2010年01月29日
交渉力
色々と関係当事者の利害が対立する事が多いせいか、交渉をしなければならない局面がわりと多い。
自分が交渉に携わるまで、交渉という事のイメージはどちらかというと攻撃的なもので、相手を上手くいいくるめる表現方法みたいに捉えていた。
少ないながら経験を積んでみて、“聞き上手”である事が交渉上非常に大切だと感じている。
交渉がどの程度成功したかは、最終的な条件が、どれだけ相手の許容範囲内の下限に近いかという事かと思う。
だから、話をしながら、相手はここまでなら呑むつもりだという事が察知できれば交渉は成功に持ち込める。
ただ、本当に成功といえる交渉は、こちらにとって良い条件を引き出しただけでなく、かつ、相手に納得感を持たせることだと思う。そういう意味で、交渉相手に、当方も最大限の努力をしているという事を知らしめる表現力も必要になる。
聞く力、表現する力、どちらも大事だが、相手の言葉の真意を捉えるという事が、非常に大切だという事を実感した。
自分が交渉に携わるまで、交渉という事のイメージはどちらかというと攻撃的なもので、相手を上手くいいくるめる表現方法みたいに捉えていた。
少ないながら経験を積んでみて、“聞き上手”である事が交渉上非常に大切だと感じている。
交渉がどの程度成功したかは、最終的な条件が、どれだけ相手の許容範囲内の下限に近いかという事かと思う。
だから、話をしながら、相手はここまでなら呑むつもりだという事が察知できれば交渉は成功に持ち込める。
ただ、本当に成功といえる交渉は、こちらにとって良い条件を引き出しただけでなく、かつ、相手に納得感を持たせることだと思う。そういう意味で、交渉相手に、当方も最大限の努力をしているという事を知らしめる表現力も必要になる。
聞く力、表現する力、どちらも大事だが、相手の言葉の真意を捉えるという事が、非常に大切だという事を実感した。
2010年01月28日
証券アナリスト(CMA)/CFA
以前少しだけ、マーケット関係の仕事にいた時に勉強して、面白かったので証券投資論や経済学を再開しようと思った。
これも漫然とやっていても良くないので、証券アナリストとCFAの合格を目指しながらがんばりたい。
まずは、証券アナリスト1次の証券分析とポートフォリオマネジメントと財務分析は前に受かったので、経済を受けて、2次の合格へ望みたい。
単に合格するだけでなく、苦手な数学の勉強をしつつ、数学的なアプローチで根本から理解できるように努める予定。
「例題で学ぶ入門・経済学<上・下>」で経済学を復習。
例題で学ぶ入門・経済数学〈上〉
著者:エドワード・T. ドウリング
販売元:シーエーピー出版
発売日:1995-12
おすすめ度:
クチコミを見る
2010年01月27日
ゆとり?
上司から直接指示を受けた仕事以外に外部から舞い込んで来る仕事を、自分は極力自分で捌いていて、時にはこれを自分だけでやっていいのかと不安になりつつも、自分のキャリア形成のためにと思いこなしてきた。
本当は良くないのかもしれないけど、事前に報告したら他のシニアに振られそうな仕事は自分で処理してから事後報告したりもする。
幸い、そういう事はむしろ認めてくれる上司なので軋轢なんかは出たことない。これは置かれている環境に感謝しなくてはいけないと思う。
こういったスタンスが良いかどうかは分からないが、少なくともそうしてきたおかげで成長できた部分は大きいと最近実感している。
しかし、みんながみんなそう動いている訳ではないし、殊に自分よりさらに若い世代はそういう価値観ではないのかもしれない。
最近、自分の少し年下の人間と仕事でからむ場面が出てきた。社会人になって以来、かなり上の年代の人ばかりと接してきたのでとまどう事が多い。
仕事は極力上に振ろうとするし、自分が「あの件どうするつもり?」と聞かないと動かず、さらには「どうしたらいいですか?」と指示を仰ごうとする。
どうしたらいいかを考えるのが“仕事”で、指示通り動くのは“作業”でしかない。
たった一人の対象なので、世代のせいか、個人の問題か分からないけど、最近よく聞くゆとり世代はこんな感じなのかと思うと、大量に新卒をとる大手企業の係長、課長なんかはしばらく大変なのかなと思った。
