2020年06月07日

藤村『若菜集』について⑦ 酔歌

  酔歌

旅と旅との君や我
君と我とのなかなれば
酔ふて袂(たもと)の歌草(うたぐさ)を
醒(さ)めての君に見せばやな

若き命も過ぎぬ間(ま)に
楽しき春は老いやすし
誰(た)が身にもてる宝(たから)ぞや
君くれなゐのかほばせは

君がまなこに涙あり
君が眉には憂愁(うれひ)あり
堅(かた)く結べるその口に
それ声も無きなげきあり

名もなき道を説(と)くなかれ
名もなき旅を行くなかれ
甲斐(かひ)なきことをなげくより
来(きた)りて美(うま)き酒に泣け

光もあらぬ春の日の
独りさみしきものぐるひ
悲しき味の世の智恵に
老いにけらしな旅人よ

心の春の燭火(ともしび)に
若き命を照らし見よ
さくまを待たで花散らば
哀(かな)しからずや君が身は

わきめもふらで急ぎ行く
君の行衛(ゆくへ)はいづこぞや
琴花酒(ことはなさけ)のあるものを
とゞまりたまへ旅人よ

酔う

藤村が『万葉集』をひもといたのは、『万葉集』が長歌に特色を持つ唯一の歌集であり、詩句の表現を模索する上で必要があったからとみられます。

それに加えて、もう一つ、当時の藤村が思い描いていた文学像に『万葉集』の像が合致していたということも考えられる、と五十里文映氏はいいます。

『文学界』19号(明治27・7・30)の見返しには、「かしこしとものいふよりはさけのみてゑひなきするしまさりたるらし」など、物思いや俗智を排し酒に酔うべきことを歌う大伴旅人「大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首」(『万葉集』巻3・338〜350)のうち9首が掲げられています。これは藤村が選定したもののようです。

また、藤村は前の号に、花に無常を観じて物思いをしたはずの西行が、花見をして酩酊する夢の場面を持つ小説「山家ものがたり」(明治27・6・30)を書いています。

冒頭にあげた、「甲斐なきことをなげくより/来りて美き酒に泣け」と歌う「酔歌」は、この歌群を踏まえています。

「集中三例ある酔泣きという珍しい語」(稲岡耕二編『別冊國文學・万葉集事典』)も、「酔ひ泣(鳴)く」の形で『若菜集』の「草枕」や「天馬」などの詩篇に用いられています。

詩集巻頭の序詩では、そこに収まる詩篇が「あたゝかきさけ」に喩えられ、「なさけ」を以てそれに酔うことが暗に求められており、つまりは「さけのみてゑひなきする」ことを藤村は人々に提唱していると言えます。

このように当時の藤村の諸作品の主題と密接に関わる旅人の歌群を含め、『万葉集』について藤村が当時どのような像を抱いていたのかをよく表すのが、次号二〇号に載る、「極端を悪み、中庸を愛する」「調和者」を批判した、「けふこのごろ」(明治27・8・30)という藤村の文章である。

其の(稿者注…調和者の)心は万葉の詩人の如くに直ちに「自然」に触れて恐怖せざるものに似たり。何となれば其の心には「自然」に対する前に既に業に整然たる思想の配置あればなり。其の心は万葉の詩人の如くに無心にして純美なる愛情を有せざるものに似たり。茫然として酒に溺れ酒に泣くごとき感想を有せざるものに似たり、

藤村は万葉歌人を、「極端を悪み、中庸を愛」し「既に業に整然たる思想の配置」を持つ「調和者」とは正反対に、既成概念を持たずに対象に直に接し、純粋な感情を露わにする詩人として捉えていわけです。

そしてこの文章を基に、藤村は「聊か思ひを述べて今日の批評家に望む」(『文学界』明治28・5・30)を書いて、諸国の思想を調和しようとする批評家に向け「其声は直ちに吾国人の声にして、世の評家が所謂日本想ともいふべきもの」を詩人に指し示すよう訴えました。

「其声は直ちに吾国人の声」の先例として、その脳裡にまず想起されていたのは『万葉集』であろう、と五十里氏は想像します。

明治27年5月の北村透谷の自殺を受けて、『文学界』同人は、それまで雑誌を挙げて称揚していた透谷のような〈矯激〉な心体を反省し、上田敏に代表される〈調和(中庸)〉の心体へと目を転じていきます。

