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月下独酌Ⅳ

勝山市議会議員 松村治門のブログです。

23 4月

全国学力テストの公開をめぐる2つの問題

昨日、全国学力テストが実施された。これは、小学6年生と中学3年生の全員を対象とするテストで、全国で224万人が参加している。

今回の全国学力テストについては、学校別成績の公表を条件付きであるが文科省が認めたことが問題となっている。学校の序列化や過度な競争を引き起こすとの理由からだ。

これらの問題視される理由は、ひとつの「論点違い」とひとつの「政策的ミス」が引き起こしている。

「論点違い」とは、「そもそも学習指導要領に定めた内容をどのように捉えるのか」という、義務教育の根本にかかわる問題である。

学習指導要領とは、学校で教える内容を定めたものであり、拘束力を持っている(伝習館事件最高裁判例)。

この学習指導要領に関して、2001年に遠山文科相(当時)が「学習指導要領は最低基準である」との公式見解を示した。これまで「学習指導要領は標準」とされていたのを、180度舵を切ったに等しい。

2001年以前は学習指導要領は「標準」であった。したがって、「できるだけ学習指導要領を踏まえて教育をする」ことが目標であった。到達できる子が多ければ多いほど良いのだが、そこまで到達できない子がでてくるであろうことは暗黙の了解事項であった。

しかし、2001年の見直しで「最低基準」とされたことによって、「最低基準であるならば、すべての子が学習指導要領に定めれたことを理解できるようにしなければならない」との考え方になる。2002年1月17日に「確かな学力の向上のための2002アピール・学びのすすめ」と題する異例のアピールを文科省が発表したのも、この考えに立ってのことである。学習指導要領が「最低基準」であるならば、できる子にはさらに能力を伸ばすための発展的学習を導入し、つまづきのある子には放課後の補習や宿題を出しましょうとの内容は、至極真っ当なものだろう。

有り体に言うならば、「学校で教える内容は、学校で完結させよ」ということだ。学習内容につまづきがある子は、残してでも宿題を出してでも徹底的に理解させなさい。学習指導要領が最低基準ならば、卒業時にはすべての子が理解できて門をくぐるようにしなさいと求められている。

「全国学力テストの成績公開は、序列化をもたらすので問題だ」などと評するマスコミに対して違和感を抱く理由もここにある。これらマスコミの論調の根底には「できない子がかわいそうだ」「できる子とできない子を比較する意味があるのか」「現場の先生の意見を無視するのか」との発想がある。私は、こういった論調を「お可哀想に論法」と呼んでいる。
「できない子供はお可哀想に」
「できない子供を抱えた保護者はお可哀想に」
「上からの指示に無理矢理従わねばならない現場の先生たちはお可哀想に」

(ちなみに、この論法は色々な場面で顔を出す。「沖縄の人はお可哀想に・・・」「障碍者の人はお可哀想に・・・」「限界集落の人はお可哀想に・・・」)

この「お可哀想に論法」の最大の問題点は、根本の問題から目をそらしてしまうことだ。限界集落の人々は、別にお可哀想にと言ってほしいわけではない。沖縄の人々もそうであろう。そして、全国学力テストについてもそうだ。

本質の問題は、「学習指導要領に定められた内容を、子供たちに理解させているか否か」の1点である。全てはそこからスタートしなければならないはずだ。

全国学力テストの公開をめぐっての議論には、この1点が欠落している。お可哀想にと言っているだけでは、何ら生産的な議論にはならない。


(6月定例会で、私は勝山市教育委員会に対して一般質問する予定であるが、一般質問の内容は、まさにこの点にかかっている。現場の先生たちは時間をやりくりして放課後に児童・生徒を残してでも勉強をみている。そういった時間のやりくりをしなければならないこと自体が、そもそもおかしいといえる)

そして、文科省も決定的なミスを犯している。

学習指導要領に定められた内容を、子供たちが理解しているか否かという結果を見たい。それが全国学力テストであるならば、中学校3年生と小学校6年生に限定する理由がないのだ。

習熟度を図りたいというのであれば、全学年の全生徒に対してそれを行うべきだろう。
冒頭、「政策的ミス」と述べたのはこの点である。

予算的な問題はさておくとしても、全学年の全生徒に対して習熟度テストを実施すれば、否が応でも「子供たちは学習指導要領に定めた内容を理解しているか否か」が明らかになる。

