Kenji

「宮沢賢治」完読を夢みてちょっとずつ齧っています

「凍雨」のつづき、最後の4行です。


北は鍋倉円満寺
南は太田飯豊笹間
小さな百の組合を
凍ってめぐる白の天涯

天涯

「鍋倉」は花巻市の地域名で、旧稗貫郡湯口村の集落です。鍋割川の南側、江釣子森の東にあたります。

この詩は、きのう見たように花巻の西5キロほどの「上根子堰」、すなわち西から東に流れる豊沢川にかかる上根子橋辺りからの眺めと考えられています。

『語彙集』によると、鍋倉はこの上根子堰から北に3キロ、観音札所の古刹「円満寺」が北へ1.5キロ、北上市の「飯豊」が南東4キロ、「笠間」が南方3キロ、「太田」は橋のすぐ南側の清水を中心とした清水野一帯、ということになります。

「小さな百の組合」というのは、1908年には産業組合の数は全国で約8500、組合員数80万に達したという産業組合の「部落部落の小組合」、あるいは農業の改善を図るための農会のことでしょう。

「天涯」は、空のはて、遠く離れた地のこと。

 きのうの続き、「凍雨」の6行目からです。

牆林(ヤグネ)は黝く
上根子堰の水もせゝらぎ
風のあかりやおぼろな雲に洗はれながら
きゃらの樹が塔のかたちにつくられたり
崖いっぱいの萱の根株が
妖しい紅(べに)をくゆらしたり
  ……さゝやく風に目を瞑り
    みぞれの雲にあへぐもの……

キャラ

「牆林(ヤグネ)」は、方言で農家などの屋敷の周囲に植え込んだ主に針葉樹の暴風雪林、あるいは高い垣根のことをいいます。

花巻市内で、北上川に流れ込む豊沢川沿いに位置し、上流から下流へ「上根子」、中根子、下根子があります。「上根子堰」は、豊沢川下流にある堰ということになります。

北西に位置する松倉山など豊沢川上流の山々の「根っこ」、あるいは、「根子氏」によって支配された地の意味があるといわれています。

宮沢家の別宅が下根子の桜にあり、羅須地人協会の本拠地であるなど、賢治ともゆかりの深いところです。

「きゃらの樹」は、キャラボク=写真。イチイ科の常緑低木です。高さ2、3メートル、径10センチメートル以下のものが多く、幹は横に広がって斜上し、密に小枝を分けます。葉はイチイに似ていますが、葉幅が広く厚みがあり先端は急に鋭くとがっています。3~4月に小枝の葉のあいだに小形の花を開きます。雄花は黄色で小さい楕円形の花序をつくり、雌花は淡黄色で葉腋に単生します。萌芽力が強く、日本式庭園にも洋式庭園にも適した木として広く植栽に用いられています。

きのう読んだ「凍らす風によみがへり/かなしい雲にわらふもの」に続いて今度は「さゝやく風に目を瞑り/みぞれの雲にあへぐもの」と、なんらかの存在を提示しています。

きょうから17行の詩「331 凍雨」です。「1924、10、24」の日付があります。出だしの5行は――

つめたい雨も木の葉も降り
町へでかけた用足(タシ)たちも
背簑(ケラ)をぬらして帰ってくる
  ……凍らす風によみがへり
    かなしい雲にわらふもの……

凍雨

雨粒が雲から落ちてくる途中で気温が0℃以下の層を通ると、雨粒は凍結し、氷の粒となって降ってきます。この氷の粒、あるいはその現象を「凍雨」=写真=といいます。

氷の粒は普通直径1~4mm、透明あるいは半透明で、かたちは球形が主ですが、角が出て不規則なものもたくさんあります。中心部が凍結しきれずに、水が閉じ込められて残っていることもあります。アメリカやカナダでは珍しくないようですが、日本ではあまり降りません。

「背簑(ケラ)」は、蓑すなわち、わら、すげ、ふじなどを編んでつくった雨具のこと。東北地方北部ではケラと呼ばれます。昆虫の螻蛄に似ているから、あるいは材料の「毛わら」の訛りによるといった説があるそうです。背に負うタイプが背蓑、肩蓑、胴蓑、丸蓑、蓑帽子、腰蓑などもあります。

元来、蓑作りは男の仕事で、東北では若者が嫁を迎えるときの贈り物として、首回りの部分を色糸で矢羽根や吉祥文字を編み込んだものをつくり、嫁からは花婿に、こぎん、菱刺(ひしざし)などの仕事着を贈る地方もあるとか。