〈矯激〉な〈感情〉を未熟なものと見なすこの 〈調和〉の風潮はまた時代のそれでもあり、藤村はそれに異を唱え、〈感情〉を立ち上げるべく本格的に新体詩に着手していったのです。

このことを藤村はのちに、「漠然とした調和といふやうなものが何を自分等に齎さう、自分等青年はもつと直接に自分等の内部に芽ぐんで来るものを重んじ育てなければ成らないと考へた。(中略)私はあの友人の後を追つて、もつと心の戦を続けて行かうとした。(中略)仙台へ行つて、詩歌といふものをもつと自分等の若い心に近づけやうと試みた」(「昨日と一昨日」『早稲田文学』大正8・1・1)と、振り返っています。

〈調和〉の風潮に抗い「詩歌といふものをもつと自分等の若い心に近づけやう」とする試みにおいて、既成概念を持たずに「直ちに吾国人の声」を歌った先蹤としても、『万葉集』は当然ひもとかれるでしょう。

その際、藤村は、深い意味や纏まりを詩句にもたらすという点から、特に「朝影」、「巌陰われは」のような造語法や措辞に着目したと考えられますが、それらは藤村にとってはもう一面の魅力があったといいます。

巻1・15の「豊旗雲」という語を例に、数年後の子規は次のように述べています。

「雲が旗のやうに靡きたるを見て旗雲といふ熟語をこしらえ、それが大きいから豊といふ形容を添へて豊旗雲といふ熟語をこしらえたり。豊旗雲を只成語として見ず、古人が如何にして此熟語をこしらえしかを考へ、自己がある物を形容する時の造語法を悟るべし」(「万葉集を読む」『日本』明治33)。

「豊旗雲」は「成語」とは違う、対象を見たままを表現した自由な言葉だというのです。自由に見える『万葉集』の言葉遣いは藤村の目に、詩歌を「若い心に近づけ」る一つの方途として映ったのではないだろうか。五十里氏はそう考えています。

河井酔茗は『若菜集』の七五調について、「藤村以前は甚だ無力であり、単調であり、平板であつた。氏の七五調は日本歌謡史が有つ七五調の上でも、最も純な美しい調だ」(「島崎藤村」『明治代表詩人』昭和12・4第一書房)と述べています。

そのように言われる七五調は、美しい声調への願いと、「直ちに吾国人の声」を表す純粋な〈感情〉への願いのもとに達成された。これまで見てきた主に『万葉集』との関連による考察で、五十里氏はこのような結論を導き出しています。


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2020年06月06日

藤村『若菜集』について⑥ 押韻

處女(をとめ)ぞ經(へ)ぬるおほかたの
われは夢路(ゆめぢ)を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河(やまかは)をながむれば

水(みづ)靜(しづ)かなる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の櫻の花影は(なかげ)に
われは處女(をとめ)となりにけり

都鳥(みやこどり)浮(う)く大川(おほかは)に
流れてそゝぐ川添(かはぞひ)の
白菫(しろすみれ)さく若草(わかぐさ)に
夢多かりし吾身かな

雲むらさきの九重(こゝのへ)の
大宮内につかへして
清涼殿(せいりやうでん)の春の夜(よ)の
月の光に照らされつ

雲を彫(ちりば)め濤(なみ)を刻(ほ)り
霞をうかべ日をまねく
玉の臺(うてな)の欄干(おばしま)に
かゝるゆふべの春の雨

さばかり高き人の世の
耀(かゞや)くさまを目にも見て
ときめきたまふさまざまの
ひとのころもの香(か)をかげり

きらめき初(そ)むる曉星(あかぼし)の
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き

天(あま)つみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
名(な)の夕暮(ゆふぐれ)に消えて行く
秀(ひい)でし人の末路(はて)も見き

春しづかなる御園生(みそのふ)の
花に隱れて人を哭(な)き
秋のひかりの窓に倚り
夕雲(ゆふぐも)とほき友を戀(こ)ふ

ひとりの姉をうしなひて
大宮内の門(かど)を出で
けふ江戸川に來(き)て見れば
秋はさみしきながめかな

櫻の霜葉(しもは)黄(き)に落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水靜(しづ)かにて
あゆみは遲きわがおもひ