まずは、そこからだと思うのだが。
16 4月

ともに歌うべき歌はありや否や

全くもって、途方もないことをしでかす連中というものは、どこにでもいるものである。

ある市民団体が「憲法9条をノーベル平和賞に」とノーベル賞選考委員会に推薦し、選考委員会がその申し出を受理したそうだ。

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竹山道雄。

ドイツ文学者として翻訳したニーチェの『ツァラストラはかく語りき』は、今でも新潮文庫で版を重ねている。実に堂々たる名文であり、その格調は今でも衰えることはない。また、『アルプスの少女ハイジ』の翻訳も手がけている。

しかしながら、竹山道雄の名を不朽のものとしているのは小品であった『ビルマの竪琴』であろう。

敗戦後のスシ詰の電車の中で、竹山道雄は、ふと隣の男が読んでいる雑誌の記事が目にとまった。ビルマ全土に日本兵の白骨が累々と残されているとの内容を貪るように読んだ竹山は、雑誌社の依頼で子供向けの雑誌『赤とんぼ』に『ビルマの竪琴』を発表する。

竹山の最初の構想では、舞台はビルマではなく中国奥地であったそうだ。
日本兵が歌を合唱していると中国兵もつられて歌い始めた。そうしたところ争いが止んだ。そういったシナリオを考えたのだが、ここで竹山は重大な課題を突き付けられる。中国人と日本人がともに歌える歌がない。

日本で知られた歌と言えば、「埴生の宿」であり「蛍の光」であり「庭の千草」であった。これらの元歌はイギリスである。ならば舞台はビルマ以外にありえない。


「水島 いっしょに日本へ帰ろう」
人々は歌う。埴生の宿を。
なぜなら歌は鎮魂だから。

小林秀雄は、その著『歴史と文学』の中で次のようなことを書いた。
子供を亡くした親にとって、子供を亡くしたという歴史的事実が意味をなすものではない。意味をなすのは、亡くなった子供の面影である。そして、その根底にあるのは、亡き我が子に対する深い愛情だ。人々のこの愛情が集まって哀惜の念になる。

3.11の東日本大震災の後にも、多くの鎮魂の歌が歌われたことだろう。

竹山道雄は、日本人と中国人の間にともに歌うべき歌がないことに気づき、『ビルマの竪琴』を編んだ。

ならば、9条をノーベル平和賞にと能天気に推薦した輩と我々との間にともに歌うべき歌はあるのだろうか。

まさか革命歌ではあるまいが。


10 4月

小保方さんの記者会見に見る「科学とストーリー」



15年ほど前のことである。

石川県の輪島地方の天気予報、「きょうの降水確率」「あすの天気」「あすの降水確率」が、1年3か月にわたって三重県のとある地方のものと間違えて掲載されていたことがあった。毎日新聞の支局の中で誰も気づかず、配信元の日本気象協会が過ちに気づいたところで発覚した。さすが毎日新聞である。やることが堂に入っている。

1年3か月もの間、表日本の天気予報を裏日本で流し続けたのである。冬にいたっては輪島で1週間も雪が降り続けているのに、天気予報は毎日快晴である・・・といった、さぞかし面白い事態が生じたことだろう。

それ以上に興味深いことには、毎日新聞の支局も支局長以下誰も気づかなかったことに加えて、読者から小言がひとつも来なかったという。
(輪島地方における毎日新聞の購読数が異常に少なかったのかもしれないが)

天気予報もれっきとした科学的知見に基づく。しかも日常生活にかかわる情報にもかかわらず、この程度の関心しかもたれない。



例のSTAP細胞に関する記者会見が昨日行われた。当の小保方さんが出席するということで、マスコミ各社も大々的に報道したそうだ。

「報道したそうだ」と書くのも、私は昨日は繁忙で記者会見を見ることが出来ず、夜は夜で宴席に出ていたため報道番組を見ることもなかった。一夜明けて、昨日の会見を振り返る番組を見たまでのことである。

しかし、何かが間違っているとしか思えない。小保方さんは科学者である。科学の徒であるならば、出すべきは確たる事実であって「私を信じてください」という言説ではない。世紀の発見であることを信じる人々は未だ少なくない。実は私もそのひとりだ。STAP細胞が存在するのであれば、一日も早くそれを見たいものだと切に願う。

