶にしてすべからず」

 
 
そう、魏志倭人伝の趣旨を考えても邪馬台国の勢力より、邪馬台国とご近所周辺國を含めた「女王國」の勢力を報告する必要があったのね。


 
簡単に書くとね。
「邪馬台国より北の國は詳しく戸数や里数を書けるけど、七万からの戸数のある女王國を構成している他の國は遠いからまとめて名前を列挙します」
っても、解釈できま〜す。


 
こう訳することによって、この文以降に記載されている多くの國は1つの平野ないしその周辺に一塊となって存在していたのではと想像されるようになります。


七万戸とは邪馬台国を含め、以下に記載されてる多くの國を含めてぇ〜 
 
 
これで魏志倭人伝も少し読みやすく、理解しやすくなりましたぁ〜


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こんな解釈しちゃうのharuさんだけかもぅ〜笑

今日もみなさまにとって楽しい1日になりますように〜

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水銀は古代の必需品か?v(^0^)/

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おはようございま〜す。

上のお写真は土壌の水銀分布と弥生時代の副葬品の分布です。

阿蘇山なんかの険しく水田に向かない地域を除けば、ほぼ弥生時代に繁栄した地域と水銀の分布が重なってま〜す。
また、瀬戸内や出雲での繁栄した場所にもピタリィ〜

生活必需品みたいですね。




haruさんの距離感ですがぁ〜
この際、学術的里数は採用していません。
いろんな説が有るもんね。

一番正しそうなのが魏志倭人伝の筆者が書いてくれてる、韓国ー対馬1000余里と対馬ー壱岐1000余里と壱岐ー松浦1000余里や松浦ー糸島500余里です。
筆者の距離感が微妙にいい加減なのでぇ〜
一番長そうな所と短そうな所をコンパスにとってクルクル〜
そうすると予想圏内が出てきます。

陸行に関しても直線距離を表しているのか、行程距離なのかはっきりしないので(当時はどちらかが常識だったのかもですね)
コンパスで直線距離をぅ〜(道が曲がりくねっていても少なくともその圏内に収まります

邪馬台国への水行10日は船の性能と根性によりますのでぇ〜適当に
陸行に関しましてはぁ〜
ヤマあり谷あり、藪も川もありぃ〜ですからぁ〜
1日の行程は、連日歩ける体力を温存してぇ〜雨の日もあるしでぇ〜

通常の綺麗な道では普通は時速4キロだから10時間あるいて40キロ。
でも、当時は荷物を持ったり藪をかき分けたりだもんね。
根性出しても1日10キロが限界でしょう。
山や谷の連続ならば5〜6キロが限界です。
1か月直線で歩いたとして、200キロだと福岡北岸からなら熊本南部がせいぜいで〜す。

範囲を曲がりくねった行程で考えるならば、博多から佐賀県鳥栖を巡って西は長崎方面、南は熊本ぐらいの範囲だわぁ〜



お話は戻りまして〜


haruさんが丹生のお勉強していた時に気づいたんだけどねぇ〜
「丹生都此売」(にゅうつひめ)さまの住んでいる和歌山県天野には辰砂は出ません。(確認済みぃ〜)
で、近くの「忌杖刺し」を行って領地を決めて分社を作った所には必ず辰砂が産出します。(これも確認済みぃ〜)

そして、当時、辰砂や硫化ヒ素その他を使っての一子相伝みたいなシャーマン的道教の世界。
その分社の前には必ず幅10〜20メートルまでの谷川が存在いたしますのね。
 
川で辰砂なんかの重い鉱物を採集するには川の底が岩だと都合が良いの。
重い鉱物は川床の岩の上に溜まってるからね。
砂や泥の川床だと、重い鉱物はず〜っと下に行ってて採りづらいんです。
 
卑弥呼の「鬼道」が当時の支配国に滅ぼされた漢の道教の流れを汲んでいたかもって前に書いていたのですが。
その観点からしますとぅ〜

 
「近くに小川が有ったら都合が良いぃ〜
そして辰砂が産出すること。」

 
これが卑弥呼が「鬼道」を行うのに都合が良い事になります。
よその國から辰砂を買ってくるのは考えにくいぃ〜
 
で、辰砂の分布はわからないのですが、土壌水銀の分布が出てました。
土壌水銀だから後の公害の分も混じってますが、参考にはなるでしょう〜
 
 
当時の弥生遺跡からの副葬品の分布と土壌水銀の分布がほぼぴったりなんですよね。
偶然でしょうか?必然でしょうか?
 
