HarutoShura

いろんな詩を読みつづけています

「楚囚之詩・第二」① 散切頭

 きょうから「楚囚之詩・第二」に入ります。24行あります。
   
余が髪は何時(いつ)の間(ま)にか伸びていと長し、
前額(ひたい)を盖(おお)ひ眼を遮(さえぎ)りていと重し、
肉は落ち骨出で胸は常に枯れ、
沈み、萎(しお)れ、縮み、あゝ物憂(ものう)し、
    歳月(さいげつ)を重ねし故にあらず、
    又た疾病(しつぺい)に苦(くるし)む為ならず、
    浦島が帰郷の其れにも
    はて似付(につ)かふもあらず、
余が口は涸(か)れたり、余が眼は凹(くぼ)し、
  曽(か)つて世を動かす弁論をなせし此口も、
  曽つて万古を通貫したるこの活眼(かつがん)も、
はや今は口は腐(くさ)れたる空気を呼吸し
眼は限られたる暗き壁を睥睨(へいげい)し
且つ我腕は曲り、足は撓(た)ゆめり、
嗚呼(ああ)楚囚! 世の太陽はいと遠し!
噫(ああ)此(こ)は何の科(とが)ぞや?
 たゞ国の前途を計(はか)りてなり!
噫此は何の結果ぞや?
 此世の民に尽したればなり!
    去(さ)れど独り余ならず、
吾が祖父は骨を戦野に暴(さら)せり、
吾が父も国の為めに生命(いのち)を捨(すて)たり、
 余が代(よ)には楚囚となりて
 とこしなへに母に離るなり。

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「第二」は、「余」の獄中における境遇や気持ちをうたっています。

冒頭は「余が髪は何時の間にか伸びていと長し、/前額を盖ひ眼を遮りていと重し、」。まずは、「髪」の描写から入っています。

明治の文明開化の時期に盛んに行われた結髪といえば、やはり散切(ざんぎり)でしょう。「じゃんぎり」、開化頭ともいわれます。

ちょんまげ(本多髷)に替わる欧化風の結髪で、「散切頭をたたいてみたらば文明開化の音がする」と歌われ、当時の文明開化のシンボルでもありました。

額の中央から左右に分けて、ハサミで短く切ったもので、明治新政府は、1871(明治4)年に散髪令を出して、庶民はみな散切にすることを命じました。

散髪令は徹底したものではなく、普及には長い年月を要したようですが、『楚囚之詩』が出版された1889(明治22)年ごろには、かなり一般的な髪型になっていたと考えられます。

「壮士」というと、もじゃもじゃに伸びた蓬髪に高履、仕込み杖を持って、という姿を連想させます。そんな壮士の「首領」の髪が、獄中にあって長く伸び、「前額を盖ひ眼を/遮りていと重し」といいます。

『近代文学大系』の注には「重苦しい憂悶の情を表わすものとして、まず伸びた髪を叙す」とあります。

「楚囚之詩・第一」⑤ 脚韻

 きょうは「楚囚之詩・第一」後半の4行です。

     中に、余が最愛の
     まだ蕾の花なる少女も、
     国の為とて諸共に
     この花婿も花嫁も。

蕾

この4行は、「詩句の強調のため」か、四字下げになっています。その理由についてでは「詩句の強調のため」としています。

これから開いて花になろうとする蕾を、花も蕾の十六歳」というように、一人前になる前の若い人(とくに少女)をさす比喩として定番になっていますが、透谷の時代にはまだ新鮮味があったのかもしれません。

「余と生死を誓ひし壮士等の/数多ある」その「中」に、同じ行動を取ったり、支えたりする「余が最愛の/まだ蕾の花なる少女も」「この花婿も花嫁も」あったということでしょう。

「この花婿も花嫁も」と、健気な志を強調して「不自然な七五調」になっていることについて『近代文学大系』では「脚韻を踏もうとして生じたか」としています。

「第一」8行の各行末は「り」「り」「の」「り」「の」「も」「に」「も」で、aaba bcdc。母音レベルで見ると、「i」「i」「o」「i」「o」「o」「i」「o」。aaba bbabということになります。

『近代文学大系』の補注には次のように記されています。

〈脚韻はほぼ四行を単位として踏まれている。簡単に整理すると、①aabaを主とするもの(第一・第八・第九・第十・第十一・第十三)、②abcbを主とするもの(第三・第五・第七・第十二・第十六)、③aabaとabacとを主とするもの(第二)、④abcbとababを主とするもの(第四)、⑤aaba・abcb・abacの三種を用いたもの(第十四)、⑥とくに一定しないもの(第十五)、となる。

このうち、整然としているのは第一・第二・第三・第五・第十・第十二・第十三・第十四・第十六であり、とくに第十四は少しの乱れもない。ちなみに「シヨンの囚人」では連続する2行が脚韻を踏み、時々3行になったり、隔行になったりしている。

押韻の試みはすでに『新体詩抄』にあったが、それは「眠むる心は死ねるなり/見ゆる形はおぼろなり/あすをも知らぬ我命/あはれはかなき夢ぞかし/などとあはれにいふは悪し」(井上巽軒訳「玉の緒の歌」)のように、五十音図による同音の語尾に限られ、母音を単位とする試みはなかった。〉

「楚囚之詩・第一」④ 壮士

 「楚囚之詩・第一」のつづき、きょうは冒頭の3~4行を詳しく見てみます。

余と生死を誓ひし壮士等の
   数多(あまた)あるうちに余は其首領なり、

壮士
*土佐民党の壮士 『憲政秘録 明治・大正・昭和』から

「壮士」は、明治期の職業的政治活動家。当初は民権運動家として、政府に対する建白や民衆に対する啓蒙などの活動をしていましたが、1882年の福島事件以後、暴力主義、テロリズムに傾斜し、84年の加波山事件、きのう見た85年の大阪事件などにも参画しました。

決死の覚悟で敵地に赴く刺客をうたった「風粛々として易水寒し,壮士一たび去りて復た還らず」(『戦国策』)に由来します。白シャツ、絣(かすり)の上着、縦縞の袴、素足の高下駄が独特の服装をしているのを特徴にしていました。

明治維新前後に誕生し、明治初年に成長した新しい世代のうちから、自由民権と国民的独立の意識に目覚めた青年の自発的運動が発生してきたのにはじまります。

壮士の1人、井上敬次郎によれば、1883、84年ごろから「志士」とか「実行者」の呼び名を「壮士」と呼称するようになったとされ、尾崎行雄は、「有志家」と呼ばれていた大同団結運動の参加者を改めて「壮士」とよんだとしています。

士族出身者が多く、実態は政党に属する活動家から浮浪者的な無頼漢までさまざまでした。88年に角藤定憲が壮士芝居を始め、演劇界でも流行しました。

90年の議会制度成立後は自由党、立憲改進党系候補者の選挙運動などに従事し、多くは後にそれらの政党の院外団を形成し、院外での政治活動を続けました。

「生死を誓ひし壮士等」は、当時の壮士関係を率直、素朴にとらえています。

「首領」は、1つの仲間の長のこと。党の頭となって、人を従えるもの。ここでは、悪党的なニュアンスはあまり無さそうです。

「首領なり」の「、」は、正確には、白ヌキの白ゴマ点(シロテン)です。セミコロンにあたり、透谷の初期の作品によく用いられました。『日本近代文学大系』の補注には、次のようにあります。

〈「明治二十一年四月の旅行記概略」で初めて用いられるが、その前は二つ重ねの黒ゴマ点を用いていた。山田武太郎編『新体詞選』(明19・8)の緒言に「我邦の文章には、欧州(ママ)文にある如きパンクチュエーション(句読点)といふものなし。是語法の曖昧なるに、亜ぎて、欠けたる処なり。今此中の新体詞には、新に句読点を作り、以て句脚を切りたれども」とあり、白ゴマ点が濫用されている。当然透谷はこれらに注目していたはずである。白ゴマ点は一般には黒ゴマ点の中に解消し、セミコロン意識も蘇峰・透谷等少数の人々を例外に失われた。〉

セミコロン(semicolon)は、「;」と書き表される欧文の約物のひとつ。文のなかの部分と部分との切れめを示す符号には、コンマ(comma、「,」)、セミコロン、コロン(colon「:」)があり,この順序に切れめが長く(息の切れめが時間的に長く)なります。セミコロンは、ピリオドとコンマとの合体で、これらの中間的役割を担います。 

「楚囚之詩・第一」③ 大阪事件

「楚囚之詩・第一」のつづき、きょうは次の冒頭の2行について、少し詳しく見ておきましょう。

曽つて誤つて法を破り
   政治の罪人として捕はれたり、

大井

きのう見たように、1885年、自由党左派の大井憲太郎=写真=らが朝鮮革命計画を企図し、これに参加した大矢正夫らから透谷は、資金調達のため強盗団に加わるよう勧誘を受けています。

この朝鮮革命計画は、1885年12月の大阪事件へと発展します。民権左派と称される大井憲太郎はじめ、小林樟雄、磯山清兵衛らは、神奈川、栃木、富山、長野などの民権家百数十人が結集した反政府武力闘争計画です。

自由民権運動の後退と、甲申政変を契機とする義勇兵運動の高揚といった状況のなか、この年の5月ごろ大井らは、朝鮮の民主化と清国からの自立を求める金玉均ら開化派を支援して朝鮮革命を実現させ、朝鮮の宗主国を自認する清国と日本との戦争状態をつくりだし、その危機的状況を利用して各地民権家を一斉に蜂起させて、明治政府を打倒しようと計画しました。

実際は、資金調達の難航や朝鮮革命の任務を担う磯山の離反などで実行が遅れているなか、11月に発覚して、外患罪などで38人が有罪とされたほか、数人が分離裁判、軍法会議にかけられました。大井ら指導者が逮捕された大阪で裁判が行われたことから大阪事件とよばれています。

この事件については従来、朝鮮革命を国内革命の突破口にしようとしたことや、大井らの朝鮮観に潜む問題点などから、民権運動からの逸脱、国権主義への転落の典型的事例とする見解が多かったものの、近年、本来の民権運動の一環として再評価する動きもあるようです。

強盗団に加わるよう勧誘を受けた透谷ですが、実際には、懊悩の末、この計画には加わらず盟友と決別する道を選びます。政治への志を失って失望落胆の後、ユーゴーのような文学者として筆の力で政治目的を達成しようと思うようになります。

この2行について『日本近代文学大系』には、次のような補注が付いています。

〈景山英子の「獄中述懐」(明18・12・19、大阪未決監獄に於て、時に満18歳)には、「憂国の志士仁人が、誤つて法網に触れしを、無情にも長く獄窓に呻吟せしむる」(『妾の半生涯』所収)とあり、福島事件で入獄した河野広中の後藤象次郎への建言草稿(明22)には「回想スレバ往年○○誤テ罪を国典ニ得牢獄ニ投セラルルモノ凡八閲年其所為皆児戯ニ類シテ毫モ世上ニ裨補スル所ナク轗輒嗟咜(カンチヨウサタ)相踵キ独リ大方ノ嗤笑スル所トナルノミナラス破家倒産一老母トニ孤児トヲシテ飢餲ニ叫絶セシムルニ至リ復タ社会ニ立チ人心ヲ喚醒スルノ面目ナク俯仰怍愧身ヲ措クノ処ナシ故ニ客歳赦免ノ欽命ニ逢フヤ意又太ダ政界ニ奔馳スルヲ欲セス」(遠山茂樹等編『自由民権期の研究』第3巻ー昭34、有斐閣ー所収、庄司吉之助「大同団結運動と政党成立」所載のものを引用)とある。

前者は「つい、うっかり」の意、後者は自分の行為を軽率で愚かなこととして後悔する意に用いられている。前者に似た用例が国会期成同盟結成の際の「遭難者扶助法」(明13・11)にある。「弱きを扶け、貧を救ふは吾人の当さに尽す可き所の義務なり、況や身を犠牲に供し、国家の益を計画するが為め、不時の変故に遭遇するものを扶助するに於てをや、今や我同志者は茲に盟約を結び、将来切に国会開設を希図するの際、或は恐る同志者中不時の変故に遭遇するなきを保すべからざるを、……第一条我同志者の切に国会開設を希図する際、過て変故に遭遇したる者は」(『自由党史』第五編所収)。

ここでは「過」の字だが、「不時の」と同義に用いている。透谷の用例としては石坂ミナあて書簡(明21・1・21)に「過つて壮士の群に推されたり」とミナの父昌孝の軽率を憂える語があるが、「三日幻境」(明25・8)においてさえ「大阪の義獄」の言があることを思えば、壮士批判即政治運動批判とするのは無理がある。

かりに、ここに過去の政治運動参加を誤りとし軽率とする意識が濃厚に出ているとしても、それが河野広中の場合と異質であるとも断定しがたい。作品のテーマから考えると、冒頭の句をそれほど重視せずともよく、すぐ後に「国の為とて」とあること、更に「第二」後半の自己の信念を述べる部分を軽視できぬとすれば、景山英子と同じ意識で用いたとしてさしつかえない。〉

「楚囚之詩・第一」② 楚囚

北村透谷の「楚囚之詩」の「第一」を、主に『日本近代文学大系第9巻 北村透谷・徳冨蘆花集』の注をよりどころに、少しずつ読み進めていきます。

曽つて誤つて法を破り
  政治の罪人として捕はれたり、
余と生死を誓ひし壮士等の
  数多あるうちに余は其首領なり、
    中に、余が最愛の
    まだ蕾の花なる少女も、
    国の為とて諸共に
    この花婿も花嫁も。

春秋左氏傳

「第一」は、句点で結ばれた一文を8行に分けて書いています。2、4行目は2字、5~8行目は4字アケてあります。それによって、意味的には三つの文から成り立っていることがわかります。

「楚囚」というのは、文字通り捕らえられた楚人のこと。転じて、捕らえられて他国にあって、望郷の思いをいだく人のことをいいます。

「楚の鍾儀は晋に捕らわれた後も、自国の冠をつけていた」という、孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の代表的な注釈書『春秋左伝』(成公9年)=写真=の故事に基づいています。

「第一」は「楚囚之詩」342行全体の序にあたります。主人公の「余」が楚囚となった理由を述べ、花嫁もともに囚われ人となったことを記してテーマの在り処を暗示しています。

「曽つて誤つて法を破り」というのは、過激な行動に走って法に触れることになったという意味でしょう。

透谷は1868(明治元)年12月29日、小田原唐人町(現・神奈川県小田原市)の没落士族の家に生まれました。本名は北村門太郎。弟に日本画家の丸山古香がいます。

1881(明治14)年に一家で上京し、東京の数寄屋橋近くの泰明小学校に通いました。折からの自由民権運動に激発され、東洋の衰運を恢復すべく、大政治家ならんことを志します。

1883年に東京専門学校(現・早稲田大学)政治科に入学。1885年には、自由党左派の大井憲太郎らが朝鮮革命計画を企図。これに参加した大矢正夫らから透谷は、資金調達のため、強盗団に加わるよう、勧誘を受けています。