さて、マスコミの報道も常軌を逸している。
「昨日の記者会見を見て、あなたは小保方さんを信じることができますか?100人アンケート」
などと、一体何を問いたいのだろう。重要なことは、STAP細胞があるのか否かであるならば、
「あなたはSTAP細胞があると思いますか?100人アンケート」
をすべきなのだ。しかしながら、このアンケートをすることはできない。われわれ素人にはそれを判断する知見はないからであり、そこにこそ、小保方さんをめぐる「科学とストーリー」の難しさが潜んでいる。

世の中は様々な業界から成り立っている。そして、その業界内部で通用する言語によって業界は動いている。それは政治の世界もそうであり、ものづくりの分野もそうであり、小売りの業界もそうである。

独特の言語が存在するということは、とりもなおさず、独特の論理と独特の美学、美意識が存在するということだ。この論理と美意識を外部の人々に説明するには、大変な困難を伴う。

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この数式は、宇宙を説明すると言われる標準理論。俗に「神の公式」と呼ばれるものである。

理論物理の人々からすれば、実に美しいものなのだそうだが、素人にはさっぱりわからない代物だ。


こういったときの常套手段は、ここに「何らかのストーリー」を組み込むことだ。
例えば、素数分布に関するリーマン予想は、その難解さゆえに天才数学者たちの挑戦をいくたびもはねつけ、あまつさえ、数学者の人生をボロボロにした・・・といったストーリである。
人気を博した「プロジェクトX」もしかり。人々はストーリーがあってこそ、初めて対象を身近にとらえることができる。

ここにひとつのネジがあるとする。

このネジがいかに凄いものであるのかを語るストーリーにはどのようなものがあるだろうか。
 ①このネジによって引き起こされるストーリー(ネジ自体のストーリー)
 ②このネジを作った人がどれほどすごいかというストーリー(製作者のストーリー)
 ③このネジを評価している人がどれほどすごいかというストーリー(評価者のストーリー)

基本はこの3つになるだろう。

今回のSTAP細胞は、このすべてを兼ね備えていた。備えていたのだが、実は①について語られた分量は極めて少ない。iPS細胞と比較してどうなのか。科学的な将来性はどの程度のものなのか。そういった科学的知見に基づいた報道は、iPS細胞の時と比較して少ないように感じる。

むしろ、徹底的に語られたのは②のストーリーであった。これが今回の錯綜を生んでいるような気がしてならない。「リケ女(理系女子)」「祖母からもらった割烹着」などのサイドストーリーばかりを追い続けてきたマスコミの責任は重い。
このままでは、まともな研究者はSTAP細胞の研究をしようとは思わないだろう。マスコミがこれだけ大騒ぎした後では、STAP細胞に触れることは業界内のタブー視されかねないからだ。STAP細胞が研究対象として将来性を有しているかいないのか、それすら明らかになっていない段階で、研究土壌そのものを潰してしまうことは、我が国の科学技術にとって大きな損失であろう。










10 2月

東京都知事選挙に見る改革の行方

東京都知事選挙は舛添氏の圧勝で終わった。

個人的には、田母神氏を推していたのだが、今回の結果は我が国の政治上のテーゼを再確認するとともに、その揺るぎなさを確信した。
そのテーゼとは、
「我が国においては、統治者は無主義・無思想・無宗教でなければならない」


田母神氏の主張は明確なものであるが、主義・思想をあまりにも明確にし過ぎた。このような人は統治者に選ばれぬというのが、先のテーゼであり、図らずもその通りになったわけである。
(当然に、共産党が統治者になれぬ理由もここにあるのだが)

補足するが、これは「思想を持たぬものが統治者になる」という意味ではない。「思想を前面に押し出して統治者になることが適わない」という意味だ。政権交代を果たした明治維新以後の数年間と、占領下にあった7年間を除いて、江戸期以来、我が国においては政治思想を前面に押し出して、統治者として認められたことはない。

江戸期において、確かに徳川家康は「神君」に祭り上げられたが、神権政治を行ったわけではない。明治期に天皇は君主・皇帝とされたが、非権威化の対象とされた。「軍部独裁」と言われる時代においては、なし崩しに戦争に突入したために軍部の力が増したに過ぎない。戦後において、主義者として内閣を組閣したのは唯一、片山哲であるが、これとて政治思想色を消すための工作が組閣人事に現れている。