 
 
でぇ〜私の予想と重ね合わせてみますとぅ〜
川も有るしぃ〜で。
 
0吉野ヶ里、ならびに吉野ヶ里西部が最有力です。
 
もっとも、きっちり現地で辰砂を確認していませんので絶対とは言い切れませんが。
誰か調べてみる人居ないかなぁ〜
3日もあれば出来ちゃうんだけどなぁ〜
 
でぇ〜
吉野ヶ里が時代的に否定されてる雰囲気なのでぇ〜
 
0吉野ヶ里西部が有力


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邪馬台国にせまるぅ〜理論考古学のすすめ〜v(^0^)/

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おはようございま〜す。

今日も冷えますねぇ〜



邪馬台国論争
以上色々書きましたがぁ〜
 
魏志倭人伝を書いた筆者の気持ちになり、当時の状況を把握いたしますとぅ〜
矛盾が無いのが九州説です。
 
遺跡を例に取っても、吉野ヶ里遺跡は、居住域や工房や倉庫など機能が区分、分化しており、1つの國としての機能を持っていました。
奈良の遺跡では、この國としての機能があいまいなんです。
奈良の大和全体の規模は大きいんですけどね。

神話的日本書紀や古事記ではこの時代の後、神様が九州高千穂から日向を通り、奈良に入って大和の国家を形成したってなっていますが、事実っぽいですね。
國の作り方を伝えたのかもしれません。
それが国造り〜笑

 
おそらくこの國の機能の違いは卑弥呼を女王とする前に色んな國が乱れた事や北からの侵入の恐れから、國が國としての機能を高めていった証拠でしょう。
國の機能を見ると奈良の大和ではそれほどの大きな乱れや恐怖は無かった様子ですね。
 
その点では北部九州の方が進歩していたみたいね。

そして邪馬台国周辺の國はかなりま密度で隣接していたと思います、
西日本全体にチラパラ散在していたならば、天下統一みたいな事を考えていない限り、そんなに衝突しないもんねぇ〜
吉野ヶ里にはご近所さん國が多いから衝突も多くって、自然と國としての機能分化も進んだと推測いたしま〜す。 

その点からも九州説が有利。
密度が高く隣接しているから、魏志倭人伝でも、一つにまとめて國の名前を列挙するにとどまっているのですよぅ〜たぶん

 
 
ここから邪馬台国を特定するのは非常に難しくぅ〜
想像をたくましくしなくっちゃです。
 
魏志倭人伝が対象としているのはぁ〜
邪馬台国では無く、女王國だからです。
 
もちろん女王の在住する邪馬台国も重要なんですが〜
有事の際には女王國全体って言うか邪馬台国とその近隣周辺諸国が重要ですよね。
そういう記述になっています。


 
そんなこんなで地図なんか見ちゃうとぅ〜
 
当時の人が住むのに良さそうな所はぁ〜(って、邪馬台国人口が多いんだもん

 
0 熊本南部平野、宇土方面
0 熊本北部平野、大牟田方面
0 八女あたり〜
0 佐賀県鳥栖から東方平野部
0 吉野ヶ里遺跡のところ〜
0 吉野ヶ里遺跡から西側平野部
 
まあそのくらいかな
 
でもね、たぶん女王國は鹿児島南部と仲良くなかったからね、すぐ隣の熊本南部平野は無いと思うんです。
それに、以前計算したようにぃ〜
九州北岸松浦から2000里、不彌國から1300里だと熊本南部はちょっと外れちゃう。
せいぜい熊本北部だな。
それにね、北方の國は書いてるって、「haruさんの簡単魏志倭人伝」で書いてるもんね。
あんまり南はちょっと考え辛いぃ〜
 
でね、佐賀県鳥栖から東方平野部も無し。
ここなら水行や陸行って書かなくっても博多から陸だけの方が便利だもん。
 
 
なもんでぇ〜
当時の海岸線が随分内陸に入っていたとしてぇ〜
ほんでからぁ〜
下のお写真の弥生時代の副葬品の出土例を考慮するとぅ〜
(今現在の出土なのではっきりとは言えません、まだ他に埋まってるかもなんでぇ〜)
 
有力候補はぁ〜
0 大牟田方面や八女や吉野ヶ里方面と吉野ヶ里西部。
 
当時の有明海沿岸で〜す。
 
でも、吉野ヶ里は否定されてるもんねぇ。




もうちょっと絞ってみたいけどぅ〜
頑張って想像しちゃいますねぇ〜
次は丹との関係で〜す。


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魏志倭人伝を読み解く、あやふや文章の必然〜v(^0^)/

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おはようございま〜す。

さてさてぇ〜
魏志倭人伝から核心の邪馬台国に迫っちゃおうってわけですがぁ〜
その前にもう一回整理してみようと思います。

今一度下↓のharuさん簡単倭人伝を参照してねぇ〜

上のお写真は帯方郡からの航路と九州北部から畿内説の奈良県に向かう航路を書き込んでいます。

簡単倭人伝 銑Г砲弔い討狼離は里数で書かれていますよね。
なのに┃では日数での記述(あやふやぁ〜)に変わっています。
その後では國名がいっぱい。
ではまとめとして萬二千余里って、また里数で詳しく書いてくれています。
では産物や気候、風物なんか。


それではぁ〜
畿内説だった場合、この魏志倭人伝で奈良に到着できるのかって言うのが問題ですねぇ〜
畿内説を否定しているharuさんですがぁ〜
もう一回復習しながら、その他の疑問を解き明かしていきましょう〜

畿内説を取った場合。
九州北部からの航路は上に書いたように3通り考えられます。
奈良に行きつくにはまず1本に絞るための九州北部での分岐点を説明しなくっちゃですよね。
それから水行の最終地点も説明して。
その後の方向もね。