本当は良くないのかもしれないけど、事前に報告したら他のシニアに振られそうな仕事は自分で処理してから事後報告したりもする。
幸い、そういう事はむしろ認めてくれる上司なので軋轢なんかは出たことない。これは置かれている環境に感謝しなくてはいけないと思う。
こういったスタンスが良いかどうかは分からないが、少なくともそうしてきたおかげで成長できた部分は大きいと最近実感している。
しかし、みんながみんなそう動いている訳ではないし、殊に自分よりさらに若い世代はそういう価値観ではないのかもしれない。
最近、自分の少し年下の人間と仕事でからむ場面が出てきた。社会人になって以来、かなり上の年代の人ばかりと接してきたのでとまどう事が多い。
仕事は極力上に振ろうとするし、自分が「あの件どうするつもり?」と聞かないと動かず、さらには「どうしたらいいですか?」と指示を仰ごうとする。
どうしたらいいかを考えるのが“仕事”で、指示通り動くのは“作業”でしかない。
たった一人の対象なので、世代のせいか、個人の問題か分からないけど、最近よく聞くゆとり世代はこんな感じなのかと思うと、大量に新卒をとる大手企業の係長、課長なんかはしばらく大変なのかなと思った。
2010年01月26日
USCPA
USCPAの勉強を始めることにした。
その時興味を持ったものに手当たり次第手を出すのも良くない気がしてきたのと、後に残る物が欲しいため。
会計の知識がある程度あるので、今年中に4科目一回で受かるのを取り敢えずの目標にする。
その時興味を持ったものに手当たり次第手を出すのも良くない気がしてきたのと、後に残る物が欲しいため。
会計の知識がある程度あるので、今年中に4科目一回で受かるのを取り敢えずの目標にする。
2008年12月09日
問題のあるM&A仲介手数料
今は、M&Aを業としている会社はかなりの数があり、うちのファンドも多くの会社とのお付き合いがあります。M&A業務は大きく、M&Aアドバイザリー業務とM&A仲介業務に分けられ両者は似て非なるものです。比較的大き目のファームや投資銀行などはM&Aアドバイザリー業務を行なっており、小さめのファームなどではM&A仲介業務を行なっている様です。
M&Aアドバイザーは買い手か売り手の立場になり代理人となって交渉などを進めます。一方でM&Aの仲介会社はアドバイザーが出来る程のリソースがない、若しくは扱う案件規模が小さくアドバイザリーを立てる必要がないといった理由からマッチングのみを行います。売り手に買い手を紹介し、文字通り仲介屋となります。
両者は手数料のとり方が大きく違います。
アドバイザーは売り手についた場合は売り手から、買い手についた場合は買い手から手数料を受領します。一方で仲介業者はマッチングをしたことに対する報酬を受けるので、売り手と買い手両者から受領する場合が多い様です。
アドバイザーの手数料は、(売り手の場合)アドバイザーが高く売るインセンティブが発生するように売買金額に比例して大きくなる場合が大半の様です。レーマン方式と呼ばれる料率設定が主流です(手数料率の交渉時に“リーマン方式”と呼んでいる人に何人か会った事があります。こっちも合わせてリーマン方式と言うべきか、自分は自分としてレーマン方式と言うべきか、いつも少し迷います。)
問題なのは、この流れを受けて仲介会社もレーマン方式をとって、手数料を売買金額に応じて大きくなる様設定している会社が結構あるという事です。レーマン方式で買い手と売り手両方から取るなどという事は欧米ではあり得ないと聞きます。これは利益相反の問題が生じるからです。
この前案件を持ってきたM&A会社も仲介なのにレーマンのテーブルを出してきました。買い手からするとよく買い手に対してレーマンのテーブルが提示できるなという気持ちになります。結局ギリギリまで料率を下げた案を出して、これで駄目なら案件もいらないというスタンスで交渉して金額的には許容範囲内に抑えたのですが、悔しい事にレーマンでなく一律料金にする事は出来ませんでした。これは問題だと思います。
売り手は高く売りたい、買い手は安く買いたい、この相反する両者の立場に立つにもかかわらず、価格に比例した料率設定をするという事がまかり通っているという事実が、日本におけるM&A市場がまだまだ未発達である事を物語っているような気がします。