日本政治思想を丹念に見ていくと、実は、我が国において「真の意味での独裁」と「主義者による統治」は行われていないことがわかるのであり、その理由の先端には天皇陛下の存在が、そしてもう片方の先端には「疑似家族制度」の存在があるのではないかと私は考えている。

その疑似家族制度であるが、これは「会社」組織に典型的に現れる。

この疑似家族制度がまさに家族制度であることは、「解雇」を見ても容易に理解できる。日本において、履歴書に「解雇」の文字を書きたがらない理由は、解雇が集団からの放逐を意味するからである。つまり、家族制度における「勘当」と同値であって、ゆえに「正当なる解雇」という概念がそもそも存在しない。

このような疑似家族制度が上手く運営されるときには、無類の強さを発揮する。
よくアメリカの映画を見ていると「我々はチームだ」という表現にぶち当たるが、疑似家族制度がその強みを発揮するときには、チームのそれとは比較にならない。組織のために我を殺してその能力を十二分に発揮する者の集団なのだから。

しかし、この疑似家族制度が弱みを見せ始めると何が生じるのか。
疑似家族制度が家族制度であるがゆえの弱点が露わになる。すなわち、「組織の存続そのものが、組織の目的となる」のだ。
ご自分の家族を振り返ってみてもらえばわかるように、「家族であること」に目的のあろうはずがない。男女が婚姻し、家庭を営むことに目的はいらない。強いてあげるならば、継続性・永続性を維持することである。祖父母の代から続いてきたものを我が子や孫に伝える。この継続性・永続性こそが家族であることの目的であろう。

この点は、弱みを見せ始めた疑似家族制度でも同様であり、それは「組織を斬り捨てられない」という現れ方をする。外から見ればお荷物になっている事業部門、これを切り捨てられない企業があまたあるのもこのためではなかろうか。不採算だからという理由で手足を斬り捨てるのは、経営者として極めて合理的である。しかし、その合理性ゆえに疑似家族制度では「人非人」「情け知らず」との汚名を着せられることになる。

そして、このような疑似家族制度を律するルールは何であるか。それは「調和と平等」でだと考える。子は親の意図を汲み取り、妻は夫の思いを感じ、夫は妻に配慮するとの調和と平等の世界が、疑似家族制度では繰り広げられる。会社においては、部下の思いを上司は汲み取り、上司の意図を部下は察し、組織として調和を取りながら活動する。部下の意見が上司に反映され、企業醸造部は現場の意図を明確に組みとる。それは、利益を得るための必須のツールとしてではなく組織体の維持として必要不可欠なファクターとして行われる。これが疑似家族制度である。

余談だが、この「調和と平等」の世界が極限まで進められた制度が、明治憲法下の政治制度だと私は考えている。明治憲法は、ややもすると軍部独裁を招いた暗黒の憲法のようにおもわれがちだが、実はそうではない。明治憲法は、日本国憲法の三権分立など比較にならぬほどの権力分散を指向した憲法である。立法府は二元制で貴族院と衆議院議員に分かれ、どちらが上位ということもない。片方が可決した議案を片方が否決すれば廃案になり、両院協議会が開かれて短い協議期間の中で合意に達しなければ、これまた廃案である。これは、おそらく立法府が強権を発動しないための措置であったのだろう。ならば、行政府が強いのかといえばさにあらず。内閣府では首相の権限がとにかく弱い。しかも、行政府には枢密院が存在し、いわば議会における二院制と同じような構造を生じている。実に、見事な権力分散である。そして、あまりに見事な権力分散が裏目に出たとき、事態は誰も責任をとらぬ「無責任の構造」となってしまった。そしてむざむざと軍部の専横を許す結果となったのである。

そう。疑似家族制度においては、「調和と平等」とは、無責任の構造なのだ。調和と平等を崩すものは組織が全力で排除する。誰もが平等であるがゆえに、誰も責任を取らない。私が高校1年生のときに習った"Everybody's business is nobody's buisiness"(連帯責任は無責任)」との言葉そのものだ。そして、調和を乱す者の最たるものは公理を唱えるものである。すなわち、正論を吐き続ける者なのだ。

もう一度、冒頭に述べた政治上のテーゼをここで掲げる。
「我が国においては、統治者は無主義・無思想・無宗教でなければならない」

確かに、これは正しい。
ならば、我々はどのようにして改革を進めれば良いのだろう。


31 1月

勝山市の市債シミュレーション


勝山市の市債(市の借金)がどの程度になるのか。また、その償還(返済)のペースはどうなるのか。これらは極めて重要な問題ですので、現段階での市債償還シミュレーションを作成しました。
このシミュレーションは、聞き取り調査や各種資料に基づき作成したものであり、その責任は私にあることを明記しておきます。