そして日本海側と瀬戸内側の航路なら東に南里って、日数じゃなくって詳しく書けるよねぇ〜
それから日本海側のルートだとで出てきちゃうんだけどね、倭国の産物に青玉が有るって。
その青玉の故郷が出雲の玉造なんだから、もうちょっと詳しく書いているはずよね。

当時の流通ルートはかなりなものだった様子です。
縄文時代からすでに新潟の翡翠や出雲の青玉(碧玉)が日本全国で発見されてますもんねぇ〜

話は脱線しちゃいましたけどぅ〜
なんで肝心の分岐点の所をきちんと書いてくれていなのぅ〜
ってなっちゃいます。

haruさんですとぅ〜

きっと畿内だったら北部九州からだと本州最西端の山口あたりの説明をした後で西に何里水行。
北だと途中の出雲を、瀬戸内だと備前あたりの事を書いたのちに上陸地点の説明と方向、里数を書かないと迷子になっちゃうんだも〜ん。

それにぃ〜
では倭国の産物や風俗を書いているのですがぁ〜
青玉も書いてるから出雲あたりも倭国だって認識されている様子。
でも、水に潜ってお魚を採るとかお魚の入れ墨してるとか、蛤、食べるとかぁ〜
海岸沿いでなければおかしい記述が多いのね。

ではではぁ〜
九州説だとしますとぅ〜

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何故┃の肝心な部分があやふやなのか

詳しく説明しようとすると「おまぬけ〜」になっちゃうからで〜す。

九州北部から有明海方面に水行で詳しく説明しようとしますとぅ〜
九州北部の國からだとぅ〜
西に行って、南に行って、東に行かなくっては熊本周辺には行きつけません。
有明海だともっと大変。
西に行って、南に行って、東に行って、北に行かないと。
あまりに「おまぬけ〜」で、グルグル回って案内としては不向きです。

こんな書き方されたら九州一周回っちゃって迷子になっちゃうぅ〜


だからこの┃では日数だけを書いて、にて全体の里数を書いてるんですね。
これだと途中はどうであれ、迷子にはなりにくいです。


肝心な所をあやふやにしているのは、「それの方が目的地がしっかり把握できる」って言う必然からなんですよぅ〜
けっして魏志の筆者が手抜きしているわけではないのです。


ではではぁ〜またまたぁ〜


 
‖喨郡より倭に至るには循海岸水行(海岸に沿って水行)韓国をへて南し東し、その北岸、狗邪韓国に至る七千余里
    (中国の帯方郡から南や東にクネクネ、船で韓国の狗邪韓国至るは七千余里)
 
⊇蕕瓩動豎い鯏呂襪海叛虱称ぁ對海國に至る
    大官は、卑狗、千余戸
    以下、絶海だとか険しいだとか森林が多いとか田の状態や道路や海産物を食べてる等の説明〜
K南に一海を渡ること千余里、一大國に至る
    官は、亦卑狗、家は三千ばかり
    以下、△隼たように詳しい説明文〜
に一海を渡ること千余里、末ら國に至る(「ら」が変換できないおバカなパソコン〜)
    官の名前は書いていません
    四千余戸有り
    以下、草木が茂って前が見えないとか、好んでお魚を潜って採ってるとかの説明文〜
ヅ貽遒里た陸行五百里、伊都國に至る
    官は、に支(「に」が変換できないぃ〜)
    千余戸
    説明文は徐々に短くなって〜
    皆、女王國に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり、って程度
ε貽遏奴國に至る百里
    官は、じまこ(変換する気になれないぃ〜)
    二万余戸
    ほぼ、説明無しぃ〜
東行、不彌國に至る百里
    官は、多模
           千余戸
南のかた、投馬國に至る水行二十日
    官は彌彌
    五万余戸
南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月
    官は伊支馬
    七万余戸
女王國より以北は戸数、道里は得て略載
  その余の某國は遠絶にて得て詳らかにすべからず
次に・・・・・・・・・・・
  いっぱい〜
  21個の国名を列記しています
  最後に書かれている国名はΔ能颪れている奴國。
  此れ女王の境界尽くる所なり
その南、狗奴國有り、男子を王となす
  官は狗古智卑狗
  女王に属せず
郡より女王國に至る萬二千余里
以下風俗・物産・気候や生活様式など説明い〜っぱい
倭國が乱れたのちに卑弥呼をたてて王となす
  鬼道に事え、能く衆を惑わす
綾王國の東海を渡る千余里また國あり皆倭種なり
韻泙塵夕國ありその南にあり女王を去る四千余里
架舖◆黒歯國ありまたその東南にあり
  船行一年にして至るべし
  海中洲島の上に絶在しあるいは絶えあるいは連なり周施五千余里ばかり
 
ここからは今は省略〜

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邪馬台国の謎〜魏志倭人伝から〜v(^0^)/

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おはようございま〜す。

もう少し続きま〜す。
すみません〜
 
お話は↓の簡単魏志倭人伝の後半部分で〜す。

下のアップで邪馬台国は女王國の一部であると説明いたしましたがぁ〜
ここからはそれも大事な因子です。
 
阿僚王國の東海を渡る(沿岸沿いの水行じゃあありません)千余里また國あり皆倭種なり、なんかは畿内説では説明つきませんしぃ〜(東にも南にも北にも島が無いんだもん)
北部九州一帯を女王國とすれば四国や瀬戸内や出雲あたりで考えられます。
 