おのれも知らず世を經(ふ)れば
若き命(いのち)に堪へかねて
岸のほとりの草を藉(し)き
微笑(ほゝゑ)みて泣く吾身かな

都鳥

ここにあげたのは、『若菜集』の「六人の処女」の一篇である「おえふ」です。この詩の第4連の詩句を抜き出すと、

雲むらさきの 九重の/大宮内に つかへして
清涼殿の 春の夜の/月の光に 照らされつ

となります。一・三句め七言、五音の語尾が「の」、二・四句めの七音の語尾は「に」と同じ助詞を用い、韻を踏んでいることがわかります。同時代評には「「雲むらさきの」は穏ならず「霞棚引く」と改むるこそよけれ」といった意見も見られます。

しかし藤村はおそらく「霞棚引く」といった常套句は、詩句が深い意味や纏まりを持つためには不要な「意味なき麗辞」(「韻文に就て」)としてあえて避けているのだろう、と五十里文映氏は見ています。

抱月「新体詩集を読む」にならえば、当時の新体詩の欠点の第四、「造語句の様式おのづから一定の型をなして、概してセカンドハンドの臭味ある為、流暢は是れあるも、清新の味に乏し、(中略)形の上のつやのみ徒に目につきて、想の奥に味ひ入らざる前まつ人をして上すべりせしむるの難あり」に該当する。

あるいは、類句に「ひまなき雲の九重の/大宮つかへよそにして」(太田水穂「四つの小琴」『文学界』明治29・9・30、11・30)があるが、「ひまなき」と「九重」が意味の上で重複しており、やはり抱月の言う「第三、語句に冗音を加へて調の足らざるを補ひたる」に該当する。

「紫の雲」 あるいは「紫雲」という聞き慣れた語を反転させた藤村の「雲むらさきの」という表現では、「想の奥に味ひ入らざる前まつ人をして上すべりせしむる」ことなく、紫色をした雲に幾重にも包まれた高貴な宮中をイメージする余地が生まれている。

そのようにして深い意味や纏まりを持つ金の「輪」となり、(紫に色づく春の朧な大気から漏れる)柔らかな月光に包まれた「おえふ」の姿を捉える後続の「輪」へと連鎖して、詩句は「金鎖」を成していく。

藤村は単調に陥ることのない美しい声調、深い意味や纏まりを持つ詩句の表現を求めて、様々に尽力、挑戦している。このような「言葉に対しての修練」(有明)なくして、『若菜集』の成功はなかったに違いない。

五十里氏は、これらの論拠をあげたうえで、こうした挑戦の際に藤村が「とりわけ『万葉集』から、助詞・助動詞の省略、造語法、朝夕の対偶を持つ対句表現などが学ばれたことは、特筆に値しよう」と指摘しています。


