HaruharaPのブログ

アイマスMADを作りたい人。メインツールはParaDrawとParaFlaです。

30年前からMacユーザーの俺に言わせればですね、iPhoneなんてクソですよ
(2020/2/9)

沈黙 遠藤周作

 外出自粛なところにテレビモニタが壊れたので、ネットで情報漁ったあとは読書してネット将棋するくらいしか、やることが無い。しかし暇かといえば、やたら眠くてガッツリ8時間は睡眠時間を確保できたりしていて、わりと忙しい日々を送っております。
 で、テレビモニタが壊れる数日前、見たのがブラタモリの天草特集。私が興味を覚えたのは番組が紹介する地誌的側面より、隠れキリシタンという歴史ワードでありまして、そりゃ、wikipedia見りゃあらかたの情報を習得することはできるものの、なんとなく実感として響いてこない。ということで手に取ったのが本書。小説の感想は、きっとありきたりな物になると思うので割愛します(割愛するのかよw)。
 遠藤周作というと、かつての豚児が放送局の社長になったことくらいしか今は話題になっていないのですが(?)、私が子供のころは、雑誌や書店でよく見かけるお名前でした。でも、ブンガク最後の残党、というよりは、中学生でも笑って読めるエッセイを量産していたハゲに悩んでいたオジさん、というイメージがあります。佐藤愛子とか阿川弘之とか北杜夫なんかとの珍道中とかね、「明るい文壇」。そういうイメージがあったのですが、「はなきんデータランド」の文芸書のランキングでは、日本的宗教観に満ちた小説が常時ランキングしていたという、硬軟両面併せ持った不思議な小説家だったイメージが残ります。
 親の本棚にはそんな狐狸庵先生のエッセイ本がたくさんあったので、遠藤周作の日なた部分は経験済みなのですが、実は文学者としての闇の遠藤周作については、現代文の模擬テストに出てきたのを目にした程度、ちゃんと読んだのはもしかすると初めてかもしれない。
 とまぁ、ちょっと構えて読み始めたのですが、これが実に読みやすい。まるでシバリョーの通俗小説のような読みやすさ。歴史を題材に、かなりの取材を経て書かれた本作は、異国人の目で見た特異な日本社会を浮き彫りにしていて、しかもその「日本的沼」は今も、コロナ禍で打ちのめされている我々にずっと繋がっていると思うと、ゾッとするものがあります。そしてこの小説が50年も前に書かれていたという事実。ある種の予言書のように捉えることもでき、驚きます。
 もっとブンガク臭のする難解な小説を予想していたのですが、本当に読みやすい。歴史小説でもあり、社会批評でもありますし、「いびき」のシーンなどは恐怖すら覚えます。なるほど、上手く翻訳されれば外国人にも受けそうな小説で、スコセッシが映像化したがったのもよく分かりますね。まだ見てないけどw
 とまぁ、テレビが無いと読書がはかどる昨今なのでした。

沈黙 (新潮文庫)
遠藤 周作
新潮社
1981-10-19

沈黙-サイレンス- [Blu-ray]
リーアム・ニーソン
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2017-08-02

李陵 中島敦

 この年になって読み返してみた。何か新たな発見があるかもしれないと思って。
 初めて読んだのは高校の頃だったか。小中学校で漱石、龍之介、高校で鴎外、基次郎みたいな、なんかそんな流れのついでだった記憶がある。しかし「李陵」を読んだのは現文の時間ではなく、世界史で古代中国を学んだあとだった。武帝時代の対匈奴作戦の一環として、教師から衛青や霍去病の名とともに挙げられ、読むように薦められたのだった。いまは青空文庫やWikisourceで無料で読めるのね。

 李陵の男気は子供心にかっこよく、司馬遷の克己心にも感ずるところがあった。しかし、主要登場人物の中のひとり、蘇武についてどう思っていたのか、覚えて居ない。漢文調の文体は心地良いものの、一方でそれはいささか説教臭く読み取る原因にもなってしまい、登場人物たちから教訓めいた人生観を無理矢理読まされたような感覚を受けた。というわけで、面白かったは面白かったが、個人的には中島敦については「光と風と夢」のような南洋小説の方を興味深く読んだ高校生だった。

 そして今度はプロのサラリーマンとして読み通したのだが、李陵や司馬遷の不器用っぷり、世渡り下手さ、頑迷固陋な態度に反感を覚えたのは意外だった。
 彼らはなんと面倒くさい男たちなのか。
 そうか「男気」は面倒くさいのだ。矜持や自尊心は、他人にとって、特にビジネス社会においては一銭にもならない。といって組織にとっては人材としてそこそこ役に立つあたり、取り扱う側が気を使わねばならない。そういう意味で、とても面倒くさいのだ。黙って言う事聞け、と。
 盲目的に武帝に従う李陵に苛立ち、やがてその気持ちに揺れ動く姿に苛立つ。官僚でありながら上司の気持ちを汲むことを拒む(拒んでなんら損はないのだ)司馬遷に居心地の悪さを感じた。宮刑を経ることで自省し史記を著す、結果論としてというのは分かるし、史実のとおりなのでもあろうが、だからと言ってそんなナイフみたいにとがって触る者みな傷つけなければ遺すことができなかったのか、疑問なのである。もっと上手くヤレよな、と。
 記憶になかった「蘇武」という男にも、なんだか納得いかないものを感じた。時代がそうさせたのであろうが、武帝なる上司に卑屈にまで従わねばならないなんて、なんですか、幼少時にDV被害にでもあって正常な人間関係を築くことができない性癖なのでしょうか。俺のケツを舐めろと言われて、躊躇せず舐めるタイプ。俺だったら面従腹背で適当い受け流し、次の有能上司に代わるまでテキトーに仕事をこなすのに。
 三者三様の男たちの有り方は、確かにかっこいい。厨二病的かっこよさがある。そらぁ誰だって、己の人生を捧げる対象に尽くしたい、尽くしてみたいと思うものだ。でも、その対象が国だったり王様だったり、親からの遺言だったり、そういうのはゴメンこうむりたいと思う年頃になってしまったのである。
 理想の生き方は植木等。スーダラに生きたいと思う男にとっては、李陵・司馬遷・蘇武は重すぎるのだ。


史上最大の作戦 コーネリアス・ライアン

「いちばん長い日」というと日本では1945年8月15日のことであるが、欧米人にとっては1944年6月6日の事なのである。

 と、いうわけで、「ヒトラー最後の戦闘」と同じく、軍事解説本、映画、小説、ドラマの元ネタシチュ満載、パクリ元・ネタ本となっているドキュメンタリーを読んでみた。「ヒトラー最後の戦闘」は高校生時分に読んだ記憶があるのだが、本作はついぞ読んだ記憶がない。というか、書店で見たことない。というのも、半世紀ほど前に筑摩書房の「現代ノンフィクション全集第11巻」に所収され、四半世紀ほど前に早川で出版されたきり、現在は入手困難となっているようです。私が読んだのは筑摩版。ミリオタか、現代政治史やジャーナリズム学の学徒、あるいは、ジョン・ウェインの熱烈なファンでもなければ、わざわざ古書店で買おうとまで思う人はそう多くはないだろう。が、古書店でわりと見かけるし、私のように図書館で借りることもできるので、単に「気合い」や「きっかけ」の問題とも言える。
 私はと言えば主な興味の対象が1945年の東部戦線であるため、陽気な西部の戦況(冗談ですよ)は大筋の戦況や作戦経緯を理解しているだけでもともとさして興味が無かったわけだが、先日、なぜか会社でオペレーションズリサーチやロジスティックスをプレゼンせねばならぬハメに陥ったため、わざわざ勉強し直し、それでもやはり自分の言葉で説明するのが面倒となりあちこちのビジネス本をパクりまくったのだ。だいたい、会社のアホども(特にバブル以前に入社した連中)にそんなモン説明しても理解できるわけがなかろう。

 いや、ちょっと待ってほしい。この話、そんなに長くないから。

 結局、勉強し直すにつれ、己の基礎的知識の不足や欠如を痛感するくらいには自分の未熟さを承知できたわけだ。別に仕事はどうなったって構わないので、プレゼン資料なんてやっつけ仕事でこなしたのだが、これが趣味の分野となると話が違う。ORやロジって、やっぱ軍事がそもそもの発端じゃないですか。だから会社関係は秒で片付けて、オーバーロード作戦の米軍のロジをネットで調べたりしていたのですね。そこで、あぁ、俺は西部戦線の基礎的知識が欠けているな、武装SSや降下猟兵に萌えてるだけじゃオタクとして未熟だな、と、そう思った次第なのです。オタクとしての矜持の問題なのです。

 そこでまず、1944年5月から6月の状況を俯瞰的観点から理解しなおそうではないか、というわけで本書を手にとってみたのでした。
 前置きが長すぎる。

 コーネリアス・ライアンはジャーナリストだけあって、まず文章が読ませるわけですね。資料的価値はほとんどゼロなのですが、第二次世界大戦を生き抜いた両軍の兵卒から将軍まで、幅広くインタビューを行っていることがよくわかります。そうして得られた様々なエピソードを丹念に、時に面白おかしく語ってくれるのです。
 オーバーロード作戦やそれに続く様々な軍事行動は、後世発売されたのミリタリムック本やWikipediaでおそらく皆さん承知のことでしょうが、映画「史上最大の作戦」で描写される妙なエピソードやシチュエーションが実は本当にあったのだとか、当初の予定日だった6月5日に先駆けて海岸に先行していた潜航艇乗組員の嘆き節だとか、アイゼンハワーの苦渋の決断だとか、6月6日深夜に奇跡的に風雨が治まっただとか、空襲のおかげで肝心な時に足止めを食らった反独レジスタンス・マキmaquisの幹部とか、混乱のさなかそれでもさっそく商店の看板を独語から仏語のものに戻す住民とか、とにかく物語として読んでいて面白い。
 軍事関係者だけではなく市民にもインタビューしているので、上陸作戦のシミュレーション・ゲームでよく出てくる村、サン・メール・レグリーズの住民の証言など、あの時代、確かに人々の生活があったのだ、とあらためて気付かされたりもします。
 ドイツ側のエピソードはあまり多くないのは残念ですが、それは「彼らは来た」で補完するとしましょう(真実性は置くとして)。それでも、不運の戦車指揮官オッペルンにセリフがあるあたり、今や貴重な(?)書物かもしれません。
 一番残念な点は、物語自体は上陸が済んだ直後で終わってしまっていて、その後のドイツ軍の反撃についてはほんのわずかに触れる程度(第21装甲師団や戦車教導師団について、やや言及があります)やSSヒトラー・ユーゲントのカーンでの死闘などには全く筆が及んでおりません。パンツァー・マイヤーがチラッと出てくる程度。連合軍にとって「奇跡的な成功のあとの混乱」(あるいはドイツ側から見て「混乱のあとの反撃」)にまで話が及んでいれば、もう少し読み応えがあったかと思います。
 また、訳語や文体が今の時代から見ると、かえって味があるといえばあるのですが、やはり古臭いのが正直なところ。

「俯瞰」が読むきっかけだったとはいえ、戦闘序列や戦力比、銃後の生産力や科学力についての記述は本書にはまったくないため、先ほど述べたとおり資料的価値はほとんどありません。
 ですので、読み物としては非常に面白く、文量も少なく一気に読めて読後感は良いのですが、この時代に興味を持つ者としては「かえってわからん! 謎が増えた!」ともなってしまうので、注意が必要です(それが面白いのですが)。



史上最大の作戦 (ハヤカワ文庫NF)
コーネリアス ライアン
早川書房
1995-01-01

荒野のホームズ、西へ行く スティーヴ・ホッケンスミス

 と言うわけで、前作が面白かったので続編も読んだのだ。
 証拠はおろか捜査なんて言葉が通じない荒野が広がるアメリカ西部において、文盲無学のカウボーイ兄弟がホームズ&ワトソンとなり、謎の牧場の秘密を暴いた前作。続編ではぐっと文明化された開拓期の鉄道が舞台。文明化ったって、設定は1893年ということなので日清戦争まであと1年。そしてちょうど10年後には飛行機が飛ぶという時代なので、アメリカを横断する鉄道はとっくに完成済みなのです。もちろんそうは言っても、西部は相変らず列車強盗が跋扈する無法地帯なことには変わりありません。
 ワトソン役である弟の記述(弟は年長の兄姉のおかげで最低限の教育を受けているのです)という体裁の物語なのですが、前作同様、一人称の語り口は軽妙でありながら人生経験に裏づけされた皮肉もしっかり効いていて、読んでいてまず楽しい。楽しい一方、ホームズに憧れながら、貧しい環境と資本主義経済のはざまで苦悩する様子や、それでもたった一人の肉親を信頼する兄弟愛が物語に自然に溶け込んでいて、ドラマとして上等なのですね。
 冒頭鉄道が舞台と言ったとおり、本編のほとんどは西海岸を目指す客車の中だけで成立していて、ある意味、雪の山荘、孤島の別荘という様相。つまり、フーダニットなんですね。客や乗務員など誰もが怪しく見えるなか、部外者であるアムリング兄弟は公的機関や周囲の助けも得られず、独自の捜査を始めるしかありません。
 無口で無愛想なホームズ役の兄によって、証拠や情報がピタピタと当てはまる推理はとても気持ちが良い一方、アクション満載でスピード感あふれるプロットにわくわくしながらページを繰る手が止まりません。わりとボリューミーな厚さの本書なのですが、実のところ物語内時間はわずか一泊二日。読み手である私も、ほぼ同期した状態で読み終えたのでした。
 前作ほど西部に生きる貧しく無学で、しかし未来と肉親を信じて歩き続ける男達の苦悩が描かれているわけではありませんが、スリリングな開拓期の鉄道ドラマとしてたいへん読み応えがあったのでした。
 あったのでした・・・、って、実は本国アメリカでは続編があと3冊発売されているのですよ。ところが本邦上陸は第二作である本作でストップしている状態。えぇぇえ・・・。ちょっと・・・。どうしてくれるんすか早川書房さん・・・。
 続き、絶対発売してくださいよ。
 発売せなんだら許しませんえ。


荒野のホームズ スティーヴ・ホッケンスミス

 また良いミステリをみつけてしまった。
 文盲無学の西部カウボーイがシャーロック・ホームズに憧れて事件を夢見る・・・、と単純化してしまうと、本作の本質を見逃してしまうことになる。
 わりと順当なフーダニットなスジに好感が持てるのですが、西部の荒くれ者の、テンポが良く皮肉の聞いた会話が小気味良くてどんどんページがめくれます。私のウェスタン知識はせいぜい映画から得た程度のもの。ジョン・ウェインは見てないし、マカロニウェスタンだってリアルタイムで見ているわけではない。せいぜい、「ヤング・ガン」とか「許されざる者」とか、90年代以降の西部劇でしか知らない。だから「カウボーイ」の仕事を知らないので、彼らのつらく・みじめな境遇はちょっと驚きでした。文体が明るいせいで、ジメジメしていませんけれども。
 文明化されたロンドンですら証拠保全とか合法的捜査とかいろいろ危険な場面もあったのに、開拓時代の西部なんて証拠どころか、法の存在すらギリギリの有様。人種差別・身分差別・階級差別が当然の時代、探偵役の兄弟たちは現場調査する機会すら与えられず、証拠集めに苦労するどころか、アウトローの拳銃から逃げ続けなければなりません。錯綜する人間関係は割りとロコツに証拠がまかれているのですが、記述者の饒舌な文体に上手くまぎれて飽きさせません。伏線の張り方は少々ぎこちない場面もありますが、馬を駆り、ほこりっぽい荒野を駆けずり回る様子はちょっと新しい探偵像です。