続きましてぇ〜
 
女王國の南、狗奴國有り、男子を王とす。
  女王に属せず。
 
先日アップしたときにも書きましたが、当時弥生人は北部から南部に向かって勢力を伸ばして行ったと思われます。
縄文人は追われて南九州に行っちゃうしかなかったのね。
 
haruさん説の女王國中枢は佐賀県・熊本県平野部と言う考えからしますとぅ〜
狗奴國は当然、熊本県人吉の盆地や鹿児島を含む南部九州になっちゃうわけでぇ〜
思想・種族が違うから交わりにくいの当然ですよね。
 
ならば南部九州には縄文遺跡が多くって弥生遺跡が少なくないといけませんね。
でぇ〜
調べてみますとぅ〜
鹿児島には弥生遺跡がやっぱり少ないって現実が見つかっちゃうわけで〜す。
 
今も鹿児島に残る反骨精神は当時の名残ですね。
九州気質や反骨精神大好きぃ〜
 
ならぁ〜
韻瞭郢誉蚓い緑夕國って何処〜
 
侏儒って小さな人の事なんですよね。
これは大問題です。
 
当然haruさん説としてはぁ〜
鹿児島南部か種子島か屋久島あたりに物証ないし根拠がなくてはいけません。
 
でぇ〜
調べてみるとぅ〜
 
種子島で弥生後期卑弥呼の時代の遺骨が百数十体発掘されております。
その骨格から縄文人特有の特徴があったそうです。
 
そして、背は男子で150センチ少々、女子で140センチ少々と発表されておりました。
 
当時の弥生人の平均身長は男子160センチ少々です、それに「魏」の国の平均身長は男子180センチから190センチとデータが出ておりましてぇ〜(中国の遺跡、兵馬俑の等身大兵士像が平均180センチ〜)
30センチも40センチも差があるわけですから、下げずんだ言葉で言うと侏儒と言われてもしようがないですね。
 
種子島、、、種子、、、シュシとも読めます。
そのごろあいも「しゅじゅ」と近いのが気になります。
 
次に欧療貽鄙ス坩貲の裸國・黒歯國ですがぁ〜
これはもう魏志倭人伝の趣旨としてはあまり関係のない地方と言えます。

魏志倭人伝を書いた人物も馬力がかからない部分ですね。
 
おおざっぱですが、距離も一年って、はっきり言って遠いって言うことでしょうし〜南方面にどんどん行ったらこんな國が有るよって九州全体の位置づけ程度のものでしょう。
歯を黒く染めるのは東南アジア系の風習である様子ですし、裸國は読んで字のごとく。
 
沖縄、台湾、フィリピン、、、そこらは適当にぃ〜
 
これで矛盾無くざっと読み解いたわけですがぁ〜
次は邪馬台国の位置について迫ってみようぅ〜

今日もみなさまにとって楽しい1日になりますように〜 


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理論考古学の勧め、邪馬台国にせまるぅ〜v(^0^)/

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おはようございま〜す。

先日から魏志倭人伝の南・東の方向問題を片付けぇ〜
今まで不明だった水行十日陸行一月の解釈問題もバッサバサとなぎ倒しぃ〜
畿内説を否定しぃ〜
と、頑張ってますがぁ〜

やっぱり方向の間違えだけで畿内が有力と思われている人も少なからずいらっしゃるかもなのでぇ〜
その後の説明。

↓の簡単魏志倭人伝亜崕王國の東海渡る千余里また國あり皆倭種なり」
魏志倭人伝で使われている水行は沿岸沿いの航行ですが、海渡るは陸沿いには行けない航行を表しています。
そう、畿内説をとると渡る島が無いぃ〜
またまた方向を間違って西に行って四国に行かないとダメェ〜

それに九州北部の國の説明から一気に奈良の大和に行っちゃあ途中で迷子になっちゃうでしょう〜

ならば、奴國や不彌國は四国や山陰・山陽方面だったかも、なんて言ったら今度は距離まて大幅に間違ってるってしないといけないもん。

欧覆鵑討泙薪貽遒捻麒の裸國が出てくるよ。

間違いの泥沼に入っちゃいますぅ〜


おバカのharuさんはこれらを素直に読みましてぇ〜
当時の状況からも判断してぇ〜
魏志倭人伝を「魏時代以前の漢時代にも、漢とも交流のあった奴國をはじめそれらの國々をまとめ統括している女王國の行程や人口などの情報を後に続く人に残したもの」であろうと思っています。

当時は魏が漢を滅ぼして道教から儒教に入れかわった時期です。
滅ぼした漢とも親交のあった女王國をどうしたものかと考えていた時期でもありますね。

だから阿砲發△襪茲Δ法⊇王國以外にも遠方に倭種の國があってもあまり興味が無かった様子。
言い換えれば魏から考えた時に、奈良の大和は倭国侵攻作戦上意味が無く、やはり水際の九州北部をまず押さえるって言うのが常識的考えかと。