M&Aアドバイザーは買い手か売り手の立場になり代理人となって交渉などを進めます。一方でM&Aの仲介会社はアドバイザーが出来る程のリソースがない、若しくは扱う案件規模が小さくアドバイザリーを立てる必要がないといった理由からマッチングのみを行います。売り手に買い手を紹介し、文字通り仲介屋となります。
両者は手数料のとり方が大きく違います。
アドバイザーは売り手についた場合は売り手から、買い手についた場合は買い手から手数料を受領します。一方で仲介業者はマッチングをしたことに対する報酬を受けるので、売り手と買い手両者から受領する場合が多い様です。
アドバイザーの手数料は、(売り手の場合)アドバイザーが高く売るインセンティブが発生するように売買金額に比例して大きくなる場合が大半の様です。レーマン方式と呼ばれる料率設定が主流です(手数料率の交渉時に“リーマン方式”と呼んでいる人に何人か会った事があります。こっちも合わせてリーマン方式と言うべきか、自分は自分としてレーマン方式と言うべきか、いつも少し迷います。)
問題なのは、この流れを受けて仲介会社もレーマン方式をとって、手数料を売買金額に応じて大きくなる様設定している会社が結構あるという事です。レーマン方式で買い手と売り手両方から取るなどという事は欧米ではあり得ないと聞きます。これは利益相反の問題が生じるからです。
この前案件を持ってきたM&A会社も仲介なのにレーマンのテーブルを出してきました。買い手からするとよく買い手に対してレーマンのテーブルが提示できるなという気持ちになります。結局ギリギリまで料率を下げた案を出して、これで駄目なら案件もいらないというスタンスで交渉して金額的には許容範囲内に抑えたのですが、悔しい事にレーマンでなく一律料金にする事は出来ませんでした。これは問題だと思います。
売り手は高く売りたい、買い手は安く買いたい、この相反する両者の立場に立つにもかかわらず、価格に比例した料率設定をするという事がまかり通っているという事実が、日本におけるM&A市場がまだまだ未発達である事を物語っているような気がします。
2008年12月02日
ペーパーカンパニー
先日、不動産ファンドによる買収案件のドキュメンタリー番組が放送されていました。買収される建物で働く人達が番組に出てきており、買い手は一切顔出さず、水面下で売り手との交渉をまとめているというものでした。
建物内の飲食店等で働く人々が、不動産ファンドのせいで不安にかられる日々を過ごすといった流れで、若干一方的な感じはあったのですがリアリティがあってとても面白かったです。
番組スタッフが当該不動産についての調査を進めると、不動産の所有者がとある法人であり、おそらくその法人はペーパーカンパニーであるという事が分かりました。
この“ペーパーカンパニーが不動産の保有者になっている”という事を大げさに扱っている事に違和感を感じました。“ペーパーカンパニーを使う”=“何かオープンに出来ないような事をしている”といったニュアンスで演出されていたためです。
本件でファンドがペーパーカンパニーを使うのは(通常SPCと表現しますが)、ただ単にレバレッジを効かせるためだと思います。不動産ファンドやバイアウトファンドは通常、投資を行うときにはレバレッジを活用しますので、SPCを作って投資を行います。疚しい事がある訳ではなく、効率的な資金運用を行っているだけです。
確かに自分の仕事の表面だけを文章にすると
「受け皿になる特別会社(SPC)を作って、そこにファンドと一般的に呼ばれる投資事業有限責任組合からのお金と金融機関からの借入資金を入れて、SPCが投資先の株式を保有し、その後場合によってはSPCと投資先を合併させて、その後シナジーがありそうな先とのM&Aで売却する」
といった感じになるので、これをだけ見ると怪しげだと言うのも分からなくはないのですが、恐らくそう捉えられるのはそれぞれの行動の意味やとる理由が分からないためだと思われます。
一つ一つの行動には意味があって、効率的であるからとっているものです。何かをごまかそうとしている訳ではないのですが、ごまかす道具として使われた事例がマスコミに随分取り上げられたためにイメージが悪くなってしまった様です。