「楚囚之詩・第一」① 至大艱難の事業

しばらく宮沢賢治の『春と修羅』を離れて、きょうから、明治期、日本新体詩草創期の詩人、北村透谷(1868-1894)の詩集『楚囚之詩』を読んでいくことにします。「自序」につづいて、「第一」から「第十六」まで16節、合わせて342行からなる長編詩です。その「第一」は、次の8行です。

曽(か)つて誤つて法を破り
   政治の罪人(つみびと)として捕はれたり、
余と生死を誓ひし壮士等の
   数多(あまた)あるうちに余は其首領なり、
     中(なか)に、余が最愛の
     まだ蕾(つぼみ)の花なる少女も、
     国の為とて諸共(もろとも)に
     この花婿も花嫁も。

透谷

『楚囚之詩』は、明治22(1889)年4月、透谷が20歳のときに自費出版されました。

「これはかつての政治的体験を題材にして、バイロンの『シオンの囚人』を下敷きに制作したもので、印刷直後にその内容のあまりに過激なことを案じ、自らすべてを廃棄した。しかし実際には詩の中にそれほど危惧を抱くような部分はなく、むしろ内容の稚拙さに自ら気付いていたこと、また評判の浮世絵師、尾形月耕に挿絵を依頼しながら、本文中でその挿絵を批判、否定したのが、直接の動機ではないかと思われる」(『朝日日本歴史人物事典』)とされます。

「自序」には次のように記されています。

余は遂に一詩を作り上げました。大胆にも是(こ)れを書肆(しよし)の手に渡して知己及び文学に志ある江湖(こうこ)の諸兄に頒(わか)たんとまでは決心しましたが、実の処躊躇(ちゆうちよ)しました。余は実に多年斯(かく)の如き者を作らんことに心を寄せて居ました。が然し、如何(いか)にも非常の改革、至大艱難(かんなん)の事業なれば今日までは黙過して居たのです。

或時は翻訳して見たり、又た或時は自作して見たり、いろいろに試みますが、底事〔ママ〕此の篇位の者です。然るに近頃文学社界に新体詩とか変体詩とかの議論が囂(かまびす)しく起りまして、勇気ある文学家は手に唾(つばき)して此大革命をやつてのけんと奮発され数多の小詩歌が各種の紙上に出現するに至りました。是れが余を激励したのです。是れが余をして文学世界に歩み近よらしめた者です。

余は此「楚囚の詩」が江湖に容(い)れられる事を要しませぬ、然し、余は確かに信ず、吾等の同志が諸共(もろとも)に協力して素志を貫く心になれば遂には狭隘(きようあい)なる古来の詩歌を進歩せしめて、今日行はるゝ小説の如くに且つ最も優美なる霊妙なる者となすに難(かた)からずと。

幸にして余は尚(な)ほ年少の身なれば、好(よ)し此「楚囚之詩」が諸君の嗤笑(ししよう)を買ひ、諸君の心頭をを傷(きずつ)くる事あらんとも、尚ほ余は他日是れが罪を償ひ得る事ある可しと思ひます。

元(も)とより是は吾国語の所謂(いはゆる)歌でも詩でもありませぬ、寧(むし)ろ小説に似て居るのです。左(さ)れど、是れでも詩です、余は此様にして余の詩を作り始めませう。又た此篇の楚囚は今日の時代に意を寓したものではありませぬから獄舎の模様なども必らず違つて居ます。唯(た)だ獄中にありての感情、境遇などは聊(いささ)か心を用ひた処です。

明治廿二年四月六日  透谷橋外(きようがい)の僑寓(きようぐう)に於いて 北村門太郎(もんたろう)謹識

「図案下書」⑤ つゝどり

 「図案下書」のつづき、きょうは最後の6行を読んでいきます。

ひとすぢつめたい南の風が
なにかあやしいかをりを運び
その高原の雲のかげ
青いベールの向ふでは
もうつゝどりもうぐひすも
ごろごろごろごろ鳴いてゐる

ツツドリ

冒頭、「あをあをとそらはぬぐはれ」ていた「高原(はら)」ですが、この最終連まで来ると「ひとすぢつめたい南の風が/なにかあやしいかをりを運び」と、何か“移ろい”の兆しを示しています。

高原には「雲のかげ」がさし、「もうつゝどりもうぐひすも/ごろごろごろごろ鳴いてゐる」といいます。

「つゝどり」=写真=は、カッコウ科の全長 30~32センチの鳥。頭部と上面はやや黒みが強い灰青色で、胸以下の下面は白、黒い横斑があります。雌には背面が赤褐色の赤色型のものもあります。

ロシア中部からカムチャツカ半島、東アジアで繁殖し、フィリピン,インドネシア、オーストラリア北部などで越冬します。日本には 4月中旬に夏鳥として渡来し、低山帯や高原の林にすみます。

昆虫、特に毛虫を好んで食べます。カッコウやホトトギスのように自分では巣をつくらず、他の鳥の巣に卵を産み込み、その巣の主に抱卵や育雛を任せます。。おもに、センダイムシクイやメボソムシクイの巣を利用します。

「つゝどり」は「ぽぽ、ぽぽ、ぽぽ」と竹筒をたたくようなよくとおる太い声で鳴くのが特徴です。

「うぐひす」ほぼ全国的に分布し、平地から高山までの笹藪や下生えの多い林で繁殖します。ウメの花が咲くころ人里近くでホーホケキョと鳴き始め、夏、山でさえずっているとき何かに驚いて、ケッキョー、ケッキョーと鳴きたてるのを「鶯の谷渡り」といいます。秋からは平地や低い山で過ごし、チャッチャッという声(笹鳴き)を出しながらやぶを渡っていきます。

ここでは「青いベールの向ふ」の遠くから聞こえてくるからか、「つゝどりもうぐひすも/ごろごろごろごろ」と鳴くのが聞こえてきます。遠くから雷が鳴るのが聞こえるような感じでしょうか。

「図案下書」④ 漆づくりの熊蟻

 「図案下書」のつづき、きょうは12行目からの2節を見ます。

漆づくりの熊蟻どもは
黒いポールをかざしたり
キチンの斧を鳴らしたり
せはしく夏の演習をやる

白い二疋の磁製の鳥が
ごくぎこちなく飛んできて
いきなり宙にならんで停り
がちんと嘴をぶっつけて
またべつべつに飛んで行く

クロ

「熊蟻」は、クロオオアリ=写真、wiki=のこと。体長は働きアリで7~13ミリ、女王で17ミリぐらい。名前の通り体は黒色で、褐色の剛毛があります。もっとも普通にみられるアリの一種。羽アリは秋に羽化しますが、日当りのよい裸地や草地の土中に巣をつくり、巣内で越冬、5〜6月ころのむし暑い日の午後に飛び出します。

ここでいっているのは「図案下書」としての熊蟻なのでしょうか、「漆づくり」なのだといいます。「漆」は、樹皮と木質部の間から分泌される乳白色の粘りけのある液体。樹皮に傷をつけて採取します。乾固した漆は光沢が美しく、酸、アルカリに対して安定で、防湿性、防腐性があり、接着力が強いので、塗装剤として工芸品に利用されます。

「黒いポールをかざしたり/キチンの斧を鳴らしたり」の「ポール」(棒)は蟻の細長い胴体、「キチンの斧」とは触角のことをいっているように思われます。

キチンは、動物性の食物繊維で、かにの甲羅、えびの殻、しゃこの甲羅、乳製品、きのこ類などに多く含まれます。酸やアルカリに対しても強い抵抗力を示し、体の支持、保護の役割をもちます。

一方で「鳥」は、「磁製」すなわち磁器で作られているといいます。磁器は、1200℃以上の高温で焼かれた硬質で吸水性のない焼物。素地は白色で、透明または半透明の釉がかけられます。

そんな「磁製の鳥」が、「ごくぎこちなく飛んできて/いきなり宙にならんで停り/がちんと嘴をぶっつけて/またべつべつに飛んで行く」とコミカルな動きをしています。

「図案下書」③ アネモネ

 「図案下書」のつづき。きょうは6行目からです。1行あけ、字を下げて、ドイツ語が出てきます。

 Ich bin der Juni, der Jüngste.

小さな億千のアネモネの旌は
野原いちめん
つやつやひかって風に流れ
葡萄酒いろのつりがねは
かすかにりんりんふるへてゐる

アネモネ

「Ich bin der Juni, der Jüngste.」は、「私は6月、いちばん若々しい月」という意味です。若々しい月を彩る「野原いちめん」の花が登場します。

「アネモネ」=写真、wiki=は、キンポウゲ科アネモネ属の総称。地中海沿岸原産で、英名のウィンドフラワーの名のように、風通しのよい所でよく育ちます。

秋植えですぐ発芽し、早春に15~20センチの花茎を出し、径6~7センチメートルの花をつけ、3月下旬から5月上旬まで咲き続けます。葉はパセリに似ていて、花は一重咲きから八重咲きまであり、色も白、赤、青、紫、桃色などさまざま。

ギリシア神話でアネモネは、美の女神アフロディテが愛したアドニスが、不慮の事故で死ぬときに流す血から誕生します。第2回十字軍遠征(1147年)のころ、イタリアのピサ大聖堂のウンベルト僧正が運ばせた、聖地からの土の中にアネモネの球根が混じっていて、その土を使った十字軍殉教者の墓地から見慣れない血のような赤い花が咲いたといいます。これを殉教者の血のよみがえりと信じ、アネモネは「奇跡の花」としてヨーロッパに広がりました。

「旌」(はた、せい)は、旗のこと。ここでは、たくさんのアネモネの花を旗にみたてているのでしょう。特に、鳥の羽を飾ったはた、旗竿のさきに旄 (ぼう) という旗飾りをつけ、これに鳥の羽などを垂らし、天子が士気を鼓舞するのに用いられた旗のことをいいます。

「葡萄酒いろ」は、濃い紫みの赤色、赤ワインのような紫みを帯びた深い赤のこと。いわゆるワインレッドです。

「つりがね」とはツリガネソウのことでしょう。キキョウ科のツリガネニンジンやホタルブクロなど花の形が釣鐘状を呈する植物の俗称。花は晩春から夏にかけて咲くものが多く、釣り鐘型の3~8cmくらいの花を数輪から数十輪咲かせます。山地の日当りのよい道路わきや林縁の草地にふつうに生えます。

「図案下書」② 骨傘

 「図案下書」、冒頭から少しずつ詳しく読んでいきましょう。

高原(はら)の上から地平線まで
あをあをとそらはぬぐはれ
ごりごり黒い樹の骨傘は
そこいっぱいに
藍燈と瓔珞を吊る

骨傘

「ぬぐはれ」の「拭う」は、ふいてきれいにする、ふき取る、消し去る、といった意味。

樹木が覆ったもっこり起伏のある「高原の上」から、まっ平らな地面と空の境界をなす地平線まで、360度すっきり拭き取られたような空が広がっています。

「ごりごり黒い樹の骨傘」というのは、陽光の陰になって樹木がシルエットを生んで骨だけの傘のように見えるのでしょう。

鳥山石燕の『百器徒然袋』に描かれる日本の妖怪に「骨傘」(ほねからかさ)=写真、wiki=があります。和紙がはがれて骨ばかりになった古い唐傘が、火をまとって宙を舞う姿で描かれています。

石燕自身、「北海に鴟吻(しふん)と言へる魚あり かしらは龍のごとく からだは魚に似て 雲をおこし雨をふらすと このからかさも雨のゑんによりてかかる形をあらはせしにやと 夢のうちにおもひぬ」と解説しています。

『語彙辞典』によると「藍燈」は、藍色の明かりを示す賢治の造語。植物から得られる暗青色の染料、インディゴをもとにした感覚的造語である「インデコライト」という詩語に通じるもの、とされます。

ここでは、黒い裸木(骨傘)を通して無数に差し込む青空の光を、木がいっぱいの藍燈を吊っていると表現しています。

「瓔珞」(ようらく)は、装身具または仏堂・仏壇の荘厳具のひとつで、梵語のムクタハーラ、ハーラ、ケユーラの訳。古代インドの貴族の装身具として用いられ、首や胸を中心に真珠・玉・金属などを紐に通したり、つないだりして飾ります。

仏教では、菩薩などの仏像を荘厳する飾り具として用いられます。また、浄土では木の上からこれが垂れ下がっているといわれるため、日本の寺院では、宝華形をつないで垂下させたものを寺堂内陣の装飾に用い、これも瓔珞と呼ばれています。

「図案下書」① 蟻

 『春と修羅』第2集のつづき、きょうから「三五〇 図案下書」に入ります。「1925、6、8」の日付があります。

高原(はら)の上から地平線まで
あをあをとそらはぬぐはれ
ごりごり黒い樹の骨傘は
そこいっぱいに
藍燈と瓔珞を吊る

  Ich bin der Juni, der Jüngste.

小さな億千のアネモネの旌は
野原いちめん
つやつやひかって風に流れ
葡萄酒いろのつりがねは
かすかにりんりんふるへてゐる

漆づくりの熊蟻どもは
黒いポールをかざしたり
キチンの斧を鳴らしたり
せはしく夏の演習をやる

白い二疋の磁製の鳥が
ごくぎこちなく飛んできて
いきなり宙にならんで停り
がちんと嘴をぶっつけて
またべつべつに飛んで行く

ひとすぢつめたい南の風が
なにかあやしいかをりを運び
その高原の雲のかげ
青いベールの向ふでは
もうつゝどりもうぐひすも
ごろごろごろごろ鳴いてゐる

黒蟻

「図案」は、ある物を製作するための下絵として、それを図にかきあらわすこと。また、装飾的に描かれた模様や柄、つまりデザインを指すこともあります。

「下書」は、いちおう書きあげてはあるが、まだ手を加える必要のある文章や、絵をかくとき、あらかじめおおよその輪郭をかくことをいいます。

ですから「図案下書」を文字通りにとれば、デザインの下書き、ラフスケッチといった感じになります。

いくつかある先駆形を見ると、もともと「蟻」という題が付けられていたようです。先駆形の一つは次のようになっています。

   蟻
 
このおにぐるみの木の下に座ると
そらは一つの巨きな孔雀石の椀で
ごりごり黒い骨傘には
たくさんの藍燈と瓔珞が吊られる
まっ白な磁製の二疋の鳥が
ごくぎこちなく飛んで来て
片脚をうしろへあげて
いきなり
向き合って宙に停り
がちんと嘴をぶっつけます
またべつべつに飛んで行く
小さな億千のアネモネの旌は
野原いちめん
つやつやひかって風にながれ
ほたるかつらのやさしい花は
細胞液の反応を示す
山の方では
もうほととぎすやうぐひすや
ごろごろごろごろ啼いてゐる