魏の目的は「魏からの交友・侵攻にもっとも適する地である倭国の窓口的な女王國の情勢と魏に対する態度を知りたい」ってところでしょうか。



その全てからやはり九州だと言えますぅ〜。


続きまして〜

魏志倭人伝では卑弥呼って言うのと女王って言う表現の2通りが出てまいります。
これも問題視されている1つなんですが。

卑弥呼=女王ですね。

でもぅ〜
邪馬台国=卑弥呼=女王=女王國ではありません。
もう1度簡単魏志倭人伝を見ていただきますとぅ〜


どの國にも「官」はいるが「王」は居ない。
王が居るのはの女王國に属していない狗奴國だけです。
これはにあるように倭国が乱れた後に卑弥呼をたてて王としたのです。

結論として鬼道を行う卑弥呼は邪馬台国在住で、周りの國全ての王として女王國を治めていたと思われます。

邪馬台国もその周辺の國も全てが集まっての女王國なんですね。

この際、北部九州一帯を女王國と言っても過言ではないかと思えます。
爆弾発言だもんねぇ〜笑

国語能力と感情移入の勝利は近いぃ〜笑


ではでは〜またまた〜


   A  倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑舊百余國
 
・・・・・・・・・・変換するの面倒だわぁ〜以下省略〜〜〜
 
    倭人は帯方の東南大海の中にあって山や島に居て百余国あるってぇ〜
 
 
‖喨郡より倭に至るには循海岸水行(海岸に沿って水行)韓国をへて南し東し、その北岸、狗邪韓国に至る七千余里
    (中国の帯方郡から南や東にクネクネ、船で韓国の狗邪韓国至るは七千余里)
 
⊇蕕瓩動豎い鯏呂襪海叛虱称ぁ對海國に至る
    大官は、卑狗、千余戸
    以下、絶海だとか険しいだとか森林が多いとか田の状態や道路や海産物を食べてる等の説明〜
K南に一海を渡ること千余里、一大國に至る
    官は、亦卑狗、家は三千ばかり
    以下、△隼たように詳しい説明文〜
に一海を渡ること千余里、末ら國に至る(「ら」が変換できないおバカなパソコン〜)
    官の名前は書いていません
    四千余戸有り
    以下、草木が茂って前が見えないとか、好んでお魚を潜って採ってるとかの説明文〜
ヅ貽遒里た陸行五百里、伊都國に至る
    官は、に支(「に」が変換できないぃ〜)
    千余戸
    説明文は徐々に短くなって〜
    皆、女王國に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり、って程度
ε貽遏奴國に至る百里
    官は、じまこ(変換する気になれないぃ〜)
    二万余戸
    ほぼ、説明無しぃ〜
東行、不彌國に至る百里
    官は、多模
           千余戸
南のかた、投馬國に至る水行二十日
    官は彌彌
    五万余戸
南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月
    官は伊支馬
    七万余戸
女王國より以北は戸数、道里は得て略載
  その余の某國は遠絶にて得て詳らかにすべからず
次に・・・・・・・・・・・
  いっぱい〜
  21個の国名を列記しています
  最後に書かれている国名はΔ能颪れている奴國。
  此れ女王の境界尽くる所なり
その南、狗奴國有り、男子を王となす
  官は狗古智卑狗
  女王に属せず
郡より女王國に至る萬二千余里
以下風俗・物産・気候や生活様式など説明い〜っぱい
倭國が乱れたのちに卑弥呼をたてて王となす
  鬼道に事え、能く衆を惑わす
綾王國の東海を渡る千余里また國あり皆倭種なり
韻泙塵夕國ありその南にあり女王を去る四千余里
架舖◆黒歯國ありまたその東南にあり
  船行一年にして至るべし
  海中洲島の上に絶在しあるいは絶えあるいは連なり周施五千余里ばかり
 
ここからは今は省略〜


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魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く〜v(^0^)/

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こんにちは〜

まだ飽きもせずにやってま〜す。

先程アップしましたように、末ら國では詳しく解説されている風土・物産も伊都國では解説が短く、奴國や不彌國では解説が無くなっています。
この文章から筆者はこれ以降の行程を何処を中心に語っているものか、分かりにくくなってます。

不彌國からは〜
┐瞭遒里た投馬國に至る水行二十日
の南、邪馬壱國(邪馬台国)に至る水行十日陸行一月
に文章はつながるのですがぁ〜

これが末ら國以降の何処を視点に言ってるものだかぁ〜?