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2020年06月05日

藤村『若菜集』について⑤ 秋風の歌

しづかにきたる秋風の
西の海より吹き起り
舞ひたちさわぐ白雲(しらくも)の
飛びて行くへも見ゆるかな

暮影(ゆふかげ)高く秋は黄の
桐の梢の琴の音(ね)に
そのおとなひを聞くときは
風のきたると知られけり

ゆふべ西風(にしかぜ)吹き落ちて
あさ秋の葉の窓に入り
あさ秋風の吹きよせて
ゆふべの鶉巣に隱(かく)る

ふりさけ見れば青山(あをやま)も
色はもみぢに染めかへて
霜葉(しもば)をかへす秋風の
空(そら)の明鏡(かゞみ)にあらはれぬ

清(すゞ)しいかなや西風の
まづ秋の葉を吹けるとき
さびしいかなや秋風の
かのもみぢ葉(ば)にきたるとき

道を傳ふる婆羅門(ばらもん)の
西に東に散(ち)るごとく
吹き漂蕩(たゞよは)す秋風に
飄(ひるがへ)り行く木(こ)の葉(は)かな

朝羽(あさば)うちふる鷲鷹(わしたか)の
明闇天(あけくれそら)をゆくごとく
いたくも吹ける秋風の
羽(はね)に聲(こゑ)あり力(ちから)あり

見ればかしこし西風の
山の木(こ)の葉(は)をはらふとき
悲しいかなや秋風の
秋の百葉(もゝは)を落すとき

人は利劍(つるぎ)を振(ふる)へども
げにかぞふればかぎりあり
舌は時世(ときよ)をのゝしるも
聲はたちまち滅(ほろ)ぶめり

高くも烈(はげ)し野も山も
息吹(いぶき)まどはす秋風よ
世をかれがれとなすまでは
吹きも休(や)むべきけはひなし

あゝうらさびし天地(あめつち)の
壺(つぼ)の中(うち)なる秋の日や
落葉と共に飄(ひるがへ)る
風の行衞(ゆくへ)を誰か知る

秋の風

これは、『若菜集』の「秋風の歌」という一篇です。題辞に「さびしさはいつともわかぬ山里に尾花みだれて秋かぜぞふく」という歌が添えられています。

「見よ、天に於 ては星、地に於ては花と云はゞ、其の心其の意義に於て既に詩ならずや」(秋骨「塵影」『読売新聞』明治30・3・29 )とも言われるように、均斉の美を生む対句表現は、漢詩をはじめ、詩句を構成する技法としてしばしば用いられます。『若菜集』詩篇でも、対句は頻繁に用いられています。

たとえば、この「秋風の歌」の第3連、

ゆふべ西風吹き落ちて/あさ秋の葉の窓に入り
あさ秋風の吹きよせて/ゆふべの鶉巣に隠る

を見ても、「あさ」と「ゆふべ」などの対偶関係のある対句表現が用いられていることが、すぐにわかります。五十里文映氏の論文によれば、こうした『若菜集』の対句表現にも『万葉集』の長歌からの影響が考えられる、として次のように論じています。

対句は『万葉集』の長歌の特色でもあり、そのことは当時にも言及が見られる。特に虚舟生。「国民の歓声」(『少年園』明治27・12・3)では、今日の長歌、新体詩は「一種の散文」であるという問題意識のもと、『万葉集』巻一・三と巻二・一五九の長歌を引いた上で「対句の有様を示さん為に」図示もし、「巧みに対語を設けて務めて修飾を加へ」るという「着眼点」を長歌、新体詩作者に提唱している。

ここでも朝夕の対偶が図示されているように、『万葉集』中、「「朝」「夕」の二つの時が一首の中で歌われる例は、「朝露」「夕霧」などの複合語の例も含めて七○首ほど」、また「あした」と「ゆふべ」の対は17例あり、それらが一対の時として歌われていることは目に止まりやすかろう。

稲岡耕二「万葉集の方法−対句の本質−」(『國文學解釈と教材の研究』昭和58 ・5)によれば、「記紀歌謡や初期万葉の長歌に見られる〈朝〉〈夕〉の対偶は、それによって一日の全体を暗示するもので、時間表現の古代的様式である」が、人麻呂の時代に、「うたわれるうたから文字を介して作られる歌への変化や、それにともなう歌の内容と作者の意識の変化」により、「〈朝〉〈夕〉のおのおのの時を明確に限りつつ、流れてかえらぬ時間を印象する」ものへと変化した。

後者に該当するものとして例えば、「朝露に 玉裳はひつち 夕霧に 衣は濡れて」(人麻呂・巻二・一九四)、「露こそば 朝に置きて 夕には 消ゆといへ  霧こそば 夕に立ちて 朝には 失すといへ」(人麻呂・巻二・二一七)、「朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に かはつは騒く」(山部赤人・巻三・三二四)などが挙げられるが、いずれも語句と語句との対偶性が鮮やかで、対となる句同士でイメージは統一されつつも、その時々の対象を捉えており、それゆえに時の流れが思われる。

「秋風の歌」の詩句を詳しく見ると、一句めと三句めでは「ゆふべ」と「あさ」、「西風」と「秋風」、「吹き落ちて」と「吹きよせて」が、また二句めと四句めでは「あさ」と「ゆふべ」、「秋の葉」と「鶉」、「窓に入り」と「巣に隠る」がそれぞれ対偶性を持ち、かつ対となる句同士は、風の吹きよせるさま、その風を受ける対象が家の中へ寄せられるさまと、イメージが統一されています。

そうした均斉の美を作りつつ全体としては、夕べに西風が吹きおろして朝に桐の一葉を落とし立秋を告げ、野山へと吹きよせ、草深い夕べの野に鳴く鶉がそれゆえに巣に隠れるというように、目には見えない「風 の行衞」を、可視化しながら時の経過とともに表現するものとなっている、といいます。