 でも、私が読み応えを感じたのはそういうところだけではない。
 生れ落ちた環境や事情により貧困を強制され、西部の掟に従いながら黙々と生きざるをえないが、不平を言う機会すら与えられない主人公兄弟。周囲の人間たちはみな粗野で教養が無く、何のための人生なのか分からないまま死んでしまう時代。非文化的で容赦のない世界からの脱出を夢見るものの、学がなく文字も読めない兄(ホームズ役)の静かに秘める情熱。そんな彼を信じ、過去の歩みを振り返りつつ思いやる唯一の肉親である弟(主人公・記述者でありワトソン役でもある)。天幕も無い荒野の野営、ほのかな焚き火に照らし出される二人の関係が、とても美しいと思ってしまったのでした。

「ウェスタンミステリ」というジャンルがあるのかは分かりませんが、「レッド・デッド・リデンプション」なワイルド世界で展開されるのはわりと「本格」である本作。エラリー・クイーンの乾いた世界観に疲れる私には、たいへん新鮮で優れた小説だと思ったのでした。
 令和元年はいろいろ良い本に巡りあえて良かった(まだあと2ヶ月あるけどw)。

荒野のホームズ (ハヤカワ・ポケット・ミステリ1814)
スティーヴ・ホッケンスミス
早川書房
2008-07-11


続編もあるので、近々読んでみようと思う。

快盗ルビイ・マーチンスン ヘンリイ・スレッサー

 先日亡くなった和田誠のイラストを見たことが無い日本人は居ないと思うのですが、氏は映画監督としても傑作を遺していて、それはもちろん「麻雀放浪記」と「快盗ルビイ」のことで、本作は後者の原作ということになります。
 ハヤカワのポケミス収録作なのですが、ミステリというよりはユーモア小説の範疇に入る短編娯楽小説といった感がありまして、どれも十分もあれば読める短さで、さして頭を使うわけでもありません。
会計士は世を忍ぶ仮の姿、実態はあらゆる犯罪計画を日々妄想し、悪魔的姦計を巡らすルビイ・マーチンスン。が、間抜けな相棒(本書の主人公であり、彼の一人称視点で物語は進む)やそもそもずさんな計画だったり、ちょっとした勘違いや不運から最後にはどれも失敗するというオチ。倒叙みたいな凝った趣向や仕掛けはないので、肩肘張らずに読むことができます。
 厨二病的誇大妄想に浸るルビイや、その片棒をいやいや担がされ常識人たる主人公は、優しい親や女友達に囲まれ、随分羨ましい環境にも見えます。
 本作の発表は1960年となっていて、いささか時代背景が牧歌的で、トリックらしいトリックも見当たらないので、必読の書、とまでは言えないかもしれません。が、ちょっとした息抜きとしては最適なユーモア短編集となっております。
 私が読んだのはポケミス初版昭和51年で、フレンチクルーラーを「揚げせんべい」、雑誌ナショナルジオグラフィックを「国民的地理雑誌」としていたり、わざと汚い言葉を使うルビイのセリフに「こなれ感」が無いあたり、訳文の古さについては我慢して読まねばなりませんでした。







「快盗ルビイ」 HDニューマスター版 [Blu-ray]
小泉今日子
ビクターエンタテインメント
2017-05-17


願い星、叶い星 アルフレッド・ベスター

「虎よ!虎よ!」「分解された男」で有名なアルフレッド・ベスターの短編集です・・・なーんて知ったような口をきいておりますが、この長編2冊しか読んだことはありません。文章のタイポグラフィーだったり、目まぐるしく変わる場面転換や、わけのわからぬ内面描写など、一筋縄ではいかない作者。
 私が読んだのは河出の奇想コレクションで、収録作は以下のとおり。
  • ごきげん目盛り
  • ジェットコースター
  • 願い星、叶い星
  • イヴのいないアダム
  • 選り好みなし
  • 昔を今になすよしもがな
  • 時と三番街を
  • 地獄は永遠に
 切れ味鋭いのは「時と三番街を」ですし、「ごきげん目盛り」は文法的な主格変換で奇妙な味を醸し出しますし、「願い星、叶い星」のような「奇妙な味」であったり、「地獄は永遠に」のようにほとんど中篇といった量の作品もありバラエティに富んでいて、タイムトラベルやロボット物があったりするのですが、サイエンスなフィクションという意味ではあまりSFっぽくない、むしろファンタジー寄りな感がある。
 とはいうものの、「イヴのいないアダム」は「火の鳥 未来編」や映画「プロメテウス」みたいな壮大なオチが割りと私好みでありましたね。しょうもない理由で一瞬で人類が絶滅したり、突然に億単位の年月にスケールアップするビジョンの切り替わりにくらくらするあたり、センス・オブ・ワンダーであります。

 しかし、世評に名高い「ごきげん目盛り」はいまいち響いてこなかった。「狂気の伝染」も、今ならAIを絡めてもっと上手い語り口があるのではなかろうか。これは、リアルタイムで読めなかった不幸といえるのだが、さすがに今の時代では古臭い。また、初期の名作と言われる「地獄は永遠に」だが、これも全く響いてこなかった。
 ベスターの著作全般に言えることだと思うのだが、社会背景や人物の描写が足りず、いったいいつの時代のどこの話なのかわからないまま、読者が置いてけぼりの状態なのに訳のわからぬ疾走感を伴って話は進み、事情がわかった頃には特段の納得感もないまま話が閉じてしまうので、とっちらかった子供部屋を後片付けさせられる親の気分になる。「読書」が「作業」のように感じられる残念感。なんかこう、ワクワクしながらページをめくるという感覚が無い。少なくとも俺はそう思ってしまったので、ベスターは「分解された男」だけでいいや、などという身も蓋も無い落としどころに、無理矢理自分を納得させるしかないのである。
 いや、面白いんだけどなー。やっぱ古いかなー、って。

願い星、叶い星 (奇想コレクション)
アルフレッド・ベスター
河出書房新社
2004-10-22

九尾の猫 エラリイ・クイーン

 苦手だ苦手だと言いつつもエラリー・クイーンに手を出すのは、読まずに批判するのもどうか、という義理・仁義の理屈からくる文脈なのである。無論、こんな場末のブログで批評じみた感想を述べたところで誰も顧みないのは明らかなのである。だから要は、私の矜持の問題ということでもある。
 というわけで、ネタバレ全開で行くので未読の方はブラウザそっ閉じを推奨します。そこに俺の矜持は無いのだ。














【警告】ネタバレあり

















 メタ的な問題がまずある。
 本の厚さ2/3程度のところで、NYを騒がせ混乱に陥れたシリアルキラー=「猫」が捕まってしまうあたり、そりゃもうドンデンがあと2〜3回あることは予想できてしまうのだ。
 というかそもそも物語の流れとして、探偵サイドのミスがあったにも関わらずわりとあっさり逮捕に至るというのも、サスペンス性に欠ける。まぁこれはフェイクなのだから、良しとしよう。
 だが何より致命的な問題として、読者に手がかりが100%開示されていないので、これはもう所謂「本格」とは言えまい。被害者を取り上げた医師が同一人物という最大級の情報が、作者エラリー・クイーンの都合によって任意のタイミングで提供されてしまっては、読者への挑戦どころではないのだから。ま、それはいい。国名シリーズと違い、おそらくそこまで「本格」を指向した作品ではないのであろう。だから、サスペンス小説というか、クライムノヴェルとして読むのが正しい読者の姿勢なのだと思う。

 それにしても、探偵エラリー・クイーンの造型はやはり私の好みではない。偉そうで大げさな態度を取り、周囲からも大先生と目されているわりに、私の目には全く頼りにならない男に映る、尊大な態度で鼻持ちならないいけ好かない野郎なのだ。イヤミ且つ思わせぶりなセリフが多いわりに読者を「ハッ」とさる「閃き」がなく、ひとことで言えば、人間的魅力が皆無だ。その点、横溝正史の金田一耕助にはっきり軍配が上がる。
 だいたいですね、確かにニューヨーク〜ウィーン間の移動時間を調査する必要があったのかもしれないが、重要証人との面会のために無為に一週間もかけてしまい、結果、被疑者及び真犯人を自死させる機会を与えてしまっておきながら、「また僕は失敗してしまった」とか・・・・、全然響いてこないんすけど。確かにメールやLINEで簡単に情報を引き出せない時代背景なのは分かるが、電話・電報でなんとかならんかったんか。オヤジがNY市警の警視なんだろ。大使館に連絡して対応してもらえや。そういうところに頭は働かないのでしょうか。
 いやそれ以前のストーリー上の瑕疵だと思うのですが・・・・、そもそもですね、容疑者のアリバイを確認しとけや!!!!

 とまぁ、個人的には憤懣やるかたない作品でありまずが、一部の批評家・読者の中にはクイーン物としての評価が高い作品でもありまして、うーん、このギャップはなんなのでしょうか。私がへそ曲がりなだけなんですかね。

 ただ、一箇所だけ良かったと思う場面もありました。
 それは「真犯人」の動機でありまして、その異常性と合理性は、1980〜90年代の日本の「新本格」に通じる「何か」を感じざるをえません。ミステリに残されたテーマはもはや「トリック」よりも「動機」にしか無い、とするならば、なるほど、確かにエラリー・クイーンは歴史に名を刻んだ、戦慄すべき作家だったのかもしれません。
 まぁそれでも、俺には合わんけどなw


九尾の猫〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリイ・クイーン
早川書房
2015-08-21






 エラリイなのかエラリーなのか、クイーンなのかクィーンなのか、なんかもういろいろ面倒臭いヤツだなw

手袋の中の手 レックス・スタウト

 悲喜こもごものニュースが続くが、何かを考えることはニュースが伝える悲しみに引っ張られず、精神を安定させるためにたいへん良いことであります。より具体的には、読書は、外部と自分及び本とを明確に区分する心のATフィールドとして便利な装置&機会です。見ようによっては逃避と言えなくもない。が、偉人でも鉄人でもない私にとっては、歯を食いしばって現実の悲しいニュースに立ち向かい続けるよりも、テレビやラジオやPCの電源を切って、読書に浸るのが正しい処方箋だと思う。

 そういうわけで、こうした折に長らく積ん読だった書籍を片付けることにしたのだ。

 手にとったのはネロ・ウルフで有名なレックス・スタウト。ドヤ顔で「有名な」と言っておきながら、実は一冊しか読んだことはない。
 本国アメリカではファイロ・ヴァンスやエラリー・クイーンといった黄金期の名探偵は忘れられてしまったようだが、一方で実はこのネロ・ウルフさんは、シャーロック・ホームズに次ぐ人気なのだそうだ。知らなかった。
 そんな前振りをしておいて何だが、本書の探偵はドル・ボナーという若い女性だったりする。ネロ・ウルフ、出てきません。
 発表が1937年ということなので、ポリティカルコレクトとかウーマン・リブとかよりずっと昔です。ちなみに、アメリカで女性に参政権が憲法で認められたのが1920年だそうですので、女性の地位など推して知るべしな時代です。V・I・ウォーショースキーの40年以上前。のっけから、探偵事務所を閉鎖するよう出資者(の後見人)から指示される始末。どんなに有能であっても、その才能は軽んじられてしまうのです。
 しかし、その「有能さ」を活写したエピソードがほとんど無いので、単に自意識過剰で負けず嫌いな女性に見えてしまうのが残念なところ。
 話のスジも、要は探偵が介入したせいでややこしい事態に陥ってしまうという悪手。文体も、現代日本人の感覚からは、さしてユーモアに溢れた筆致とも言えず。
 しかしながらミステリとしてはガチの本格でありまして、きちんとタイムテーブルを作成し、証言の矛盾を検討すれば、割りとすんなり正解にたどりつけたりする。間違いなく「フェア」るのは、さすが黄金期のミステリを言えます。犯人の「動機」が実に現代的というか、とても80年前の小説とは思えない・・・、というと大げさか。「Yの悲劇」も似たようなもんだもんな。

 本作の発表が1938年、日本での翻訳は2006年。世界で始めて「女の職業探偵」を登場させたという点で、資料的価値は評価されるべきでしょう、としておきます。

サイバラバード・デイズ イアン・マクドナルド

「西原・ハード・デイズ」ではなく「サイバラバード・デイズ」であり、イアン・フレミング(007)でもイアン・ランキン(リーバス警部シリーズ)でもイアン・ワトソン(スロー・バード)でもなく、イアン・マクドナルドである。ややこしい(ややこしくない)。

 イアン・マクドナルドを読むのは初めてで、この作品が彼の中でどういう位置付けなのか、どういう背景があるのか、そういうメタ情報無しで読み始めたところ、なかなか面白かったので記録しておく。
「舞台がインドの連作短編SF」というだけで手にとってみて、結論から言ってしまえば、やはりそれ、つまり「インド」に尽きるという。
 というのも、要は攻殻的電脳化だったり、ブラッド・ミュージック的解脱だったり、遠藤浩輝「EDEN」的エンディングを見させられたり、どこかで見たような話や手垢にまみれたシチュエーションなのだが、それらがインドの風俗や神話、社会やカースト、民族、結婚観で語られれと、その不思議な、理解しがたい世界観に幻惑され、しまいにはトリップしてしまうことになる。そういえば「EDEN」に出てくるAIの名は、インド風の「マーヤ」だった。
 2047年のインド社会というのが、令和の日本に住む私には全く想像できない世界だ。これはおそらく、欧米人から見た21世紀の日本と同じ視点、感覚なのに違いない。欧米人から見たチバシティやネオトーキョーはきっとこんな感じでワクワクしたのだ。そのワクワクが、私から見たインドになる。テクノロジーで武装したニンジャにアメリカ人が興奮する感覚は、こんな感じなのだ、きっと。

 どんなにネットやサイバネティックスが進化しても、ヒンドゥーの神に祈り、輪廻転生を信じ、結婚は家格が重要で、絶望的なまでに貧富の格差がある。男女産み分けが普通になされた結果、男女比4:1という圧倒的男余りの社会。水を巡る内戦の結果、独立した地域政府がAI外交官を駆使する世界でも、多様性のあまりまとまりが無いままののインドは、きっと今と地続きのインドだ。だが、テクノロジーで変容したインドだ。そのギャップが面白い。
 リモート操作のロボット兵はゲーム感覚で運用され、バイオAIを脳に刻み込まれた少女は前向きに人生を捉え始める。AIと結婚するダンサーもいれば、哲学的に第三の性を享受する宦官もいる。男どもは出会いを求めて巨大ビジネスと化した結婚ビジネスに大金をつぎ込む。浮世を達観したデザインチャイルドなのに、別次元への転生は躊躇してしまう。どの短編もバラエティに富んでいますが、直接には繋がってはおらず、単に世界観を共有しているだけ。でもやはりキーワードは「インド」なのでありました。

 インド経済の大発展が言われ続けてそろそろ20年経つ。その急激な変貌ぶりは映画「スラムドッグミリオネア」でも垣間見ることができたが、現実感覚としてはさっぱりその気配がない。それはおそらく、予想外に徹底されている民主主義と、インド人の血肉になってしまったヒンドゥー文化がそれを阻害しているのだと個人的には思う。民主主義はコストがかかる割りに効率が悪く、タブーの多い宗教観は経済活動の阻害要因になるからだ。