「凍らす風によみがへり/かなしい雲にわらふもの」というのは、なんとなく意味深です。

 きょうは「320 ローマンス(断片)」という短い作品です。「1924、10、12」の日付があります。

ぼくはもいちど見て来ますから
あなたはここで
月のあかりの汞から
咽喉だの胸を犯されないやう
よく気を付けて待っててください

あの綿火薬のけむりのことなぞ
もうお考へくださいますな

   最後にひとつの積乱雲が
   ひどくちぢれて砕けてしまふ

水銀

「汞」(こう)は水銀=写真=のこと。銀白色の光沢をもつ常温では液状の金属。固体ではスズ白色の金属光沢となり、延びやすくナイフで切断できるようになります。比重は13.5462。塩酸には溶けませんが、硝酸に溶けて硝酸水銀となります。湿った空気中では表面が酸化されて灰色の被膜を生じます。ここでは「月のあかり」の比喩として使われています。

「咽喉だの胸を犯され」そうなほど、強い「月のあかり」の夜ということになります。

「綿火薬」(めんかやく)は硝酸セルロースのうちで、窒素含有量が多く、火薬として用いるもの。精製した綿を硝酸・硫酸の混酸に浸して処理して得られます。爆発のとき灰を残さず、無煙火薬やダイナマイトの製造に用います。

「積乱雲」は、過剰に発達した対流性の雲で、積雲が成長してできます。大気の状態が不安定なときに発生しやすく、非常に強い上昇、下降流と乱気流、さらに雷やひょうを伴います。

「善鬼呪禁」のつづき、きょうは最後の5行です。

どうせみんなの穫れない歳を
逆に旱魃(ひでり)でみのった稲だ
もういゝ加減区劃りをつけてはねおりて
鳥が渡りをはじめるまで
ぐっすり睡るとしたらどうだ

日照り

「旱魃」(かんばつ)の「魃」(ばつ)は、中国神話に登場する旱魃の神のこと。各地の山川に旱魃を起こす神がいて、地域によって姿も性質も異なると考えられていたとか。

自然災害には、地震や暴風雨、竜巻などで短時間に破壊的災害をもたらすものと、旱魃つまり日照りのように、1ヵ月から長い時は数ヵ月に及ぶ長期の異常気象によって起こるものとがあります。

近年は水利灌漑施設の発達によって日本では「日照りに不作なし」とまでいわれるようになりました。しかし賢治の時代の日照りは、冷害や水害などとともに深刻な飢饉・凶作を引き起こしました。

明治時代以前の東北地方では、歴史文献などから数年に一度の割合で凶作の年があったと考えられています。

農作物の作況状況を示す目安としては、平年作と比べ4分の1減程度は不作、2分の1減程度は凶作、4分の3減程度は大凶作、それ以上のときは飢饉とされていたそうです。

村では、不作となった場合に備えて、救貧や救荒の備蔵(そなえぐち)、郷蔵(さとぐら)といった、家々や地域単位で米などを備蓄していました。

この詩の中では「みんなの穫れない歳を/逆に旱魃(ひでり)でみのった稲だ」といっています。

旱魃で、不作とか凶作とかの年ではあったけれども、そんな中にあっても「みのった」貴重な稲の稲掛け作業をしているのでしょう。

「劃」の読みはカクですが、ここでは「区切り」という意味でしょう。

「木炭(すみ)を荷馬車に山に積み/くらいうちから町へ出かけて行」かなくてはならない明朝に備えて、稲掛けから降りて「ぐっすり睡るとしたらどうだ」と詩人はよびかけています。

 「善鬼呪禁」のつづきです。この詩の先駆形を見ると、タイトルは「過労呪禁」になっています。きょうは18行目からです。

おまへは底びかりする北ぞらの
天河石(アマゾンストン)のところなんぞにうかびあがって
風をま喰(くら)ふ野原の慾とふたりづれ
威張って稲をかけてるけれど
おまへのだいじな女房は
地べたでつかれて酸乳みたいにやはくなり
口をすぼめてよろよろしながら
丸太のさきに稲束をつけては
もひとつもひとつおまへへ送り届けてゐる

天河石

「天河石(てんがせき)」(アマゾナイト)=写真、wiki=は、青緑か緑色を帯びた微斜長石で、磨くと飾り石となります。微量の鉛によって色付き、緑青色の強いものは翡翠に、空青色の強いものはトルコ石のに似ています。最初の産地であるブラジルのアマゾンに由来します。短柱状、卓状、塊状をなして、花崗岩質ペグマタイト中に産します。日本では、長野県南木曽町、山梨県甲府市などで色の淡いものが見つかっています。ここでは「底びかりする北ぞら」の比喩として使われています。

青緑色の微斜長石を天河石(amazonite、アマゾナイト)といい、微量の鉛によって色付いている。 北アメリカ・ブラジルで産出。古代エジプトで宝石として利用されていた[1]。緑青色の強いものは翡翠に類似し、空青色の強いものはトルコ石の色に類似している。