同じような待遇性は、「草枕」にも見られます。

身を朝雲にたとふれば/ゆふべの雲の雨となり
身を夕雨にたとふれば/あしたの雨の風となる

「草枕」の詩句では、一句めと三句めの「朝雲」と「夕雨」、二句めと四句めの「ゆふべの雲」と「あしたの雨」、「雨」と「風」がそれぞれ対偶性を持ち、また「朝雲」と「ゆふべの雲」、「夕雨」と「あしたの雨」とが対偶性を持ちます。

そしてここでも、一・二句めと三・四句めとのイメージは統一されつつ、全体としては、朝の雲が夕べには雨となり、雨となったかと思えば朝には風となるというように、寄る辺なく転変する草枕の身の上を時の経過に重ねて表現するものとなっているのです。

また、三浦仁氏に「〈かなや … からずや 〉という身振り大きい詠嘆調で七五調の七音を構成するのは、特にこれを用いて対句を構成するのは(中略)藤村の最も特徴的な文体の一つ」(前掲172頁)との指摘があり、藤村が周到に声調を整えながら実験的な表現を用いていることがうかがわれる、といいます。

五十里氏は「朝夕の対偶を持つこうした洗練された対句表現が出来上がるまでには、『万葉集』の長歌が与っていると思われるのである」としています。


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2020年06月04日

藤村『若菜集』について④ 朝影

君がこゝろは蟋蟀(こほろぎ)の
風にさそはれ鳴くごとく
朝影(あさかげ)清(きよ)き花草(はなぐさ)に
惜(を)しき涙をそゝぐらむ

それかきならす玉琴(たまごと)の
一つの糸のさはりさへ
君がこゝろにかぎりなき
しらべとこそはきこゆめれ

あゝなどかくは触れやすき
君が優しき心もて
かくばかりなる吾(わが)こひに
触れたまはぬぞ恨(うら)みなる

朝の影

上にあげたのは、『若菜集』の中にある「君がこゝろは」という詩です。この詩の3行目、「朝影清き花草」の詩句も、「清き」を倒置して中間に配することで、清き朝影の花草、という場合の助詞「の」を省くことができます。

すなわち、『若菜集』詩篇において頻繁に用いられているこの「名詞+形容詞の連体形+名詞」のかたちも、助詞を用いることなく緊密な名詞句を作ることのできる措辞として活用されていると考えることができます。

「天馬」にある「さゝなみ青き湖の/」では、「青き」を倒置して中間に配することによって、青きさゝなみの湖の、という場合の助詞「の」は省かれ、さらに「青き」が上接の「さゝなみ」と下接の「湖」との両方を修飾することで、「湖」のイメージが重層化しています。

さらに「青波深きみつうみの/」( 「天馬」)となると、「青波」という複合語によって「さゝなみ青き」のように6字ほどになるのを4字に約め、さらに「深き」という意味を付けることで湖のイメージはより重層化します。

他にも、
・「春やきぬらん東雲の/潮の音遠き朝ぼらけ」 (「草枕」)
・「潮さみしき荒磯の/巌陰われは生れけり//あしたゆふべの白駒と/故郷遠きものおもひ//」(「おさよ」)
・「秋のひかりの窓に倚り/夕雲とほき友を恋ふ//」(「おえふ」)
・「ふるさとさむき遠天の/雲の行衞を慕はざる/」(「天馬」)
など、一読では解せないような複雑な意味を持つ緊密な名詞句があちこちで用いられています。

五十里文映氏は「当時の他の作者の作にこの形が皆無なわけではないが、藤村のように精力的に活用する様子は見受けられない」としています。

「藤村得意の語法の一つ」(三浦仁『詩の継承—『新体詩抄』から朔太郎まで—』)といわれる、「流れて熱きわがなみだ/」(「おさよ」)、「ぬれてこひしき夢の間や/」(「傘のうち」)のような、「動詞の連用形+て+形容詞の連体形+名詞」の形も、助動詞を伴わずに助詞「て」の一字のみで動詞を用いつつ、意味の複雑で緊密な名詞句にまとめあげるのに有用なかたちと考えられます。

藤村の「朝影清き花草のごとき言葉の使ひざまも、万葉集をさぐつて試みたもの」という発言は、「青波」もそうでしたが、「朝」という語を「影」という語に冠して「朝影」という複合語を作る造語法のことも示唆していると見られます。

