きょうは、「九三」の最後のところです。

赤い顔してわらってゐるのは狼(オイノ)沢
一年生の高橋は 北清事変の兵士のやうに
はすに包みをしょってゐる

義和団

最後に、「にはとこ藪のかげから」きた「生徒」たちのことが描かれています。

花巻市に狼沢(おおかみざわ)という地区がありますが、この「赤い顔してわらってゐる」生徒の名は「おいのさわ」というようです。

「北清事変」は義和団事件とも呼ばれる、中国、清末の1900年に起こった排外的農民闘争のことです。山東省付近に清の中期から白蓮教の分派で義和拳という秘密結社がありました。彼らは空手のような拳術を習い、呪文を唱えると神通力を得て刀や鉄砲にも傷つかないと信じていたそうです。

日清戦争(1894~95)後、列強の侵略が中国を分割の危機にさらし、安い商品の流入などで農民の生活は窮乏。とくに外国の勢力を後ろ盾にして特権をもったキリスト教の布教は反感を買い、排外的な機運が高まりました。

義和拳は、教会を焼き、教徒を殺す反キリスト教運動のなかで、多くの破産した農民と結び付き、急速に発展していきます。一方で、支配層のなかにも、守旧派と洋務派という対立集団がつくりだされました。

守旧派は、西太后らの満州人貴族層が中心で、洋務派は列強に頼って新たに力を伸ばしてきた李鴻章ら漢人の大官僚が中心でした。

守旧派は、義和拳を逆に利用して列強や洋務派に対抗しようとします。1899年、洋務派の袁世凱が山東巡撫に就任して義和団の弾圧をはじめると、彼らは河北省に流入し、やがて華北全省、満州、蒙古に拡大し、外国人や教会を襲い、鉄道、電信を壊し、石油ランプ、マッチなどあらゆる外国製品を焼き払います。

清廷は動揺しますが、最終的に守旧派の指導下に義和団利用策をとり、1900年6月、ついに列強に宣戦を布告しました。

北京にまで侵入した義和団は官軍とともに列強の公使館を攻撃し、北京や天津では義和団員が町にあふれ、その勢いはピークに達しました。

近郊の農村から北京に集まった義和団員は10代の少年が多く、赤や黄色の布を身体に着け、八卦を用いて隊伍を分けたといいます。

全体的な指導部はなく、町ごとに拳壇を設けその壇が義和団の単位となりました。大師兄とよばれる宗教的指導者が壇の責任者となりました。10代の少女も紅灯照という組織をつくっていたそうです。

揚子江以南を支配していた洋務派大官僚は義和団の発展を恐れ、北方からの波及を厳しく取り締まりました。北清事変ともいわれるように、運動は中国の北方に限定されたものでした。

イギリス、ロシア、ドイツ、フランス、アメリカ、日本、イタリア、オーストリアの8か国は連合軍をつくり、大沽砲台、天津で官軍と義和団を破ります。西太后と光緒帝は西安に逃れ、失脚した守旧派にかわって実権を握った洋務派は、連合軍に協力して義和団の残部を虐殺しました。

1901年には北京議定書が成立し、中国の植民地化がいっそう深まるとともに、膨大な賠償金の返済に苦しむことになります。

ロシア、日本の2国が連合軍の主力でした。日本は「極東の憲兵」として東アジア人民の民族解放運動を抑え込む武装化の道を歩むことになり、義和団鎮圧を口実に全満州を軍事占領したロシアと対立。日露戦争のきっかけともなります。

「北清事変」が起こったとき賢治はまだ4歳。赤や黄色の布を身に着けた農民を中心とした「北清事変の兵士」=写真、wik=たちの姿を、本や雑誌で見ていたのでしょうか。

衣類や食糧などを詰めた包みを背中に斜めに背負っている姿を「北清事変の兵士のやうに/はすに包みをしょってゐる」と表現したのでしょう。