「ま喰(くら)ふ」は、飲む、食べる、とくに、普通ではない飲み方や、食べ方をすることを指します。
 
先駆形では「乳酸」になっていますが、「酸乳」に変わっています。酸乳は、牛乳や脱脂乳を乳酸菌により発酵させてつくる酸味を有する液状または半流動状の製品をいいます。日本の規格では、無脂乳固形分と菌数の基準によって発酵乳(ヨーグルトなど)と乳酸菌飲料に分類されます。

ヨーグルトは、酸乳では最古のものとして知られています。古くから東地中海沿岸諸国で製造され、この地方に長寿者が多いのはヨーグルトを常食するためであるという説もあります。牛乳か脱脂乳を殺菌し、ブルガリア菌、アシドフィルス菌、サーモフィルス菌などの乳酸菌を接種して、30~40℃で10~15時間発酵させると、爽快な酸味と滑らかな組織をもつ製品ができるそうです。

「やはく」の「やはい」には、堅固にできていない、こわれやすいという意味もあります。「地べたでつかれて」こわれてしまいそうな「おまへ」の様子を、ヨーグルトのような「酸乳」に喩えているわけです。

 きょうは「善鬼呪禁」の8行目からです。

どこからどんな苦情が来ないもんでない
だいいちそうら
そうら あんなに
苗代の水がおはぐろみたいに黒くなり
畦に植わった大豆(まめ)もどしどし行列するし
十三日のけぶった月のあかりには
十字になった白い暈さへあらはれて
空も魚の眼球(めだま)に変り
いづれあんまり碌でもないことが
いくらもいくらも起ってくる

大豆

「苗代の水がおはぐろみたいに黒くなり/畦に植わった大豆(まめ)もどしどし行列するし」ということが、どういう状況を指しているのか、農業に不案内なわたしにはよくわかりませんが、当時、米の生産量を高める必要があったとともに「大豆」の生産も最も盛んになっています。

農水省の統計によれば日露戦争当時(1905年)の国産大豆生産量は、年に42.1万トンであったとされます。これは、現在の生産量の2倍で、米の生産量を高めなければならなかった当時の状況の中で、田の畔に精いっぱい植えた結果だろうと考えられています。

生活の向上とともに大豆消費量も高まり、それが増産につながって、1920年には国産大豆生産の最大値となる55.1万トンを記録しています。ところがその後次第に、国産大豆が満州大豆に押されようになっていきます。そして、終戦の1945年には、17万トンにまで減少しています。

「十三日のけぶった月のあかり」とは、十三夜の月、すなわち太陰暦の13日の夜の月、狭義には8月15日の夜 (十五夜 ) に次いで月見が行われる太陰暦9月 13日の夜のことをいうのでしょう。

十三夜の月見には、収穫期に入るくりや豆を供えるところから、くり名月、豆名月の名もあります。『躬恒(みつね)集 』に「清涼殿の南のつまに御清水流れ出でたり、この前栽にささら川あり、延喜十九年九月十三日に月の宴せしめ給ふ」とあるところから、平安時代、醍醐天皇の宮中で919(延喜19)年に催されたのが記録として残された最初とされています。

 きょうから「317 善鬼呪禁」に入ります。「1924、10、11」の日付があります。

なんぼあしたは木炭(すみ)を荷馬車に山に積み
くらいうちから町へ出かけて行くたって
こんな月夜の夜なかすぎ
稲をがさがさ高いところにかけたりなんかしてゐると
あんな遠くのうす墨いろの野原まで
葉擦れの音も聞えてゐたし
どこからどんな苦情が来ないもんでない

稲

『語彙集』によれば、「善鬼」は仏法を守る仏をいい、「呪禁」はまじないで邪霊などをはらうことだそうです。そしてこの作品について「詩の内容から見て、この題は揶揄的に使われている」としています。

木をむし焼きにして作った燃料である「木炭」は、日本では有史以前より利用され、炭窯による製法も平安時代初期からの歴史があります。日本古来の木造で有床、戸障子づくりの住宅様式にあった家庭燃料として、製法や品質、燃焼器具が改良されてきました。日本の木炭は、安価な外国産木炭に比べて火力の高さ、火持ちの良さ、環境保護などの点で優れ、備長炭など品質は世界一といわれています。

とりわけ岩手県は日本一の産地として有名です。明治時代後期に生産促進が図られると同県では、全国に先がけて1921(大正10)年から木炭検査を実施するなど奨励策が進められました。石油やガスの普及で木炭の需要が減少したいまでも、家庭用のほかや業務用・レジャー用などとして広く利用され、岩手の生産量は全国の25%を占めています。

そんな大切な食い扶持なのであろう「木炭(すみ)を荷馬車に山に積」んで、早朝の「くらいうちから町へ出かけて行」かなければならないのでしょう。そのため、昼間刈り取った稲を掛ける作業を夜中にしなければならないという忙しさです。