それに、の邪馬台国の所では〜
0 水行十日 or 陸行一月なのか
0 水行十日&陸行一月なのか

これも不明で〜す。

しかしぃ〜

この視点問題です。

それからの行程ですが〜

水行十日とすれば邪馬台国は海岸近くに位置することになりますよね。
陸行一月とすれば、海岸部または内陸部の両方が考えられます。
そしてぇ〜
水行十日&陸行一月とするならばぁ〜
当然内陸部ですね。
海岸部なら島国のこと、そのまんま船で行っちゃえば良いもん。

畿内で言うと奈良盆地、九州で言うと阿蘇山のカルデラ盆地かな。

でもぅ〜
畿内説を取ったらその後の行程も成り立ちません。

それにぃ〜
邪馬台国が阿蘇山のカルデラってのも没〜
またアップしますけど、産物からも暖かい海岸にも近い平和な農村な感じ。

結果的には水行十日または陸行一月と考えるのが妥当な線です。

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それから文章はにあるように邪馬台国の周りのたくさんの國。
そして邪馬台国の南に位置する女王に属さない國のお話になっています。

これで邪馬台国を取り巻く一応の國の説明が終わりぃ〜

次にの生活様式や機構なんかを詳しく書いてくれています。


そう、魏志倭人伝はまず、邪馬台国への行程と周囲の人口や産物を後世に残すものです。
その裏には友好か占領かです。
そのためには行程と人口と産物は重要だったでしょう〜

そしてぇ〜

文章構成としてはぁ〜

0まず行程と邪馬台国に行くまでの國の人口(抵抗されるかもだもんねぇ〜戦力調査と一緒)
01つの締めくくりとして
 郡より女王國に至る萬二千余里
0女王國の産物や風土

って構成になってるんです。

このの締めくくりが重要。
帯方郡から女王國までが一万二千余里って事です。

ここで引き算をしてみましょう〜

帯方郡から韓国の南まで七千里
対馬まで千里
壱岐まで千里
九州北岸まで千里

12000−7000−1000−1000−1000=2000里

伊都國からの計算だと
2000−500=1500里

不彌國からだと1300里

そうなんですねぇ〜
九州北岸から2000里以内の所だってちゃんと書いてくれています。


それに一致する平野部は佐賀県・熊本県で〜す。
ハイ〜

そう考えると投馬國は宮崎か天草あたりぃ〜

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haru3343haru3343  at 13:05コメント(8)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

魏志倭人伝から邪馬台国を読み解くぅ〜v(^0^)/

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おはようございま〜す。

おかたいお話が続いておりま〜す。
みなさま肩の力を抜いてお楽しみ下さいねぇ〜
絵文字がうまく入らないみたいなのですみません〜

さてさて〜

昨日アップしましたようにぃ〜
魏志倭人伝に無理なく解釈いたしましてぇ〜

末ら國と伊都國の想定地に行きつけました。

この想定地、現地の松浦と糸島には相応の弥生時代後期の遺跡や墳墓がありますのでぇ〜
お近くにお住まいの方は見に行っても面白いですよね。

これらの墳墓から出土しております後漢鏡ですが。
その中には卑弥呼の鏡が混じっていることでしょう。
そういう目でもう一度博物館見学すると夢が有って楽しいですよ。

卑弥呼が魏からもらった鏡。
100枚だと記述されているのですが・・・・・・
一種類だとは書かれていませんのでぇ〜
その点では今の研究者の方々もよく考えていただきたいものです。

梱包の都合上似たサイズが好ましいでしょうが、倭國を下げずんで対応していた当時です。
綺麗にそろった鏡とは言い切れません〜

さてさて〜

末ら國から伊都國までが約五百里ですよね。
続きました奴國までが東南百里。
そして不彌國までが東南百里

上のお写真で東南百里と言いますと、福岡市西区あたりになっちゃうのですがぁ〜
次の不彌國が戸数千戸と奴國の二万戸と比較しますと〜比較的小規模です。
写真では西区、東区に〇を付けていますが、この場合〜

福岡市平野部一体を奴國と想定したほうがよろしいかと思います。
そしてぇ〜
金印で有名な志賀島に向かう海の中道をはさんで北九州川の小平野部を不彌國と想定するのが人口の大きさから言っても妥当だと思われます。


福岡市平野部には数多くの弥生時代遺跡が発掘されています。
当時は環濠集落の時代、二万戸が一気な環濠集落はとてもとてもでしょう〜
各環濠集落には集落長が居て、集落が集まって一つの國を形成していたと考えるのが妥当と思えます。
そしてこの「國を形成している手段」が邪馬台国を考えるにいたっては重要な事の一つになってきます。


また、魏志倭人伝を読むにつれぇ〜
末ら國ではじっくりと風物を解説しているのに、伊都國ではわずかしか解説されていません。
奴國に至ってはまったくです。

ここからは国語や心理学の領域かもですがぁ〜
松ら國から先に行ってるんでしょうかねぇ〜
ひょっとすると後のは聞いて書いたのかもしれませんねぇ〜

これは次で問題になってきますぅ〜


ではでは〜


 A  倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑舊百余國
 
・・・・・・・・・・変換するの面倒だわぁ〜以下省略〜〜〜
 
    倭人は帯方の東南大海の中にあって山や島に居て百余国あるってぇ〜
 
 
‖喨郡より倭に至るには循海岸水行(海岸に沿って水行)韓国をへて南し東し、その北岸、狗邪韓国に至る七千余里
    (中国の帯方郡から南や東にクネクネ、船で韓国の狗邪韓国至るは七千余里)
 
⊇蕕瓩動豎い鯏呂襪海叛虱称ぁ對海國に至る
    大官は、卑狗、千余戸
    以下、絶海だとか険しいだとか森林が多いとか田の状態や道路や海産物を食べてる等の説明〜