この「蟻」という作品には、「蟻」は出て来ませんが、「図案下書」には「漆づくりの熊蟻ども」が登場して来ます。

「〔Largoや青い雲滃やながれ〕」⑥ 桐の花

 「〔Largoや青い雲滃やながれ〕」のつづき。きょうは最後の4行です。

 ……ひらめくひらめく水けむり
     はるかに遷る風の裾……
湿って桐の花が咲き
そらの玉髄しづかに焦げて盛りあがる

桐

「水けむり」は、水が細かく飛び散って煙のように見えるしぶき、水面に立ちのぼる霧を指すこともあります。そうした水けむりが、ひらひらと、ときおりきらめいています。

人の立ち居振る舞いによって、着物の裾が動いて起こる空気の動きを裾風といいますが、逆に「風の裾」というのですから、風の縁辺部が、はるかに遷(うつ)っていくといいます。

「桐」は、高さ10メートルほどの落葉高木。樹皮は灰白色で皮目が多く、葉は長い柄があって対生し、広卵形。つぼみは前年にでき、5月ころ枝先の円錐花序に淡紫色の花=写真、wiki=を開きます。

花冠は筒状鐘形で、長さ5~6センチ。先は唇形に5裂。外面は長い軟毛を密生し、筒内に紫点の縦すじが15内外あります。萼は質厚で、5中裂し、裂片は先は鈍くとがり、褐色の絨毛を密生します。

キリ材は日本産の材ではもっとも軽く、割れにくく、狂いが少なく、湿気を通しにくく、火に強くて燃えにくく、木目、材色にも優れています。岩手は桐の主産地の一つで、南部桐など良質のキリ材が出ます。岩手県では桐の花を県の花にしています。

「玉髄」(カルセドニー)は、石英の細かい結晶が網目状に集まり、緻密に固まった鉱物。普通は乳房状、ぶどう状で火山岩のすきまを満たしたり、内壁を覆うようにして産します。

色は淡灰色、赤、橙、緑、黄、黒色など各種のものがあり、いろいろな変種名があります。玉髄は超微細な小孔をもつ微小な石英からできているため、石英よりやや硬度が低く、比重も小さめです。

ここで「そらの玉髄しづかに焦げて盛りあがる」という「玉髄」は、雲の比喩。淡灰色の雲が、焦げるように色づいてむっくと盛り上がっているわけです。

「〔Largoや青い雲滃やながれ〕」⑤ 悟空

 「〔Largoや青い雲滃やながれ〕」のつづき。きょうは25行目からです。

檜葉かげろへば
赤楊の木鋼のかゞみを吊し
こどもはこんどは悟空を気取り
黒い衣裳の両手をひろげ
またひとしきり燐酸をまく

ごくう

「檜葉」(ひば)は、アスナロのこと。葉はやや質厚で大きな鱗状をなし、表面は緑色、裏面は周囲だけを残して他は雪白色をなします。
4〜5月に開花。ヒノキに似ていますが、材質が多少劣るので明日はヒノキになろうという願いから、この名があるともいわれます。

球果が球形で角のほとんどない変種をヒノキアスナロといい、日本三大美林として知られる青森のヒバ林はこの種です。

そんな「檜葉」にあたる光が遮られて影になり、「赤楊の木鋼のかゞみを吊」すといいます。

「赤楊の木」(ハンノキ)は、カバノキ科の落葉高木。高さ20メートルに達し、樹皮は灰色、老木では縦に割れます。湿地や川原などに生え、水田地帯で稲掛け用に列植されることもあります。

材は器具、箱、鉛筆などに用い、樹皮からはタンニンをとり、染料とします。そうしたハンノキの葉に光が当たってチラチラ輝く様子を「赤楊の木」の「鋼」でできた「かゞみを吊し」と形容しているのでしょうか。

中国、明代の長編小説『西遊記』の主人公で、花果山の仙石から生まれた石猿の「悟空」は、変化の術を身につけ、自由自在に伸び縮みする如意棒を振るい天宮を騒がします。

「燐酸」は無色の粒状の結晶。水によく溶け、窒素、カリウムともに肥料の3要素されますが、肥料としての消費量は他を圧倒しています。

肥料をまく「こども」が、単純、短気で、おだてにものりやすいが、底抜けに明るい野生的な悟空と二重写しに見えたのでしょう。

「〔Largoや青い雲滃やながれ〕」④ 銅のラムプ

 「〔Largoや青い雲滃やながれ〕」のつづき。きょうは16行目からです。田んぼの周りの花から、畦や代掻へと描写が移っていきます。

つかれ切っては泥を一種の飴ともおもひ
水をぬるんだ汁ともおもひ
またたくさんの銅のラムプが
畔で燃えるとかんがへながら
またひとまはりひとまはり
鉛のいろの代を掻く
   ……たてがみを
     白い夕陽にみだす馬
     その親に肖たうなじを垂れて
     しばらく畦の草食ふ馬……

ランプ

「泥を一種の飴」と、「水をぬるんだ汁」と、「おもひ」ながら、「たくさんの銅のラムプが/畔で燃える」光景を頭に描きます。

「ラムプ」は、洋灯の一種で石油用の灯火具。石油を灯火の材料にして、金属かガラス製の容器に口金を取り付け、それに綿糸製の芯を差し入れて石油に浸し、ねじの操作によって芯を上げて点火。その後は芯先を下げて、炎の周りをガラス製の火屋(ほや)で囲うなど使います。

空気を供給して芯に含まれた石油の燃焼度を高めさえすれば、従来にない明るさに浴することができたので、文明開化を象徴する利器の一つに数えられました。日本に伝わったのは、1859(安政6)年に越後・長岡の鈴木鉄蔵が横浜でオランダ商人スネルから買ったことによるとされています。

江戸時代末期に欧米から前後して輸入されたランプは、開港地に近い都市部を中心に急速に普及し、1872(明治5)年には大阪商人たちによって国産のものがつくられ、市販されました。

ガス灯と競合しながら地歩を固め、明治期後半になると石油ランプの全盛期を迎えました。全国に浸透しましたが、その後、操作が簡単で一段と明るい電灯の利用者が増え、大正中期以降、灯火具としての地位は低下していきました。

部屋全体の照明用に山形の笠をかぶせ、上から紐で吊り下げて使った吊りランプ、照明用だけでなく、部屋の雰囲気を醸し出すために置かれた燭台に似た台ランプもありました。

「鉛のいろ」。鉛色はJISの色彩規格では「青みの灰色」とされています。金属の鉛のような青みを帯びた灰色で、磨かれて光沢のある色ではなく空気中にさらされていたような鈍い色をさします。

鉛そのものは古くから顔料の素材として用いられてきましたが、色名としては近代になって登場します。憂鬱な気分になる曇天の空を表すときによく「鉛色の空」といわれますが、「代」の比喩としても味わい深いものがあります。

「代を掻く」の「代」は田のことで、田植えの前に鋤き起こした田に水を入れ、田の底を掻きならし、肥料を土中に混ぜる仕事をいいます。賢治の時代は、牛や馬に代掻を曳かせていました。「世を旅に代掻く小田の行き戻り」(芭蕉)

昔は田の畦は高く、農家は、飼っている馬や牛に畦の草を食べさせたりしていました。畦は草という資源がたくさんある場所だったわけです。

「たてがみを/白い夕陽にみだす馬/その親に肖(に)たうなじを垂れて/しばらく畦の草食ふ馬」。ほのぼのした雰囲気が伝わってきます。

「〔Largoや青い雲滃やながれ〕」③ 田植草

 「〔Largoや青い雲滃やながれ〕」のつづき。きょうは10行目から見ていきます。5月に田んぼの周辺で花を咲かせるいろんな植物が登場します。

   ……あまずっぱい風の脚
     あまずっぱい風の呪言……
くゎくこうひとつ啼きやめば
遠くではまたべつのくゎくこう
   ……畦はたびらこきむぽうげ
     また田植花くすんで赭いすいばの穂……

田植え花

「脚」というと支えるもの、動かしているものということになりますが、「風脚」は、風の吹く速さ、吹くのことを指します。「呪言」(じゅげん)は、のろいの言葉、のろいごと。

「くゎくこう」つまりカッコウは全長35センチ。頭部と体の上面は灰青色で、胸と腹は白く暗灰色の横縞があります。尾羽は黒灰色で、白い横縞が入り、先端も白いのが特徴。

自分で巣をつくらず、モズ、オオヨシキリ、ノビタキ、ホオジロ、オナガなどの巣に卵を産み、それらの鳥の親鳥に抱卵、育雛を任せる托卵習性があることで有名です。

日本には夏鳥として 5月ごろ飛来し、北海道、本州、四国地方の平地から高原の農耕地や疎林に生息します。「かっこー、かっこー」と鳴き、昆虫食で、ほかの鳥が好まない毛虫類も好んで食べます。

「たびらこ」は、稲作の間隙をぬって冬季の水の落ちた田に生えるキク科の二年草。羽状に分裂した葉が、田の面にロゼットをなして生育するようすから「田平子」とよばれます。4~5月ころ、10センチほどの花茎が斜上し、径7ミリほどの小さな黄色の頭花をまばらにつけます。切ると白い乳液が出ます。

「きんぽうげ」の葉は3~5中裂する単葉で、円形であるためにウマノアシガタ(馬脚形)ともよばれます。花は黄金色、直径約2センチで、4~6月、まばらな総状花序につきます。萼片は緑色、花弁は5枚で強い光沢があるのが特徴。
「田植花」=写真、wiki=は、落葉小高木のタニウツギのこと。田植えの時期に花が咲くので田植え花としても知られています。梅雨の時期に山道を通ると新緑の中で咲くピンクの花はひときわ映えて見えます。

花期は5-6月。今年枝の先端か葉腋に散房花序をつけ、たくさんの花をつけます。花冠の内側より外側が、開花しているものより蕾のほうが濃い色をしています。昔は「この花が咲いたら田植えを」と、田植えの時期の目安とされていたとか。

「赭」(あか、シャ)は、赤色の一種で、赤土の色。

「すいば」はタデ科の多年草。北半球の温帯に広く分布し、田畑や道端によく見られる。葉は長く、付け根は矢尻型になり、雌雄異株で、春から初夏にかけて花が咲きます。葉を噛むと酸味があり、スイバ(酸い葉)と言わるようになったとされます。

「〔Largoや青い雲滃やながれ〕」② マオリ

 「〔Largoや青い雲滃やながれ〕」のつづき。きょうは5行目から見ていきます。

風が苗代の緑の氈と
はんの木の葉にささやけば
馬は水けむりをひからせ
こどもはマオリの呪神のやうに
小手をかざしてはねあがる

マオリ

「氈」(かも)は、「せん」ともいい、毛織りの敷物、すなわち毛氈のことをいいます。毛氈は草原の遊牧民が天幕で使用する敷物として生まれ、以後アジアの乾燥地帯から世界各地に広まりました。

羊毛を打って柔らかくし、莚(むしろ)の上に平らに敷いて、それを巻き締めるか踏み締めて糊水(のりみず)を注いだもので、いまでいうフェルトにあたります。

747年に録された「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」にあわせて34床、また756年の「東大寺献物帳」に花氈60床が記されるなど、昔から宮廷や寺院の調度として座具の一種に用いられました。正倉院宝庫には、紅・紫・褐色・白など単色で染めた毛氈14床と、花柄や人物などの文様のある毛氈(花氈)31床をとどめています。

「はんの木」は、湿った土地に生えるカバノキ科の落葉高木。幹は直立し、15メートルにも達し、樹皮が細かく割れるのが特徴。田のあぜなどに植え、これを稲木とする地方も多くあります。

「マオリの呪神」の「マオリ」は、ニュージーランド原住民のマオリ族=写真、wiki=のこと。マオリ族は、万物悉く神であるというアニミズム的信仰を持ち、家屋や教会の屋根、門、垣根などには多彩な神話や伝説にちなんだ神々や人間の木彫りの像が立てられています。

集落や身分によって異なる、身体装飾としての刺青を顔面や全身に施し、互いの鼻をくっつけ合ってあいさつするそうです。「ハカ」と呼ばれる民族舞踊は、本来はマオリ族の戦士が戦いの前に、手を叩き足を踏み鳴らし自らの力を誇示し、相手を威嚇するもの。

マオリの戦士が戦いの前に踊るほか、歓迎の挨拶などでもハカを踊ります。ラグビーのナショナルチームであるオールブラックスが試合前にハカを踊ることはよく知られています。

「マオリの呪神のやうに/小手をかざしてはねあがる」というのは、賢治が何らかの形でハカを目にして、こうした比喩に思い至ったのかもしれません。

「〔Largoや青い雲滃やながれ〕」① くゎりん

 『春と修羅』第2集のつづき、きょうから「三四五」の番号が付いた34行の作品です。「1925、5、31」の日付があります。

Largoや青い雲滃(かげ)やながれ
くゎりんの花もぼそぼそ暗く燃えたつころ
   延びあがるものあやしく曲り惑むもの
   あるいは青い蘿をまとふもの
風が苗代の緑の氈と
はんの木の葉にささやけば
馬は水けむりをひからせ
こどもはマオリの呪神のやうに
小手をかざしてはねあがる
   ……あまずっぱい風の脚
     あまずっぱい風の呪言……
くゎくこうひとつ啼きやめば
遠くではまたべつのくゎくこう
   ……畦はたびらこきむぽうげ
     また田植花くすんで赭いすいばの穂……
つかれ切っては泥を一種の飴ともおもひ
水をぬるんだ汁ともおもひ
またたくさんの銅のラムプが
畔で燃えるとかんがへながら
またひとまはりひとまはり
鉛のいろの代を掻く
   ……たてがみを
     白い夕陽にみだす馬
     その親に肖たうなじを垂れて
     しばらく畦の草食ふ馬……
檜葉かげろへば
赤楊の木鋼のかゞみを吊し
こどもはこんどは悟空を気取り
黒い衣裳の両手をひろげ
またひとしきり燐酸をまく
   ……ひらめくひらめく水けむり
     はるかに遷る風の裾……
湿って桐の花が咲き
そらの玉髄しづかに焦げて盛りあがる

カリン

「Largo」(ラルゴ)は、イタリア語で「きわめてゆるやかに」の意。音楽用語で、そのような速度の曲をいいます。

たとえばヘンデルのオペラ「クセルクセス」の中のアリア「なつかしい木陰」があります。賢治は、ドボルザークの「新世界交響曲」の第2楽章を第一にイメージしていたようです。

ここでは「雲や季節のゆったりとした変化の形容」(『語彙辞典』)として用いています。

「雲滃」の本来の読みは「うんおう」。「滃(おう)」には、大水がどっと流れる、雲がむくむくとわき上がる、といった意味があります。

「くゎりん」つまりカリン=写真、wiki=は、バラ科の落葉高木。4~5月、淡紅色で径3~3.5センチの5弁花を枝先に開きます。花弁は楕円形、萼筒(がくとう)は倒円錐形で毛がなく、萼裂片は5枚で反り返り、内面に綿毛があります。

 「蘿」は訓読で「つた」「つたかずら」と読み、つる草を意味します。また、「得がたきかげを置きや枯らさむ」(万葉集)などと「かげ」と読んで、ヒカゲノカズラの古名を指すこともあります。

ヒカゲノカズラは、崖や山腹などに生育し、日陰にはあまりはえません。茎はひも状で長くのび、まばらに二叉に分かれて地面をはいます。葉は堅いとげ状で小さく、茎の周囲に密生。夏、2〜4叉に分枝する細い枝が立ち、頭に胞子嚢穂をつけます。