「彼や詞に曲豆ならず茲を以てか秋鳥、暁星、黄雲の如き詞を新製したり」(桂陵生「新体詩壇瞥見」『国民之友』明治30・11)と同時代評の指摘にもあるように、『若菜集』には、時間帯や季節、色彩を表す語を別の語に冠して複合語を作る造語法も顕著に見られます。

「暁星」(「おえふ」「明星」)「あけぼの露」( 「天馬」)「朝羽」(「秋風の歌」)「夕雨」(「草枕」)、「 春鳥」「春濤」(以上「天馬」)「なつばな(夏花)」(「蓮花舟」「天馬」)「秋鳥」(「知るや君」)「冬雲」(「草枕」)、「赤樟」「青一筆」「青巌」(以上「深林の逍遙」)「黄雲」(「草枕」)など、など。

この造語法では、朝の羽、のように助詞を用いずに音数をつづめることができるとともに、語と語を複合することにより、一語の意味を複雑にして深みを持たせることができます。

藤村の「松島だより」(『文芸倶楽部』明治29・11・3)には「このあたり舟に乗りて出で舟に乗りて帰るとき、朝と暮との眺めありて、朝は島々を黒く見、暮は島々を白く見るとの船頭の言葉によれば、舟は東をさして行く故に島は光を背にして暗きは朝島、日西に入りて光の返るときには島は夕影を東に投げて明るきは夕島」とあります。

「朝島」とするなら、朝の時間帯の光の方角、そしてその時間帯の内に存在する島の陰り具合もが、一語に込められることになります。

音数が短く複雑な意味を持つ語を造る手法は、例えば、古代の歌謡、和歌、文章について論じた橘守部『長歌撰格』(明治6・5)などで、「上つ代の歌文章には、(中略)言語のいひざまに、後世にこよなうまされるあやどもおほかり。今其あやを、仮に四種に分ちて、連実、光彩、数量、方辺と名つく」(『長歌撰格』)として言及される手法とも重なります。

「連実」とは、「あかとき露」「あか星」「朝川」「春柳」など、「実語の異類を合せ用る」(『短歌撰格』155頁)ものを言い、その効用について守部は、次のように述べています。

たとへば山と云も実語にはあれど、只山とのみにてはいまだけしきまではうかばざるを、春山と云へば、やがて霞もたち、花も咲て、長閑けかるべきけしきまでも心に浮び、梱山といへば、やがて鹿もなき、紅葉も色づきて、寂しかるべきさまの目にうかびくるやうなる折もぞある。さればつゞけによりては、只春山といふ四言にて「春くれば山もかすみて」などいはん十二言よりもまされる事あり。又布留の大神の鎮ります神垣の杉を翹といひ、ゆふべの海のさびしき波の上になく千鳥を齧といへる類ひ、短く約りて言せまらず、かゞまらず、をれず、くだけずして、高くも、雄々しくも、いうにも、あはれにも聞えたる、かの文字をして言を填む漢土の語といへども、かうつゞまやかによくいひあへんや。後世のかけても及ぶべき所ならず。後世にはかゝる 句どもを虚言して引延ていはんとすめるより、おのづから句延びてよわく、歌の丈短かき也。(『短歌撰格』155頁)