刈り取って束ねた稲を乾かす方法には、地干し、積干し、棒掛け、架干しなどがあります。この詩で「稲をがさがさ高いところにかけ」と言っているのは、東北地方に多いといわれる棒掛け=写真=でしょうか。田の畦に棒杭を一定の間隔に立て並べて、各杭の地面から数十センチのところに止め木を直角につけ、それを台にして、杭を中軸に稲束を穂先を外にしてかけ重ねる方法です。

掛け方には十字掛けと螺旋掛けというのがあり、棒の高さは1~2メートルの低いところから、2~3メートルに及ぶ高いところまで。こうしたやり方や、1本の棒杭にかける稲束数は地域によってほぼ決まっているそうです。横に渡した竹、棒、綱などに稲束をかける架干しに比べて、資材が少なくてすむというメリットがあります。

きょうは「314」の番号が付いた5行だけの短い詩です。「産業組合青年会」と同じ「1924、10、5」の日付があります。ふつう「業の花びら」というタイトルで、知られています。

夜の湿気と風がさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくろく
そらには暗い業の花びらがいっぱいで
わたくしは神々の名を録したことから
はげしく寒くふるへてゐる

業

産業組合青年会の会合が終わったのは、深夜になっていたのでしょう。詩人は「夜の湿気と風がさびしくいりまじ」った闇のなかを孤独感を引きずりながらひとり歩きだします。行く先には松や柳の姿をひそめた黒い林が立ちこめています。天を仰げば、「暗い業の花びらがいっぱい」に広がっている、といいます。詩人の心は、深く内省へと沈んでいくのか、「はげしく寒くふるへてゐる」といいます。

「花びら」として形象化されている「業」というのは、サンスクリット語の「カルマン」の訳語。もともと「為す」を意味する動詞からつくられた名詞だそうです。一つの行為は、原因がなければおこらないし、また、いったんおこった行為は必ず何かの結果を残し、さらにその結果は次の行為に大きく影響します。その原因・行為・結果・影響のどこまでも続く系列のことを業といいます。

それは、いわゆる輪廻思想とともに、インド哲学の初期ウパニシャッド思想に生まれ、のち仏教にも取り入れられました。仏教では、身(しん)・口(く)・意(い)を三業といい、身体とことばと心とはつねに一致して行為に現れる、とされます。初期の仏教では、業はもっぱら個人の行為と直結していると考えますが、やがて社会的に拡大して多くの個人が共有する業を考えるようになり、これを共業とよび、個人のものは不共業と名づけられているそうです。

 きょうは、「産業組合青年会」の最後の6行です。

  ……くろく沈んだ並木のはてで
    見えるともない遠くの町が
    ぼんやり赤い火照りをあげる……
しかもこれら熱誠有為な村々の処士会同の夜半
祀られざるも神には神の身土があると
老いて呟くそれは誰だ

森

「熱誠」は、熱情のこもった誠意。「熱誠なる支持応援を得て」などというように、あつい真心がこもっていることをいいます。

「有為」は、仏教用語で、本来「つくられたもの」、逆に、無為は「つくられないもの」を意味します。つまり、有為は時間に制約されて常に移り変わるものつまり無常なるもので、無為とは常なるものです。

これらの概念を明確にしたのは小乗仏教の説一切有部(せついっさいうぶ)でした。これによれば、人間の身心を含むいっさいの森羅万象を存在せしめる要素は75の法(ダルマ)です。このうち72法は生滅する無常なもので、これらが有為法とよばれます。残りの3法は無始以来生滅変化しない常なるもので、無為法と称されます。

「処士」は、仕官しない人。在野の人。処子。 「無名の猫を友にして日月を送る江湖の-であるかの如き感がある/吾輩は猫である 漱石」。「会同」は、ある目的のためにたくさんの人が1か所に集まることです。

「産業組合」は、戦前の日本における農村協同組合です。ドイツの協同組合に範をとり、1900年、産業組合法に基づいて設立。組合の事業は信用・販売・購買・利用の4種とされました。

当初は地主、自作、自小作層などの比較的恵まれた階層を中心で組織化は遅々として進みませんでしたが、その後の法改正や啓蒙活動によって、組織数は1905(明治38)年から5年間で1671組合から7308組合に増加。1915(大正4)年には1万1506組合にまで増加し、市町村への広範な設置をみせました。しかしその時点で、554万農家のうち組合員農業者の割合は19.3%にとどまっていたそうです。

農家の半数が組織するに至ったのは大正末年、ちょうど賢治のこの作品が作られたころです。産組振興刷新運動が展開される一方で、共存同栄という理念とそれに基づく「産業組合主義の徹底」というスローガンが、運動の目標として掲げられました。

このページのトップヘ