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平成22年に温泉センター「水芭蕉」、平成23年には市立図書館の市債償還が終了しました。
平成27年には「和みの杜」の市債償還が完了します。

この後に、平成36年に長尾山総合開発に係る市債償還が終わり、翌年に市民健康センター「すこやか」の償還が終わります。

そして、平成49年には現在建設中の総合体育館の市債償還が終わることでしょう。
小中学校の耐震に関しては、現在も進行中であり、この数値は若干の変動があることが予想されます。

市民の皆様には、これからの勝山市の将来を考える上での基礎資料としていただければ幸いです。
 
26 1月

勝山市体育館建設に関する費用

先だって24日(金)に、勝山市議会臨時議会が開催され、補正予算を可決いたしました。

今回の補正予算にはいくつかの眼目が含まれていますが、主となるものは、新体育館建設費用の高騰への対策です。アベノミクスや東京五輪関連で、鉄鋼等の資材の高騰が激しすぎ、昨年9月で既決された補正予算額では、入札に対する応札が全く期待できない状況でした。これに対応するため、3億2千万円増の債務負担行為(※1)を加えた補正予算を可決するに至りました。

さて、それでは新体育館全体ではどれくらいの予算がかかっているのでしょうか。

 ①体育館本体費用・・・・・・・28億1900万円
 ②敷地造成費用・・・・・・・・・4億5900万円
 ③防災関連費用・・・・・・・・・1億9300万円
 ④測量試験費用・・・・・・・・・1億8500万円
 ⑤用地・補償費用・・・・・・・・2億8600万円


(合計)39億4200万円 

 実に40億円弱となるプロジェクトになります。実際に本体工事に着工すれば、増工が必ず出ることが予想されるので、40億円を超えることは間違いないでしょう。

さて、この財源内訳ですが、以下のようになります。
 ①国の補助・・・19億2000万円
 ②起債・・・・・・・18億2000万円
           (内、2割が交付税算入)
 ③市の持ち出し・・2億200万円

起債とは、いわば「市の借金」というべきもので、これの返還のために毎年1億円以上を支払い続けることとなります。

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上のグラフは市の情報をもとに作成したものですが、作成が3年ほど前なので体育館建設費用は若干膨らんでおります。現在の主な市債(市の借金)をまとめたものは近日中に作成するつもりですが、概略ではこの通りなのでこのグラフで誤ってはおりません。

長尾山の大規模開発の市債がピークを迎え、新体育館の建設市債を入れても、財政的には十分に展開できるだろうとの思いが私の中にはありますが、予断は許されません。

と申しますのも、勝山市の標準財政規模はおおよそ70億円であり、70億円の自治体が40億の建物をつくるということは、いうなれば700万円の年収世帯が400万円の車を購入するにも似ています。どのようなローンを組むのか、生活費をどれくらい切り詰めるのか。車を購入したことで、何を諦めねばならないのか。そういった話し合いがご家庭でされることでしょうが、市議会でも同じような光景が繰り広げられています。

体育館を建てること自体は反対しないものの、これだけの財政支出をした後に、やりくりしていくのは事であるとの思いは私の中にもあります。

 
(※1)
「債務負担行為」
1つの事業が単年度で終了せずに、複数年度にわたって「支出=負担」をしなければならない場合に、その期間と額を確定するもの。
例えば、建設工事で3年度に亘る工事契約を締結する場合、ゴミ収集の5年契約を事業者と締結する場合などが典型例。

 
15 1月

マスコミは脱原発を10年遅らせた

東京都知事選挙に、細川護煕元首相が「反原発」を掲げて出馬する。そして、そこに小泉元首相が応援する。
その争点が「脱原発」である。

おめでとう。マスコミの皆さん。
皆さんは、図らずも脱原発を10年は遅らせることになるだろう。


まず、問題となっている小泉純一郎氏の「即時原発停止」発言だが、これは昨年11月12日の記者クラブにおける講演会での発言が基になっている。



これまで、こういった動画を紹介する際には「この動画の〇〇分△△秒からご覧ください」という案内をつけてきたが、是非、この講演についてはすべてをご覧いただきたい。

というのも、小泉元首相の「即時停止」発言は1度だけ。しかも講演終了後の質疑内容において出てくるのみだからだ。

それに至るまで、小泉首相は「脱原発がいかに重要なことであるか」を中心に述べている。脱原発は郵政民営化などとは比べものにならないスケールの大きな話であり、だからこそ夢がある。エネルギー問題という国の根本問題を考えることは、我が国の行く末を決めることであり、ゆえに国民的議論が必要である。そう述べているに過ぎない。その内容云々は、極めて真っ当なものだ。