「光彩」とは、「青駒」「豊酒」「若桜」「にひ稲」「短山」など、「称辞、飾言をそへて、美麗くも、厳かにも、雄々しくもいふ」類、

「数量」とは、「一本菅」「八百霧」など、「それぞれの数の語もて、つよく雅びにいへる」類、

「方辺」とは、「荒山中」「うら葉」「小垣内」など、「上下、左右、縦横、自他にわたる詞づか ひ」を言う(「長歌撰格』20頁)。

四種ともに、語と語を複合することによって、音数が短く複雑な意味を持つ名詞や名詞句を造る類と言えるでしょう。

守部の分類にならえば、先に挙げた「曉星」「春濤」などは「連実」、「赤樟」などは「光彩」となります。

『若菜集』の詩篇には他に、守部の「連実」に当たる「筆毛」(「難」)「彩雲」(「相思」)「やまいちご」「花つゝじ」(以上「深林の逍遙」)、

「光彩」に当たる「大機」 (「深林の逍遙」)「遠天」(「天馬」)「小蜘蛛」(「強敵」)「猛鷲」(「おきぬ」)、

「数量」に当たる「一もと花」(「ゑにし」)「百葉」(「秋風の歌」)「もゝかは」(「潮音」)、

「方辺」に当たる「大宮内」(「おえふ」「懐古」)など、この造語法によるらしい複合語が多く見られ、藤村がこれを重用していたことが分かります。

稲岡耕二・橋本達雄編『万葉の歌ことば辞典』(昭和57・11、有斐閣)の「あさ(朝)」の項(執筆は稲岡氏)には、「アサは、朝霞・朝雲・朝宮など、他の体言とあわせた熟合語の例を万葉集の中だけでも三〇〇例近く見せ」、「「朝」と体言もしくは用言との自在な結合による造語法は万葉集の時代には活溌に行われたのであるが、古今集になると、このように多様で生き生きした熟合語を見ることはない」とあります。

五十里氏は、「朝影清き花草に」の「朝影」という語に藤村が託したのは、「朝」がその造語法の象徴的な語であるからであろうと見ています。そして、こうした造語法は、万葉集から多くのヒントを得ていると考えられそうです。


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2020年06月03日

藤村『若菜集』について③ 「巌陰われは」

きょうも、五十里文映の論文「声調をめぐる『若菜集』の戦術」をよりどころに、藤村の『若菜集』について考えていきます。

  おさよ

潮(うしほ)さみしき荒磯(あらいそ)の
巌陰(いはかげ)われは生れけり

あしたゆふべの白駒(しろごま)と
故郷(ふるさと)遠きものおもひ

をかしくものに狂へりと
われをいふらし世のひとの

げに狂はしの身なるべき
この年までの処女(をとめ)とは

うれひは深く手もたゆく
むすぼほれたるわが思(おもひ)

流れて熱(あつ)きわがなみだ
やすむときなきわがこゝろ

乱(みだ)れてものに狂ひよる
心を笛の音(ね)に吹かん

笛をとる手は火にもえて
うちふるひけり十(とを)の指

音(ね)にこそ渇(かわ)け口唇(くちびる)の
笛を尋(たづ)ぬる風情(ふぜい)あり

はげしく深きためいきに
笛の小竹(をだけ)や曇るらん

髪は乱れて落つるとも
まづ吹き入るゝ気息(いき)を聴(き)け

力をこめし一ふしに
黄楊(つげ)のさし櫛(ぐし)落ちてけり

吹けば流るゝ流るれば
笛吹き洗ふわが涙

短き笛の節(ふし)の間(ま)も
長き思(おもひ)のなからずや

七つの情(こころ)声を得て
音(ね)をこそきかめ歌神(うたがみ)も

われ喜(よろこび)を吹くときは
鳥も梢(こずゑ)に音(ね)をとゞめ

怒(いかり)をわれの吹くときは
瀬(せ)を行く魚も淵(ふち)にあり

われ哀(かなしみ)を吹くときは
獅子(しし)も涙をそゝぐらむ

われ楽(たのしみ)を吹くときは
虫も鳴く音(ね)をやめつらむ

愛のこゝろを吹くときは
流るゝ水のたち帰り

悪(にくみ)をわれの吹くときは
散り行く花も止(とどま)りて

慾(よく)の思(おもひ)を吹くときは
心の闇(やみ)の響(ひびき)あり

うたへ浮世(うきよ)の一ふしは
笛の夢路のものぐるひ

くるしむなかれ吾(わが)友よ
しばしは笛の音(ね)に帰れ

落つる涙をぬぐひきて
静かにきゝね吾笛を

荒磯

ここにあげたのは、『若菜集』の「六人の処女をとめ」の、「おえふ」「おきぬ」につづく、3人目の「おさよ」をうたった詩です。

この詩の冒頭の2行目「巌陰(いはかげ)われは生れけり」に関連して、藤村は次のように記しています。

当時、厳蔭われは生れけりのごとき句法はなかつた。六人の処女の歌のうち、第三の歌のはじめに、その破格を試みたところ、ある人々より大分きびしく攻撃された。万葉集第一の巻の雑歌の部を見ると、額田王が春秋の比較をことわつた長歌の終に、秋山われはの句がある。それとは言葉の置き場所と用ひ方とこそ異なれ、自分の試みたくらゐの破格は詩歌の世界に許されていゝと思つたが、争はないでやめた。君が心はと題して前に掲げた歌のうち、朝影清き花草のごとき言葉の使ひざまも、万葉集をさぐつて試みたものであつた。蒲原有明君は後になつて知つた友の一人であるが、朝影の句よしと言はれたやうに覚えてゐる。(『定本版藤村文庫第三篇早春』昭和11・4新潮社、引用は『新装版藤村全集第一巻』昭和41・11筑摩書房)

