

林緑敏 写真模写
薔薇と画家 林 緑敏
林芙美子と画家の夫
林芙美子記念館を見学し、林芙美子の遍歴の一端をあるブログに掲載した。そのときに芙美子の家で、渡り廊下で繋がっている立派なアトリエがあり、不思議に思って聞くと、夫は画家を志し長野の田舎より東京に出てきて、芙美子と知り合い同棲、結婚し、現在その当時の絵も若干残っているとことで、どのような絵を描いた人か全く知らなかった。また作家と画家の家庭内の暮らしがどのようなものだったのかと、興味が湧いてきたので調べてみた。
名前を手塚緑敏(まさはる・通称ろくびん)(1902-1989)で、長野県下高井郡平岡村の農家の次男として生まれ、性格はすこぶる温篤であったという。東京に出てきて絵の勉強をするものの、どこの学校に入ったのか、あるいは画塾で勉強したのか調べてみたがわからなかった。
林芙美子と知り合った頃は、アルバイトで浅草の劇場の大道具で絵を書いていた。東京での生活の中で絵を勉強する傍ら演劇家、詩人等につきあいするうちに当時の世相から生まれた、打算的な刹那主義に傾注し、それが芙美子との繋がりの契機なったという。
恋に破れ暴力から逃れ、まともな仕事にもありつけず、文学しかすがるものがなくなった芙美子を、温厚で優しい人柄でしなやかに抱きとめてくれたのが手塚緑 敏だった。二人はすぐに和田堀町の妙法寺境内の借家を借りて、一緒に住むことになった。この好伴侶を得て芙美子は、ようやく落ち着いて仕事に執筆に専念することがで きたのである。
後に、芙美子と一緒に住む家となった、落合川の周辺をスケッチポイントとしてスケッチや絵を描いていた。この頃の落合川は、川にに添って上流へ行くと、「ハケ」と云う大きな堰があった。
(武蔵野台地の斜面から湧いた泉水が、川へと流れ込む「水はけ地」が縮められていつのまにか「ハケ」「バケ」「バッケ」と呼ばれるようになったらしい)
この周辺に住んでいる画家で、この貯水池の堰から放流されるこの滝のある風景を画家は好んで描き、春、夏、秋と季節毎にこの堰を中心にして、画架を立て絵を描いている画家が大勢いたという。もちろん緑敏もその中の一人で、この「ハッケ」を描いた作品が残っている。

「バッケ堤」

「鱈」
書斎とアトリエのある家
昭和7年(1932)6月、芙美子はようやく作家として世に認められ『放浪記』の連載を上落合の借家で筆を置いた。一段落した芙美子は自分の住む新しい家の物色をはじめた。もともと文士村の落合界隈が気に入っていた彼女は、 妙正寺川の北側に最初から的を絞っていたようだ。
まだ、土地や家を買えるほどの余裕はなく、最初は環境の好い小綺麗な借家を探していた。友人の吉屋信子が、文士村にほど近い南斜面に家を建てて住んでいたせいもあるのだろう。どこかに、彼女への対抗心もあったのかもしれない。
けれど、当時最先端の和洋折衷の住宅を探してきたのは、芙美子ではなく緑敏だった。偶然に写生をしていた五ノ坂下の家が空き家で、地主の老人に 「是非借りてくれ」と懇願され、家賃は50円だという。当時でも高額な家賃である。サラリーマンの平均月収が、だいたい50~70円位というから、芙美子の本が売れはじめて余裕が出てきたとはいえ、かなり見栄を張ったのではないだろうかか。
この年の秋には、この家に引越している。それから9年間この家に住み、昭和14年(1939)には四ノ坂の中腹に、島津家の所有地だった土地300坪を買って家を建て、昭和16年(1941)8月に新居へ 移った。