最後に読売新聞の記者の質問への答えに「そりゃ即時停止でしょ」と答える様は、どちらかといえば「気合一発」みたいな・・・なんていうのか、売り言葉に買い言葉といった風情すら漂っている。

ところが、講演内容が常識的、すなわちマスコミ的にはありふれた内容であったのだろう。マスコミは、講演内容そのものではなく、最後の「即時停止」にのみ食いついた。未だ衰えぬ小泉人気に便乗したのだ。


そして、今回の都知事選挙である。


原発問題は、あまりにもスタートラインから感情論が強すぎた。これは当時の政府や東電にも責任の一端がある。情報の出し惜しみや錯綜の程度が激しすぎたために、国民が疑心暗鬼に陥ってしまったのだ。本来ならば、国のエネルギー問題という、冷静な議論が求められる場であるにもかかわらず、「東電憎し!」「原発怖い!」の凝り固まった感情から議論が始まるという異常な事態が続いた。

将来的に原発をどうするのか・・・この問題は、ニュートラルに語り合わなければならない。そのためには、感情論が落ち着くまで待たなければならない。それは、郵政民営化でわれわれが得た唯一の収穫ではなかったのか。「今になって思えば、あの郵政民営化って何だったんだろう」と振り返ることがあるが、狂熱に任せて政治を行って良かったためしなどないのだ。

感情は冷める。
だからこそ、3.11の震災直後に東北に巨額の復興予算を即時つけるべきだった。人々の感情が冷める前に、信じがたいほどの巨額の予算を。酷な言い方なのかもしれないが、復興時と今とではどうしても温度差が出来るのだ。

そして、感情は覚める。
覚めたときにこそ、冷静な議論ができる。将来の子供たちのために、この国のエネルギーを国家戦略の立場から考えるためには、激烈な感情から覚めねばならない。



ところが、今回の都知事選挙で、人々は再び感情論に放り込まれることになるだろう。

「原発をなくすのか否か」と言われたら、ほとんどの人々は「将来的になくなれば良いです。でも、段階的になくしていきましょう」と答えるのだ。それが大多数の意見であるとの感触を私は持っている。
そして、その思いをようやく口にできるくらいに、感情論は沈静化してきた。

ところが、山本太郎などの活動家に対する人々の嫌悪感、後先考えずに「即時撤廃」を求める急進派に対する虚脱感、そういったすべての負の感情が今回の選挙で再び頭をもたげてくる。



マスコミは、本当に罪深いものだと思う。

彼らは言うだろう。「我々は事実を報道しただけだ」と。

その結果、原発問題はニュートラルな議論を外れ、再度、感情論が渦巻くものになるだろう。この感情論が沈静化するまでに長い時間をかけねばならない。

脱原発が10年は遅れると言う所以である。



11 1月

グーグルグラス

グーグル・グラスが今春には市場に投入される見込が強い。

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グーグル・グラスとは、Googleが開発したウェラブル(装着型情報端末器)。

スマートフォンでできることを、グラス(メガネ)でしてしまおうというものだ。ビデオチャットができる。写真を撮れる。画像検索や翻訳をしてくれる等の多機能ぶりがウリになっている。

実際にどのようなものなのか。それはGoogleが作成したビデオをご覧いただくのが一番わかりやすい。




このテクノロジーの高さには驚愕せざるを得ない。

問題は、この驚くべき技術を踏まえて、「ライフスタイルを変えませんか?」という提案がなされるか否かという点である。

ソニーがウォークマンを開発・販売したことは、ひとつの革新だった。「音楽を持って街に出よう」とのライフスタイルの提案だったからだ。果たして、ウォークマンほどのインパクトある提案をGoogleはできるのだろうか。