K南に一海を渡ること千余里、一大國に至る
    官は、亦卑狗、家は三千ばかり
    以下、△隼たように詳しい説明文〜

に一海を渡ること千余里、末ら國に至る(「ら」が変換できないおバカなパソコン〜)
    官の名前は書いていません
    四千余戸有り
    以下、草木が茂って前が見えないとか、好んでお魚を潜って採ってるとかの説明文〜

ヅ貽遒里た陸行五百里、伊都國に至る
    官は、に支(「に」が変換できないぃ〜)
    千余戸
    説明文は徐々に短くなって〜
    皆、女王國に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり、って程度

ε貽遏奴國に至る百里
    官は、じまこ(変換する気になれないぃ〜)
    二万余戸
    ほぼ、説明無しぃ〜

東行、不彌國に至る百里
    官は、多模
           千余戸

南のかた、投馬國に至る水行二十日
    官は彌彌
    五万余戸

南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月
    官は伊支馬
    七万余戸

女王國より以北は戸数、道里は得て略載
  その余の某國は遠絶にて得て詳らかにすべからず

次に・・・・・・・・・・・
  いっぱい〜
  21個の国名を列記しています
  最後に書かれている国名はΔ能颪れている奴國。
  此れ女王の境界尽くる所なり

その南、狗奴國有り、男子を王となす
  官は狗古智卑狗
  女王に属せず

郡より女王國に至る萬二千余里

以下風俗・物産・気候や生活様式など説明い〜っぱい

倭國が乱れたのちに卑弥呼をたてて王となす
  鬼道に事え、能く衆を惑わす

綾王國の東海を渡る千余里また國あり皆倭種なり

韻泙塵夕國ありその南にあり女王を去る四千余里

架舖◆黒歯國ありまたその東南にあり
  船行一年にして至るべし
  海中洲島の上に絶在しあるいは絶えあるいは連なり周施五千余里ばかり
 
ここからは今は省略〜

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魏志倭人伝を読むぅ〜v(^0^)/

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こんにちは〜
ちょっと難しいお話でごめんなさいぃ〜

ちなみにぃ〜
魏志倭人伝で記載されてる方向は松浦半島までは南なんだけど、大体正しいですよね。

距離は韓国から対馬も壱岐も全部千余里なんですが。
壱岐から九州北岸の松浦半島まではちょっと短いですよね。

距離ってのは方角に比べて測定しにくいですもんね。
どうしても大体の距離になってしまっている様子です。


ところで九州説ですがぁ〜
こういう手法で読んでいきますと意外とぴったりあてはまっちゃうのよねぇ〜

前の記事のイ僚蠅任А

末ら國から陸行、南東五百里。

南東にまっすぐ五百里行っちゃうとぅ〜
山にぶつかるぅ〜

ここらへんが九州説の1つの弱みかもしれませんね。

しかし、魏志倭人伝の目的は何でしょうか?
そうそう〜
大陸から邪馬台国までの行程とその人口や産物が一番の重要項目ですね。
重要な所はきっちり書いてるものですよぅ〜

い僚蠅覗靆擇茂って前を行く人も見えないとあるのですが。
こういう場合みんなならどういう風に道を教えるでしょう?

下のお写真のようにぃ〜

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松浦の弥生後期の遺跡と糸島半島の遺跡を召靴泙靴拭
末ら國と伊都國の想定地です。

後から来る人に対して海にぶつかっちゃう方向を教えるでしょうか。
それは無いですよね。
特に草木がおいしげっていて前が見えないんだもん。
こんな方向教えたら怒られちゃうよ。

そうそう〜
この魏志倭人伝はナビと一緒なんですね。

「東南方向に獣道を道なりに五百里」なんです。

道なりだから途中で方向変わっちゃってもちゃんと到着するの。
ちゃんと松浦湾を迂回するコースを書いてるんですねぇ〜

問題1個クリアー

ではでは、またまたぁ〜


haru3343haru3343  at 13:17コメント(8)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

理論考古学の勧め、畿内説の真偽を問う〜v(^0^)/

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おはようございま〜す。

さてさてぇ〜
魏志倭人伝の続きですがぁ〜
下↓の頑張って書いたの参照してくださいねぇ〜


今日は行程のイ帽圓海Δと思ったのですがぁ〜
最終的に畿内説か九州説かを先に書いておくと便利かなぁ〜って思いましてぇ〜

haruさん地方も畿内ですもんねぇ〜
できれば畿内に軍配をあげたいもんねぇ〜

最近の発掘成果によって畿内説は有力視されております。
箸墓古墳が卑弥呼のお墓だってうわさですねぇ。


ではでは〜
ぼつぼつぅ〜


邪馬台国が畿内、奈良県に存在していたとすればぁ〜

魏志倭人伝ではい痢嵋ら國」以降東にに行くって書いているのはわかるけど、それ以降も南って書いてるはを間違いとして、できるだけ東に行かなくっちゃです。
次にで女王國の北の國は戸数、里数を書けるってありますがぁ、これでは女王國より北に位置しているのは7つばかりの國ですしぃ〜
東を南と誤って記述されているのなら西が北になっちゃうわけであります。