「下落合風景」
いままでの借家からわずか150mしか離れていない場所で、これが現在の「林芙美子記念館」として残り、この家が彼女の終の棲家となった。
家は完全に純和風の書斎を中心とした棟と、緑敏のアトリエを中心とした棟を建てて、中廊下で結ばれており、芙美子は家の設計には拘って、棟梁に京都まで行かせて宮大工から学ばせて建てさせたという。庭も建物に会わせて日本式庭園を作った。
後に芙美子の書斎はアトリエ棟の納戸部屋に移され、元の書斎は茶の間として使われ、生活をする場と応接の場として使われた。
放浪の宿無しの生活を体験しただけに、自分の家として建てるために、200冊余の建築の本を読んで研究し、設計から施工に至るまで、執念を燃やした家造りが想像される。
昭和16年(1941)家を新築するとともに、2年後の昭和18年(1943)緑敏は養子の泰とともに、芙美子の籍に入籍し、姓も林緑敏となった。
気性が激しく、気まぐれで、気性の芙美子を暖かく包み、以来画家の志望を捨てて芙美子より一歳年上のいわば女房役に徹し、芙美子が作家として大成したのは、縁敏のおかげと彼女の友人たちが述べている。この好伴侶を得て、芙美子はようやく長い放浪期を脱し、幸せな家庭生活ができたのである。
夫の応召と芙美子
芙美子は放浪記がベストセラーになり、出版社から原稿の依頼があるとともに、その印税で昭和5年、満州・中国を旅行。その翌年シベリア鉄道で渡欧し、パリに滞在、翌年の6月に帰国。昭和12年に毎日新聞社の特派員として南京に赴き、女流の一番乗りとして報道された。
夫、緑敏は昭和12年(1937年)11月、看護兵(衛生兵)として応召され、「武漢作戦」の頃は、戦地に出兵していた。
これは想像するところであるが、緑敏に逢いにゆくために、軍部に働きかけたのか、あるいは偶然からか内閣情報部から、従軍ペンの倶楽部の一員として昭和13年(1938)中国に派遣され、漢江に報道記者として一番乗りを果した。
それが功を奏したのか、緑敏は昭和14年(1939)には除隊となる。実際に、芙美子の「北岸部隊」の本のなかに、兵隊が看護されている場面に遭遇し、夫を思い出す描写が出てくるという。
芙美子にとってはかけがいのない緑敏がいない家は、空虚であるとともに、有能なマネージャー兼秘書役がいない事は、今まで片時も離れず側に付き添っていただけに、片腕をとられたようで、不自由もさながら、耐えられなかった筈である。
取りも直さず軍部のお偉方に密かに手を打ち、早く退役を願ったのではないかと推測される。
画家に見切りをつけた緑敏

「信州の風景」
緑敏がなぜ自己の絵に見切りをつけた訳は、今となってはわからない。まして緑敏の絵があまり残っていないので、はっきりとは言えないが、察するところ画風としては当時、風靡をしていた後期印象派的な画風で、19世紀にフランスで起きた芸術運動で、描く対象の輪郭や固有の色より、周囲の光や空気の変化を正確にとらえようとした、セザンヌ・ゴッホ・ゴーギャン・モネ等の影響を受けたものではないか。特に下落合の風景画はセザンヌのタッチに似ているような気がする。
バッケの絵は油絵の具をたっぷりと塗り込んで、重厚感を出してモネの画風のようである。
また、信州の郷里の山と思われる絵は、セザンヌを代表する風景画作品のひとつ「サント=ヴィクトワール山と大きな松の木」の作品から松の木をとったような作品で、緑敏がいろいろな大家の作品を通して、自分の画風を模索していたのではなかろうか。
春陽会にも入り、入選するほどの力をつけ、画家達との交流もふえたものの、しかし、自分の絵はさっぱり売れなかったようだ。
1932年4月、緑敏は「林芙美子像」を完成させているが、時を同じくして芙美子も「自画像」を残している。緑敏の「林芙美子像」は、まだ寒い時期なのだろうか丹前を着て執筆中、プロットを思索するかのように一瞬の顔をあげた構図を捉え、荒いタッチで芙美子の緊張あふれる顔立ちを捉えている。
一方芙美子の「自画像」は自由奔放な筆使いと色彩に溢れて、絵に対する優れた才能もあり、顔もポーズもデフォルメされ、比較的短時間で仕上げられたようで、それがかえって親しみある作品となっている。元々文筆や詩そして絵の才能もあるひとだった。それだけに緑敏も自分の作品と比べて、芙美子の並々ならぬ絵の才能を認めたはずである。

「林芙美子自画像」
絵の売れない緑敏に反し、芙美子はどんどん流行作家としての地位を築き、文筆活動も多忙を極めて、秘書や書生がいないために緑敏自身がその役を買って、芙美子を手助けするようになった。
その折、自分の画才を見つめ直して、これからは絵は趣味として描き、作家の芙美子を影で支える黒子に徹する覚悟を決めたのではなかろうか。
「春陽会」日本美術院洋画部を脱退した、小杉放庵、倉田白羊。それに草土社系の画家の岸田劉生、木村荘八、中川一政、梅原龍三郎が加わり、特に主義主張を立てず,親近者の集りとして 大正11年1月14日に結成。現代まで存続している。
芙美子のマネージャー兼秘書役に徹し、雑事・万端を引き受けただけでなく、乳飲み子でもらいうけた養子の泰の子守もしていた。(芙美子とX氏との間に生まれた子?この泰も17歳のとき、列車のデッキより転落して死亡)
また、執筆中は辞書を調べたり、芙美子のことを「先生、先生」と呼び、いつでも移り気な芙美子の心を支え、外出の際着付けを手伝うのも緑敏だったという。 また、家事等は、芙美子の姪である福江さんを鹿児島から呼び手伝わせていた。
薔薇と緑敏