人間分からない物を怖いと思うのは本能なので仕方ないですが、実態を見極める力は大切だと感じました。
建物内の飲食店等で働く人々が、不動産ファンドのせいで不安にかられる日々を過ごすといった流れで、若干一方的な感じはあったのですがリアリティがあってとても面白かったです。
番組スタッフが当該不動産についての調査を進めると、不動産の所有者がとある法人であり、おそらくその法人はペーパーカンパニーであるという事が分かりました。
この“ペーパーカンパニーが不動産の保有者になっている”という事を大げさに扱っている事に違和感を感じました。“ペーパーカンパニーを使う”=“何かオープンに出来ないような事をしている”といったニュアンスで演出されていたためです。
本件でファンドがペーパーカンパニーを使うのは(通常SPCと表現しますが)、ただ単にレバレッジを効かせるためだと思います。不動産ファンドやバイアウトファンドは通常、投資を行うときにはレバレッジを活用しますので、SPCを作って投資を行います。疚しい事がある訳ではなく、効率的な資金運用を行っているだけです。
確かに自分の仕事の表面だけを文章にすると
「受け皿になる特別会社(SPC)を作って、そこにファンドと一般的に呼ばれる投資事業有限責任組合からのお金と金融機関からの借入資金を入れて、SPCが投資先の株式を保有し、その後場合によってはSPCと投資先を合併させて、その後シナジーがありそうな先とのM&Aで売却する」
といった感じになるので、これをだけ見ると怪しげだと言うのも分からなくはないのですが、恐らくそう捉えられるのはそれぞれの行動の意味やとる理由が分からないためだと思われます。
一つ一つの行動には意味があって、効率的であるからとっているものです。何かをごまかそうとしている訳ではないのですが、ごまかす道具として使われた事例がマスコミに随分取り上げられたためにイメージが悪くなってしまった様です。
人間分からない物を怖いと思うのは本能なので仕方ないですが、実態を見極める力は大切だと感じました。
2008年11月27日
相手の立場になる
この仕事に就いてから、一つの事を色々な立場になって考えたり、話したりする事がとても多い。
一つの案件にしても、ファンドの出資者、投資先、案件を持ってきてくれるM&A仲介業者等、皆思惑はばらばらである。ばらばらどころか相反する事さえ多くある。
勿論、嘘をつくわけではない。それぞれのニーズを酌む必要がある。そこを調整する事がファンドの仕事の一つだと思う。
センシティブな話が多いので、同じ事を言うにも表現を変える必要がある事も多々ある。
例えば、普段は買収ファンドとして活動しているが、投資候補先の会社と話をする時は“買収”といった表現はあまり使わず、“ご出資させていただく”などと言う。
大企業の買収案件などでは経済合理性に対する寄与度が大きいのだろうが、案件規模が小さくなればなるほどこのあたりは難しくなってくる。ニュアンス一つで関係性は大きく変わってしまう。
この様な事が出来るかどうかは、“相手の立場に立って、考える事が出来るかどうか”にかかっていると思う。相手の置かれている状況を考えて、ニーズに応える事を積み上げる事が何より大切だと思う。
世間で言われているよりも、買収やM&Aといった仕事は人間臭いものだと思う。
一つの案件にしても、ファンドの出資者、投資先、案件を持ってきてくれるM&A仲介業者等、皆思惑はばらばらである。ばらばらどころか相反する事さえ多くある。
勿論、嘘をつくわけではない。それぞれのニーズを酌む必要がある。そこを調整する事がファンドの仕事の一つだと思う。
センシティブな話が多いので、同じ事を言うにも表現を変える必要がある事も多々ある。
例えば、普段は買収ファンドとして活動しているが、投資候補先の会社と話をする時は“買収”といった表現はあまり使わず、“ご出資させていただく”などと言う。
大企業の買収案件などでは経済合理性に対する寄与度が大きいのだろうが、案件規模が小さくなればなるほどこのあたりは難しくなってくる。ニュアンス一つで関係性は大きく変わってしまう。