 ヘッドホンでゴア・テクノを大ボリュームで聞きながら本書を読んでいたのだが、ほぼ全てが一人称視点で語られる文体のおかげもあり、たいへん素晴らしい没入感を得られました。うーん、グッド・トリップ。きっとサウナのあとの冷水浴もこんな感じの気分になるのだろうな。


人類の子供たち P・D・ジェイムズ

 P・D・ジェイムズと言えば「女には向かない職業」なのでありますが、というかそれしか読んだことないのですが、SFっぽい作品、いやズバリSFも書いていたという。1995年のある日突然、ヒトが赤ちゃんと産めなくなってしまってから数十年後の社会、という設定からして、面白くないわけがない。しかし残念ながら、先に映画の方を見ちゃったんだよね・・・。その「トゥモロー・ワールド」という映画は、ワンカット長回しで話題になっていたりしたほか、ミリタリアクションはなかなか良かったものの、「子供を産めなくなった人類社会」の描き方が食い足りなくて、私の目にはフツーのアクション映画にしか映らなかったという残念ムービー。今回、原作の小説を初めて読みまして「映画と全然ちゃうやん!!!」 ここまで改変されるといっそ清々しい気もします。
 その設定からして、「素晴らしい新世界」「1984」「トリフィド時代」と、イギリス的なそれっぽい終末観に連なる作品となります。個人的には、この中では「トリフィド時代」が一番好きですね。ディストピアというよりも、侵略SFという感じですが。

 主人公セオは老年に差し掛かったインテリ階級且つ、独裁者の幼馴染というスペシャルな設定です。が、歴史学者でもあるせいか、滅亡が確定している人類社会に徹底的に悲観して、反独裁運動家の勧誘に対しても諦念の態度で接します。で、その諦めっぷりの描写がいちいちツボに入りましてですね、文章が上手いこともあって割りと読ませます。彼の、人間と社会に対する一貫したニヒリズムな姿勢。これに共感してしまう自分が居る。なのに、半強制的な老人自殺イベントに義憤を覚えちゃったりしてね。矛盾を抱える人間なのです。
 で、そんな主人公は、ジュリアンという割りとどうしようもない女性に惹かれてしまうという。その過程が分かるような分からんような、なんだかモヤっとしてしまうのは、私の人生経験が足りないからなのでしょうか。

 なぜ人類は子供を産めなくなったのか、世界は滅亡するしかないのか、そういったSF的大前提はわりとあっさり無視され、というか作者の主眼はそこにはないのは明らかで、物語の目線は、そんな大状況下における「男」の逃避行の果てにたどりつく境地にあるのでしょうな。そうやなぁ、下品な言い方をすれば、フェミっぽい観点から見た男の苦悩、と乱暴にまとめられるか。
 ミステリ作家や純文学作家はわりとSFを書いているものなのですが、やっぱプロパー作家とは目線が違うなぁ、と思いました。
 私が読んだのは1992年の単行本版で、巻末解説は栗本薫でした。末期の「グインあとがき」みたいなしょーもない文章とは違うマジメな栗本薫なので、一読の価値あり。

人類の子供たち (Hayakawa Novels)
P.D. ジェイムズ
早川書房
1993-10

嘘ばっかり ジェフリー・アーチャー

 と、いうわけで、続けてジェフリー・アーチャーの短編なのです。
 なんつーか、読みやすいよね。大人向けののラノベだわこれ。一文が歯切れよく読みやすいし、そこはかと漂う英国流ユーモアにニヤリともする。結末を三つ用意し、読者に選ばせるなど遊び心あふれる短編もある。
 しかしだからといってレベルが低いわけではない。
 人物描写も心理描写もほとんどないのに、情景や背景が浮かび上がるのは、訳文の力もあるのでしょうが、やはり現代一流のエンタメ作家の力量なのでしょう。それが証拠に、落語でいうオチの部分の切れ味が素晴らしい。合理的で説得力があるのに、「あ、そうか来たか!」という意外性を堪能でき、その秀逸さには、ウムムと唸らざるを得ない。読後のカタルシスに大満足。
 舞台も時代もバラバラなのに、知識に裏付けられたエスプリと皮肉ある文章も、ともすればサラリと読み流してしまいそうですが、ブラックあり、ペーソスあり、バラエティに富んでいる。なんつーか、イギリスが生んだブラック版O・ヘンリーみたいな、そんな感じです。
 どれも読み応えはあるのだが、オススメするとなると「回心の道」「寝取られ男」「コイン・トス」「生涯の休日」かな。逆にイマイチだったのは「駐車場管理人」だろうか。オチに意外性が無かった感じ。
 多くが実際にあった話をベースにしているというの凄いですな。ジェフリー・アーチャーの話の引き出しの深さは、底が知れないぜ。

嘘ばっかり (新潮文庫)
ジェフリー アーチャー
新潮社
2018-08-29

15のわけあり小説 ジェフリー・アーチャー

 ジェフリー・アーチャーの短編を読むのは初めてなので、どうなんでしょうか。面白いのもあったけど、オチが見え見えでイマイチなのもあったし、珠玉の一冊、という感じではないような。
 オチをあえて曖昧(というほど曖昧ではないが)にして読者にちょっとだけパスするというスタイルが数篇あって、そういう書き方もあるのだな、と感心はしました。そのオチはどれも、意外性や奇妙な味というよりは、わりと落ち着いた人情味あふれるものも多く、切れ味鋭く読後に唸らされるというよりも、ほんわかええ話やん、と、ゆったりした気分になれます。ミステリやサスペンスだと、世の中にはあえてイヤーン気分にさせる読後感を狙ったものもありますが、そういった感じはない。だから逆に、エンタメ性が高いとは言いづらいので、万人にお勧めはできない。
 映画で、登場人物たちが喫茶店やバーなどに集まったとき「こんな話を知ってるか」「これは先日聞いた話だが」なんつって「ストーリー」を語る場面があります。タランティーノの作品とかでよく見かける、あれ。知り合いから聞かされた面白話、意外な話、頭に来た話、そういうのを小説で読んだ感覚ですね、あえて言うと。
 ジェフリー・アーチャーの経歴は皆さんご存知だと思うのですが、だから、そういう「話の引き出し」は物凄いストックがあるのでしょうなぁ。
 ワンセンテンスが短く、キャベツを千切りにしているような感覚ですいすい読めるのは気持ちいい。
 いま、病院外来の待合室でこの文章をスマホで打ってるんですが、呼ばれたので終わりにしますね。
15のわけあり小説 (新潮文庫)
ジェフリー アーチャー
新潮社
2011-04-26

逃亡のガルヴェストン ニック・ピゾラット

 ひとことで言うとギャング組織からの逃避行、単純なゲッタウェイ物語なのだが、登場人物たちの悲惨な生い立ちや環境が明らかになるにつれ、その境遇に「もののあわれ」を感じざるをえない。どんだけ悲惨かというと、書いてしまえば「貧困」という単語に身も蓋も無く集約されるのだが、もう少し具体的に言えば、暴力であり育児放棄でありDVであり近親相姦でありドラッグでありレイプでありと、その辺りの言語で説明できる環境だ。アメリカ地方都市の真の姿であり、そりゃもう、トランプに投票せざるを得ないという空気感。米民主党がどんなに環境問題やポリコレや差別や学生ローン問題を取り上げたところで、地方都市の貧困線以下のプアホワイトやプアブラックやプアヒスパニックには届きはしない。

 で、少女を守りつつギャングの追跡を逃れようというと、だんだん映画「レオン」の様相を呈してくる。というのも、主人公だって無垢な人間ではくて、なんだかんだギャングで殺し屋なんですね。でも今までの野放図・無計画な人生の反省なのか贖罪なのか、行きずりの若い売春婦をどうにかしてその稼業から足を洗わせるよう説得なんかしたりする。しまいには邪魔者を排除しようとして、今度は「タクシードライバー」の様相を呈してきたり。別の場面、刑務所で図書室担当になるシーンでは少し「刑務所のリタ・ヘイワース」を想起させる。思いがけず浜辺で撮られたスナップ写真には少しの驚きと憂いの表情が浮かんでいたりして、これは「ターミネーター」だな。

 小説というよりもしっとりした二時間の映画といった本作なのだが、作者は映画やドラマの脚本も手がけているらしいので、描き方は実に達者。主人公ロイや売春婦ロッキーのキャラも立っていて、ぐいぐい読めてしまう。ヤクザ稼業な主人公は強面で凄腕の殺し屋、血も涙もない拷問者なのだが、肺には腫瘍が見つかっていて、人生をはかなんだりする。末期癌の彼を憐れんでくれる友人など皆無なのです。そういう人生を送ってきてしまっていたのだから。それでも自暴自棄にならないのは若い娼婦が逃走の道連れになってしまったからなのか。暴力の世界で生きてきたわりに、女性に甘いというか、幻想を抱くあたり、ナイーヴでもある。好いた女の前ではしどろももどろになってしまったりな。しかし、過去の振る舞いが彼の今の現実を否定するのだ。
 若い娼婦には振り回されっ放しだが、その悲惨な境遇に主人公も読者も同情せざるをえないのだ。
 登場人物たちの多くは低層民と呼ばれる人々で、単純に「可哀想」では済まされない現実も潜んでいる。
 1983年で始まった物語は時折2008年と行きつ戻りつしながら、一人の南部男の人生を語る。一人称で、要はハードボイルドだ。
 プロットは単純なゲッタウェイだが、読後、スカッと爽やかな感じではないし、未来を暗示させるものではない。
 読後、「男子の一生」たるものは何なのか、静かに考えざるをえない、そんな小説でした。

逃亡のガルヴェストン (ハヤカワ・ミステリ)
ニック・ピゾラット
早川書房
2011-05-09

SF的な宇宙に安全に暮らすっていうこと チャールズ・ユウ

 最近、オリジンが中華文化圏出身者の手によるSFを見かける機会が多い。本作の作者は両親が台湾人とのことだが、アメリカ生まれなので思考マインドはアメリカ人なのかもしれない。作中でいくつか仏教的な場面はあることはあるが、アジア的感性とは微妙に違う気もする。というわけで、要はアメリカのSFだ。
 オリジナルにもあるのか、訳者円城塔の技術なのかわからないが、「継時上物語システム」「応用時間言語学」「叙述的宇宙」等々、様々な言語的イメージが提供されていて、それはとても楽しい。意味はわからないし、実際たいして意味なんか無いのだが、とてもハイブロウな表現に感じる。「クアッドコアの物理エンジンを載せられた六気筒の文法ドライブ」「可能性空間の航海にはコツがいる」「ニュース・クラウドに頭をつっこむ」「通常の時間軸を逸脱してここへやってきて、仮定法モードに入った」、ほら、面白そう。ま、厨房っぽいっちゃあ厨房っぽいけれども。
 ところが、タイムマシンで時間的未来に行き、未来時制に生きる自分を撃ってしまった、という時間SFの中でも最大級のテーマをぶら下げておきながら、そこで語られるのは徹底的に自分と親の思い出トーク。微に入り細をうがちそれはもう克明に語られるのだが、はっきり言って俺にはなんの興味も無い物語。俺とは関係の無い時間軸の物語で、しかもアメリカの社会文化というか家庭環境に一定の理解力を求められるうえ、父が父がという、パターナリズムが気に障りまくります。マザコン日本社会にもうんざりだが、アメリカの父子文化ってのにも、毎度うんざりする。
 つまり、SFというよりもブンガクに近いといえる。わかりにくくて読みにくくて、面白いか面白くないかよくわからぬ、という塩梅だ。簡単に言ってしまえば、俺にとって本作はニューウェーブなのだった。相性が悪い、それもとても。だから、アシモフやクラークみたいに、アクロバティックな科学的・論理的でスカッとさわやかなカタストロフを本作に求めてしまうと、大変残念な読後感になる。そしてそれを、あらすじを読んだ俺はそれを求めてしまったのだった。だからどうしても辛口評価になってしまうのは、いたしかたないところだと思っていただきたい。




黄色の間 メアリ・ロバーツ・ラインハート

「本格黄金期っていったいいつよ?」と問われたとき、だいたい「戦間期」と答えておけば間違いない。そんな質問を受けるという前提がまずおかしいが。で、クリスティやクイーン、カーなどが一般的にその象徴というか、黄金期の中心的作家である、というのが社会一般の認識となっていることは、テストでよく出るポイントです。
 戦間期というと普通、第一次世界大戦の終戦から第二次世界大戦の勃発まで、つまり、1919年から1939年のことを指すことが多い。
 クリスティ「スタイルズ荘」が1920年、クイーン「ローマ帽子」が1929年、カー「夜歩く」が1930年。以後、続々といまだに読み継がれる話題作が発表され、なるほど黄金期だな、と誰でも納得できる時代が続く。だいたい1950年代中盤まで、本格推理小説の全盛期と言えましょう。

 で、このメアリ・ロバーツ・ラインハートという女流作家は、言わば黄金期の「夜明け前」に位置する作家であります。デビューは1906年だそうです。世代としては、「トレント最後の事件」のベントレー(1875年生)と同じ年頃(1876年生)。フィルポッツの一回り下の妹、クリスティの一回り上の姉、そんな立ち位置にあります。
 夜明け前の作家さんのせいか、本邦では残念ながらメジャーな存在とは言えません。長編をざっくり30冊は書いているというのに、翻訳はほんの数作品というお寒い状況は、時代が進み御三家の活躍と完成度が輝かしすぎて、かすんでしまったせいからなのかもしれません。

「黄色の間」は発表が1945年と言いますから、作者メアリ・ロバーツ・ラインハートは69歳なので、晩年の作品となりますね。もう御三家の名が轟いている時代であります。いや、長編を20冊以上出版しておりますので、ラインハート自体は御三家に負けず劣らずの人気作家だったはずです。
 ちなみに、先日読了した「災厄の町」が1941年の発表で、ナチスの台頭などが時代背景として語られておりましたが、本作の舞台は第二次世界大戦ど真ん中時代のアメリカはニューイングランドとなっております。最初の方にノルマンディー上陸作戦についてさらっと記載がありますので、1944年の出来事ということがわかる。灯火管制や食料配給なんてアメリカ本土でもやってたんすね。ガソリンが無くて車を出せなかったり、慢性的な人手不足だったり、現場検証のための写真撮影がフィルムの入手が困難なため省略されたりしていて、とても興味深い。さらに、動機というか事件のきっかけが太平洋戦線にあるあたり、「時代」なのですなぁ。

 キャロルという上流階級の、適齢期を微妙に過ぎつつある女性を主人公に始まった物語はいつまにか、ディエップ強襲やシチリア上陸戦にも参加したというちょっと人に言えない部署所属の傷痍軍人に主人公が切り替わっている不思議。それはまだしも、会話の途中で一人称の語り手が微妙に移ろうあたり、どうもスッキリ読めません。
 テキストもちょっとイラッと来る部分があって、「後日、このことの意味を思い返すと背筋が凍った」的なフックが地の文にやたらあって、それは読書欲を掻き立てるよりもむしろ減衰させる効果しかないような気がしたのですが、それも「時代」がなせる技だったのかもしれません。
 それと、ワトソン役が不在なせいか、探偵役の行動が謎過ぎるので「あ、なるほど」感が薄い。