「薔薇」梅原龍三郎
緑敏の慈愛あふれる行動は、様々なところで見られる。庭の手入れから薔薇の生育にかけた愛情もそのひとつで、芙美子の没後裏山の土地を購入して薔薇の栽培に勤しんだ。
緑敏は薔薇の花を育てて、その花の出来はとても素晴らしく、隣に住んでいた刑部 人(1906-1978)をはじめ、梅原龍三郎(1888-1986)や中川一政(1893-1991)など、数多くの画家たちが好んで緑敏の薔薇を題材にして絵にしたという。
なかでも梅原龍三郎氏は「緑敏氏の薔薇でなくては描く気がしない」とまで言わしめ、薔薇の絵は緑敏の花を題材にしたものといわれている。
しかし、今はその名残りをとどめるためか、裏の小高い庭にはバラが数本植えてあるという。
画家として名を残さなかった緑敏は、薔薇の花を育て、梅原龍三郎や中川一政の薔薇の名作を生み出したといわれている。また、才能豊かな芙美子の活動を献身的に支え、芙美子の死後二十余年。ある出版社が全集の企画編集のため、緑敏を訪ねたとき、膨大な資料は系統立てて整理され、完璧なまでに年譜が作られていたという。
自己の画才に見切りをつけた緑敏は、奔放に生き鮮やかに才能を開花させた芙美子の薔薇のような人生を、緑敏が慈しみ育てたのかもしれない。
貧しい絵描(緑敏)と女優?(林芙美子)の関係は、加藤登紀子が訳詞そして歌う百万本の薔薇に重なるような気がしてきた。女優(芙美子)は早世し別の世界に旅立ち、薔薇の思い出は心に消えなかった。
百万本の薔薇
作詞:A.Voznesenskij 加藤登紀子 訳詞
作曲:R. Pauls
歌;加藤登紀子
小さな家とキャンバス 他には何もない
貧しい絵かきが 女優に恋をした
大好きなあの人に バラの花をあげたい
ある日街中の バラを買いました
百万本のバラの花を
あなたに あなたに あなたにあげる
窓から窓から見える広場を
真っ赤なバラでうめつくして 「林芙美子肖像画」林緑敏
中略
出会いはそれで終り 女優は別の街へ
真っ赤なバラの海は はなやかな彼女の人生
貧しい絵かきは 孤独な日々を送った
けれどバラの思い出は 心にきえなかった
百万本のバラの花を
あなたに あなたに あなたにあげる
窓から窓から見える広場を
真っ赤なバラでうめつくして
百万本のバラの花を
あなたに あなたに あなたにあげる
窓から窓から見える広場を
真っ赤なバラでうめつくして
緑敏はこの薔薇を贈った孤独な絵描きとは違い、芙美子亡き後、お手伝いをしていた福江さんと結婚し、幸せな暮らしを得るとともに、絵画についての見識を生かして、戦後、銀座に画廊を経営していた。
その時期、シャイム・スーティンの「心を病む女」を同じ銀座に画廊を持っていた福島繁太郎氏から購入したと思われる。
スーティンは幼い頃の貧困と抑圧が強迫観念になったためか、あたかもこの世の醜さを暴き出すかのような激烈な表現に終始していた。その「心を病む女」は、どことなく芙美子の生き方にオーバーラップしているような気がして、譲り受けたのではなかろうか。
この絵は1960年、緑敏が亡くなる4年前に林 泰の名義で国立西洋美術館に寄贈している。不幸にも17歳で夭折した泰への心のはなむけとしたのであった。

シャイム・スーティンの「心を病む女」
緑敏が心筋梗塞で亡くなる昭和64年・平成元年(1989)とき遺言で、自分の絵はすべて焼いて処分して欲しいと妻の福江さんに頼み、殆どが焼却されたという。
画家というより、温厚な性格から人に好かれて、芙美子の夫として良き伴侶として、25年を芙美子に尽くし、そして画廊の経営、薔薇の栽培家そして、その合間に好きな絵を描いていた。また、野球が好きで、後楽園の年間指定席を買い、野球を楽しんでいたという。
芙美子との二人の記念すべき家は殆ど手を入れず、新築の当時のまま残していた。いかにも自分はあくまでも芙美子の黒子・脇役に徹し、決して表に出ない緑敏の性格が、芙美子の女流作家活動のすべての礎となり、この家を守り今日に引き継いでくれた。
花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき
林芙美子

参考ブログ 落合道人氏・清水 正・「林のおばさん・林芙美子記念館他

コメント
コメント一覧 (2)
主人公の林芙美子の生き様を今回映画の中で垣間見ることが出来ましたが、中でも後年ご主人となる方の(ピッタリな加東大介さん好演)善意に溢れたヒトトナリをさらに今回の記事で知る事ができ映画をより深く追想できました。
下駄で歩いた巴里 立松和平編を読み終えてこのサイトに辿り着きました。戦前の日本人女性にも鮮やかに生き切った方が多いなと思っていましたが、林芙美子は出自においても林芙美子は別格だと思っていました。この様なパートナーに恵まれていたとは驚きです。ありがとうございました。