「ウルトラマンセブンに出てきたウルトラ警備隊。あの隊員がしていた腕時計って格好いいよね。ビデオチャットみたいな通信もできるし、多機能だし」
うん、その通りなんだけど、あれはウルトラ警備隊が装着しているから恰好がいいんだ。仮面ライダーのライダーベルトは、仮面ライダーがしているから真似したくなる。つまり、「それをつけることが、自分自身をストーリーの一部に組み込む」からこそ、子供たちは憧れた。

ソニーがウォークマンで提案したライフスタイルも、ひとつのストーリーだった。そして、人々はそのストーリーを受入れて「音楽を持って街に出かけた」。

だったら、グーグルグラスはどんなストーリーを描いてくれるのだろう。
少なくとも、報道された内容やGoogle自身の作成動画を見る限り、そのストーリーは明確ではない。

くれぐれも申し上げておきたいのだが、私のような技術の素人ですら、グーグルグラスの技術がいかに凄いことであるかは直観的に理解できる。ただ、その技術が「スマートフォンを体の一部に装着する」・・・というところで、提案が終わってしまっているところで違和感を持つのだ。むしろ、これだけのインパクトのある技術を、もっと活用できるスタイルがどこかにあるのではなかろうか。

例えば、このグーグルグラスが医療現場で遠隔地医療に効果を発揮するであろうことくらいは、容易に想像がつく。そのようなレベルを超えて、行政の仕組みといった「生活の根本を変える」ような提案をGoogleにして欲しかった。

3Dプリンターを使って、大量生産の仕組みを変える。高度情報通信網がその販売の在り方を変える。これが「Makers」の発想だった。これは技術革新が産業構造を根本から変え得るという意味で、「生活の根本を変える」ような提案だと思う。

これだけの高度技術を活用したら、現在の行政システムをどのように変えることができるのだろうか。福祉現場はどう変わるのだろうか、教育現場は?・・・・・・逆に言えば、それこそが新たなビジネスチャンスなのであり、その提案を誰がいち早く出来るのか。ここが勝負になるのだろう。


6 1月

安倍首相のインド国会における名演説

平成19年のことである。第1次安倍政権において、安倍首相は8月21日から23日にわたりインドを訪問した。

安倍首相は、22日にインド国会において演説を行う。

演説会場となったインド国会では、シン首相やアンサリ上院議長、チャタジー下院議長が臨席するなかで、上下両院議員により満席となり立ち見が出るほどの盛況であった。野党下院リーダーのジャストワン・シン元外相やグジュラール元首相をはじめ与野党の政治家、現職閣僚が見守る中で行われた安倍首相の演説は「二つの海の交わり」と題した名演説だった。

この演説の全文は、外務省HPにて今でも見ることができる。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/19/eabe_0822.html

安倍総理の演説に対して、聴衆より随所で30回以上の拍手が起こり、スピーチ終了後には聴衆が総立ちとなり、スタンディングオベーションが鳴りやまなかったそうだ。


この演説全文を読むと、「自由と繁栄の弧」との言葉が出てくる。アジアの外周を自由主義国家・民主主義国家により結び付けようという壮大な構想であり、実は、この外交政策は次の麻生政権にも引き継がれた。
(というより、麻生太郎の構想と言っても良い)

これすなわち、インドと日本というアジアの両端を結びあわせることにより中国包囲網を完成させようということに他ならない。

ただ、この名演説の内容と、この演説が引き起こしたインド内における高揚をマスコミは日本国内に伝えることはなかった。むしろ、演説の存在すら抹消したと言ってよい。

麻生政権下において、世界同時不況を乗り切るために日本が絶大なリーダーシップを取ったことも国民には知らされなかった。故・中川昭一(当時財務大臣)が果たした功績は筆舌に尽くしがたいものであったが、それをマスコミは黙殺した。

そして、再び、安倍首相はインドへ向かう。
今月のインド訪問でどのような成果を納めてこられるのか。
どうせマスコミは黙殺することだろうから、我々は注視することにしたい。















 
4 1月

政策メモ3 ―多様性の確保―

少子高齢化にあえぐ地方自治体において特徴的なことは「多様性が失われる」ことである。

まず、人口構造の多様性が失われてくる。少子化と高齢化が進む地域においては、住民の世代は高齢化に偏り始め、最終的には高齢者のみが住むという集落も少なからず存在する。このように「子供―青年―壮年―高齢者」という多様性が失われた地域は、人口の再生産の能力を失っていく。