ならば、奈良県以西、西日本はみんな北です。
そして西日本に当時7つしか國が無かったっていうのは現在の発掘成果から考えても矛盾いたします。

最初の文章では倭人は百余國って書いてるんだもんね。
これじゃあ奈良県より西には7個、東に90個以上の國の配分になっちゃうのだ。

そしてぇ〜
この魏志倭人伝には気候や風物などが記載されているが、奈良県から西が北ならば、何故、当時の大陸には珍しい「阿蘇山」や「桜島」などの活火山が記述されていないのか?
奈良県以西を詳しく書くならば火山や四国の記載が有っても不思議ではない。
って言うか記載しないと奈良県自体を特定しにくく、魏志倭人伝の意味がなくなってしまう。

また、南北はさておき、太陽が昇ってくる東を間違うだろうか?
少なくとも魏志倭人伝を書いた人物ないしその資料を作成した人物は命がけで正確に書こうとしてるんだから。


ついでぇ〜
卑弥呼の鏡だと説のある「三角縁神獣鏡」大陸では発見されておらず、日本ではもう100枚を超えていますよね。
それで「魏」が邪馬台国のために特別に作ったとも言われています。

でも、魏志倭人伝を読む限りでは倭の國や人の事を「奴」「卑」「邪」などと言う字で表しています。
自分たちより下げずんだ表現をしているくらいなのに、邪馬台国に媚びへつらい新しい鏡の鋳型を作ったとは思えません。
きっと「魏」は滅ぼした「漢」の鏡でも送っとけぇ〜だとおもいます。
近世においても探検家は原住民の喜ぶビーズなんかの安物を携えていたのです。
けっして原住民のために豪華な宝石のネックレスを持って行ったわけじゃあありません。


次に卑弥呼のお墓に関する記述もあるのですが。
卑弥呼のお墓は「冢」(ちょう)と記載されています。
冢とは盛り土したお墓を示し、決して箸墓のような古墳ではありません。



これらの事象から、魏志倭人伝に記載されている邪馬台国が奈良県に有ったとすると、魏志倭人伝は矛盾だらけの嘘だらけになっちゃいます。

結論としては〜

邪馬台国は奈良県大和ではないと言わざるを得ないです。

きっと先日書いたようにぃ〜
北部九州からはみ出したり、新天地を求めたりして神話のルートをたどりいくつもの集団がここ大和に定着、ほぼ同時期に初期国家を形成していたものと考える方が確率的にもより論理的かと思いますぅ〜


次は九州説の真偽だよねぇ〜

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   A  倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑舊百余國
 
・・・・・・・・・・変換するの面倒だわぁ〜以下省略〜〜〜
 
    倭人は帯方の東南大海の中にあって山や島に居て百余国あるってぇ〜
 
 
‖喨郡より倭に至るには循海岸水行(海岸に沿って水行)韓国をへて南し東し、その北岸、狗邪韓国に至る七千余里
    (中国の帯方郡から南や東にクネクネ、船で韓国の狗邪韓国至るは七千余里)
 
⊇蕕瓩動豎い鯏呂襪海叛虱称ぁ對海國に至る
    大官は、卑狗、千余戸
    以下、絶海だとか険しいだとか森林が多いとか田の状態や道路や海産物を食べてる等の説明〜

K南に一海を渡ること千余里、一大國に至る
    官は、亦卑狗、家は三千ばかり
    以下、△隼たように詳しい説明文〜

に一海を渡ること千余里、末ら國に至る(「ら」が変換できないおバカなパソコン〜)
    官の名前は書いていません
    四千余戸有り
    以下、草木が茂って前が見えないとか、好んでお魚を潜って採ってるとかの説明文〜

ヅ貽遒里た陸行五百里、伊都國に至る
    官は、に支(「に」が変換できないぃ〜)
    千余戸
    説明文は徐々に短くなって〜
    皆、女王國に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり、って程度

ε貽遏奴國に至る百里
    官は、じまこ(変換する気になれないぃ〜)
    二万余戸
    ほぼ、説明無しぃ〜

東行、不彌國に至る百里
    官は、多模
           千余戸

南のかた、投馬國に至る水行二十日
    官は彌彌
    五万余戸

南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月
    官は伊支馬
    七万余戸

女王國より以北は戸数、道里は得て略載
  その余の某國は遠絶にて得て詳らかにすべからず

次に・・・・・・・・・・・
  いっぱい〜
  21個の国名を列記しています
  最後に書かれている国名はΔ能颪れている奴國。
  此れ女王の境界尽くる所なり

その南、狗奴國有り、男子を王となす
  官は狗古智卑狗
  女王に属せず

郡より女王國に至る萬二千余里

以下風俗・物産・気候や生活様式など説明い〜っぱい

倭國が乱れたのちに卑弥呼をたてて王となす
  鬼道に事え、能く衆を惑わす

綾王國の東海を渡る千余里また國あり皆倭種なり

韻泙塵夕國ありその南にあり女王を去る四千余里

架舖◆黒歯國ありまたその東南にあり
  船行一年にして至るべし
  海中洲島の上に絶在しあるいは絶えあるいは連なり周施五千余里ばかり
 
ここからは今は省略〜
 
 
 


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