「延びあがるものあやしく曲り惑むもの/あるいは青い蘿をまとふもの」からは、それが「Largo」なのかどうかは知れませんが、自然の胎動、変化する動きが感じられます。

「〔あちこちあをじろく接骨木が咲いて〕」㊦ 紫雲英

 「〔あちこちあをじろく接骨木が咲いて〕」のつづき。きょうは、次に上げる第3連目を見ていきます。

ぼんやりけぶる紫雲英の花簇と
茂らうとして
まづ赭く灼けた芽をだす桂の木

ゲンゲ

「紫雲英」(しうんえい)=写真、wiki=は、ゲンゲ、レンゲソウのこと。中国原産のマメ科の2年草で、排水した水田に緑肥用に栽培されますが、野生化もしています。

秋に発芽し、茎は地面をはい、分枝し、春に高さ10~30センチに伸び立って、花をつけます。花は長さ10~20センチの花柄の先に多数固まってつき、その並び方が仏像の蓮華台のようなのでレンゲの名がついたといわれます。

「花簇」とは、小さな花が集まって房のような形になった花房(ハナブサ)のことですが、『語彙辞典』には「花の群がり咲くさま」とあります。

紫雲英の群がり咲く様子が、「ぼんやりけぶ」って見られるというわけです。

「赭く灼けた」の「赭」は「あか」あるいは「そほ」と読みます。茶色に近い、少し暗い赤色のことで、上代から顔料などに用いられました。

落葉高木の「桂」の花期は5月ごろで、雌雄異株。雌花は細長い角のような紅紫色の雌蕊が3から5個突き出し、雄花は紅紫色の細長い雄蕊を十数本ぶら下げます。

こうした紅紫色の花の前に、「まづ赭く灼けた芽をだす」というわけです。

「〔あちこちあをじろく接骨木が咲いて〕」㊥ 爆鳴銀

「〔あちこちあをじろく接骨木が咲いて〕」のつづき。きょうは、次に上げる第2連目を見ていきます。

そらでは春の爆鳴銀が
甘ったるいアルカリイオンを放散し
鷺やいろいろな鳥の紐が
ぎゅっぎゅっ乱れて通ってゆく

アルカリイオン

「爆鳴銀」について、『語彙辞典』には「雷銀のことか。雷銀は雷散銀とも言い、わずかな摩擦や刺激で爆発する黒色の粉末。爆鳴の名をもつ化学物資に爆鳴ガス(爆鳴気とも)があり、点火すると大きな音で爆発する混合気体(塩素爆鳴ガスと酸水素爆鳴ガスがある)。雷銀と、この爆鳴ガスから思いついた賢治独自の造語か」とあります。

ここでいう雷銀とは、化学的には銀の窒化物である窒化銀のことです。きわめて不安定で摩擦、接触によって激しく爆発する性質があります。酸化銀を濃いアンモニア水に溶かした溶液を放置するか、水酸化カリウム水溶液を加えると暗色の沈殿として得られます。

爆鳴ガスは、ふつう、水素2容積と酸素1容積との混合ガスをいい、この気体に点火すると轟音を発して爆発し、化合して水蒸気を生成し、多量の熱を発生します。

空気中のアルカリ性の塩基が放射線によってイオン化したのが「アルカリイオン」。現在では、水道水を電気分解して陰極側に生成されるアルカリイオン水のことを思い出します。「アルカリ」は酸と作用して塩を生じる、酸と反対の性質をもちますから、「甘ったるいアルカリイオンを放散」というのもイメージとしてしっくり来る感じがします。

海岸、河川、湖沼など水辺にすんでいる「鷺」(サギ)は、頸と脚が長く、とがった長い嘴をもっています。そんな「鷺やいろいろな鳥」たちが飛ぶ様子を、細長くて、つないだり束ねたりする「紐」に見立てて、「ぎゅっぎゅっ乱れて通ってゆく」と絶妙な表現を生み出しています。

「〔あちこちあをじろく接骨木が咲いて〕」㊤ 接骨木

 『春と修羅』第2集のつづき、きょうから「三四〇」の番号が付けられた作品に入ります。4行、4行、3行の3連から成り、各連の間が大きく空いています。「春谷暁臥」と同じ「1925、5、25」の日付が付いています。

あちこちあをじろく接骨木(にはとこ)が咲いて
鬼ぐるみにもさはぐるみにも
青だの緑金だの
まばゆい巨きな房がかかった


そらでは春の爆鳴銀が
甘ったるいアルカリイオンを放散し
鷺やいろいろな鳥の紐が
ぎゅっぎゅっ乱れて通ってゆく


ぼんやりけぶる紫雲英の花簇と
茂らうとして
まづ赭く灼けた芽をだす桂の木

ニワトコ

「接骨木」すなわちニワトコ=写真、wiki=は、高さ2~6メートルのスイカズラ科の落葉低木。。葉は羽状複葉。3~5月に円錐形の花序をつくり、5数性の小花を多数集めて開きます。花冠は淡黄色。

果実は球形で、9~10月に赤く熟します。庭木として植えられ、早春の切り花とする。葉には、発汗、利尿の効果があるとされ、民間薬として利用されています。
 
古くはヤマタヅとかミヤツコギ(造木)とよばれました。接骨木は中国名で、打撲症や骨折にその濃い煎汁を湿布に用いたことにちなんでいます。プリニウスの『博物誌』(1世紀)によれば、古代ローマではそのねばねばした黒い実を毛染めに使ったそうです。

「鬼ぐるみ」は、谷間や河川岸沿いに広く分布するクルミ科の落葉高木。高さ25メートル、径1メートルに達します。花はこの作品の日付がある5月に、葉が開くとともに開きます。

雄花は下垂する尾状花序につき、花被片は4枚、雄しべ約20本。雌花穂は上向きに7~15花あり、花柱は紅色。径約3センチほどの球形の核果をつけます。「房」とはこの下垂する尾状花序のことでしょうか。

「さはぐるみ」も、クルミ科の落葉高木。フジグルミ、カワグルミともいいます。沢沿いに生えることから名が付きました。クルミと名が付くが、食用にはなりません。

鬼ぐるみと同じように花期は5月で、雄花は下垂する尾状花序につきます。雌花序も下垂し、果時に伸長して長さ20~30センチに達します。幹はまっすぐで、材は白くて軽く、細工物に利用されます。

「国立公園候補地に関する意見」⑨ 七時雨

 「国立公園候補地に関する意見」のつづき、きょうは最後の6行を眺めておきます。

ところがこゝで予習をつんでゐますから
誰もすこしもまごつかない またわたくしもまごつかない
さあパンをおあがりなさい
向ふの山は七時雨
陶器に描いた藍の絵で
あいつがつまり背景ですな

七時雨

きのうまで見たように「野砲を二門かくして置いて/電気でずどんと実弾をやる」というところまで「予習をつんでゐ」るので、「すこしもまごつかない」といいます。

つづいて突然「パン」が登場します。当時は、農村ではあまり口にされることはない西洋風のしゃれたもの。キリスト教では、パンはイエスの肉体でもあります。

賢治が「国立公園候補地」というのは、理想郷「イーハトーヴ」の「国立公園」なのかもしれません。

「七時雨」(ななしぐれ)は、岩手県北西部、八幡平市にある七時雨山=写真、wiki=のこと。標高1063メートル。七時雨山峰は約110万〜90万年前に活動した七時雨火山を構成する溶岩ドームになっています。

山麓は古くから南部馬の産地。北麓の田代平は草地で放牧場となっていて、酪農も盛んです。古くは、山麓を陸奥と出羽を結ぶ流霰路(ながれしぐれみち)とよばれる道路が通じ、江戸時代には盛岡、平館、寺田を経て荒屋(八幡平市)に至る道が通り、南麓の寺田は宿場集落として栄えました。

1日に何度も天候が変わることが山名の由来といわれ、新日本百名山や東北百名山に選ばれています。

七時雨山は「陶器に描いた藍の絵」のようで、詩人が押す「国立公園候補地」の背景を成すと意味でしょうか。

「国立公園候補地に関する意見」⑧ 野砲

 「国立公園候補地に関する意見」のつづき、きょうは47行目からです。

よくあるとほりはじめは大へんかなしくて
それからだんだん歓喜になって
最後は山のこっちの方へ
野砲を二門かくして置いて
電気でずどんと実弾をやる
Aワンだなと思ったときは
もうほんものの三途の川へ行ってるですな

野砲

きのう読んだところで「三つ森山で/交響楽をやりますな」として、「第一楽章」から「第四楽章」までが示されていました。

このようにして、「よくあるとほりはじめは大へんかなしくて/それからだんだん歓喜になって」いくといいます。

そして、さらには山のかたわらに「野砲を二門かくして置いて/電気でずどんと実弾をやる」と物騒な話がつづきます。

「野砲」は野戦砲とも呼ばれ、要塞砲、海岸砲のように固定されて使われる砲に対して、移動性を特徴とする野戦に使われるすべての火砲をいいます。

近代化したのはスウェーデンのグスタフ・アドルフ (グスタフ2世) とされます。野砲を24ポンド、12ポンド、3ポンドの3種類に統一、装薬も規格化し、戦場でこれら大量・集中的に使いました。

「野砲」は歩兵と協同して戦闘することが多いので、動きが軽快で、多数の弾薬をもち、長射程で、発射速度の大きいことなどが求められます。

カノン砲の一種で、口径7〜8cm、弾量6〜7km、最大射程8000〜1万5000m。ここでは「電気でずどんと実弾をやる」というのですから、電気式の発砲機構を持つ最新式の野砲であることがうかがえます。

「Aワン」すなわち「a one」は、最上等の、一流の、優秀な、といった意味。すごい「野砲」だなと思ったら、「もうほんものの三途の川へ行ってる」というわけです。

「国立公園候補地に関する意見」⑦ 交響楽

「国立公園候補地に関する意見」のつづき、きょうは41行目からです。「特に地獄にこしらへる」方向で進んできた演出のについて、さらに次のように展開していきます。

しまひはそこの三つ森山で
交響楽をやりますな
第一楽章 アレグロブリオははねるがごとく
第二楽章 アンダンテ やゝうなるがごとく
第三楽章 なげくがごとく
第四楽章 死の気持ち

運命

「三つ森山」は、岩手山西北の裾野にある標高641メートルの山。岩手山の溶岩流のすぐ下にあり、噴火の際に流下し溶岩が三つ森山の手前で停止したことがうかがえます。

そんな溶岩流のすぐそばにある「三つ森山」で「交響楽をやります」といいます。

交響楽は全4楽章。アレグロは、イタリア語で「朗らかな」「快活な」の意味。プレスト (「きわめて速く」の意) に次いで早い速度を意味し、そうした速度で書かれた楽章や楽曲をさしています。

「アレグロブリオ」は、「allegro con brio」のこと。つまりアレグロのテンポで、生気に満ちて生き生きと、ということになります。

「アンダンテ」は、イタリア語のandare(歩く)を語源にもちます。アダージョとモデラートの間のテンポで、「歩くような速さで」を意味します。

『語彙辞典』には、佐藤泰平によると、これはベートーヴェンの第5「運命」(Allegro con brio,Andante con moto,scherzo,Allegroの4楽章)をもじったものだとあります。

「国立公園候補地に関する意見」⑥ えんま

「国立公園候補地に関する意見」のつづき、きょうは36行目からです。「特に地獄にこしらへる」という「鞍掛山」の演出について、さらに次のように展開していきます。

六道の辻
えんまの庁から胎内くぐり
はだしでぐるぐるひっぱりまはし
それで罪障消滅として
天国行きのにせ免状を売りつける

えんま

「六道」というのは、仏教の輪廻思想で、衆生がその業(ごう)に従って死後に赴くべき六つの世界のことをいいます。すなわち、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道です。

人・天の二道は善趣、他の四道は悪趣とされます。死者を葬るとき、冥土(めいど)での入用として、棺内に入れる六文の銭のことを六道銭ともいいます。

「えんま(閻魔)」=写真、wiki=は、冥界を支配する死の神の名前。サンスクリット語「ヤマ(yama)」の音写で、罪人を縛するという縛(しばり)を意味します。

生きとし生ける者(衆生)の罪を監視し、死者の罪を判ずる冥界の総司で、餓鬼界の主、地獄界の主となり、勧善懲悪の判官として魔法王(ほうおう)と称されるようになったとされます。

また、衆生の悪業(あくごう)によって報いとして現れた身(悪業所感の身)であるとも、地蔵菩薩の化身であるともいいます。中国では道教の思想と結合して、冥府で死者の生前の罪業を裁くという十王の一に数えられました。

「胎内くぐり」は、現世から狭いところを通り抜け、別の世界に生まれ変わることを表す呪術的行為。子供から大人へ、俗から聖へ脱皮累進していくイニシエーション儀礼の一つと考えられます。

修験道の入峰修行のなかには、行場の狭い洞穴をくぐり抜けることがありますが、仏教と結び付いた場合には、大仏などの胎内をくぐることによって仏の恩愛を多く得ようとします。

「罪障」(ざいしょう)は、仏語で、往生・成仏の妨げとなる悪い行為。神をはじめ、祖先を神格化した祖霊や超自然的力、精霊など、神霊の権威を犯す宗教的犯罪を指します。「罪障消滅」は、朝露が消えるように、罪の消滅がかなうことをいいます。

それにしても、「胎内くぐり/はだしでぐるぐるひっぱりまはし/それで罪障消滅として/天国行きのにせ免状を売りつける」とは、なんとも強引で、横暴なふるまいです。

『語彙辞典』によれば、「天国行きのにせ免状」とは、「マルチン・ルターが教会の堕落だと攻撃した、売り物としての免罪符を念頭に置いたものだろう」ということです。

「国立公園候補地に関する意見」⑤ ほととぎす

 「国立公園候補地に関する意見」のつづき、きょうは29行目からです。「鞍掛山」の演出について「特に地獄にこしらへる」、「とにかく悪くやることですな」と、意外な提案をした後、さらに次のように記していきます。

さうして置いて、
世界中から集った
猾るいやつらや悪どいやつの
頭をみんな剃ってやり
あちこち石で門を組む
死出の山路のほととぎす
三途の川のかちわたし

ホトトギス

世界中から「猾るいやつらや悪どいやつ」を集まって、「頭をみんな剃ってやり/あちこち石で門」が組まれたところだというのです。

「死出の山」は、死者が冥土へ行く途中で登るとされる険しい山のこと。平安時代に作られた地蔵十王経(偽経)に説かれているそうです。

「ほととぎす」=写真、wiki=は田植を知らせる渡り鳥。『古今和歌集』雑躰、誹諧歌に、「いくばくの田をつくればか郭公(ほととぎす)しでの田長(たをさ)を朝な朝な呼ぶ」という一首があります。鳴き声を「しでのたをさ」と聞いて、朝な朝な田長を呼ぶので、それほどの田を耕作しているのだろうか、と詠んだものです。