「攻撃された」とあるのは、國學院同窓会発行の雑誌『新国学』(12、明治30・9)に載る栗島狭衣・宮本花城・雷鼓「合評若菜珠を評す」中の発言と見られます。狭衣、花城の両者が当該詩句に関して、「「巌陰われは生れけり」の如き言詞の用法は氏の失態なり」、「美辞の推敲上欠けたることもなしとは思はれず」と措辞の点から批難しており、花城は終わりにも「氏は何はともあれ今一わたり文法語格をしらべられては如何に」と忠告しているのです。

問題になっているのは、「巌陰に」と付くべき助詞「に」を付けず、また、われは(潮さみしき荒磯の)巌陰に生れけり、と補語の前に置くべき主語を、後ろに置いている点でしょう。そうした批難に対して藤村は、『万葉集』巻1・16の額田王の長歌でも、われは秋山に心を寄せる、の意が「秋山われは」と表現されていることを根拠に、「自分の試みたくらゐの破格」は詩歌においては正当だと思ったといいます。さらに、「言葉の使ひざま」を「万葉集をさぐつて試みた」と述べてもいます。

藤村は、「私の文学に志した時代はそれまで埋れて居た自国の古典が日本文学全書、歌学全書等といふ叢書になつて毎月の様に出版された最初の時」(「文学に志した頃」『飯倉だより』大正11・9アルス)と語っています。

そんな中にあっても、新体詩の詩句の表現を模索するときに、長歌を「独得の技倆」(上野雄図馬「万葉集を読む」『人物と文学』明治27・6内田老鶴圃240頁)として、その集を措いては「幾ど長歌なるものを有せず」(野原稲蔵「読万葉集」『六号雑誌』明治29・7・15)とされる『万葉集』を繙いてみることは、手段として順当であったとみられます。

長歌に関しては明治20年代前半期の長歌改良論争を通して、新体詩が「新しい時代の「国歌」にふさわしい形式」であるのに対し、長歌は「新体詩の語法や品格の未熟さを補いうるという二次的な役割」を持つと確認されていたからです。

 『若菜集』詩篇の各詩句の表現については、和歌、歌謡、漢詩、英詩、賛美歌、聖書、新体詩等、様々な先行する表現との関連性がこれまで指摘されているほか、擬人法やリフレインなどは西洋詩に学んでいます。あるいは措辞以外の、例えば音韻の問題も重要です。しかし、その詩的な詩句には措辞の面で大きな特徴が見られます。

措辞に着目して『万葉集』を見た場合、どのような特色が見出されるのでしょう。

小野靖彦「万葉集と古今集」(『國學院雑誌』明治35・6・10、7・10)では、「概念を表せざる、一種の形式語」としての助詞・助動詞は「冗長繊弱の弊」をもたらすとして、その多寡が「 古今の遂に万葉の荘重に及ぶ能はざる」所以であると述べられています。

また、佐佐木信綱「近世の歌風」(『太陽』明治43・4・1、5・1)にも、「動詞の活用の終りで言ひ切つて、後世の歌のやうに、「らむ」とか「けり」とか「なりけり」とかいふやうな助動詞をそへぬものが多い。従つて句々の調子が切迫してくる」との言及があります。

五十里氏は「藤村も参照する中で、『万葉集』の詩句が緊密で力強く、深い意味や纏まりを持つこと、その要因が助詞・助動詞の少なさにあることを看取したのではなかろうか」と見ています。

助詞・助動詞を用いないようにするには、「巌陰われは」のように倒置によって助詞を省略したり、あるいは、助動詞を伴う述部を避けて名詞句の形にまとめたり、体言止めにしたりする方法が考えられます。

『若菜集』詩篇の特色として、倒置法が多いこと、助動詞を用いた襲用的な結び方が少ないこと、体言止めが比較的多いことは、同時代評においても指摘されるといいます。


harutoshura at 03:00|PermalinkComments(0)島崎藤村