 プロットや登場人物の行動は非常に複雑で、読者が想起する怪しい人物がどう絡むのか、なぜ絡んだのか、そのあたりの語り口と説明はさすが本格推理家黄金に活躍した小説家と言える出来栄えです。小さい疑問まできちんと結末で明かされており、その点では安心です。納得できるかどうかは別ですけれども。というのは、「死体の移動」という、トリックというかプロットというか、その真相がいち読者としては納得しかねるくらい雑であると思いましたので、その点は個人的には減点対象になってしまいます。
 トリックやストーリーが普通レベル(いや、ちゃんと及第点です)とはいえ、戦時下のアメリカ本土の様子が活写されているのはたいへん面白かったですし、予想外で甘々な結末ドラマも、許容できる範囲のエンディングであります。お手並みは鮮やかですね。

 しかし1944年時点で東海岸からカリフォルニアにまで定期旅客機が飛んでるとか、そら日本は勝てるわけありませんわ。


黄色の間 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
メアリ・ロバーツ ラインハート
早川書房
2002-06-06

災厄の町 エラリー・クイーン

 高校生のころ1/3くらい読んだのですが、なかなか事件が始まらないことにダレてしまって、読了しないままこの年齢になったのですね。そこで年も改まりましたし、思い切って読み直してみました。ついでに新訳版で。

 黄金期の作家で個人的に好きなのはなんてったってクリスティなのです。作家としてのエラリー・クイーンはとうとうはまらなかった。なぜはまらなかったというと、探偵役としてのエラリー・クイーンにはまれなかったからですね(ややこしい)。なんつーかこいつ、偉そうでイヤミったらしくて、言動がいちいち鼻につくんすよ。スノッブな態度がイラっとくるのでもし現実にいたら友達になりたくないタイプ。人間的に共感できないんすよ。高校生のころ、アラフォー探偵「沢崎」や「マーロウ」には共感できたのに、このエラリー・クイーンという若者の高慢な態度にはムカついたんですね。それに、訳文がこなれていないというか、手に取った版がいまひとつ読みづらいというのがありました。そういう刷り込みがあるから、クイーンにはなかなか食指が伸びなかったのであります。結局、「悲劇シリーズ」は読んだのですけど、肝心のエラリーの方は国名シリーズしか読んでいないという体たらくなのです。そんでもって、国名シリーズも面白かったかと言えば、うーん、という印象だったので、以来、食わず嫌いのまま成長してしまった、と。そういう過去がある。
 一方で、ミステリについていろいろ語るわりにエラリー・クイーン完読してないんかコラという、己に対して忸怩たる思いもあるわけで。年もあらたまったし(しつこいw)、人生もカウントダウンが始まるお年頃だし、そろそろ解禁しようかな、と。

 本格部分は評論家やら作家さん方の精緻な論文や楽しいエッセイがありますし、私ごときが言ってもせんない話なので脇に置くとして(「動機」がわからないまでも、「機会」「手段」で真犯人を予想できましたしね)、です。

 法廷での検事vs弁護士のやりとりが面白かったのですが、あとで読み直すとさほど重要な記述もないため、ドラマとしては面白いけれどもミステリとしては不要かな、と。それに、 法廷シーンが決定的な演出となっているスティーブン・ハンター「極大射程」、クリスティ「検察側の証人」(映画「情婦」も)と読んでしまいましたし、面白さ、というか「感動」したとなると、アシモフ「銀河帝国の興亡」でセルダンが召喚された場面ですかね、個人的に。
 目玉であるはずのドラマパートなのですが、やっぱりクイーンがなんつーかこー、金持ちのぼんぼん風情の道楽というかですね、やたらモテるのも腹がたちますし、なんだってこーアメリカンは安易に抱きついたりチュッチュしてしまうのか。加えて、彼が地方都市を偉そうに上から目線で語るのも気に食わんのです。いったい何様だというのか。

 そういうどうでもいい部分が私の中で受け付けられないw 困ったものです。人様の邸宅に起居して十分に観察する期間がありながら、結局は事件を未然に防ぐことはできませんしね(もっとも、これはミステリの宿命ではあるので公平な批判ではありません)。
 本格とドラマとの両立はここ20年くらいの日本ミステリを読めば十分というのもあり、そういう意味でも少し古いかなぁ、と。それに、人間模様やら家族の愛憎やらだったら、すでにロス・マクドナルドやチャンドラーでこちとら経験済みなのです。

 本書「災厄の町」はいわゆるライツヴィルシリーズの第一弾ということで、以後、架空の町「ライツヴィル」を舞台にしたクイーン氏の活躍はいくつかあるのですが、なんでしょう、私は第一歩につまづいてしまった感があります・・・。
 というわけで、キャラも語り口も、やっぱりはまれなかったのでありまして、どうしたもんでしょうか・・・。いま手元に昔買った未読の「九尾の猫」があるんですけど、うーん。もう一回押入れに戻すべきなのか。

災厄の町〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリイ・クイーン
早川書房
2014-12-05


教会の悪魔 ポール・ドハティ

 タイトルに「悪魔」などとなんの工夫もなくつけてしまうあたりのセンスが100年は古いですね。江戸川乱歩ですか。もっとも、舞台は中世暗黒時代のロンドンだから、有りっちゃあ、有りか。いまどき「悪魔」言われてもピンと来ませんし、なによりダサい。だいたい、「悪魔」という単語を耳にしておどろおどろしさやオカルトを思い起こす人なんていないでしょ、今時。悪魔的現代社会を生きる我々にとっては、むしろ牧歌的に響きすらする。でも原題が「Satan in St Mary's」だし、しゃないか。

 裏表紙のあらすじを読む限り本格的な歴史ミステリかと思って手に取ったのですよ。

 結論から言うと、ミステリ部分は全然ダメダメでがっかり感ハンパないっす。推理も何もあったもんじゃない。まるっきり見込み捜査で、容疑者の拷問とか全然余裕。しかも拷問から得られた情報、ゼロ。証拠は窃盗で手に入れます。後段、主人公は被疑者を罠にかけて殺してしまうのですが、さして心に痛痒を感じたりしないあたり、なんとも中世ですね。人の命、安っす。日本で言えば室町武士無双みたいな社会背景。
 いちおう、密室物なんですよこれ。全然そんな感じしませんけど。トリックはまぁ、お察しって感じですね。真犯人はあっさり自供するし、動機も現代日本人にはピンと来ない。なぜなら、犯人が感じてきたセカイの理不尽さが全く伝わってこないから。共感できないのです。共感できなかったのは犯人だけではなくて、死んだ妻子を想った次の章では別の女と寝る主人公にも、なんだかモヤっとしたものを感じる。だいたいこの人、いつもイライラしていて人間的魅力がない。推理らしい推理せぇへんし。これ、ほんまイギリスのミステリなんけ?
だから総じて、読んでいて不満が溜まる。最後にどんでん返しも無いのでカタルシスゼロだったし。

 一方、中世イギリスの世相や文化はたいへん参考になります。作者はオクスフォードで歴史学の修士みたいなので、むしろそっちの描写のがミステリパートより面白い。
 一般の民家で床にハーブを撒いて生活してるなんて、学校では教えてくれない。水代わりにワインとかエールとか普通に飲む。街灯などない中世都市の暗闇っぷりの描写は素晴らしい。市内を無数に流れる川は、船で渡るんですね。橋なんて要所にしかないのです。主人公コーベットはロンドンのあちらこちらを駆けずり回るのですが、もしロンドンの地理に詳しければ、彼が歩くルートに思いを馳せるだけでご飯三杯はいけるかもしれません。世界史の教科書や映画「ブレイブハート」でお馴染みエドワード1世の心象風景なんて、他ではなかなか読めません。あぁ、シモン・ド・モンフォールって、なんか世界史で出てきたなぁ・・・

 とまぁ、ミステリは落第点ですが、歴史小説としは面白かったです・・・って、ほんとか?
 私が読んだのはポケミスで、初版は2008年。本国(イギリス)では1986年の発表以来シリーズ化され、実に19作(!)も出版されているらしい。てか作者のポール・ドハティ、めちゃくちゃ多作で、この調子で歴史ミステリをざっと100冊は書いている。内田康夫かよ。しかし日本では本作以後、翻訳されていないあたり、いろいろお察しいただきたい。


二壜の調味料 ロード・ダンセイニ

 自分的にはどちらかというと、ファンタジーの御大というよりも、ラヴクラフト繋がりという印象のあるロード・ダンセイニなのですが、実は気の利いたミステリも書いていたという。

 もっとも、巻末の解説で述べられているとおり、余技というか、余興というか、本腰を入れた作品のようには読めません。でもそれはけっして悪い意味ではなくて、肩の力を抜いておいしくいただけるという意味なのでありまして、料亭の花板がちょっと息抜きにラーメンを作ってみました、という味わいの短編集です。
 どれも短くて、ファストフードとしても良い出来栄えですね。とはいえ、表題作「二壜の調味料」「手がかり」「演説」をはじめ、いわゆる「奇妙な味」を極めた逸品もありますので、ミステリ好きなら読まないと損。どの短編もラスト1〜2行に背筋がぞくっとくるスパイス(ナムヌモ?w)が仕込まれておりますので、サラっと眺めるというよりは、短いながらもしっかり味わうのが良いと思います。

 とはいえあくまで余興なので、本格的な犯人探し、みたいなプロットはありません。ちょっとしたトリックやプロバビリティの犯罪も多く、中には小中学生向けの推理トリッククイズ本に出てきそうなしょーもないネタもあったりしますが、「あのロード・ダンセイニがw」というわけで、それですら味わい深い。
 どの作品もだいたい10〜20ページに収まる分量というのも、息抜きとしてちょうど良いですな。
 新年早々、立て続けに良い本にあたってたいへん気分が良いのであります。

二壜の調味料 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ロード ダンセイニ
早川書房
2016-11-22

ロックイン―統合捜査― ジョン・スコルジー

「老人と宇宙」でブレークし、「レッドスーツ」でSFバカ(褒め言葉)っぷりを示したジョン・スコルジーで本作が取り組んだのはミステリ。意識をダウンロードできたりインストールできたり、擬体でどうこうするという展開は「老人と宇宙」ですでにやっいるので、ファンならおなじみですね。それに加えて今回はミステリになりましたよ、と。

 あらすじは各自で検索してもらうとして、「攻殻機動隊」の電脳モノに馴染みのある日本人ならガッツリ刺さる物語の背景になっていて、というかまんま「攻殻機動隊」のいちエピソードでもおかしくないというストーリー。ヘイデン症候群って、電脳硬化症っすか?(ちょっと違う) 「ロックイン」というタイトルも面白いですね。「ロックアウト」の反対ということなのでしょう。
 まずは この世界のルールがとても面白くて興味が尽きないことが一点、登場人物たちの気の利いた会話で一点、設定ルールに則った電脳戦(?)で一点と、スコルジーは本書でハットトリックの大活躍です。説明くさくない説明文や、いちいち面白い会話のやりたとりなどで、かなりテンポ良く読めてしまいます。

 主人公がお坊ちゃまで事態解決にカネの力を使っているというご都合主義、パートナーの噂の伏線が未回収等、気になるっちゃあ気になりますし、真相へたどりつく手がかりが読者にほとんど提示されませんので、SFミステリ、というジャンルにくくってしまうのはちょっと乱暴かなぁとは思います。

 が、結局のところどうよって言われれば、得失点差できちんと勝っていますので、確実に面白いと言い切れるのは間違いない。ともかく、「攻殻機動隊」が好きな人は楽しめると思います。
 
続編もあるようなので楽しみです。年頭から良いSF読んだぜ。

カササギ殺人事件 アンソニー・ホロヴィッツ

 本はなるべく一気に読みたいという主義が災いして、年末年始などのまとまった休暇でないと「読書しよう」と思わなくなってしまったのです。学生の頃の1/20だわ、読書量。たいへん遺憾なのであります。ふだんは無理矢理ビジネス書などを読んでおるのですが、あんなもの読書のうちに入りません。せいぜいが勉強であって、勉強ということはなにか別の目的があるということなので、「読書を楽しむ」という意味では、趣味としての読書には入らんのです。むしろ「読書」の純粋性を汚していると言って良い。偉い人にはそれが分からんのです。趣味に等級があるのだとすれば、ビジネス書を読むなんて下劣で下世話な習慣、恥ずかしくて公言できません。今時、新聞片手に出社してくる時代遅れ感。もう平成も終わるってのに。ビジネスパーソンならニュースくらい寝起きの2分で摂取しとけよバカ。

 閑話休題。

 というわけで、仕事や勉強などといったノルマ・生活の糧を得るための人生から離れ、純粋に「読書を楽しむ」ために、久々にミステリ、「カササギ殺人事件」を手に取ったのでした。うーん、ミステリなんて本当に久しぶり。原錺札鵐擦痢屬修譴泙任量斉」以来だ。期せずして、「このミス」国内編1位と海外編1位ですね。これでもって2018年のミステリ界を制覇したことにしてしまいましょう。

 帯には「アガサ・クリスティへの完璧なオマージュ x イギリス出版業界のミステリ」とあります。というか、事前情報ほぼゼロで購入してしまいました。「クリスティへのオマージュ」ということで自らハードルを上げていくスタンス。上等じゃないですか。

オマージュ ・・・敬意。尊敬。また、献辞。賛辞。(デジタル大辞泉)

 なるほど、劇中作「カササギ殺人事件」冒頭は、牧師館内での牧師さんの語りから入ります。あー、「牧師館殺人事件」が大好きな自分としては、なかなか良い入りです。イギリスの片田舎、次々に出てくる登場人物、彼らの口から語られて浮かび上がる「事件」や「疑惑」。いいじゃないですか、ポアロ物というよりも、マープル物っぽくて。
 本作のタイトルは「『カササギ殺人事件』殺人事件」が正確な表現となりましょう。次元は浅いのですが、入れ子構造になっております。ご丁寧に「カササギ殺人事件」の表紙もある。まるでノーマン・スピンラッド「鉄の夢」みたいな作風。しかし感心したのはそうしたメタ構造や「1冊でミステリ2本分のお得感」などではありません。やはり劇中作「カササギ殺人事件」自体がよく出来ているという点にありますね。非情に素朴なフーダニットなのですが、動機や社会背景に重点を置いた最近のミステリに飽き飽きしているこちらとしては、たいへん楽しめます。久々の「本格」という感じ。アティカス・ピュントなる探偵のステロタイプな造形も、古色蒼然、かえって趣があるというもの。クリスティの(あるはずもない)新作を読んでいるようで、童心にかえった気もします。そうなんですよ、クリスティって中学・高校時代にあらかた読み尽くしてしまって、新作なんて無いわけじゃないですか。クリスティを手に取る新鮮さってのが無いわけなのですよ。それがこの年になって楽しめたという、あぁ生きてて良かったってなもんです。上巻末尾が事実上の「読者への挑戦状」となっているのも、良いですね。

 逆に現代編はもろ21世紀。南欧の経済破綻や定着してしまったポリコレがどんよりした空気を漂わせますが、「カササギ殺人事件」の謎の核心に、玉ねぎの皮を剥くように少しずつ近づくサスペンスがあります。ま、こちらの方の真犯人は概ね予想通りだったのは残念でしたけれども。

 上下2分冊という、連休に読み込むには丁度良い分量で、それなりの読書歴のあるオッサンにはなんだか懐かしさに浸れること請け合いという本作、なるほど、「このミス」1位は伊達じゃないな、と思った新年なのでありました。

カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫)
アンソニー・ホロヴィッツ
東京創元社
2018-09-28