ほととぎすは、1日に八千八声鳴く不気味な鳥とされ、声を忌む風がありました。「しで」(死出)が示すように、「死」との連想も強く、冥土の鳥としても知られています。八丈島では、旧暦7月15日の盆行事が終わると、ほととぎすは消えうせるとされているそうです。

『方丈記』には「語らふごとに、死出の山路を契(ちぎ)る」とあります。「ほととぎす」と語り合うたびに、死出の山道の道案内をしてくれと約束する、というのです。

「死出の山」を降りると、大きな川が見えてきます。この世とあの世の境界となる「三途の川」です。死後7日目に冥土の閻魔庁へ行く途中で渡るとされ、三つの渡しがあります。生前の行いによって渡るところが異なります。

川岸には衣領樹(えりょうじゅ)という大木があって、脱衣婆(だつえば)がいて亡者の着衣をはぎ、それを懸衣翁(けんえおう)が大木にかけます。生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が違うとか。

「かちわたし」すなわち徒歩渡しは、川越し人足の手を借りて歩いてわたる方法。旅人が人足に肩車をしてもらったり、輩台(れんだい)に乗って担がれて渡ります。

「国立公園候補地に関する意見」④ 地獄

 「国立公園候補地に関する意見」のつづき、きょうは20行目からです。国立公園候補地としてのユニークなプランが具体的に述べられていきます。

さうしてこゝは特に地獄にこしらへる
愛嬌たっぷり東洋風にやるですな
鎗のかたちの赤い柵
枯木を凄くあしらひまして
あちこち花を植ゑますな
花といってもなんですな
きちがひなすび まむしさう
それから黒いとりかぶとなど、
とにかく悪くやることですな

きちがいなすび

「みんなが運動せんですか」という「国立公園候補地」として「鞍掛山」を演出するのに、「特に地獄にこしらへる/愛嬌たっぷり東洋風にやる」ことを提案しています。

「地獄」は、サンスクリット語のナラカ narakaの訳。無間地獄 (むけんじごく) 、八大地獄、私たちの世界などに孤立して散在するとされる孤地獄、辺地獄など数多くの地獄が考えられています。

地獄やこれに類する死後の苦痛の場に関する観念は、ほとんどの民族に共通で、ギリシア神話、ゲルマン神話などにもその具体的な描写がみられます。

地獄の具体的状況の描写は、民衆の想像力によるものが多く、またキリスト教など全善全良なる神を信じる宗教では、これと永遠無限な地獄の存在をどのように両立して考えるかが問題となります。

ここでは「愛嬌たっぷり東洋風にやる」と宣言し、「鎗のかたちの赤い柵」を作り、「枯木を凄くあしら」って「あちこち花を植ゑ」る演出をしようとしています。

「きちがひなすび」=写真、wiki=すなわちキチガイナスビは、チョウセンアサガオの俗称。薬用に用いられていましたが、分量を誤ると狂躁状態になることから、かつてはこう呼ばれました。

江戸時代に薬用として栽培され、華岡青洲による日本初の乳癌手術の際、麻酔に使われたことでも知られます。高さ1メートルほど。葉は卵形で先がとがり、縁には欠刻状の歯牙があります。夏〜秋、径4センチほどで漏斗状の白い花を開きます。

「まむしさう」すなわちマムシグサは、地下の球茎が扁球形で、これから伸びる長い葉柄は茎のように直立し、紫褐色のまだらがあってマムシに似ています。

林下などに普通にみられ、葉は、小葉7~15枚から成る鳥の足跡状の複葉。晩春、偽茎の頂部から、緑色または紫褐色の仏炎包に包まれた肉穂花序を出し、肉穂の先端は太く、軸上に多数の小さな花を密集してつけます。

「とりかぶと」は、よく知られているように、天然物としてはフグ毒に次ぐという、もっとも強い毒を含む植物です。花の形が烏帽子(えぼし)に似ることから名づけられました。

花は左右相称、青紫色のよく目だつ5枚の萼片と、それらの内部に蜜腺に変形した花弁があり、マルハナバチ類による送粉に適応して進化した植物群です。

「国立公園候補地に関する意見」③ 鞍掛山

 「国立公園候補地に関する意見」のつづき、きょうは11行目からです。

いや可能性
それは充分ありますよ
もちろん山をぜんたいです
うしろの方の火口湖 温泉 もちろんですな
鞍掛山もむろんです
ぜんたい鞍掛山はです
Ur-Iwate とも申すべく
大地獄よりまだ前の
大きな火口のへりですからな

鞍掛山

きのう見た、岩手山を「国立公園候補地に/みんなが運動せんですか」という問いかけに「いや可能性/それは充分ありますよ」と応じます。

そして国立公園の候補としては、岩手山だけでなく「うしろの方の火口湖 温泉 もちろんですな/鞍掛山もむろんです」と付け加えています。

「火口湖」は、火山の噴火口に生じた湖。形態は比較的単純で円形に近く、湖岸の傾斜は急、湖盆の中央部が平坦です。湖水は強酸性を示すことが多いのも、日本の湖の大きな特徴となっています。

代表的な例には、宮城県蔵王の御釜(おかま)、鹿児島県霧島の大浪池(おおなみのいけ)、開聞岳の麓の鏡池などがあります。

『語彙辞典』によれば、この作品の「火口湖」は、西岩手火山の御釜、「温泉」とは松川温泉と考えられるようです。

「鞍掛山」=写真=は、岩手県南東にある標高897メートルの山。岩手山の寄生火山とも言われ、小岩井農場や柳沢方面からは東岩手山の手前に見えます。

「Ur-Iwate」の「Ur」は、ドイツ語で①根源、発生、出現②原始、劫初、祖先③純粋、真正などを表します。

「大地獄」は、西岩手山大地獄カルデラのことを指しています。賢治は「鞍掛山」を、寄生火山ではなく、岩手山より古い火山だと考えていたことがうかがえます。

「国立公園候補地に関する意見」② 鎔岩流

 「国立公園候補地に関する意見」のつづき、きょうは冒頭から詳しく見ていきます。

どうですか この鎔岩流は
殺風景なもんですなあ
噴き出してから何年たつかは知りませんが
かう日が照ると空気の渦がぐらぐらたって
まるで大きな鍋ですな
いたゞきの雪もあをあを煮えさうです
まあパンをおあがりなさい
いったいこゝをどういふわけで、
国立公園候補地に
みんなが運動せんですか

焼走り

「この鎔岩流」というのは、岩手山中腹から流出した溶岩流により形成された岩原で、国の特別天然記念物に指定されている焼走り熔岩流=写真、wiki=と考えられます。

焼走り熔岩流は、1719(享保4)年に、岩手山の北東斜面、標高1200メートル付近の中腹で噴火が起こり、ここから流出した熔岩が北東麓の三森山まで約3.5キロ流れ下ったもの、というのが定説です。粘性が小さく流動性に富んでいる熔岩です。

岩手山は、山頂部に爆裂カルデラと中央火口丘を持つ円錐形の成層火山。焼走り溶岩流は山頂部の噴火活動とは違い、中腹部にできた別の噴火口から流出したものです。溶岩流を作った噴出口は、標高850から1250メートル付近まで直線状に複数個所残っています。

名称は、真っ赤な熔岩流が山の斜面を急速な速さで流れ下るのを見て「焼走り」と呼ばれるようになったのが始まりとされます。熔岩流の表面は波紋状の凸凹があって、これがトラの縞模様のように見えることため「虎形」とも呼ばれます。

焼走り熔岩流は噴出時期が比較的新しいため風化作用が進んでおらず、表面にはまだ土壌が形成されていないことから植生に乏しく、噴出当時の地形を留めています。

賢治は、「噴き出してから何年たつかは知りませんが/かう日が照ると空気の渦がぐらぐらたって/まるで大きな鍋ですな」というような、表土や樹木に覆われていない「殺風景なもん」に、むしろ地質学的にも希少で「国立公園候補地に」ふさわしいものと考えていることになります。

「国立公園候補地に関する意見」① 十和田八幡平

 『春と修羅』第2集のつづき、きょうから「三三七 国立公園候補地に関する意見」に入ります。59行。「春谷暁臥」と同じ「1925、5、11」の日付があります。

どうですか この鎔岩流は
殺風景なもんですなあ
噴き出してから何年たつかは知りませんが
かう日が照ると空気の渦がぐらぐらたって
まるで大きな鍋ですな
いたゞきの雪もあをあを煮えさうです
まあパンをおあがりなさい
いったいこゝをどういふわけで、
国立公園候補地に
みんなが運動せんですか
いや可能性
それは充分ありますよ
もちろん山をぜんたいです
うしろの方の火口湖 温泉 もちろんですな
鞍掛山もむろんです
ぜんたい鞍掛山はです
Ur-Iwate とも申すべく
大地獄よりまだ前の
大きな火口のへりですからな
さうしてこゝは特に地獄にこしらへる
愛嬌たっぷり東洋風にやるですな
鎗のかたちの赤い柵
枯木を凄くあしらひまして
あちこち花を植ゑますな
花といってもなんですな
きちがひなすび まむしさう
それから黒いとりかぶとなど、
とにかく悪くやることですな
さうして置いて、
世界中から集った
猾るいやつらや悪どいやつの
頭をみんな剃ってやり
あちこち石で門を組む
死出の山路のほととぎす
三途の川のかちわたし
六道の辻
えんまの庁から胎内くぐり
はだしでぐるぐるひっぱりまはし
それで罪障消滅として
天国行きのにせ免状を売りつける
しまひはそこの三つ森山で
交響楽をやりますな
第一楽章 アレグロブリオははねるがごとく
第二楽章 アンダンテ やゝうなるがごとく
第三楽章 なげくがごとく
第四楽章 死の気持ち
よくあるとほりはじめは大へんかなしくて
それからだんだん歓喜になって
最後は山のこっちの方へ
野砲を二門かくして置いて
電気でずどんと実弾をやる
Aワンだなと思ったときは
もうほんものの三途の川へ行ってるですな
ところがこゝで予習をつんでゐますから
誰もすこしもまごつかない またわたくしもまごつかない
さあパンをおあがりなさい
向ふの山は七時雨
陶器に描いた藍の絵で
あいつがつまり背景ですな

八平

環境省によると、「国立公園」は、「日本を代表するすぐれた自然の風景地を保護するために開発等の人為を制限するとともに、風景の観賞などの自然に親しむ利用がし易いように、必要な情報の提供や利用施設を整備しているところ」で、「国が直接管理する自然公園」とされています。

世界で初めての国立公園は、1872年に指定されたアメリカのイエローストーン国立公園です。日本では、明治44(1911年)年に「日光を帝國公園となす請願」が議会に提出され、その後多くの人々の要望が高まって昭和6年(1931年)に国立公園法が制定され、それに基づいて昭和9年(1934年)3月16日に瀬戸内海、雲仙、霧島の3箇所が日本初の国立公園に指定されました。

その後、昭和32年(1957年)には国立公園法が全面的に改定されて自然公園法が制定され、国立公園、国定公園、都道府県立自然公園といった現在の自然公園体系が確立されました。現在では、北は北海道から南は沖縄、小笠原諸島まで国立公園は34カ所になっています。

十和田八幡平国立公園は、青森県・岩手県・秋田県にまたがり、十和田湖周辺と八幡平周辺の火山群を包括します。1936(昭和11)年2月に十和田地区だけが十和田国立公園として、吉野熊野国立公園、富士箱根国立公園(現・富士箱根伊豆国立公園)、大山国立公園(現・大山隠岐国立公園)とともに指定されました。

さらに、1956(昭和31)年7月に八幡平地域が追加され、現在の十和田八幡平国立公園=写真=に改称されています。賢治のこの作品「国立公園候補地に関する意見」が作られてから31年後のことです。八幡平地域は、岩手山(2038m)を最高峰に、火山活動により形成された山岳地帯で、公園区域に一般集落はまったく含まれません。

岩手山は、盛岡市からは富士山型の姿が望めますが、山頂西側は鬼ヶ城ドムなど複雑な構造を持つ複式火山で、南部片富士の異名も持ちます。東北側の山腹には、享保4(1719)年の噴火のとき流れ出した焼走り溶岩流があります。山麓にはブナを主に、カツラ、サワグルミなどの森林が広がります。

八幡平は八甲田山とともに樹氷で知られ、春の山岳スキーの適地でもある。秋田駒ヶ岳(1637m)は、コマクサやエゾツツジなど高山植物の宝庫として知られます。また、一帯は今も火山活動の盛んな地域で、後生掛(ごしょがけ)や玉川温泉では噴気、噴湯などの現象が活発です。

「春谷暁臥」⑦ 羯阿迦

 きょうは「春谷暁臥」の最後の11行です。 

    羯阿迦(ぎゃあぎあ) 居る居る鳥が立派に居るぞ
    羯阿迦 まさにゆふべとちがった鳥だ
    羯阿迦 鳥とは青い紐である
    羯阿迦 二十八ポイント五!
    羯阿迦 二十七!
    羯阿迦 二十七!
はじめの方が声もたしかにみじかいのに
二十八ポイント五とはどういふわけだ
帽子をなげて眼をひらけ
もう二里半だ
つめたい風がながれる

76b0961a

『語彙辞典』には、「羯阿迦」とは、鳥の鳴き声を陀羅尼(呪文)めかして表現した賢治の造語と思われる、とされています。

陀羅尼は、サンスクリットのダーラニーdhāraṇīの音写で、「総持」「能持」「能遮(しや)」と訳します。総持、能持はいっさいの言語説法を記憶して忘れない意味で、能遮はすべての雑念をはらって無念無想になることをいいます。

陀羅尼を繰り返しとなえれば雑念がなくなって禅定に入り、その結果はいっさいの言語説法を記憶することができます。これを聞持(もんじ)陀羅尼ともいいますが、そのためには声に出さずにとなえるのがいいので入音声(にゆうおんじよう)陀羅尼とも呼ばれるそうです。

「鳥とは青い紐である」というのは、鳥の飛ぶ軌跡を「青い紐」に喩えているのでしょうか。最近の素粒子論によれば、物質も、生命も、その究極は、「ひも」から成り立っているということもいえそうです。

「ポイント」というのは、何らかの点数、得点、点のことでしょうか。欧米で一般に使用されてきた文字の大きさを表す単位でもあります。それなら1ポイントは約0.35ミリ。28.5ポイントは約1センチ、27ポイントは約9.5ミリということになります。

「佐一が向ふに中学生の制服で/たぶんしゃっぽも顔へかぶせ」と、帽子を被って眠っているふうの佐一に、「帽子をなげて眼をひらけ」と訴えています。

一里は3.927キロ。ですから「二里半」とは9.8キロくらいになります。

昭和8年5月18日付、森佐一あて書簡には次のようにあります。

「例の詩らしきものの心象スケッチ、あなたといっしょだったあの岩手山の下の朝を清書しました。どうか何べんもお読み下すってこんな調子に書いたあなたがこれでいゝかどうか ことに「幻」がいゝか佐一がいゝか 佐一の方が詩としてはいゝやうですが事実を離れる所がありその辺適宜ご決定下さい。