この様な事が出来るかどうかは、“相手の立場に立って、考える事が出来るかどうか”にかかっていると思う。相手の置かれている状況を考えて、ニーズに応える事を積み上げる事が何より大切だと思う。
世間で言われているよりも、買収やM&Aといった仕事は人間臭いものだと思う。
2008年11月20日
存在意義
今日はファンドの出資者(LP)とのミーティングがあった。
現状とてもいい関係性が築けている。
ファンドの出資者はLimited Partnership(LP)と呼ばれ、ファンドを運用する会社はGeneral Partnership(GP)と呼ばれる。和訳するとLPは有限責任組合意で、GPは無限責任組合員。
僕はGPの立場で働いている。LPとGPが補完関係にあるというのがファンドとして理想的な状態だと思っている。
ファンドは何のためにリターンをあげるのか、という議論はよくある。色々な意見があるが、ファンドとして働く者としては、当然リターンはLPのためにあげ、GP会社の社員はLPのために働くと考える。
LPがいなければ仕事が出来ないし、LPはリスクを負って、GPを信頼してお金を出してくれているのでそれに応える当然の義務があると思う。
投資先に頻繁に顔を出す、うちの様なハンズオン型の投資を行うファンドだと、「投資先のために」という気持ちは強く持っている。とても重要な事で、リターンの源泉の一つには違いないのだが、もし仮に投資先とLP、どちらかを優先させなければならないという究極の選択をしなければならない場合、GPとしてはLPの利益を最優先に考えなければならない。
ファンドやGPは“LPのために”存在しているから。一時の情に流されず、常にこの考えをぶれずに持ち続ける事がこの世界で生き残る上でとても大切な事だと思う。
現状とてもいい関係性が築けている。
ファンドの出資者はLimited Partnership(LP)と呼ばれ、ファンドを運用する会社はGeneral Partnership(GP)と呼ばれる。和訳するとLPは有限責任組合意で、GPは無限責任組合員。
僕はGPの立場で働いている。LPとGPが補完関係にあるというのがファンドとして理想的な状態だと思っている。
ファンドは何のためにリターンをあげるのか、という議論はよくある。色々な意見があるが、ファンドとして働く者としては、当然リターンはLPのためにあげ、GP会社の社員はLPのために働くと考える。
LPがいなければ仕事が出来ないし、LPはリスクを負って、GPを信頼してお金を出してくれているのでそれに応える当然の義務があると思う。
投資先に頻繁に顔を出す、うちの様なハンズオン型の投資を行うファンドだと、「投資先のために」という気持ちは強く持っている。とても重要な事で、リターンの源泉の一つには違いないのだが、もし仮に投資先とLP、どちらかを優先させなければならないという究極の選択をしなければならない場合、GPとしてはLPの利益を最優先に考えなければならない。
ファンドやGPは“LPのために”存在しているから。一時の情に流されず、常にこの考えをぶれずに持ち続ける事がこの世界で生き残る上でとても大切な事だと思う。
2008年05月19日
企業価値向上か早期売却か
ファンドの成績はIRR(内部収益率)で測られるのが一般的です。投資金額とリターンを年率換算するわけです。そのため、売却金額が投資金額になったとしても、投資から売却までの期間が、2年間なのか3年間なのかでは全然成績が違ってくるのです。具体的には2年間で売却価格が倍になった場合のIRRは41%で、3年かかると26%になってしまいます(26%はそう悪い数字ではないと思いますが)。
そこで悩ましいのが、ファンドへの出資者の利害と投資先にとっての利害とが相反するという状況が生じる事です。出資者の事を考えると、手間をかけて少しの業績改善を図るよりも、現状で早期売却を図った方がIRRは高くなるが、一方二人三脚でやってきた投資先に対しては中途半端なところで別れを告げなければなりません。
マイノリティで入っている場合などは大した問題にはならないのでしょうが、マジョリティをとるバイアウトファンドの場合はこの様な局面にぶつかる事は少なくないのではないでしょうか。