カササギ殺人事件〈下〉 (創元推理文庫)
アンソニー・ホロヴィッツ
東京創元社
2018-09-28

天皇(1)若き親王 児島襄

 ビックコミックオリジナルで「昭和天皇物語」連載再開にあわせ読んでみたという次第です。
 というかですね、実家(仙台)の図書館で借りたのですけど、なんでか閉架なんですよね。こちら(東京)の区立図書館で検索してみたら、やっぱり閉架なんですよ。なんなんすか。開架できない理由でもあるんすか。ラノベやら漫画やらズラーっと並べるスペースはあるくせに、こんな文庫本も置けないと。どういうことなんすか。
 図書館で漫画置いたって、どうせ読んでるのは■■■とか●●●とかじゃないですか。知と情報の結節点であるべき図書館が置く必要ねーっつーの。(一部過激な表現を伏字でお送りしております)

 閑話休題。

 で、本書です。
 山ほど出てくる昭和天皇がらみのエピソードについて、どれ一つ出典の記載は無いのですが、存命中の侍従や取り巻きの方々にインタビューしているような描写がそこかしこにある。作者は相当な取材をしておるように思うのですが、真実かどうか担保できるものは何ひとつ無い点は、念頭に置くべきかと。昭和は遠くなりにけり。もはや何が真実で何が虚構なのか、調べるすべもない。司馬遼太郎のノンフィクションっぽいフィクションを読んでいるのに似た感覚を覚えます。
 ですので、今回はじめて知った明治天皇や大正天皇の臨終の場面とか、これが真実だという保証はどこにもないので、ある程度の注意、というか、冷静な距離感は必要であります。距離感といえば、wikipediaなんかで見かけ、今や有名なエピソードになった欧州訪問時の「地下鉄の切符」などは実にあっさりしている。あぁいうエピソードが、いつ、誰が語り、根拠はあるのか、検証的研究はこれからという感じっすよね。wikipediaも見方によってはバイラルメディアとなんら変わらない、うさんくさい物。かといって、本書だって読み物としては面白いが、正確性については「距離」を置くべきでしょう。パウル・カレルの著作が現在の軍事メディアで全く採り上げられないあたりを、よく考慮しなければなりません。

 ところで、この本の出版年は1974年なのですね。昭和天皇がまだまだお元気だった頃。あれですよね、学生運動とかの時代ですよね。本書の出版は当時どのように世間に受け止められたのか、そういった世相も気になりますね。

 文体は平易で、もちろん現代日本語です。集中すれば数時間で読み終える分量のわりに、敬語表現や宮中習慣の勉強になるあたり、昭和天皇云々抜きにしても、いろいろ得られるものがあるように思います。

 平成ももうすぐ終わります。
 さすがに「昭和天皇実録」全巻を読破する気力もお金もありませんので、手軽に回顧するには、本書シリーズが一番手っ取り早いかと思います。絶版ですが古書店では容易に入手できますし、図書館でもカウンターで頼めば借りられます。さすがに禁帯ではない。
 しかしシリーズ最終巻(5巻)は戦後早々まで。それ以降は、他の書籍をあたるしかありません。もちろん、有象無象のうさんくさいテキストをかいくぐらなければなりませんけれども。
 もっとも、戦後から昭和64年までを振り返るには、僕らはまだまだ若すぎる。あと200年くらい経たないと「歴史」の範疇には入らないとも思うのです。


そして夜は甦る(ポケットミステリ版) 原

 というわけで、デビュー作から30年がたち、なんとこのたび早川のポケミスのラインナップに加わってしまったので、慌てて購入いたしました。慌てた、といっても、本分の方は何回も読み返しておるので、実のところさして慌ててはいないのが本音です。ポケミスに加わった4作目の日本人作家の小説、とか、いよいよ「沢崎シリーズ」本格再始動か?とか、渋い表紙イラストなどなど話題には事欠かないのですが、やはりポケミス版「そし夜」の白眉は巻末の「作者あとがき」でありましょう。これを読みたいがために2千円は高いか安いか、となると、初読でない限りやはりこれは趣味性の高いプレミア商品ということになりましょうか。
 ここに「作者あとがき」のネタバレを書くつもりはありませんが、編集部送付時、ポケミスの体裁で送付したという伝説のいきさつ、今回なぜ沢崎の名前がなぜ「澤崎」に変更されたのか、タイトルや献辞の真相などの四方山話を、原鐺汎辰領舳Δ罵遒礎紊い進限里覇匹泙気譴襪函頭にガツンと来ますね。たった数ページなのに、実に読み応えがある。「あとがき」でこれだけ読ませるのだから、買わざるをえないわけですよ、どうしたって。買う前からわかるってんだそんなことはw だったら買うしかないだろ?!w いや立ち読みですまそうと思えば済ませるのですが、やっぱ家のソファでくつろぎつつ、本棚の原錺灰譽ション(?)を眺めながらページを繰りたいのですよ。それに、最近の本屋はポケミス置いてないから、立ち読みしたくたってできませんしw
 ともかく、先日発売された「それまでの明日」の劇的結末から1ヶ月、ポケミス版「そし夜」は、個人的には、実に衝撃的な作品になったのでした。






早川はこの調子で「私が殺した少女」以下、全巻をポケミスに入れるんだ!!

それまでの明日 原

 実に14年。
 なんと待たされたことか。前作発売時に生まれていなかった下の子は、春から中学生になってしまいます。「愚か者死すべし」は2004年末発売でした。2004年っちゃあ、アテネオリンピックがあったり、小泉政権が電撃訪朝したりした年。wikipedieaで調べたら、ザッカーバーグがFacebookを始めた年とあります。おいおい、Facebook始まった年だよ! LINEなんて無いですよ!?
 かように時の流れは残酷なのだ。それがゆえに、とうとう沢崎シリーズは時間を止めざるをえないのでした。

 沢崎の骨太な探偵っぷりは良くも悪くも相変らずで、いや、変わらないからこそ良いのであるから、満点なのです。しかもハードボイルド一人称という文体を利用した擬似叙述トリックで読者を騙すという小ネタも仕込まれていて、スレた本格ミステリファンもニヤリとせざるをえない。
 事件は実に複雑な(しかし実に単純な)様相を呈しているのですが、一つ一つ解き明かしてゆく沢崎。探偵業を自重しつつも、矜持を持って一つの謎を解くと、また次の謎が。剥けども剥けども玉ねぎの芯が見えてこないもどかしさに、ページを繰る手もじっとり熱を帯びてきます。
 父性の有り方や時事問題を織り交ぜながら進む沢崎サーガは、俺的に大満足の出来なのです。

 時計の針を止めたことについて。
 しかしこれ以上時間が進むならば、犯罪のIT化は避けられえず、どうしたって旧時代の遺物の「探偵」を話の核に据えるのは、沢崎シリーズに全然合わないのだから、はやり正解なのでしょう。スマートフォンやSNS、スマートスピーカーを操る沢崎は、実に、実に「絵」にならない(・・・でも、トリックとしては十分に利用できそうですが)。
 前作ではある重要な場面で携帯電話をギミックに取り込んでいましたが、残念ながら今作ではIT的な、あるいはITを逆手にとったアイディアはありませんでした。
 であるならば、時の流れを止めるという判断も、有りなのかなぁ、と。

 しかしそこはやはり原鐇萓検
 止まった時代感を巧みに利用し、最後の最後、本当に最後の1ページに、とんでもない仕掛けを持ってきてしまいましたよ・・・。
 果たしてこの「時代感」は次作ではどう盛り込まれるのでしょうか。

今から待ち遠しいのですが、とりあえず、既刊の再読する作業に取り掛かりましょうか。

それまでの明日
原 りょう
早川書房
2018-02-28

ミステリマガジン 2018年3月号 特集・原鐺彬

 読むべきか読まざるべきか。
 その知らせを目にした時の、第一印象だった。
 果たして私は新作を読むにふさわしい男になれたのだろうか。

 ハヤカワ書房から届いた発売お知らせメールで、原鐇萓犬虜膿刑遏屬修譴泙任量斉」の発売を知ったのだった。
 前作の発売から14年。
 長い。
 いや、ファンとしては発売していただけただけでありがたいのだが、それにしても長い。前作を読んだとき、まだ下の子は生まれていなかった。
 こう待たされてしまうと、嘘に思えてしまう。本当に手に取ることができるのだろうか?

 私が原鐇萓犬量召鮹里辰燭里蓮高校の現文便覧(要は資料集だ)の一節、文学賞直木賞受賞作一覧の中に「私が殺した少女」というセンセーショナルな文字を見たときだった。例の事件からさして日が経っていなかったので、そんなタイトルが果たして許されるものなのか、などといぶかしんだので記憶に残ったのだ。
 とはいえ、実際に読んだのは大学に入ってから。文庫版だった。当時はエンタメ・純文・古典・ノンフィクション、洋の東西を問わず読書に耽溺できた青春時代であり、その中の一冊が「そして夜は甦る」なのだった。
 ミステリと言えばどちらかというと本格および新本格を好んで読んでいたので、いわゆるハードボイルド小説としては私が読んだ初めての本になる。もちろんのめりこみ、既刊を直ちにそろえ、チャンドラーを読み、ロス・マクドナルドを読んだのだった。ハードボイルドと呼ばれるジャンルの様々な小説を読んだが、果たして、やはり心に残るのは日本人作家原鐇萓犬涼作だった(次点ロスマク)。
 私の読書観というか、人生観というか、かなり大きな影響を及ぼしているのだ。
 今だから告白すると、2ちゃんねるの原錺好譴縫螢好撻ト小説なんぞを投稿したりもした。

 ところが、「第2期沢崎シリーズ開幕!」という帯も空しく、「愚か者死すべし」以後14年間、続刊は無かった。
 下手すると原先生は、遺作を担保に早川から年金代わりに借金をしているのではないか、などと不埒な考えも抱くようになったこのごろ。
 唐突に、しかも早川の定期メールで原鐇萓犬凌刑遏屬修譴泙任量斉」の発売を知ったのだった。
 それによると、発売にさきげけ、ミステリマガジンで特集を組むという。

 ミステリマガジンこそ買わなくなって久しい。最近は図書館で読むなどしているのは、隔月刊になり、とんと書店でも見かけなくなったからだった。

 それも時代の趨勢なのかもしれないが、少し悲しい。
 その趨勢に流されるように、ハードボイルドというジャンル(一人称小説のテクニカルな話は機会があればまた別のエントリで)も、探偵という表現も、沢崎というキャラクターも、「現代」からは遠く去ってしまったように思える。

 しかし今回、原鐇萓犬離蹈鵐哀ぅ鵐織咼紂爾鯑匹漾△修Δ任鰐気い里澄△閥く確信したのだった。
 特別掲載されている新作の第一章は、まだ読んでいない。
 読んでいないが、大傑作には違いないのだ。そうでなくては困るのだ。
 だから発売まで、このミステリマガジンを食前酒のように軽やかに楽しむことにしようと思うのだ。



柿の種 寺田寅彦

 学生の頃から寺田寅彦のエッセイをちょいちょい買い集めていたのだが、先日書店で見かけたので、久方ぶりに手にとってみたのだった。

「科学者でもあり文人」という彼を評する一般的な表現は、ともすると後者にその感心と興味のウェイトが偏り、「科学者なのに文才もある(ヤッパリ文学スゴイ)」とされる誤解含みのメッセージを放っているような気がする。

 本書を読むと、彼は正真正銘徹頭徹尾科学者なのであって、俳句などは余技に過ぎないと割り切っていたらしいことがわかる。人の心の移ろいよりも、自然科学の面白さ興味深さ、関心を引き続ける謎に彼は軍配を上げているのだ。
 しかし実際には、自然科学が勝利しているというよりも、彼が人心の不安さ、得体の知れなさに恐怖し、分析不能の現象に動揺している姿が見え隠れする。ほとんどそんなふうに告白しているように、私には読める。
 本書自体は同人誌に綴った短いエッセイを時系列に並べたもので、その一つ一つがせいぜい3ページ程度、下手すると数行で終わってしまう文章なので、読むだけなら30分もあれば読める。内容も難しくなく、言葉遣いもほぼ現代語に近い。分量もあっさり目だ。
 軽く読めるのだが、だがやはり、「人間への恐怖」のようなものが、文章から滲み出ているように読めてしまい、一筋縄でいかない。無数の解釈の洪水が私の脳を襲う。
 計算できない心の内、人間の存在の頼りなさとバカバカしさに、呆れながらも近寄りがたく、遠巻きに観察する科学者寺田寅彦の姿を思い浮かべてしまう。
 前文に、実に他愛ない文章なので時間があるときに読んで欲しい旨、書かれている。
 いやいやどういたしまして、とても気楽に読める内容では無いのでありました。

 買ったあとで気付いたのだが、今は「青空文庫」で読めるのな!ww
 まぁいいや、寺田寅彦直筆のイラストが拝めるのは、岩波文庫だけ!w

柿の種 (岩波文庫)
寺田 寅彦
岩波書店
1996-04-16

フロスト始末 R・D・ウィングフィールド

 いろいろな伏線はそのままに原作者様他界により本作がとうとう最後となってしまったフロスト警部シリーズ。
 相変らず下品で毒舌吐きまくりだが愛すべきフロスト警部を主軸に、同時並行して立て続けに起こる事件に右往左往するデントン警察署という構造はいつもどおり。基本的にユーモアサスペンスなのですが、相変らず事件の方は微妙に、というかかなり陰惨で、けっこう容赦はありません。
 フロスト警部のくたびれっぷりは最終巻で行き着くところまで行き着いた感じもありまして、だからこそ、妻と死別した理由をあてもなく思い浮かべたりする様子は、地味に心に響きます。
 とはいえ、署長をおちょくったり、赴任してくる警部をコケにする腕前はやはり読んでいて痛快で、やっぱりいつものフロスト警部なのであります。
 事件の真犯人は本編をどう読んでもたどり着けません。だから純粋にミステリとして楽しむというよりも、通俗的なフロスト警部の言動にニヤリとしたり、ワーカホリックな職務遂行ぶりに感心したり同情したり・・・、というか、やや後者の方に同調することで感じるシンクロニシティに悲しくなることなのかもしれません。
 人手不足だって外が死ぬほど寒くたって多忙のあまり空腹だって、どこかの誰かが対処しなければ世の中は回っていかないのです。
 現場ってそういうもの。
 そして、そういう現場の努力を上の方は全く理解できていない(かつては自分達も現場にいたのにも関わらず)。どうせやらなきゃならんのだからやるべき事はとおりいっぺんさっさとすませ、上でふんぞり返っているボンクラどもには痛烈な皮肉をガツンとお見舞いする。とまどう彼らを見て、溜飲を下げる、下げなければならないのが庶民の悲哀なのです。
 ムチムチプリンプリン(死語)の検死官とのラブロマンスの前にシリーズが終了となったのはたいへん残念なのですが、マンネリズムに堕するよりは、ちょっくらここらで尻をまくるってのも、なんともフロスト警部シリーズらしいな、などと思いました。

 作者のご冥福をお祈りいたします。


フロスト始末〈上〉 (創元推理文庫)
R・D・ウィングフィールド
東京創元社
2017-06-30


フロスト始末〈下〉 (創元推理文庫)
R・D・ウィングフィールド
東京創元社
2017-06-30


 それにしても文庫上下巻合わせて3千円近くするってのは、やっぱおかしいなぁと思いますよ。だったらハードカバーで出してくれ・・・、いや、ハードカバーはこのボリュームだと5千円は超えるな・・・。高いなぁ、いったいどこの世界線の物価なんですかね?