「春谷暁臥」⑥ 蕩児

 「春谷暁臥」のつづき、きょうは27行目からです。

  ……佐一もおほかたそれらしかった
    育牛部から山(やま)地へ抜けて
    放牧柵を越えたとき
    水銀いろのひかりのなかで
    杖や窪地や水晶や
    いろいろ春の象徴を
    ぼつりぼつりと拾ってゐた……
      (蕩児高橋亨一が
       しばし無雲の天に往き
       数の綵女とうち笑みて
       ふたたび地上にかへりしに
       この世のをみなみな怪(け)しく
       そのかみ帯びしプラチナと
       ひるの夢とを組みなせし
       鎖もわれにはなにかせんとぞ嘆きける)

育牛部事務所

きのうの最後のところで「石竹いろの動因だった」とありましたが、「佐一もおほかたそれらしかった」とは、森佐一も、賢治の視界の「石竹いろ」に在ったということでしょうか。

「育牛部」とは、小岩井農場の育牛部=写真=のことでしょう。ここから「山地」のほうへ抜けて、牧場の周囲にめぐらせた「放牧柵」を越えていきます。

「水銀」は、銀白色の金属光沢をもち、常温で液状である唯一の金属です。湿気中では表面が酸化されて、暗灰色に変化します。「水銀いろ」とは、こうした水銀特有の光沢のことを言っているのでしょう。

「杖や窪地や水晶や/いろいろ春の象徴を/ぼつりぼつりと拾ってゐた」というのは、光の屈折率の成せる風景なのかもしれません。

戯作か何かをもとにしているのか、カッコのなかは文語調になっています。

「高橋亨一」がどういう人なのか知りませんが、「蕩児」は、正業を忘れて、酒色にふける者。

「綵女」(さいにょ)の「綵」は、彩りの意から転じて彩色豊かな意味となり、それをまとっている女、つまり天女、さらには宮中の侍女のこともいいます。ここでは天女のことを言っているのでしょう。

「をみな」は、若く美しい女性のこと。それが、不審、奇怪だといいます。「プラチナ」すなわち白金は、灰白色の鮮明な光沢を持っています。ここでは「綵女」の装飾品でしょうか。

「春谷暁臥」⑤ 石竹いろ

 「春谷暁臥」のつづき、きょうは20行目からです。

ゆふべ凍った斜子(ななこ)の月を
茄子焼山からこゝらへかけて
夜通しぶうぶう鳴らした鳥が
いま一ぴきも翔けてゐず
しづまりかへってゐるところは
やっぱり餌をとるのでなくて
石竹いろの動因だった

石竹

「〔つめたい風はそらで吹き〕」に「銀斜子」という言葉で出て来ましたが、「斜子」は、経糸と緯糸を2本またはそれ以上引きそろえて織ったものをいいます。

岩手山南東の滝沢野に、詩「風林」で「沼森のむかふには/騎兵聯隊の灯も澱んでゐる」とされる、沼森(標高582メートル)があります。その北西1キロにあるのが「茄子焼山」(標高535メートル)です。

四等三角点で、いまは山頂まで車道が通っています。詩人は「夜通しぶうぶう鳴らした鳥が/いま一ぴきも翔けてゐず/しづまりかへってゐる」のを不思議に思います。

そして、それはなぜかというと「餌をとるのでなくて/石竹いろの動因だった」と結論づけています。

「石竹いろの動因だった」というのは、どういうことなのでしょう?

「石竹いろ」というのは、ナデシコ科の植物セキチクの花=写真、wiki=のような淡い赤色のことをいいます。

セキチクは中国原産種で、花は赤や白やそれらを組み合わせた模様など多種ありますが、色名としては桃色に近い花の色をさします。

一方、先駆形を見ると「いまいっぴきもゐないのは/やっぱりどうも屈折率の関係らしい」となっています。

「動因」というのは、行動を生起させる生理的要求のこと。個体保存のための食物、水、睡眠の要求、種の保存に関わる性の要求などがあげられます。

「鳥が/いま一ぴきも翔けてゐず/しづまりかへってゐる」のが、詩人の視界にある「石竹いろ」を生起しているというのです。それは「屈折率の関係」なのかもしれません。

「春谷暁臥」④ コバルトガラス

 「春谷暁臥」のつづき、きょうは16行目からです。

  ……コバルトガラスのかけらやこな!
    あちこちどしゃどしゃ抛げ散らされた
    安山岩の塊と
    あをあを燃える山の岩塩(しほ)……

コバルトガラス

「コバルトガラス」(cobalt glass)は、一般的に酸化コバルトや炭化コバルトを含むコバルト化合物を含有する青色のガラスのことを指します。

500-700nm の範囲に強い吸収を持つため、炎色反応の観察時にナトリウムに由来する589nmの輝線を吸収する光学フィルターとして利用されます。そのきれいな青色から、ガラス工芸や顔料や絵具としても使われます。

最も古い例としては、紀元前2000年ごろの古代メソポタミアで顔料として使われたと考えられるアルミン酸コバルトガラスがあります。約5世紀後にはスマルトとして知られる酸化コバルト顔料がエジプトの陶器の着色に使われ、エーゲ海地域でもすぐに採用されました。

中国の陶磁器では、コバルトガラスが周王朝のころに発見され、スマルト釉薬は唐の時代以降使われるようになっています。15世紀から17世紀のヨーロッパ絵画では、スマルトがふつうに使用されるようになりました。

「安山岩」は、中性火山岩の総称。アンデス山脈に産する粗面岩様火山岩に対して命名されました。安山岩は造山帯での最も普通の火山岩で、おもに大陸の造山帯、特に環太平洋造山帯に多く、大洋地域にはほとんどありません。環太平洋造山帯に属する火山の95%が安山岩といわれます。

「岩塩」は、鉱物として産する塩化ナトリウム。海底が地殻変動のため隆起するなどして海水が陸上に閉じ込められ、あるいは砂漠の塩湖で、水分蒸発により塩分が濃縮し、結晶化したものです。

岩塩は他の岩石より軽いため、地層の圧縮を受け絞り出されるように地層中で岩塩栓あるいは岩塩ダイアピルと呼ばれる盛り上がり構造をつくります。

岩塩の多くは無色または白色に近い淡い色をしていますが、産地や地層によっては青色、桃白色、鮮紅色、紫色、黄色などの様々な色を有します。

「春谷暁臥」③ キネオラマ

  「春谷暁臥」のつづき、きょうは10行目からです。

佐一が向ふに中学生の制服で
たぶんしゃっぽも顔へかぶせ
灌木藪をすかして射す
キネオラマ的ひかりのなかに
夜通しあるいたつかれのため
情操青く透明らしい

キネマ

森佐一は、賢治より11歳年下。2人の関係は、1925(大正14)年2月に、森が中学の先輩の賢治に、岩手詩人協会への加入を求める手紙を出したことに始まります。

当時、森は盛岡中学在学中で、『春と修羅』を呼んで「こいつは、たいへんだ、たいへんなもんだ」と大きな衝撃を受けたそうです。

岩手詩人協会がこの年の7月に創刊した機関紙「貌」に、賢治は、「鳥」「過労呪禁」の詩2編を寄稿しています。

冒頭に「酪塩のにほひが帽子いっぱいで/温く小さな暗室をつくり」とありましたが、そうした「しゃっぽも顔へかぶせ」ているのです。

「灌木」(かんぼく)は、低木のこと。高木との差は感覚的なもので、だいたい人間の背の高さより低いものをそう呼んでいます。高木のように樹冠が一定の形をとることは少なく、繁っていくと「藪」(やぶ)をつくることがあります。

「キネオラマ」は、ドイツ語の「Kinema(キネマ)」(映画)と「Panorama(パノラマ)」(全景)の合成語です。

明治・大正期にはやった、パノラマの背景・点景などを色光線の照明によって種々に変化させて見せる巨大ジオラマ風の出し物で、浅草には「三友館」という、キネオラマが目玉の劇場がありました。

ここでは「灌木藪をすかして射す/キネオラマ的ひかり」と、灌木や藪のあいだから射してくる「ひかり」について、「キネオラマ的」という直喩を用いています。

「情操」というのはふつう、自分に対する自負心、家族に対する愛情、他人に対する尊敬や軽蔑など、人が特定の対象に関して持続的にいだく感情的傾向をさします。

「夜通しあるいたつかれ」のある佐一が「情操青く透明らしい」というのですから、「春谷暁臥」という題などからすると、いろんな感情も「透明」化して、春の明けがたの谷でスヤスヤしているということなのでしょう。

「春谷暁臥」② 睡酸

 「春谷暁臥」のつづき、冒頭から見ていくことにしましょう。

酪塩のにほひが帽子いっぱいで
温く小さな暗室をつくり
谷のかしらの雪をかぶった円錐のなごり
水のやうに枯草(くさ)をわたる風の流れと
まっしろにゆれる朝の烈しい日光から
薄い睡酸を護ってゐる
  ……その雪山の裾かけて
    播き散らされた銅粉と
    あかるく亘る禁慾の天……

もや

チーズか何かの乳製品の甘酸っぱいような「にほひ」がただよう「温く小さな暗室をつく」っている頭の上の「帽子」。それにつづいて「雪をかぶった円錐」が登場します。

「バラ谷の頭」といわれる山もありますが、岩手山の山並みの谷筋に突き出した「雪をかぶった円錐」型の山。それが冒頭の「帽子」と対になっているようです。

『語彙辞典』では「睡酸」について、「典型的な賢治の造語」としたうえで、「あたかも春の谷に立ちこめている靄を、試薬の塩酸や硫酸から立ちのぼる煙との連想からそう呼んだのであろう。睡たげなイメージまで沸いてくる」としています。

さらにこの、谷に立ちこめている靄については、「その雪山の裾かけて/播き散らされた銅粉」と言い換えています。

そして、雪山の谷に霧が「播き散らされ」ている地上の一方に、「禁慾の天」が「あかるく亘」っています。

よく知られているように、賢治は自ら性的な欲求を押さえ込む姿勢を貫いていました。禁欲によって溜め込まれたマグマが、創作のパワーになったとも考えられます。

「春谷暁臥」① 酪塩

 『春と修羅』第2集、きょうから「三三六 春谷暁臥」です。「1925、5、11」の日付のある52行の作品です。

酪塩のにほひが帽子いっぱいで
温く小さな暗室をつくり
谷のかしらの雪をかぶった円錐のなごり
水のやうに枯草(くさ)をわたる風の流れと
まっしろにゆれる朝の烈しい日光から
薄い睡酸を護ってゐる
  ……その雪山の裾かけて
    播き散らされた銅粉と
    あかるく亘る禁慾の天……
佐一が向ふに中学生の制服で
たぶんしゃっぽも顔へかぶせ
灌木藪をすかして射す
キネオラマ的ひかりのなかに
夜通しあるいたつかれのため
情操青く透明らしい
  ……コバルトガラスのかけらやこな!
    あちこちどしゃどしゃ抛げ散らされた
    安山岩の塊と
    あをあを燃える山の岩塩(しほ)……
ゆふべ凍った斜子(ななこ)の月を
茄子焼山からこゝらへかけて
夜通しぶうぶう鳴らした鳥が
いま一ぴきも翔けてゐず
しづまりかへってゐるところは
やっぱり餌をとるのでなくて
石竹いろの動因だった
  ……佐一もおほかたそれらしかった
    育牛部から山(やま)地へ抜けて
    放牧柵を越えたとき
    水銀いろのひかりのなかで
    杖や窪地や水晶や
    いろいろ春の象徴を
    ぼつりぼつりと拾ってゐた……
      (蕩児高橋亨一が
       しばし無雲の天に往き
       数の綏女とうち笑みて
       ふたたび地上にかへりしに
       この世のをみなみな怪(け)しく
       そのかみ帯びしプラチナと
       ひるの夢とを組みなせし
       鎖もわれにはなにかせんとぞ嘆きける)
    羯阿迦(ぎゃあぎあ) 居る居る鳥が立派に居るぞ
    羯阿迦 まさにゆふべとちがった鳥だ
    羯阿迦 鳥とは青い紐である
    羯阿迦 二十八ポイント五!
    羯阿迦 二十七!
    羯阿迦 二十七!
はじめの方が声もたしかにみじかいのに
二十八ポイント五とはどういふわけだ
帽子をなげて眼をひらけ
もう二厘半だ
つめたい風がながれる

森

この日は、森佐一と小岩井農場から岩手山麓を歩いています。岩手山神社柳沢社務所で仮眠、翌日にはパンをかじって高原を歩いています。

森佐一(森荘已池)(1907-1999」は、旧制盛岡中学出身で賢治と深い親交があり、岩手日報記者をへて、文筆業へ。岩手県在住で最初の直木賞作家となりました。賢治に関する文章をたくさん残しています。

「臥」(が)は、ふす、ふせる、横になって寝ること。題の「春谷暁臥」を文字通りにとれば、春の明けがたの谷で横になって寝る、という意になります。

「酪塩」の「酪」は、牛・羊・馬などの乳を発酵させて作った酸味のある飲料のこと。また仏教では、五味の一つとされます。

五味とは、牛乳からヨーグルト,バター,チーズなどを作っていく過程に比したものと考えられ、乳味(にゆうみ)から順に、酪味、生酥(しようそ)味、熟酥味と進んで、至高の醍醐味にいたるとされる呼びかたで、これによって釈尊一代の教説の推移展開を説明することも行われました。

『語彙辞典』では「酪塩」について、かぶっている制帽の内側の汗のにおいがチーズか何かの乳製品の甘酸っぱい臭いを思わせる、そうした感覚連合の造語ではあるまいか、としています。

「〔つめたい風はそらで吹き〕」㊦ かれは

 「〔つめたい風はそらで吹き〕」のつづき、きょうはその後半部を読みます。

  しかもこの風の底の
  しづかな月夜のかれくさは
  みなニッケルのあまるがむで
  あちこち風致よくならぶものは
  ごくうつくしいりんごの木だ
  そんな木立のはるかなはてでは
  ガラスの鳥も軋ってゐる
さはしぎは北のでこぼこの地平線でもなき
わたくしは寒さにがたがたふるへる
  氷雨が降ってゐるのではない
  かしはがかれはを鳴らすのだ

カシワ

「あまるがむ」、すなわちアマルガムは、水銀と他の金属との合金の総称。語源は、ギリシア語の málagma (軟膏) といわれています。

広義では、混合物一般を指す。水銀は他の金属との合金をつくりやすい性質があり、カドミウム、鉛など常温で液体になる合金もたくさんあります。

金、銀、銅もある程度溶けますが、ここに出て来る「ニッケル」や鉄など高融点金属は、実際にはアマルガムを作りません。

水銀の多いアマルガムは軟らかく、銅像などに軟らかい金アマルガムを塗って加熱し、水銀を蒸発させると金メッキになります。

銀ースズのアマルガムは歯科用充填材に、鉛、スズ、ビスマスのアマルガムは鏡面製作に用いられています。

「ニッケル」は、銀白色で、研削性、展性、延性に富み、合金材やメッキによく用いられますが、その金属光沢を月光の反射にたとえています。

賢治は、光るもの、透明なものに好んでガラスを用いています。「りんごの木」の「木立のはるかなはてで」は、銀白色に反射する月光を受けて、すれ合うような高周波の声を上げる「鳥」が見られます。