加えて、このような地域においては産業構造の多様性も失われる。モータリゼーションが普及していなかった時代においては、人々の活動圏はさほど広くはなかった。このため、買い物や散髪などの生活行為を近隣集落内でまかなわねばならないため、多様な個人商店が存在した。しかしながら、大店舗が出店するに従い、これら個人商店は「跡形なく」と言ってよいほど消滅の憂き目にあっている。
さらに、グローバリゼーションの浸透に伴い、鉄鋼・機械等の製造業における個人事業主はその数を減らしている。気づけば、集落内にいるのはサラリーマンばかりであり、他には農業従事者しかいないという現状に陥っている。
産業構造の多様性を失った地域は、産業の再生産の能力を失うのだ。


果たして、これらの多様性を回復することはできるのだろうか。

結論から言えば、多様性を回復することはできると私は考える。
ただし、これには50年スパンでの政策が求められるだろう。

まず、状況を正確に認識することが必要である。

現在の国内における人口流動は、昭和30年代以降の「地方から都市部へ」といったトレンドを引き継いでいる。このトレンドを断ち切ることから始めなければならない。

すなわち、福井県レベルでの人口流出を止めることが求められる。「県外へ人を出さない」との政策を打ち出さねばならない。このためには、県内において産業の多様性が確保されることが絶対条件となる。
企業誘致を進めるだけでは、この産業の多様性は達成しえない。バラエティに富んだ中小企業の豊かな土壌があってこそ、初めて産業は多様化たりえる。その多様性を確保するための政策は、現在の福井県は打ち出してはいない。

勝山市のみで「勝山市から人を出さない」と頑張ってみても限度がある。それは大野市であろうと、坂井市であろうと越前市であろうと同じことだ。これは県レベルでの政策に期待するより他にない。

すなわち、県レベルで産業の多様性を確保できたならば、ようやく勝山市の独自の施策が打てるのであり、ここは何度も強調するところだが、県レベルでの施策を打てないようならば、勝山市独自の施策は十全の効力を発揮しないだろう。県内の市町の首長には、この点を県に対して強力に要請していただきたいところである。


次に、県レベルで「産業の多様性」が確保できたならば、ようやく勝山市独自の施策が効果を上げる段階に入る。
勝山市として「産業の多様性」を確保できるためには、福井県内で確保された産業の多様性をどのように勝山市に移住させるか、もしくは勝山市で独自に産業を開発させるかという問題になる。

この点については、主眼となるのは「人づくり」である。すなわち、どのような人材を勝山市内で育てるのか。ここに全てがかかってくると言ってよい。補助金をいくらつけようが、所詮、最後は人材の問題である。10年スパン・20年スパンで教育を考えることが求められよう。

個人的には、「問題発見力→問題解決力→具体的事業」にまで踏み込んだ教育を勝山市で行うべきと考えており、これについてはいくつかの施策を検討中である。

これら「人づくり」が重要である理由は、産業の多様性を確保するためには独立中小企業家たちを育てる必要があるからだ。そして、彼らを育てない限り、「住む場所は勝山市で、働く場所は福井市」などという悠長な論法をいつまでも振りかざさねばならなくなる。住む場所が勝山市で、働く場所が福井市であることを非難しているのではない。問題は、「働く場所が福井市ならば、住む場所が福井市であっても良いのではないか?」という素朴な発想に基づき、勝山市を後にする人々を止められないということだ。

更に言うならば、独立中小企業家たちを育てるためには、まちづくりそのものも根本から見直す必要がある。
多様性を重視するまちづくりにおいては、「きれいな街並み」は中心的課題ではない。それが悪いというのではなく、次元と位相を異にするということだ。多様性とは猥雑さと同義である。人々は勝手に集まり、好きにカスタマイズし始め、何やら訳の分からぬことをやり始める。そういった雑然さがなければ多様性は生じえないからだ。

行政の施策は、その性質上、雑然さを嫌う。整然とした道路、綺麗な街並み、調った建築物。おおよそ行政が予算を投じて成し遂げる成果物はこのような特徴を持つのだが、これらは多様性の源である猥雑さや雑然さと対極にある。

果たして、行政がまちづくりにおいて多様性を確保できるのか。いや、産業の多様性を図る際にも、これまでのように補助金をつけて後は民間任せという手法で産業の多様性を図ることができるのか。疑問は尽きない。


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