俺的に子供に薦めたい本2017

 下の子が読書に目覚めた嬉しさに本を薦めまくってウザがられている昨今、皆様いかがお過ごしでしょうか。一方、上の子はついに読書に関心を持たないまま、子供を卒業しようとしております。ダメだこいつ。TwitterやLineより長い文章読めない体になってやがる。

 私はわりと早い時期に本が好きになり、昼間はアホみたいに外で跳ね回って遊びまわりつつ、夜はベッドで深夜ラジオを聴きながら読書、という夏休みを過ごした記憶があります。あのころはジュヴナイルとか、こども向けに翻案されたミステリやSFなんてのが多数ありまして、図書館から借りてきては読んでおりました。無論、夏休みの図書館通いの真の目的は児童図書コーナーになどはなく、大人向けの百科事典で人体の神秘を探り、大人向けの官能小説を渉猟するためだったのですが。
 大人向けはともかく、あの当時夢中になって読んだ児童書はたいていどれもこれも絶版ということになっており、特に、いわゆる古典とか名作とか言われるジャンル以外の図書は入手不可能。以前、古書店の主に相談したことがあるのですがその際、子供は本の取り扱いがとても雑なので痛みが激しく、古書として引き取れる美本は稀で、ほとんど廃棄される、と聞いたことがあります。
あぁそれにしてもこのまま埋もれさすのは悲しい。というか、俺が忘れそうだw
こんな地の果てのブログではありますが、そうした図書を記録に残しておかねば、そう思ってここに書き記しておく次第。文科省は推薦しないかもしれんが、HaruharaP的な推薦課題図書なのであります。
 なお、ひとことずつコメントを記載しますが、記憶が曖昧なところもあるため、信頼してはいけませんw
 一部の悪辣な古書店を儲けさせるのはイヤなので、amazonリンクは貼らん。

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◆小学生向け

・ゲバネコ大行進(瀬川昌男)
時間旅行のパラドクスをちゃんと子供向けエンタテインメントにしているのが凄い。シリーズに「スーパーネコ大作戦」など数冊あり、微妙に設定が違う。お亡くなりになる前の公式HPでは、無料で読むことができました。

・宇宙船ドクター(ハリー・ハリスン)
次から次へふりかかるトラブルを身をとして解決する少年船医の活躍。豊富なSFアイディアに驚嘆します。作者は「人間がいっぱい」のハリー・ハリスン。

・ラルフ124C41+(ヒューゴー・ガーンズバック)
ヒューゴー賞にその名を残すヒューゴー・ガーンズバックの古典SF。俺が読んだのは多分、岩崎書店版「27世紀の発明王」だったと思う。真鍋博の挿絵イラストが楽しかった。

・とらえられたスクールバス(眉村卓)
萩尾望都キャラデザで映画化までされたというのにあまり語られない本作、と思ったら、「時空の旅人」と改題され比較的入手しやすくなっておった。前・中・後編と分かれておりますが一冊一冊の分量は少なく、すぐ読めます。歴史改変SFに燃えない男の子はいない。今思えば、子供向け「戦国自衛隊」だったのかもしれない。

・少年のブルース(那須正幹)
クラスの本好きの女子から薦められたのは良い思い出。「ズッコケシリーズ」で有名な那須先生のSFショートショート集。センチメンタルな話もある一方、トンでもSFもあって、バラエティに富んでいます。今でも簡単に入手できます。先日、子供にも買い与えました。

・アルファベット群島(庄野英二)
で、そのクラスの女子に薦めたのがこちら。サンデーとかマンデーとか、曜日の名前がついた部下たちと不思議な島々を巡る冒険譚。だいぶ記憶が薄れているが、続編があったような記憶もある。

・SOS地底より(伊東信・横山明)
ご近所ミステリ・ホラー・SFかと思ったら、しっかり足を地につけた昭和の悲しい物語。ネタバレになるので詳しく記せませんが、今のご時勢、なかなか正面から取り組みづらいテーマだったりします。

・トム・スイフトの宇宙冒険(ビクター・アップルトン)
子供向けのくせにガチガチのハードSF。宇宙船とかスペースコロニーとかロボットとか、表紙の加藤直之のイラストがめちゃくちゃかっこいい! 「アリストテレス」という名前は、本作で覚えました。ビクター・アップルトンは複数の作家達による共作用の名前で、この「トム・スイフトシリーズ」は「ペリー・ローダン」のように書き連ねているSF小説群。実に100年の歴史があったりするのです。

・八十日間世界一周(ジュール・ヴェルヌ)
私が読んだのは旺文社版。原著オリジナルの(?)、エッチングみたいなイラストがなんというか、エキゾチックな世界風俗が描かれていて、大変惹かれます。雰囲気があって、一枚の絵としても良いです。主人公一行の冒険、それを追う探偵、世界各地の風俗、文明と大自然。いまでも色あせない物語。ジュール・ヴェルヌ、実は「宇宙戦争」より「海底2万マイル」よりも先に本作を読みました。

・平家物語
子供向けの「古典文学全集」的なシリーズの一冊だったのですが、どの出版社だったかもはや記憶が無い。「祇園精舎の鐘の声」から始まる数々のエピソードはどれをとっても日本人としての基礎教養なのであって、今でも私の血肉になっております。なにより、大学受験まで歴史が大得意科目になったのは本書のおかげ。もっともセンター試験は世界史で受験しましたけどねw

・0011発進せよ!(村上義人)
ネットにほとんど情報が無いのですが、「ほらふき探偵団」シリーズの一冊。荒唐無稽なほのぼの探偵小説でありますが、一家の表現が毒ありまくりで読んでいて楽しかった。オチやストーリーは、残念ながらほとんど覚えていません。


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◆中学生向け

・復活の日(小松左京)
図書館でエロい本を探しに大人向けのコーナーで発見した本作。初めて読んだ小松左京がこれという幸運に、神に感謝せずにおれない。以前このブログで紹介したとおり、子供向けに翻案したラノベがありますが、中学生くらいなら普通に読めます。「マスでもかいてろ!」は射精経験の無かった当時の自分には謎の言葉でした。

・ねらわれた学園(眉村卓)
「ジュヴナイル」の定義って今になってもはっきりしないのですが、俺の中では本作や、「閉ざされた時間割」「なぞの転校生」といった一連の眉村SFがそれに当たると思うのですよ。今時の「ラノベ」に比べたら、もっとずっと子供達に寄り添っていましたな。

・ポケットのABC(眉村卓)
眉村卓のショートショート集。続編もあります。発想の根本はガチSFなのでありましょうが、かなりナンセンス・トンデモ・不条理オチな作品が多く、エキセントリック。バカSFも多く、アイディアの宝庫。本がボロッボロになるまで読み返しました。

・ふたり(赤川次郎)
表紙イラストが大島弓子だったのが印象的で、クソみたいな映画版に比べたらとても美しいお話。胸が苦しくてなかなか読み返せずにいる、大切な小説です。

・夜(赤川次郎)
ホラー小説の体をしながら、その本質はアクションサバイバル小説。本作の「敵」に立ち向かう「普通の人々」の強さに、なんとも言えず熱くなってしまいます。最後の決戦でのギミックも手に汗を握ります。赤川次郎全盛期最良の一冊です。というか、「ふたり」と「夜」だけでいい。しかし子供心には、エロスな描写にドキドキしましたな。

・声の網(星新一)
この小説の新しさにいまこの2017年になって戦慄してしまいます。スティーブ・ジョブズよりもビル・ゲイツよりも、誰よりも正確に未来社会を予想してた星新一。SF作家ここにありといった観があります。そしてそれを子供のころに読んでいたという経験は、密かに誇りに思っています。

・そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)
ネタバレ無しに本作を読めた幸せ!!! タイトルがかっこよくて買ったのですね(ハヤカワ文庫版)。「なぜエヴァンズに頼まなかったのか?」とか「動く指」とか、あの頃の私はタイトルで買う小説を決めていました。まだ子供の小遣いで文庫を買えた時代で良かったです。

・夏草冬濤(井上靖)
いまなら絶対に腐女子が食いつくはずの小説。とても大らかな青春群像は、時代を現代に翻案しても古びていないように思えます。なんでアニメ化しませんかね。不思議です。かつては入試問題にもたびたび採用されておりましたな。

・旅のラゴス(筒井康隆)
キレイな筒井康隆による連作短編。「王国への道」の文明・歴史ビジョンは今でも俺に影響を与えている。「解放された男」や「銀鉱」における非情な人間観、「着地点」におけるハードSF、最終話「氷の女王」の詩情溢れるエンディングと、とてもバラエティに富んでいる。読み易いが教養溢れる文体は、その辺の「なろう小説」も見習うべきでしょう。

・ラヴクラフト全集2(H・P・ラヴクラフト)
マジで怖くて布団にくるまってションベンちびりそうになりながら読んだ記憶があります。「クトゥルフの呼び声」よりも「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」の方がめちゃくちゃに怖かった。

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他にも思い出したら、追加します。

ミステリガール デイヴィッド・ゴードン

二流小説家」で鮮烈なデビューを飾ったデイヴィッド・ゴードンの第二作なのだが、本作に散りばめられた「自分語り」「映画」「文学」「カルト」といったキーワードへの偏愛振りがどうにも「フリッカー、あるいは映画の魔」を想起させ、そのせいでいまいち新鮮味が足りません。最初にこっち読んでると、逆の感想かもしれませんね。でもオチは「フリッカー」ほどセカイ系でないため、壮大なカタルシスを得る、といった域までは達していないような気がします。
 が、軽やかな話運びとユーモア、そして主人公のダメ人間っぷりが楽しく、読み始めるとずんずんページをめくれます。登場人物たちのネジのハズレっぷりも楽しく、しかもそれらがさして物語の本筋とは関係無いというのも、人間社会の綾を見ているようでなかなか興味深いです。
 そう、登場人物たちはどいつもこいつも長々と自分語りをするのです。起伏に富んだ山あり谷ありの人生。人生の落伍者の烙印を、生まれた時から刻まれてしまっている愛すべきダメ人間たち。シビアな現状から抜け出すために、時に必至に、時に呑気に対処する様子が、悲壮感とおおらかさとを伴って押し寄せる。そうした人間たちの物語を楽しむ小説なのだと思う。
 そうした「語り」を楽しめないと、大著でもありますので、はっきり言って楽しめないでしょう。こうした「小説を小説として楽しめない」現代エンタメ業界への警句も、登場人物たちの口を経由して語られるあたり、一本取られたというか、お前が言うんかと突っ込みたいというか、苦笑いせざるをえないという仕様。作者さん、なかなかへそ曲がりです。「重力の虹」とか「フィネガンズ・ウェイク」とか、ちゃんと読んでる人なんて、あなたの身の回りにいます?
 タイトルの「ミステリガール」がいったい誰を指すのかは、幾層にも重ねられた登場人物たちの物語レイヤーを読み解く努力も必要ですし、そうした努力をしてもはっきり言ってなんの益も無いのでありますが、それこそ、エンタテインメントなのかもしれません。ミステリとしては本格というよりも、サスペンス系ですので、トリックとかロジックとかを期待すると残念なことになるでしょう。
 大人に向けられたディレッタンティズム成分マシマシのラノベ、それが本書の立ち位置なのかもしれませんなぁ。面白かったけどね。

ミステリガール (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
デイヴィッド・ゴードン
早川書房
2013-06-05


世界の終わりの七日間 ベン・H. ウィンタース

 と、いうわけでたったいま読了したとこ。
 三部作の最終巻であります。
 迫り繰る巨大隕石はとうとうあと一週間で落着確定という状況下で人間はいったいどういう行動を取るのか、私の興味はその一点にのみあるのでして、もはやミステリがどうとかSFがどうとか、そういうジャンルは問題ではなく、ただ、主人公パレス元刑事の道程遍歴にのみ関心が向くのです。
 世界の状況は、難民がどうとかコミュニティがどうとか、そういう次元をとっくに飛び越えています。
前作で良い塩梅だった先輩刑事は登場すらせず(行方もわからず)、溜まり場だったダイナーもどうなっているかわかりません。テレビ・ラジオやネットなんかはとっくに音信普通のこの終末世界。
ある者は武装し、ある者は暖かく分け与え、ある者は欲得で協力する。
 人類滅亡のラスト七日を、唯一に肉親である妹を追い、結果、そこで遭遇する事件の真相を解き明かすという物語。
 これ以上の感想はどうしたって真相に触れざるを得ないので差し控えますが、どうしたって真実を知りたい主人公の行動に涙を禁じえません。
「なんやこれ、俺妹やエロマンガ先生みたいな、妹萌え小説やろ」なんていったヤツの頭上に、どうか隕石が落ちますように。

 なお、アメリカにおけるアーミッシュの存在感というか文化というのを理解していないと、ちょっととっつきにくいかもしれません。「刑事ジョン・ブック目撃者」観たり、「ゴルゴ13」の某エピソードとか読んでおくと吉。



刑事ジョン・ブック 目撃者 [Blu-ray]
ハリソン・フォード
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2014-03-26



三部作の感想
地上最後の刑事
カウウンドダウン・シティ
世界の終わりの七日間

カウントダウン・シティ ベン・H. ウィンタース

 前作はSFを舞台にしたミステリでしたが、シリーズ第二部の本作はミステリをダシにしたSFでした。とうとうデッドエンドが数ヶ月後になってしまいましたので、もはや法執行機関は機能しないのです。
 隕石落下が多少動機に絡むのでその部分がミステリっぽくはあります。しかしやはり、政治経済コミュティが崩壊していく様子を描いたSFでしょう。加速度的に悪化してゆく人間社会は「霊長類南へ」といった無常感があります。一方で、たくましく・あざとく生きてゆく人間性も語られておりまして、SFとして実に楽しめる出来となっております。
 人間絶滅が確定した世界状況で、多生の縁があったというだけで無報酬で人探しをする主人公。食糧配給も滞った喫茶店でジョークを飛ばす仲間たちや、急進的共産コミュニティを樹立する若者たち、いまだ体制側に就く人間、司法機構が停止した検死局で働く医師、押し寄せる難民など、映画にしたらおいしそうなシチュエーションがテンコ盛りです。

 一人称視点のいわゆるハードボイルド形式で話は進むので、世の中の変化はどこまでも主人公目線です。だから文体上、終末世界を俯瞰できないのですが、それが息苦しさを感じさせる効果を上げています。それが良いのですけれども。ハードボイルドらしく、皮肉やパンチの聞いた文体も素敵で、しかもそれがエルロイほど難解でないのがなお宜しかったりします。
 地球滅亡という大状況のなか、主人公が振り返る人生や、唯一の血縁となってしまった妹への感情、顔見知りというだけの子供たちに振り向ける愛情、人生の良き先輩の協力など、泣ける要素もふんだんに盛り込まれ、サービス精神旺盛な本作。
 最終第三部はいよいよ隕石落着一週間が物語の舞台だそうです。これは読まずにおられまい!!
 物語の終着点はどこになるのでしょうか。BOOMSDAY前に終わるのか、その後も生き延びてしまうのか、はたまた妹が身を投じた(とされる)カルト集団が活躍して破滅は回避されるのか、藤子F先生の某作品のようなオチになるのか、無限に予想はできますが、はやる気持ちをおさえつつ、今日は寝ることにしますw