柏餅に用いられるように大きな「かしは」の葉。カシワは落葉樹ですが、秋に葉が枯れても翌年の春に新芽が芽吹くまで葉が落ちることはありません。そのため、冬の防風林にも用いられます。

「わたくし」が「寒さ」を感じるのは、「かしはがかれはを鳴らす」せいでもあるのです。

「〔つめたい風はそらで吹き〕」㊥ 銀斜子

 「〔つめたい風はそらで吹き〕」のつづき、きょうは前半部分をもう一度ながめてみます。

つめたい風はそらで吹き
黒黒そよぐ松の針

ここはくらかけ山の凄まじい谷の下で
雪ものぞけば
銀斜子の月も凍って
さはしぎどもがつめたい風を怒ってぶうぶう飛んでゐる

なな

「斜子」(ななこ)=写真=は、彫金技法の一つ。魚々子、魚子とも書きます。金属の表面に、魚卵状の小さな粒が一面に並んだように突起させたもので、地文に用いられます。

切っ先の刃が小円となった鏨(たがね)を打ち込み、金属の表面に細かい粟粒をまいたように金属の粒子を突起させます。中国から伝播したと考えられますが、『正倉院文書』に「魚々子打工」とあり、奈良時代にはすでに専門工がいたようです。

金属粒子が「銀」の場合が「銀斜子」。ここでは「銀斜子の月も凍って」と、月の比喩として用いられています。

「さはしぎ」は、シギ科の鳥の一種。一般に頸、脚、翼が長く、尾は比較的短い。嘴は通常細長くてまっすぐで、上方にそったり、下方に湾曲したり、へら状になったものもあります。

海辺に渡来生息するイソシギに対して、「さはしぎ」は山間の渓流近くの樹林や湿地に生息します。

シギは、夏羽は赤褐色や黒色になるものもありますが、冬羽はたいてい褐色や灰色などで地味。北半球北部のツンドラや草原で繁殖し、繁殖を終えると長距離の渡りをして冬は熱帯や南半球で過ごします。日本でも、春と秋の渡りの途中に渡来します。

そんな「さわしぎ」が、「くらかけ山の凄まじい谷の下」で「つめたい風を怒ってぶうぶう飛んでゐる」といいます。

「〔つめたい風はそらで吹き〕」㊤ くらかけ山

 『春と修羅』第2集のつづき、きょうから「三三五」の番号がふられた作品を読みます。「1925、5、10」の日付があります。

つめたい風はそらで吹き
黒黒そよぐ松の針

ここはくらかけ山の凄まじい谷の下で
雪ものぞけば
銀斜子の月も凍って
さはしぎどもがつめたい風を怒ってぶうぶう飛んでゐる
  しかもこの風の底の
  しづかな月夜のかれくさは
  みなニッケルのあまるがむで
  あちこち風致よくならぶものは
  ごくうつくしいりんごの木だ
  そんな木立のはるかなはてでは
  ガラスの鳥も軋ってゐる
さはしぎは北のでこぼこの地平線でもなき
わたくしは寒さにがたがたふるへる
  氷雨が降ってゐるのではない
  かしはがかれはを鳴らすのだ

くらかけ山

「くらかけ山」というのは、岩手山の南東部にそびえる鞍掛山=写真=のこと。標高897メートル。岩手山南東部の裾野にコブ状に盛り上がる山で、馬の背に鞍をかけたように見えるのでこう呼ばれています。

山頂からは雄大な岩手山が望むことができます。小岩井農場方面からは東岩手山の手前に見え、登山コースの途中で広大な同農場を見渡すこともできます。

賢治は、5月7日に生徒を引率して小岩井農場を見学したあと、4日後の11日にも森佐一と小岩井農場から岩手山ろくを歩いています。

「くらかけ山」というと、私も大好きな、賢治の有名な詩が思い出されます。

  くらかけ山の雪 

たよりになるのは
くらかけつづきの雪ばかり
野はらもはやしも
ぽしやぽしやしたり黝〔くす〕んだりして
すこしもあてにならないので
まことにあんな酵母〔かうぼ〕のふうの
朧〔おぼ〕ろなふぶきではありますが
ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山の雪ばかりです

 「三三五」は、こうした「くらかけ山の凄まじい谷の下」を舞台に展開されていきます。

「遠足統率」⑦ 牧羊犬

 「遠足統率」のつづき、きょうは最後の11行です。

あゝやって来たやっぱりひとり
まあご随意といふ方らしい
あ誰だ
電線へ石投げたのは
    くらい羊舎のなかからは
    顔ぢゅう針のささったやうな
    巨きな犬がうなってくるし
    井戸では紺の滑車が軋り
    蜜蜂がまたぐゎんぐゎん鳴る
     (イーハトーヴの死火山よ
      その水いろとかゞやく銀との襞ををさめよ)

牧羊犬

自分の意見を聞き入れない相手に対して、「どうぞご随意に」のかたちで、今後どのようになっても関知しないという気持ちを込めて言います。「まあご随意といふ方」というのは、そんなふうに思いのままのふるまいをする人を想定しているのでしょう。

「羊舎のなかからは/顔ぢゅう針のささったやうな/巨きな犬がうなってくる」というのは、牧羊犬でしょうか。

放牧している羊の群れの誘導や見張り、さらには盗難やオオカミなどの捕食動物からの被害を防ぐように訓練されたワーキングドッグです。
もとは見張りの役割が主で、強い大型犬種が選ばれましたが、安全管理技術が向上するにつれて、散らばる羊の群れを誘導するとき活発に動けるように、機敏な中型・小型犬が用いられるようになっていきました。

「蜜蜂」は、2組の平らで薄い膜状の翅を持っていて、それらは多くの翅脈で補強されている。前側の翅は後側の翅より大きく、それぞれの側の2枚の翅はファスナーで繋がれたような構造をしています。

羽が平板のような状態のまま、羽ばたいても飛翔力は生じません。飛ぶためには、プロペラのようなひねりを入れて高速で動かす羽ばたきが必要になります。これが「蜜蜂がまたぐゎんぐゎん鳴る」ということになるのでしょう。

ちなみに「蜜蜂」のオスは女王バチと交尾するため、晴天の日を選んで外に飛び立ちます。オスバチは空中を集団で飛行し、その群れの中へ女王蜂が飛び込んで、空中で交尾します。

「犬がうなって」「滑車が軋り」、蜜蜂が「ぐゎんぐゎん鳴る」と、なかなかに騒がしい農場にあって、賢治は「イーハトーヴの死火山」に向かって、「水いろとかゞやく銀との襞」をきちんと自分のなかにしまって入れろと命じています。

「遠足統率」⑥ つゝどり

 「遠足統率」のつづき、きょうは、28行目からです。

えゝもうけしきはいゝとこですが
冬に空気が乾くので
健康地ではないさうです
中学校の寄宿舎へ
ここから三人来てゐましたが
こどものときの肺炎で
みな演説をしませんでした
    七つ森ではつゝどりどもが
    いまごろ寝ぼけた機関銃
    こんどは一ぴき鶯が
    青い折線のグラフをつくる

ツツドリ

西高東低の冬の気圧配置では、シベリア気団から流れ込んだ湿った冷たい空気によって日本海側は雪を降らせますが、太平洋側は乾燥した空気が流れ込みやすく、空気は乾燥します。

雪が降った後の水分の抜けた冷たい空気だけが、山を越えて太平洋側に吹き付けるので、太平洋側は乾燥して冷たい北風となるのです。

冬になると、風邪やインフルエンザ、さらには「肺炎」が流行するのも、空気の乾燥が大きく影響しているようです。

「肺炎」は、種々の病原体の感染により、肺の炎症を起こす病気。風邪やインフルエンザなどの後に起こる二次性細菌性肺炎が多く、発熱、呼吸器症状、胸痛、頻脈などを伴います。

「中学校の寄宿舎へ/ここから三人来てゐましたが/こどものときの肺炎で/みな演説をしませんでした」というのは、賢治の中学生のときに印象に残った記憶なのでしょう。

「七つ森」は、雫石町の岩手山南麓に広がる里山の森。生森(おおもり)、石倉森、鉢森、三角(みかど)森、見立森(みてのもり)、勘十郎森、稗糠(ひえぬか)森という、高さ300メートル前後の7つの独立丘陵から成っています。 

「つゝどり」=写真、wiki=すなわち筒鳥は、全長30センチ余りのホトトギス科の鳥。体上面と胸は青灰色で、腹は黒と白の横縞、カッコウに似ていますが、体上面がやや暗色で、下面の黒い横縞がより太いのが特徴です。

アジア東部で繁殖し、日本には4月下旬ごろに渡来し、北海道から九州まで各地で繁殖します。

よく茂った森林にすみ、地鳴きやメスの鳴き声は「ピピピ…」と聞こえますが、繁殖期のオスは「ポポ、ポポ、ポポ」と繰り返し鳴きます。この鳴き声を「いまごろ寝ぼけた機関銃」と表現しているのでしょう。

他のカッコウ科の鳥類と同じように自分で卵や雛の世話をせず、森林内で繁殖するウグイス科の鳥類に托卵します。

「鶯」(ウグイス)は、雌雄とも上面は緑褐色(いわゆる鶯色)で、下面は汚白色ですが、枝から枝へと気持ちよく飛びうつったのか、「一ぴき鶯が/青い折線のグラフをつくる」と言っています。

「遠足統率」⑤ 聯隊

 「遠足統率」のつづき、きょうは、4文字下げた24行目からの4行です。

    鶯がないて
    花樹はときいろの焔をあげ
    から松の一聯隊は
    青く荒んではるかに消える

ウグイス

「鶯」(ウグイス)=写真、wiki=の地鳴きは「チャッチャッ」。また縄張りを見張っているオスのさえずりが「ホーホケキョ、ホーホケキキョ、ケキョケキョケキョ……」とされます。

「ホーホケキョ」は他の鳥に対する縄張り宣言でメスに対する「縄張り内に危険なし」の合図でもあり、「ケキョケキョケキョ」は侵入者や外敵への威嚇であるともいわれています。

「花樹」は、美しい花の咲く樹木、花を観賞する木、花木(かぼく)。

「ときいろ」は、鴇(とき)の風切羽のような黄みがかった淡く優しい桃色のことです。「朱鷺色」と記されたり、「鴇羽色(ときはいろ)」と呼ばれたりもしました。染色は、紅花や蘇芳により染められていたようです。

「聯隊(連隊)」は、大隊をいくつか集めて編制する戦術単位の部隊。3~4個連隊で、独立した作戦実施能力をもつ戦略単位として1師団となります。

旧日本陸軍では、3~4個大隊、兵員1500~2500からなり、ふつうは大佐が指揮していました。また、平時の兵員徴集とその駐屯基地は、連隊規模で構成されていました。

きのうのところで、「秣畑」に「のしのしとやってきて/大演習をした」という、連隊の上位に位置する「旅団」が出てきましたが、2~3個連隊で戦術単位で最大の1旅団をつくることもありました。

「から松」の群落を、ここではざっくり「一聯隊」という規模でとらえて、「青く荒(すさ)んではるかに消える」と端的に言ってのけています。

「遠足統率」④ 騎兵

 「遠足統率」のつづき、きょうは、18行目からです。

いつかも騎兵の斥候が
秣畑をあるいたので
誰かがちょっととがめたら
その次の日か一旅団
もうのしのしとやってきて
大演習をしたさうです

秋山

「騎兵」は、馬に乗って戦う兵士。機関銃や速射砲が登場するまで、古来、主力部隊である歩兵の脆弱となる側面を守るなど、大きな役割を果してきました。

日本では明治維新前後から、富国強兵の政策のもと近代的な騎兵隊の創設に着手しました。明治初期に日本陸軍が創設されるとヨーロッパ種が輸入されて軍馬の改良や日本馬の育成も行われるようになりました。

「斥候」(せっこう)は、地上戦闘の際に敵情や地形などを偵察、あるいはひそかに監視するため、本隊から派遣される単独兵または小人数の部隊のことをいいます。

「秣」(まぐさ、まくさ)は、牛や馬の飼料とする草。飼葉のこと。古代、「秣」には馬や牛に与える飼料やそれらを与えて飼育することの意味も含まれていました。『延喜式』の左右馬寮式には、秣料として米や大豆を毎年貢進させていたことなどが記されています。

化学肥料が普及する前の農業では、馬や牛の糞尿は貴重な肥料で「秣」はそれを生み出すものとしても重要だったため、農村では「秣」を確保することが重要で、「秣畑」(まぐさばた)や秣田も設けられました。

そんな、農民にとっては極めて大切な「秣畑」を「騎兵の斥候」が歩いていたのので、それをとがめたら「一旅団/もうのしのしとやってきて/大演習をした」というのですから、大変です。

「旅団」は、師団と連隊の中間に位置し、戦術単位としては最大の部隊のこと。戦時には2~3個連隊で編制することが多く、兵員数や担当する区分は、そのときの戦況や各国の事情によって異なりますが、旧日本陸軍では、5000~7000の兵員を少将が指揮することになっていたようです。

類することがあったとしても相当に誇張された表現のように思われますが、兵士の育成を目標に行われる、数千人規模の「大演習」が行われたというのです。

「遠足統率」③ 死火山

  「遠足統率」のつづき、きょうは、8行目からです。

前にはいちいち案内もだし
博物館もありましたし
ひじゃうに待遇したもんですが
まい年どしどし押しかける
みんなはまるで無表情
向ふにしてもたまらんですな
    せいせいと東北東の風がふいて
    イーハトーヴの死火山は
    斧劈の皺を示してかすみ
    禾草がいちめんぎらぎらひかる

七時雨山

小岩井農場では、1903(明治36)年に本部事務所を建設。翌1904年には、農場の経営が拡大して農場員の子弟も増え続けていったのに応じるため、私立小岩井尋常小学校が設立されています。

1907年には、英国からサラブレット種馬を輸入するようになり、賢治が盛岡中学に入学した1909年には、陳列館が開館しています。「博物館もありました」というのは、この陳列館のことを言っているのでしょう。

できたころの小岩井農場は、新鮮で物珍しく「まい年どしどし押しかける」ようになったのでしょうが、地元の人たちにもすっかりお馴染みになって珍しくなくなり、「みんなはまるで無表情」というふうになったのでしょうか。

よく知られているように、賢治は「ドリームランドとしての日本陸中国岩手県」を“イーハトーブ”と称しています。では、そんな「イーハトーヴの死火山」とは、どの山を言っているのでしょう。

火山は以前、現在活動を続けている活火山、現在は活動していないが歴史時代に活動した記録が残っている休火山、それに歴史時代の活動の記録がない死火山の三つに分類されていました。