ファンドにとって最も大切なのは出資者へリターンを返す事なので、結局は迷う事なく、早期売却という選択肢を選ぶことになるのですが、レピュテーションリスクが生じることになります。
対外的にはきれいなシナリオで売却できたといえるだけの環境は整える努力をしなければならないのです。
そこで悩ましいのが、ファンドへの出資者の利害と投資先にとっての利害とが相反するという状況が生じる事です。出資者の事を考えると、手間をかけて少しの業績改善を図るよりも、現状で早期売却を図った方がIRRは高くなるが、一方二人三脚でやってきた投資先に対しては中途半端なところで別れを告げなければなりません。
マイノリティで入っている場合などは大した問題にはならないのでしょうが、マジョリティをとるバイアウトファンドの場合はこの様な局面にぶつかる事は少なくないのではないでしょうか。
ファンドにとって最も大切なのは出資者へリターンを返す事なので、結局は迷う事なく、早期売却という選択肢を選ぶことになるのですが、レピュテーションリスクが生じることになります。
対外的にはきれいなシナリオで売却できたといえるだけの環境は整える努力をしなければならないのです。
2008年05月12日
殺人は罪(Sin)ではない
殺人はGuilty(法律的な罪)ではあるが、Sin(倫理的な罪)ではないと思う。仮にその殺人が単に欲求を満たすための快楽殺人であったとしても。
法律というルールにおいて、人は人を殺してはいけないと定めるのは複数の人間が存在する社会の秩序を守るためで、人間は各々が殺されたくないという防衛本能を持っているからである。このルールは社会秩序を守るのに大いに役立っていると思う。
では、社会秩序の観点ではなく倫理的な観点から考えた場合、人が自らの欲求を満たすために人を殺して何が悪いのだろうか。生まれつき人を殺す事に快楽を得る人間がいて、その人間が何の落ち度もない人を殺した場合、殺した方が“悪”だと言いきってしまってよいのだろうか。
何故、“人を殺したい”という欲求と“殺されたくない”という欲求を天秤にかけて、“殺されたくない”という欲求が尊重されるだろうか。遺族が悲しむからというのは理由にはならない。当人以外の人間が登場すると、それは社会秩序の問題となるからである。
我々は、食欲を満たすために動物を殺す。人間以外の生き物は殺してよいのに、人間を殺してはいけないのだろうか。倫理的な観点からは、人と人以外の動物の間に命の価値に差はないはずである。必ずしも、食べなくても生きられるはずの生き物を殺す正当な理由が“食欲を満たすため”なのであれば、“人を殺す事が快楽である人間が自らの欲求を満たすため”ということもまた正当な理由になるのではないか。
人が人を殺すということは、社会秩序の観点からは非難できるが、倫理上は非難されるべき事ではないのではないか。
法律というルールにおいて、人は人を殺してはいけないと定めるのは複数の人間が存在する社会の秩序を守るためで、人間は各々が殺されたくないという防衛本能を持っているからである。このルールは社会秩序を守るのに大いに役立っていると思う。
では、社会秩序の観点ではなく倫理的な観点から考えた場合、人が自らの欲求を満たすために人を殺して何が悪いのだろうか。生まれつき人を殺す事に快楽を得る人間がいて、その人間が何の落ち度もない人を殺した場合、殺した方が“悪”だと言いきってしまってよいのだろうか。
何故、“人を殺したい”という欲求と“殺されたくない”という欲求を天秤にかけて、“殺されたくない”という欲求が尊重されるだろうか。遺族が悲しむからというのは理由にはならない。当人以外の人間が登場すると、それは社会秩序の問題となるからである。
我々は、食欲を満たすために動物を殺す。人間以外の生き物は殺してよいのに、人間を殺してはいけないのだろうか。倫理的な観点からは、人と人以外の動物の間に命の価値に差はないはずである。必ずしも、食べなくても生きられるはずの生き物を殺す正当な理由が“食欲を満たすため”なのであれば、“人を殺す事が快楽である人間が自らの欲求を満たすため”ということもまた正当な理由になるのではないか。
人が人を殺すということは、社会秩序の観点からは非難できるが、倫理上は非難されるべき事ではないのではないか。