地上最後の刑事 ベン・H・ウィンタース

 シチュエーションミステリ、というジャンルがある(と個人的には思っている)。たいていはSFで、アシモフの「鋼鉄都市」を筆頭にしたロボットシリーズとか、ランドル・ギャレット「魔術師が多すぎる」とか、ハル・クレメント「20億の針」なんかが有名作だが、もっと定義を狭めるとなると、要は本格ミステリの密室・密閉モノはほとんどがそれに該当する、そういうジャンルだ。
「手段」「動機」「機会」の三すくみ関係にそのシチュエーションが絡んでくるのだが、その度合いは作品によって全然違ってくる。トリックとストーリーのどちらの比重にかかってくるかも関係してくるので、作品のベクトルは単純な2軸にプロットすることはできないものの、概ね、いわゆる「新本格」と呼ばれるここ30年の日本ミステリにおいては、「トリック」と「手段」に大きく依存しているように思われる(だから、大人になると物足りなくなる。話が薄っぺらだから)
 本作のシチュエーションは壮大稀有で、「半年後に落下する隕石で地球滅亡が確定」しているという恐るべきそそる状況がその「設定」となる。
 隕石落下が何かトリックに関与するわけではないので(←別にネタバレではないと思う。今のところ)、ジャンルとしては「サスペンス」に当たるとするのが順当なのであるが、やはりこれは「ミステリ」なのである。
 というのは「人類絶滅が確定している世界でなぜ殺人が起こったのか」という「謎」、つまり「動機」の解明がやはり「ミステリ」なのだから。
 その解答に至る道のりにおいて、その殺伐たる世界観が次第に浮かび上がる。結果的に本作の世界観は乾いたハードボイルド(逆説的に、ウェットな話にもなっている)になっていて、実に、実に今の私の気分に「はまっている」。崩壊する世界で職務に忠実であろうとする主人公。私には、多くの日本人の労働者の姿に重なって見えてしまいます。

 ところでこの作品は三部作の第1部になっているようです。
 第2部や最終巻で、地球壊滅という大状況がどうミステリとして消化されるのか、興味が尽きません。
 というわけで、仕事が落ち着いたら続刊に手を出そうと思っております。

地上最後の刑事 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ベン H ウィンタース
早川書房
2016-06-09





 ところで、私は「ポケミス」で読んだわけだが、いつのまにかフォントサイズは大きくなり、促音「っ」もちゃんと小さく印刷されていた。最近本当に目が悪くなってきたので、たいへん助かりますw

百番目の男 ジャック・カーリィ

 たいていのミステリがストーリー中に放つジャブはそれ自体が華麗でなければならないのは(金を取るエンタテインメントなのだから)当然だとして、肝心な点は、優れたミステリにおいては全てのジャブが、綿密に計算された連携を持ち、最後のフィニッシュブローを放つための布石に徹するという役割を、しっかり果たしているということである。だからジャブとは、最後のストレートの為に計画的に放たれなければならず、それと知らない観客を沸かすための小道具に過ぎないのだ。従って目の肥えた観客は、死んでいるパンチと生きているパンチとの見極めが正確で、勝敗が決したあと、どのパンチやフットワークが試合の組み立てに貢献したのかで評価し、選手の才能を見る。俺はその審美眼が欲しい。
 
 で、本書を読み終えて、そうした観点から思い返すと、ずいぶんムダ弾が多く思えたし、みえみえのフェイントには苦笑いするしかなかった。いまさら「羊たちの沈黙」をやられても、なんだか懐かしい感覚すらある。それが偽らざる正直な感想だ。そんなパンチ、蠅が止まって見えるんだぜ。
 フィニッシュも、訳者あとがきで自賛するほどの内容とはとても思えない。手がかりが読者に提示されていない以上、まずもって、本作はミステリではないのだった。そのあたり、ガチンコのボクシングを見に言ったら、学生プロレスの脚本を見せられたような失望も覚えた。ま、これはこちらの準備不足だ。学生プロレスには学生プロレスの面白さがあるのはわかる。学園祭の花形イベントだったりもする。ただ、こちらは後楽園ホールまで見に行ったのに、というハズレ感。つまりはそいうことなのだ。
 真相が明らかになったのちのドタバタは明らかに蛇足で、もっとスマートに試合を締めくくる方法があったのでは、とも言いたくなる。見え透いたタイムリミットサスペンスは、手垢じみていただけない。そのあたりのページはさっくり省いて斜め読みしても、なんら影響がなかったりする。

 しかし新人ボクサーにしては試合運びは軽快で、観客を喜ばせるツボも心得ていることは確かであり、実際に目を引くエピソードやレトリックもあった。
 主人公とそのバディとの掛け合いが最たるもので、ウィットに富みスノッブな会話はなかなか読ませものがある。暗喩隠喩が巧みで、英語の原文で読んだら普通の日本人には理解できなかったかもしれない(うーん、変な日本語だ)
 登場人物達の過去が少しずつ浮かび上がり、それがなんとなく、人生の無情とか愛情とか表現される何かをイメージさせる場面がいくつもあり、興味をそそられる。
 だから繰り返すが、本書は決して本格ミステリではなく、サスペンス小説とかクライムノベルとか言われるジャンルであれば、なかなかの出来栄えであるように思う。
 結論からすれば、読ませる文体、そそる表現には感心したのは確かで、クオリティの高いエンタテインメントになっている。薄っぺらなネットの文章に飽いた我が日常においては、スパイスとパンチが利いた作品であったことは間違いない。
 しかしくれぐれも、ミステリとして読んではいけないと思いました。まる。

百番目の男 (文春文庫)
ジャック カーリイ
文藝春秋
2005-04

 

鉄の夢 ノーマン・スピンラッド

 なんだかんだ言って今日も今日とて70年代SFを読んだのであった。

 非常にあらすじを説明しにくいのは、本作が階層構造になっているから。
 具体的に言うと、このSF小説「鉄の夢」は、「アドルフ・ヒトラーが書いて発売された1954年度ヒューゴ賞受賞作『鉤十字の帝王』の第二版を収めた本」という体で、1974年(日本では1980年)に発売されているのである。

 これだけじゃ、全然衝撃が伝わらないな。
 俺も本書カバー折り返しのあらすじを読んでもなんのこっちゃわからんかった。

 ページをめくると、逆卍をあしらった小説の表紙という体裁になっている。
 続く項にはSF作家アドルフ・ヒトラーの 作品一覧があり、 略歴の記載がある。そして小説「鉤十字の帝王」の本編が始まり、上下二段組みの約250ページを読み終えると、ニューヨーク大学教授による小説解説があり、さらにその次に「鉄の夢」を翻訳した荒俣宏の訳者解説があるのである。
 分かりやすく書くとこんなディレクトリ構造になっている。

  • 現実世界
--------------------------------------------
|小説「鉄の夢」表紙&カバー
|中表紙
|作者ノーマン・スピンラッドによる献辞

  • 虚構世界
--------------------------------------------
|小説「鉤十字の帝王」(アドルフ・ヒトラー)表紙
|本書の経緯
|アドルフ・ヒトラー著作一覧
|アドルフ・ヒトラー紹介

<更なる虚構世界>
-------------------------------------------- 
|小説「鉤十字の帝王」本編
--------------------------------------------

|第二版あとがき(ニューヨーク大学教授ホーマー・フィップルによる解説)
 
--------------------------------------------
 
|訳者(荒俣宏)あとがき
--------------------------------------------


 お分かりいただけたであろうか?

 アドルフ・ヒトラーが書いた小説「鉤十字の帝王」自体は――本書の大部分をそれで占めておきながら――ぶっちゃけて言えば退屈の一言である。退屈なのだが、本書「鉄の夢」のセンス・オブ・ワンダーはそんなところには無い。上の表をご覧いただければ理解できるだろう。この構造を楽しむことができるか否か、が、本作を受容できるかどうかの分岐点なのである!!w

 虚構世界では、ヨーロッパからの移民であるアドルフ・ヒトラーは、50年代のSF界隈においては同人活動に熱心なB級SF作家でしか無い。
 だから、なぜアドルフ・ヒトラーなる人物の小説が、現実世界のナチスの勃興から西部電撃戦や独ソ戦といった一連の歴史をなぞっているかのような鉄血グロ小説を書き上げたのか、全く説明が無い。
 虚構世界の人間にはそんな現実世界のことは関係無いのだから。
 だから、現実世界の我々視点では「鉤十字の帝王」が何のメタファーなのか概ね推察できる一方、虚構内にいる「ニューヨーク大学ホーマー・フィップル」氏には、そのこと自体は理解不能なのだ。

 しかし、現実世界のアドルフ・ヒトラーと虚構世界のアドルフ・ヒトラーとの精神構造がなにゆえ似ているのか、そのこと自体の説明を、本作は「あえて」放棄している。別に「なろう小説」ではないので、転生しているわけではないのだ。そんなツマラン構造なら俺はわざわざこんなエントリ書いたりしない。

 以下、ネタバレになるので、それを嫌う場合は、ブラウザをそっと閉じて欲しい。
 ネタバレしますよ?

(虚構の)第二版あとがきの(虚構の)ホーマー・フィップル教授は、(虚構の)SF作家アドルフ・ヒトラーの精神構造と(虚構の)世界情勢との関係を述べている。1974年の視点で、だ。
 ここにおいてようやく本書で最も、そして真に驚嘆すべき記載を読んで我々は驚愕する。
 この虚構世界では、全世界がソヴィエトによって赤化が完了され、米国と大日本帝国のみが細々と、その世界統一に反抗していたのだ! そしてそういう世界だからこそ、「鉤十字の帝王」という血生臭くグロテスクな小説が再評価され復刊されたのだ、と説明されているのである!
 虚構と現実を俯瞰しうる「高い城の男」は本作には登場しない。それはあなた自身なのだから。
 事前の解説など抜きに偶然この「鉄の夢」を手にとってしまった私の混乱を想像してくれたまえ。まさに、センス・オブ・ワンダー。この驚きの一撃を堪能したいがために、退屈極まり無い「鉤十字の帝王」を読み終えた甲斐があったとすら言えよう!

 ところが、この設定・この世界観・本書の構造について、現実世界の作者(ノーマン・スピンラッド)からはひとことの説明もない。
「鉄の夢」が発売された1974年は、一時緊張が緩和されていたとはいえ、冷戦という対立構造こそが地球上の全てを決定していた時代であることをもって、2017年の現実世界に棲む日本人としていろいろ妄想するしか無いのだが、だからこそ面白いのである!

 はっきりいってそうしたメタ構造を楽しめない限り、本書は1ミリの価値も無い小説だ。
 だがあなたが楽しめるかどうかは表紙をめくり訳者荒俣宏の解説を読み終えるまで判断できないという理屈でもある!
 このことは、少し大げさだが「娯楽小説の真のあり方」と言ってさしつかえないかもしれない。
 
 以上のように、読み手を非常に選ぶ小説だとは言えるので万人に薦めることはできないが、ここまで楽しく考察でき、じっさいこうして時間が過ぎるのを忘れて文章を打ったりしている私のような人間がいるのである。はまる人にははまるはず、とだけ言っておこう。そこらにある、歴史改変だとか、異世界転生だとか、一部の例外を除きほとんどしょーもないレベルの有象無象の作品とは、モノが違うことだけは確かである。俺ツエー系ではるけどな!www

 いやそれにしても、「訳者解説荒俣宏」が虚構でないと、誰に言えるだろうか?

ノーマン・スピンラッド
早川書房
1980-04


へびつかい座ホットライン ジョン・ヴァーリィ

 70年代のSFは体質に合わないという話は何度かした。
 はっきり言って面白いと思う作品は過去読んだ中ではほとんど無かったわけだが、なぜだかSF界隈では「必読の書」とされている作品も多い。本書もその一冊で、だから手にとったのだが、実のところ、年配のSFオタにバカにされないため、というかなり消極的な理由が動機の大半を占めているので、尚更面白いと思えないのだ。なぜ俺にとって70年代SFはパッとしないのだろう。音楽なんか最高なのに。
まぁでも、タイトルはかっこいいよな、「へびつかい座ホットライン」。これが「射手座」とか「乙女座」だとメジャー感ありすぎるし、「コップ座」だとユーモア感が出ちゃうし、「エリダヌス座」だと狙い過ぎだ。黄道12星座になりそこねた、というか、ほぼ黄道上にあるというのも、「へびつかい座」の特徴なのだが、そうした点は物語で全く言及されない。冒頭で「Ophiuchusはオヒューカイって発音するんだよ、元々は医者を表現する言葉だったよ」なんてわざわざ注釈してるから、何か意味があるのかと思ってしまった。深読みしすぎ。ともかく、メジャーでもマイナーでもない、微妙な塩梅がかえって良いのかもしれない。
 と、タイトルでいつまでも引っ張るのもアレだし(20170911追記。いまさら気付いたが、ボイジャー1号が「へびつかい座」に向けて打ち上げられたのは1977年のことだった。そういうことなのか。)、そろそろ本題に入るが、一読、まず怒りに震えたのはその尻切れトンボっぷりで、ぶっちゃけ何の解決にも至っていないところ。問題だけ提示しといて、解決編は無い。この構造は「スタータイド・ライジング」も同じっちゃあ同じなのだが、ブリン先生の作品はワクワクドキドキの冒険SFだから、十分それだけで満腹なのだ。
 もちろん、「へびつかい座」ホットラインにも感心すべき点はある。
 クローンという設定を駆使して錯綜する物語は、今風で言えばリピート物の先駆けとも言え、特に前半、あっちこっちへ話が飛ぶあたりはドライブ感があって楽しい。楽しい? いや、翻弄された、という表現がより適切か。ブラックホールを介した時空超越などかなりグッとくるアイディアなのに、ほとんど顧みられていないのはかなり贅沢な作りと言える。
 身体文化や性の変容にポジティブなのも70年代ぽいっちゃあ、ぽいかもね。もっとも見方を変えると、生命科学の可能性が無限に広がっている時代だからこそのファンタジーなのかもしれないけれども。それに、そうした身体変化が「攻殻機動隊」ほど「人間性のありよう」に迫ってくるわけでもない。
 へびつかい座からの情報がどのように人間社会に影響を与えたのかいま一つはっきりしないのは少々もどかしい。つまり「人類」全体の問題なのに、主人公周辺はどこまでもインディビジュアルな視点に終始していて、エンタメ感が薄い原因になっている。アホみたいなセカイ系もうんざりだが、主人公に使命感みたいなのが無いのも盛り上がりに欠ける。
 この原因は、社会や政治、経済、歴史にほとんど無関心なまま物語が進むという点にあるかもしれないし、本作の特徴だとも思う。それはそれで良いのだが、主人公達が寄って立つ未来社会の描写がピンと来ないので、主人公らしさ、ヒーロー・ヒロイン像が掴みにくい。

 やっぱり、70年代SFはどーも合わないのだなぁ。あ、あとイーガン。イーガンも何作読んでも面白いと思えんのよ。困ったもんだ。

 

黙示録3174年 ウォルター・ミラー

 1959年にアメリカで刊行されたディストピアSF。巻末の解説は池澤夏樹。
 核の炎に包まれたが滅ばなかった人類の復活と破滅の物語。
 ネビル・シュート「渚にて」ほど物語に起伏があるわけではなく、ブリン「ポストマン」ほどエンタテインメントを志しておらず、カード「辺境の人々」ほど人類に期待していないし、筒井「旅のラゴス」のような文明観も読み取れない。内省的過ぎるSFなのだが、あらすじから察せられるが如く、本作の大きなテーマは明らかに「キリスト教」である。だから、中世キリスト教のモノの考え方を知らないと話の展開がまだるっこしく感じることになる。
 そう、人類絶滅の危機と文明の再生という大前提・大状況があるにも関わらず、物語の主軸はあくまでもキリスト教なのだ。
 だから、「部外者」である現代日本人の私の目線では、特に前半の登場人物たちのあまりに保守的で迷信的で頑固な行動には、かなりリーダビリティがそがれてしまったというのが正直なところ。また、ところどころ顔を見せる妙な「奇跡」も、少々唐突で話から浮いているようにも思います。