小岩井農場の近くの「死火山」といえば、たとえば岩手県の北西部に位置する七時雨山(ななしぐれやま)=写真、wiki=が考えられます。約110万〜90万年前に活動した七時雨火山を構成する溶岩ドームで、南峰(1063m)と北峰(1060m)の二つのピークがあります。

「斧劈の皺」は、斧劈皴(ふへきしゅん)のこと。東洋の山水画で山、岩石、土坡など立体感を表現するために用いられる皴法の一つで、鋭い側筆で、斧で割ったように峻厳な山肌や岩面を表します。

「禾草」(かそう)は、イネ、コムギ、オオムギ、カラスムギ、ライムギ、キビ、アワ、ヒエ、トウモロコシなどイネ科に属する植物のことです。

「遠足統率」② ドロ

 「遠足統率」のつづき、きょうは、次の冒頭の7行をやや詳しく見ていきます。

もうご自由に
ゆっくりごらんくださいと
大ていそんなところです
    そこには四本巨きな白楊(ドロ)が
    かがやかに日を分劃し
    わづかに風にゆれながら
    ぶつぶつ硫黄の粒を噴く

ドロノキ

 先駆形の一つの冒頭は次のようになっています。

挨拶をしに本部へ行って
書記が出て来もしないのに
芽を出した芝の上だの
調馬所の囲ひのなかを
かう生徒らがかけ歩いては
だいいちかんじゃうもんだいになる
約十分間分れだなんて
あんまり早く少尉がやってしまったもんで
ところがやつは膝の上までゲートルをはき
水筒などを肩から釣って
けろんとそらをながめてゐる

小岩井農場が開設されたのは、この詩が作られた34年前の1891(明治24)年のこと。明治から昭和初期にかけて馬の生産も手掛け、一部は軍馬として利用されていました。

そうした関係の「調馬所の囲ひのなか」で、「約十分間」自由にしていいと、「あんまり早く」生徒たちに「少尉が」いってしまったので、引率した賢治にとっては心穏やかでないものがあったのでしょう。

それを、詳しいいきさつを省いて「もうご自由に/ゆっくりごらんくださいと/大ていそんなところです」と表現したのでしょう。

「白楊(ドロ)」=写真、wiki=すなわちドロノキは、ヤナギ科の落葉高木。日本では北海道から中部地方かけてに分布し、葉は10センチほどの広楕円形で、周囲に鋸歯、裏は光沢があって白っぽいのが特徴です。

際立った陽樹で、光合成の効率が良い葉は老化も早く、夏の終わりには落葉を始めます。種子にはヤナギの仲間と同じように綿毛があり、風や水を利用して散布されます。

「ゆあわ(湯泡)」が転じて名づけられたともいわれる「硫黄」。黄色の樹脂光沢のあるもろい結晶で、空気中で熱すると青白い炎を出して燃え、二酸化硫黄(亜硫酸ガス)となります。いろいろな金属と化合して硫化物をつくり、火薬、マッチ、医薬品の原料などに用いられています。

火山が多い日本では、火口付近に露出する硫黄を露天掘りで簡単に採掘できるので、古くから硫黄の生産が行われました。とくに明治・大正期、純度の高い国産硫黄は、主要輸出品目ともなったマッチの材料として大いに用いられ、各地の鉱山開発に拍車が掛けられました。

「巨きな白楊(ドロ)が」「ぶつぶつ硫黄の粒を噴く」というのは、日光の散乱する様子の比喩でしょうか。それとも、白楊の綿毛をそんなふうに表現しているのでしょうか。

「遠足統率」① 小岩井農場

 『春と修羅』第2集、きょうから「三三三 遠足統率」に入ります。「1925、5、7」の日付がある、49行の作品です。

もうご自由に
ゆっくりごらんくださいと
大ていそんなところです
    そこには四本巨きな白楊(ドロ)が
    かがやかに日を分劃し
    わづかに風にゆれながら
    ぶつぶつ硫黄の粒を噴く
前にはいちいち案内もだし
博物館もありましたし
ひじゃうに待遇したもんですが
まい年どしどし押しかける
みんなはまるで無表情
向ふにしてもたまらんですな
    せいせいと東北東の風がふいて
    イーハトーヴの死火山は
    斧劈の皺を示してかすみ
    禾草がいちめんぎらぎらひかる
いつかも騎兵の斥候が
秣畑をあるいたので
誰かがちょっととがめたら
その次の日か一旅団
もうのしのしとやってきて
大演習をしたさうです
    鶯がないて
    花樹はときいろの焔をあげ
    から松の一聯隊は
    青く荒んではるかに消える
えゝもうけしきはいゝとこですが
冬に空気が乾くので
健康地ではないさうです
中学校の寄宿舎へ
ここから三人来てゐましたが
こどものときの肺炎で
みな演説をしませんでした
    七つ森ではつゝどりどもが
    いまごろ寝ぼけた機関銃
    こんどは一ぴき鶯が
    青い折線のグラフをつくる
あゝやって来たやっぱりひとり
まあご随意といふ方らしい
あ誰だ
電線へ石投げたのは
    くらい羊舎のなかからは
    顔ぢゅう針のささったやうな
    巨きな犬がうなってくるし
    井戸では紺の滑車が軋り
    蜜蜂がまたぐゎんぐゎん鳴る
     (イーハトーヴの死火山よ
      その水いろとかゞやく銀との襞ををさめよ)

小岩井

賢治は、この作品の日付にあたる、1925年5月7日、農学校の生徒たちを引率して、小岩井農場=写真、wiki=を見学しています。

小岩井農場は、盛岡の北西約12kmに位置し、岩手山南麓に約3,000ヘクタールの敷地面積を有します。現在は、そのうち約40ヘクタールが観光エリア“まきば園”として開放され、岩手県の代表的観光地となっています。300頭ほどの羊が放牧され、カフェでのんびり羊の放牧を眺めることもできます。

小岩井農場は、鉄道の東北本線が延びて盛岡駅が開業した翌年の1891(明治24)年、日本鉄道会社副社長の小野義眞、三菱社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝の3人が共同創始者となり、3人の姓の頭文字をとって「小岩井」と名づけられたのに始まります。

当時、この一帯は、木もまばらな不毛の原野でした。奥羽山脈から吹き降ろす冷たい西風のなか、ススキや柴、ワラビなどが散在する火山灰地で、極度に痩せた酸性土壌であったそうです。そのために、土壌改良や防風・防雪林の植林など基盤整備に数十年を要することになります。

1899(明治32)年、三菱のオーナー一族・岩崎家の所有となり、畜産を軸とした経営を進めていきます。海外から輸入した優良種畜をもとに牛・馬等の種畜の生産供給(ブリーダー)事業を開始、酪農事業にも取組んで、日本の乳用種牛の改良と乳業事業の発展に貢献していきます。

また、戦前は育馬事業も行われ、三冠馬・セントライトなど多くの名競走馬を輩出しました。

「清明どきの駅長」④ 碍子

 「清明どきの駅長」のつづき、きょうは、最後の7行です。

また紺青の地平線から
六列展く電柱列に
碍子がごろごろ鳴りますと
汽車は触媒の白金を噴いて
線路に沿った黄いろな草地のカーペットを
ぶすぶす青く焼き込みながら
なかを走ってくるのです

碍子

「紺青」(こんじょう)とは、鉄のシアノ錯体に過剰量の鉄イオンを加えることで、濃青色の沈殿として得られる顔料で、紫色を帯びた暗い青色のこと。

「展く」(ひらく)は、畳んであるもの、綴じてあるものなどを広げる。近代化の象徴ともいえる電信柱が並び立つ風景が、花巻にも拡がっていく新鮮さが伝わってきます。

「碍子」(がいし)は、電線を送電塔、電柱などの支持物と絶縁するために用いられる器具。絶縁性がよく、材質が安定していて強く、原料が豊富で安価な磁器製品が多用されています。

こうした碍子が、風か何かで「ごろごろ鳴」るように感じられるのでしょうか。

「白金」は、古くから知られる銀白色の貴金属で、単体では白い光沢(銀色)を持つ金属として存在します。化学的に非常に安定であるため、装飾品に多く利用され、触媒としても自動車の排気ガスの浄化をはじめ多方面で使用されています。

ここはで「汽車」の煙を喩えて、「触媒の白金」と言っているのでしょう。

「黄いろな草地のカーペット」というのは、タンポポ畑かそれに類するものでしょうか。

そんな中を「汽車」が、「ぶすぶす青く焼き込みながら/なかを走ってくる」というのは、なんとも臨場感のある表現です。

「清明どきの駅長」③ ロヂウム

 きょうは「清明どきの駅長」の5行目からです。

線路の砂利から紅い煉瓦のラムプ小屋から
いぢけて矮(ひく)い防雪林の杉並あたり
かげろふがもうたゞぎらぎらと湧きまして
沼気や酸を洗ふのです
  ……手袋はやぶけ
    肺臓はロヂウムから代填される……

 ロジウム

「防雪林」は、吹雪や雪崩などによる被害を防ぐために、鉄道の線路や道路などに沿って設けられる林のこと。ここに出てくる「杉」をはじめ、ヒノキ、カラマツなどが植えられます。

日本の防雪林第1号は1893年、当時の日本鉄道が東北本線の水沢駅・小湊駅間の38カ所に延べ50ヘクタールにわたって植林したもの。野辺地駅周辺に残るものは1960年に鉄道記念物に指定されたそうです。

「防雪林の杉並」は「いぢけて矮い」といっています。このときの賢治の目には、寒さや恐ろしさのためにちぢこまって元気がなく、おどおどしているようで、短くて背丈が低く頼りなげに映ったのでしょう。

「沼気」(しょうき)は、沼や湿地から出るメタンガスを主とする天然ガス。土中の有機物が腐敗、発酵したときに発生します。

メタンは、無色・無臭の可燃性の気体で、天然ガスや石油分解ガスに多量に含まれ、炭坑内にも発生して爆発の原因ともなります。

あまり頼りにできそうもない「防雪林の杉並あたり」で、活発な動きをしているのは「かげろふ」で、「もうたゞぎらぎらと湧きまして/沼気や酸を洗」っているのです。

「ロヂウム」すなわちロジウム=写真、wiki=は、貴金属にも分類される銀白色の金属。1804年に、イギリスのウォラストンが白金鉱の中から新しい金属元素を見つけましたが、その塩類の多くがバラ色をしていることから、ギリシア語のバラ色rodeosにちなんでロジウムと命名しました。

酸に対してはきわめて抵抗力が大きく、酸素に対しては比較的弱い。すなわち塊状のものはどんな酸にも溶けません。が、酸化力の強い熱濃硫酸や塩素酸ナトリウムを含む熱濃塩酸には溶けます。

常温では酸化されませんが、強熱するとしだいに酸化され、酸化ロジウムになり、さらに強熱すると分解して酸素を放出します。白金の硬化元素として使われるほか、各種触媒、熱電対などに使われます。

「肺臓はロヂウムから代填される」といっているのは、こうした化学的性質を表現しているのではなく、ロジウムの輝きや色から、朝のすがすがしい空気の喩えとして用いているようです。『語彙辞典』では「朝方の駅長の深く吸い込む空気の詩的把握であろう」としています。

「清明どきの駅長」② ひば

 きょうは「清明どきの駅長」の冒頭4行を見ていきます。

こごりになった古いひばだの
盛りあがった松ばやしだの
いちどにさあっと青くかはる
かういふ清明どきはです

アスナロ

冒頭で、「清明どき」に関する賢治のイメージが表示されています。「こごり」は、凍って固まること、あるいは、そうなったものをいいます。

賢治の「圃道」という作品に、次のような一節があります。

霧が巨きな塊(こゞり)になつて
太陽面を流れてゐる
さつき川から炎のやうにあがつてゐた
あのすさまじい湯氣のあとだ

また、「こごり」は、煮こごりを指す場合もあります。煮こごりは、魚の皮や骨にあるタンパク質(コラーゲン)が、煮汁に溶出してできたゼラチンのゼリーをさします。コラーゲンは水とともに加熱するとゼラチンに変化し、冷えると固まるのです。このため、煮魚を冬など放置しておくと煮汁が固まります。

中国には古くから、ヒツジの背肉や内臓などを煮つめた羊(ヤンカオ)という健康増進の料理があります。2000年以上むかしから用いていた記録があるとか。

「ひば」=写真、wiki=は、日本特産のヒノキ科の常緑高木で、アスナロのこと。下北半島から九州までの亜高山帯に自生し、しばしば大群落の天然林をつくります。

高さ30m、幹の直径60cmにもなり、樹皮は暗赤褐色で縦に長く裂けてはげます。葉は鱗片状で長さ3.5cm、幅2cm内外。枝の下面の葉には白色の著しい気孔群があり、側葉は舟形で先は内側へ曲ります。

材には香気があり、緻密で水湿に耐えるので土木用材、橋梁材、建築材などに使われます。また、材に含まれるアスナロンには殺菌性があり、ポマードや歯磨きに混ぜて使われています。

「清明どき」というのは、こうした「古いひば」とか「盛りあがった松ばやし」が「いちどにさあっと青くかはる」時節だというのです。

「清明どきの駅長」① 清浄明潔

 『春と修羅』第2集のつづき、きょうから「三二七 清明どきの駅長」に入ります。「1925、4、21」の日付が付いた17行の詩です。

こごりになった古いひばだの
盛りあがった松ばやしだの
いちどにさあっと青くかはる
かういふ清明どきはです
線路の砂利から紅い煉瓦のラムプ小屋から
いぢけて矮(ひく)い防雪林の杉並あたり
かげろふがもうたゞぎらぎらと湧きまして
沼気や酸を洗ふのです
  ……手袋はやぶけ
    肺臓はロヂウムから代填される……
また紺青の地平線から
六列展く電柱列に
碍子がごろごろ鳴りますと
汽車は触媒の白金を噴いて
線路に沿った黄いろな草地のカーペットを
ぶすぶす青く焼き込みながら
なかを走ってくるのです

芽

「清明」は、1年を太陽の動きに合わせて24の気に分けた二十四節気の一つ。太陰太陽暦の3月節 (3月前半) のことで、太陽の黄経が 15°に達した日 (太陽暦の4月5日か6日) にはじまり、黄経 30°の穀雨 (4月 20日か 21日) の前日までの約 15日間にあたります。

江戸時代の『暦便覧』という本では「万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれる也」とされているそうです。空気は澄み、陽光は明るく万物を照らし、すべてがはっきり鮮やかに見えるという、この清浄明潔を略したのが清明のようです。

現行暦ではこの期間の第1日目をいいます。むかし中国ではこれをさらに5日を一候とする三候に区分しました。すなわち、桐の花が咲きはじめ(桐始華)、もぐら (田鼠) が家鳩 に化け(田鼠化為鴽)、虹が見えはじめる時期(虹始見)です。

賢治の農学校は4月5日に入学式が行われています。「清明」は、新入生を迎えて、教師としてすがすがしい気持ちで新学期を迎える時期でもはずですが、4月13日付の、樺太真岡郡清水村逢坂王子事業所内、杉山芳松への返書には、次のように記されています。

「わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです」。

農学校で迎える最後の「清明」と腹に決めていたのでしょうか。