 文明の灯火が教会や修道院で密かに守られ続けてきたというのは、現実世界の「中世の秋」そのまま。かといって彼らにはセルダンプランのような明確な目的意識はないので、文明の意味を考えることよりも、それを固守し続けることに意義を見出してしまう。手段の目的化ってやつですね。本末転倒ともいう。なんだかんだあってやがてルネサンスを迎えるわけだが、文明の発達が人類を聞きに追いやったことまでは伝わらない。つまり、人類はどうあがいても同じ道程を進むことになることが黙示されてしまっている、とも読み取れる。
 このように、物語の根底に流れる暗い中世キリスト教史観はやりきれなさがあるものの、不思議と嫌いにはなれなかった。そうだね、手塚治虫「火の鳥 未来編」みたいな感じ。なぜなら本書を読み終えた時点で普通のアジア人ならば、永遠の輪廻へと発想が拡大し、その悠久の流れにこそ価値を見出すからだ。諸行無常。空即是色。色即是空。ほら、すんなり受け止められるでしょ。
 政治経済が混乱する現代社会で、孤高の賢者をきどってtwitterで世相を愚痴るより、本書を読むことで清廉な気持ちになれます。そうね、この感覚はひとことで言えば、「ゆるぎない諦念」かなぁ。
 
 ところで、 物語の終わりの方で、キリスト教と自死についてのやり取り、つまり、安楽死の問題にかなり項が割かれていて、60年前なのにさすがSF、などと妙な感心をしてしまいました。もっとも、作者はカトリックであるのに拳銃自殺を遂げてしまったそうですけれども。

 さて、本作はヒューゴー賞を受賞しているというのに長らく書店在庫のみ、つまり、事実上の絶版状態というのは、とても悲しいですな。新訳とか不要ですので、デジタルででも良いので、とっとと再販売していただきたいところ。ちなみに、私は古本屋で100円で入手しましたけどね。 

黙示録3174年 (創元SF文庫)
ウォルター・M・ミラー・ジュニア
東京創元社
1971-09

 amazon等のネット通販で1,000円以上出して買うよりも、最寄のちょっと真面目な古本屋で数百円で入手すべきでしょう。

聲の形 公式ファンブック

 マガジン掲載読み切り版(リメイク版)を読み、連載版(コミック版)も持っているものの、新人賞受賞版(オリジナル版)は未読であったので(というか、過去掲載されたことあったのかしら?)、それ読みたさに買いました。

 画風があまり変わっていないことにまず驚きましたね。そして、連載編や映画で少し不足していた小学生時代の情報が補完できたことが大変喜ばしい。というのも、先のエントリでも書いたとおり、漫画はページ当たりの情報量がもの凄く多く、映画をもってしてもまだ解明できない謎がたくさんあるからだ。話運びが上手なのでスルーしてしまいがちだが、よくよく考えると登場人物がなぜそんな行動をとったのか、少し引っかかる部分がいろいろあったりする。
  従って本書のもう一つの目玉は作者Q&Aなのでして、これが結構な分量があり、「聲の形」の理解をとても助けてくれるのです。で、実はこれがとんでもない代物で、張られた伏線や未解明の設定を結構赤裸々に語っていて、「ええええそんな設定だったんか!?」とか、「そうか作者の意図はそうだったんか」とか、膝をポンポン打ちまくりで湿布を貼らねばならないくらい。痛い。なにより、「キャラの行動や仕草、セリフの一つ一つに全部意味を持たせている」というのに軽く眩暈がしますね。そこまで深読みできる読者なんて、今の日本にいませんよw この設定の深さはその辺のアニメやラノベの浅い作りとは、物の考え方が根底に違う。少女漫画の文法だこれ。


 気になるところは、「いったいショーコは、いつ、どうしてショーヤを好きになったのか」を詳細に解説しているところですね。それは、是非本書でご確認ください。
 あと、漫画にはなくて映画にあった病院での診察シーンなども、その理由が書かれていたりします。で、作者によりますと、これが大変な重要ポイントの一つだったのですね。なんかもう、漫画と映画のステキな(?)リンクに驚きます。


 というわけで、タイトルには「ファンブック」とありますが、そんな軽いものではなく、「大絶賛ネタバレ本(しかも公式)」という、恐るべき書物だったりします。
 ただし注意すべきは、いきなり本書を読んではいけません、ということです。
 まず連載版を3回くらい読み、映画を2回くらい見てください。自分の頭でよーく考えて、ゆっくりこの物語を咀嚼して醗酵させて、それからこの「解読書」をお読みになるのが、正しい順番だと思います。



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象牙色の嘲笑(新訳版) ロス・マクドナルド

ロスマクのアーチャー物は、作品の出来栄え、文体、テーマなどから評論などにおいては一般的に「ギャルトン事件」を境に前期と後期に分けらることが多い。
で、本作は前期の真ん中に当たる作品になる。前年に発表された「人の死に行く道」と比較すると、テーマ・文体ともに、錯綜する人間模様を背景に発露する人生描写・人間描写がぐっと濃厚になっています。
うむ、私好み。
一方で、晩年の作品に比べると比喩表現などのレトリックはわりあいあっさりしています。かえって読みやすいくらいです。 タイトルに「新訳版」とあるとおり、故小鷹信光が臨終の床で訳出したものらしい。文体はこなれていて、21世紀の今でも読みやすくなっている。古臭くない。そう、原書は1952年なので、約60年も前の小説なのである。

ところで、本作のキモの一つはトリック(?)だと私は思うのです。
すれっからしのミステリマニアなら、おそらくタイトルから見破れてしまうかもしれません。私の心は心が深山の泉のように澄んでいますので、全く気付きませんでしたがw
そのトリックが、「え? これがロスマク?」と新本格もびっくりの斬新(皮肉です)なシロモノで、この点は私が読んできたロスマク作品群の中ではかなり逸脱しているように思いました。予想の斜め上を行くという意味での逸脱ですけどw らしくないと言えばらしくないし、意外と言えば意外。この時期は一般的にロスマクが己の作風を模索している時代ということになっていますので、なるほどな、と頷いてしまいます。ですが、これが新境地と言えるかは、ちょっと分かりませんw というのも、後年、トリックに注力した作品はほとんど無いからです。ですので、「ロス・マクドナルド」というブランドにおいては、注目すべき異端作品だと思います。

トリックを一旦脇に置くとすれば、新刊で入手しやすく、新訳も違和感無くすっきりしていて(けど、しっかりロスマク節です)、ロスマク入門書としてかなり上位にくる出来映えだと思います。
そうなんですよ、書店店頭では、なかなか見かけなくなっているんですよ、ロスマク・・・。


 

しんがり 山一證券最後の12人 清武英利

映画「ウォール街」は少年時代の多感なHaruharaPにそれなりの影響を与え、証券市場というものに興味を覚える一つのきっかけになったのだと思う。憧れを抱いたとも言えるかもしれない。私はそういう世代だ。
大学を出るころにはバブルはとっくにはじけていたものの、證券会社の新卒採用はそこそこ活発だったように記憶している。某大手から内定をいただいたりもした(結局、全然別の業界に就職したけど)。だから、すでに社会人となってはいたが、山一證券自主廃業のニュースはそれなりの関心があった。「それなり」ではないな。積極的な関心があった。
そういう下地を持つ私が本書を手にとったのには理由がある。
昨年、私の勤める会社で大規模な人事異動あったのだった。その際、山一出身の社員が、(年齢も高齢ということもあって)ややリストラ気味に退職された。転勤前の部署にいた事務の女性も、そういえば元山一だった。ウチの会社は製造業であり金融業ではないのだが、そう、山一出身者は身近にもいたのだった。それに最近気が付いて、彼・彼女たちの来し方行く末を案ずるべく、そして自分の社会人人生を振り返るべく、本書を手に取ったのだった。

「しんがり」とはもちろん殿軍のことである。
軍オタ・歴オタ諸氏に語らせればエンドレス間違いなしの最重要ワードだ。
勇壮だが悲壮感が漂う言葉である一方で、ある種のロマンチシズムも感じさせる。不思議な言葉だ。その多くが、悲劇的な結末に終わる物語だから、そう感じるのかもしれない。

かくいう私にも「しんがり」の経験があったりする。
無論、軍隊ではなくビジネスの話であり、せいぜい私の所属する事業所が統廃合の対象になったり、会社自体が合併で名前が変わったりしたことがある、という程度の話だ。その程度の話なのだが、事実、「しんがり」として私は残務処理を任されたのだった。
刻々と迫るタイムリミット。ほとんど職務放棄といった体で投げ出された他人の仕事の最終処理。次々とかかってくる関係業者からの電話、そして折衝。
なのに私にはほとんど権限は与えられず、無責任で曖昧な本社の指示をギリギリの自己判断でクリアしつつ業務を進めていかねばならなかった。要領の良い上司や同僚たちは後顧もせず次々とオフィスを去っていく。立つ鳥跡を濁しまくりだった。酷い有様だった。普段は「個人プレーよりチームプレー」だとか「全体最適を考えろ」とか言っていた連中なのだ。
 
しかし私は最終日の日付が変わっても、PCと電話に噛り付いて次の従業員たちへボールを繋ぎ、バトンを渡すための業務をこなさなければならなかった。
損な役回りだと思った。
深夜まで残る私に対して電話で「がんばれよ」とのたまう本社の励ましの言葉が、寒々しく聞こえてしまう。ほとんど恨んでもいたと言っていい。
そうまでして成し遂げた仕事は、事後ほとんど報われず、新しくやってきた上司からは評価もされなかった。
実にしんどかった。私の「しんがり」としての役目は、そんな仕事なのだった。苦い記憶、では甘い表現だと思う。 思い出すたびに吐き気がする。
だから、社会にはびこる「無責任な責任者たち」には、塗炭の苦しみを味わいながら死んで欲しいと思うのだ。
会社に席がある私ですらそう思う、末期戦の殿軍。
ましてや、会社が事実上倒産し、明日の糊口を凌ぐ手段の算段すらないのに、その役目を負わねばならぬ者たちの気持ちを慮ると、私は大層切なくなる。
だが私は本書を読んで、山一證券に最後まで残って戦線を維持した「しんがり」たちが高く評価されていることが実に羨ましく思った。眩しく見える。本当は大成功の撤退戦だったのでは、と思うのだ。僻みと言って良いかもしれない。

本書はドキュメンタリーの体裁ではあるものの、人物描写が面白く、物語としても楽しめる。また、山一證券が破滅した理由も、わかりやすく且つ手際よくまとめられていて、当時の世相を理解する一助にもなる。

そう、時代は変わったのだった。
いつのまにか、コンプライアンス全盛の時代。もはや山一證券は会社としては登記されておらず、監督を怠ったと言わざるをえない大蔵省もすでに無い。
隔世の感がある。
冬来たりなば春遠からじ。人間万事塞翁が馬。俺の会社に対する愛憎もいつかは揮発し、雲散するのだろう。

だが、山一證券の「しんがり」たちが残した記録、「社内調査報告書-いわゆる簿外債務を中心として」は確かに存在したのだ。
そしてそれは、今でもネットで閲覧できるのである。



 
追記。
山一證券に関する手軽な情報は、Wikipediaの項目の、旧版が参考になる。編集合戦の挙句、いまは随分あっさりした記載になっている。旧版は、会社の破綻が刻々と迫るなか、首脳陣や大蔵省がどう対応したのか、なかなか読ませる記述だった。

倒立する塔の殺人 皆川博子

うーむ。また女子校モノだ。
いや、男子校モノも好きですよ。「夏草冬濤」とか「ネバーランド」とか。
じゃあ学校モノが好きなんだな、っつーとそういうわけではなくて、男女別学の学校を舞台にした小説に、俺はより興味を覚えるようだ。
おっと、誤解無きようにあらかじめ申しておきますが、俺の関心はあくまでヘテロな方向にありますので。そういう意味での面白さではないのです。多分。本書だって、いわゆるS(エス)に思慕する少女が登場はするが、話の本筋とはあまり関係がなく、しかも、登場人物の多くはそうした恋愛感情に多かれ少なかれ嫌悪感を示している。ましてや、肉体的な描写は本作においては皆無だ。

俺に興味を催させるのは、では、なんだろう。
かろうじて説明できる言葉があるとすれば、いわゆる女子校特有の「ノリ」というものなのだと思う。「ノリ」とは何か。例えば女同士の気の置けない会話や言動だったり、往時の別学教育における「言葉遣い」「たしなみ」「立ち居振る舞い」だったり・・・、それだけではないのだが、とにかく、別学の学校に備わるそういうふうなものだ。

そしてそういうものに対して、郷愁に似た感情を俺は覚えるのだ。
いや待て、そういったものは別学に限らずあるだろう、共学校にだって。
そこで、俺は考えこんでしまう。
俺は男子校出身なので、男子校特有の「ノリ」があることをよく知っている。文化とか風習とか、そういうものとは違う何か。「校風」とはちょっと、いや、全然違う。説明がむずかしいな。ティーンエイジャーが持つ独特の仲間意識や、空気感とか・・・。
うーん、どうにも上手く伝える言葉を俺は持っていないようなので、とりあえずここでは、「ノリ」としておくしかない。ともかく、その「ノリ」は異性の目を憚らない行動だったり、発言だったり、飾らない本音の打ち明け話ができる人間関係、そうした大らかな人間生活に基づいているものだ。
おおそうだ、もっと端的な表現があった。
 
「秘密」、だ。
 
別学校における「ノリ」=「秘密」とは、生徒にのみ確かに存在する独特の共有意識ことだと俺は思う。そしてそこには必ず、同性のみという「閉鎖性」が伴うのだ。

秘密の共有、つまり、共犯関係。

 
だから、ミステリによく合うのである。
物語が面白くなるのだ。
 
本書「倒立する塔の殺人」は、小説内の登場人物と作中作のメタ構造・入れ子構造、つまり二重の虚構になっている。スジはなかなか複雑だが、面白く読んだ。真相が暴露される手法は本格ミステリとは言えないが、青春サスペンスとしては楽しめた。
そう、面白かったのは間違いがないのだが、しかし俺が最も心惹かれたのはトリックでも真相でもなく、作中作が少女たちの手によって書かれたるに至った経緯だ。交換日記でもなく、手紙でもなく、なぜ本を書いたのか、どんな気持ちで筆をとるに至ったのか。
それらは地の文と、作中作とに表明されるのだが、その過程における女子独特の鋭い人間評、ガラス細工のように繊細だが実はしなやかで抜け目ない人間関係、人間に対するいたわりの気持ちと嫌悪の気持ちが入り混じることにおののくナイーブさ。痺れるような緊張感と、しかし、時間と場所を共有して生活しているという連帯感。

男子校・女子校を舞台にした小説は「秘密の共有」が核心の背景にあり、玉ねぎの皮を剥くようにそこに迫るのが、面白いのである。面白くならないわけがないのだ。


倒立する塔の殺人 (PHP文芸文庫)
皆川 博子
PHP研究所
2011-11-17


 
いや、だから、百合とか薔薇とか関係ねーってばよw
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ニコマス界隈の、辺境の住人。革命的国家社会主義真派の刺客、ペロリスト。真士。そして、映画と小説とアニメの愛好家。
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