カノエとミルを乗せたバスは、低い駆動音を響かせながら山間をゆく。
終バスだった。
僻地ゆえに運行の本数も少なく、終わる時間も早い。
現在時刻は21時。
ミルはじっと車窓の外を見つめている。
先程からずっと言葉少なだった。
窓に映るその表情にも心持ち元気がない。
街に下りたのは初めてだったというから、疲れたのだろう……カノエは努めてそう思う事にした。
もしかしたら道中、何か落ち度があって気分を害したのかもしれないが、今日一日そのような素振りはなかったし、バスに乗る直前までは大はしゃぎだったから、きっと単純に疲れが出たのだと思うが……。
カノエがミルと出会ったのは、一年ほど前の事だった。
カノエは母子家庭に育ち、社会人となって数年で、母も失った。
兄弟はいない。
そうして孤独に過ごしているうち、職場と家を往復するだけの日々に何か少しでも変化が欲しくて、地元の神社に詣でて願をかけるようになった。
優しくて、できれば可愛い恋人が欲しい、と。
そんなある日。 誰ひとり訪れる者などいないと思われた社で、居合わせたのがミルだった。
自身を、御神体であるタマモノマエの遣いであると名乗り──。
当初は、そのあまりにも突飛な物言いに「この人は人格に何か障害があるのではないか」とカノエは疑った。
無理もない。
特定の神を信仰している者ですら、眼前に神を名乗る者や、その遣いだと名乗る者が現れても俄かには信じがたいだろう。
ましてカノエは典型的な理系人間で、基本的にオカルトの類を一切信じない。
願掛けに社を訪れるようになったのも、殆どの人が「御利益が必ずある」などとは思ってもいないように、ただ、少しの希望を託したかっただけだ。
彼女の言う事を信じるようになった契機は、いつも参拝する時に見かけている狐の像が一体、忽然と姿を消しているのを認めた所からだった。
重ねて、その博識さ。
彼女はこの地元にまつわる地理、歴史に極めて明るく、土地の由来や時に訪れた災害といった出来事をまるで見てきたように話した。
あまりにも流暢に語るものだから、出まかせではないのかと疑ってのちのち調べてみると、恐ろしいほどに完全に裏が取れ、しかも、彼女の語った話の方が、文献よりもずっと情報量が多い。
そして、それらよりももっともっと強い説得力を持っていたのが、彼女の「耳」だった。
側頭部に突き出た、ふっさりとした毛に覆われた獣の──狐の耳。
それは神経が通っているとわかる挙動を常に示した。
犬や猫といった卑近な動物と同じように、音の源を探して小刻みに動いたり、寒さに震えたりもした。
耳の付け根を見せてもらえないかと頼み込むと、彼女は恥じらいながらも髪を除けてみせてくれた。 果たせるかな、それは良く出来た飾りなどではなく、皮膚と繋がっていた。
触れてみると、ぬくもりもあった。
──少なくとも、人間と同じ生物ではない。 カノエはそう判じた。
そうして彼女に興味を持ち、彼女もまた、カノエに興味を持った。
参拝客の絶えた社の番をずっとしているのにミルは退屈していた。
世の中が移り変わっている事は地域の動物たちから聞かされてはいたが、彼らの与えてくれる情報は断片的に過ぎた。
もっと、知りたい……彼女はそう願っていた。
そうして、カノエは殆ど毎日、社を訪れるようになった。
ミルは無邪気で、どんなつまらなそうな話でも楽しそうに聞き、新しい話をねだった。
その無垢な反応と、いとけない仕草。
そして時に、何百年も生きたという事が嘘ではないと信ずるに足るだけの知識と思慮深さをミルは示した。
カノエは知らずのうちに、彼女に心惹かれるようになっていた。
佳き出会いが齎される事を期待して参拝してきた筈なのに、今や、「あの人が自分の側にいてくれたなら」と思うようにさえなった。
だから、昨晩突然に、丑三つ刻に「でえとに連れていけ」と迫られた時には仰天したが、その気持ちはとても嬉しかった。

月を眺めて語り合って過ごすのも立派なデートであろうが、彼女は下界に出たがっていたから、結局夜が明けてから出直す事にして、そうして今に至る。
バスの運転士が間も無く次の停留所だと告げる。
その次はもうバスの営業所なので、実質の終点。
降車。
バスはゆったりと発進し、その淡い赤のテールランプをカノエたちは見送った。
カノエが「行きましょうか」と声をかけると、ミルは小さくうなづいて、ゆるゆると歩を進める。
カノエの自宅はここから100メートル足らずの所にあり、ミルの棲まう社は、その途次にある。
小高い山の、中ほどまで階段を上った所にある社だが、昔あった地震でその階段は殆どその機能を失っていて、以後、補修もされておらず荒れ果てている。
それも参拝客の激減した理由のひとつだった。
そもそも存在を知らない住民さえいる。
その元参道の前までやってくると、ミルは、ぽつりと言った。
「すまんの……」 と。
つらい顔をしている。
カノエは腹わたを冷たいもので撫でつけられたような気持ちになった。
非情な事実を突きつけられる前によくある感触。
例えば、何らかの試験に落ちた時。
例えば、別れを告げられる時。
済まない、とは──。
その言葉の真意を問いたく、カノエは一歩、彼女の方へ脚を踏み出す。
と。
ミルの姿は一瞬にして消滅した。
かと思うと、先まで彼女のいた場所に、一匹の狐が姿を現していた。
えっ、と思う間も無く、その狐は敏捷な動きで参道を駆け上がっていった。
呆気にとられ、ぼんやりと、参道の先を見つめる。
……どうして。
……済まない、とはどういう意味だったのか。
おきつねさまとは、これきりもう二度と逢えないのだろうか……そう思うと、どうしようもない空疎感が襲ってくる。
立ち尽くしているカノエの体温を、冬の透徹した大気が少しづつ奪っていく。
──と。
「やれやれ、不器用な……」
不意の声。
凛として、品格を感じさせる女声。
カノエは辺りを見回す。
どこから聞こえたものか、周囲には人影もない。
その一瞬のち。
ぼうっ、と、ネオンにも似た緑の光を放つ炎が、少し離れたところにふたつ浮かびあがる。
高さはカノエの肩ほどか。
その幻想的な光がひとつの人影を浮かびあがらせる。
脚をすっかり覆い隠す袴に、着物。 雨もないのに、番傘をさして。
そして、その側頭部には。 おきつねさまと同じ、狐の耳──。

カノエは直感的に、その人が、あの社の主タマモノマエなのだろうと理解した。
「いかにも、私がタマモノマエだ」 彼女はそう言った。
カノエはまた、臓腑を氷で撫で付けられたような感覚に襲われた。
先程から、自分は全く口を開いてはいない、にも関わらず、彼女がこちらの内心を読んだとしか思えない物言いをしたからだ。
「そう驚かなくてもいい。 うらぶれた小さな社の主とはいえ、神のはしくれだ。 心を読むくらいは造作もないよ」
……まただ。
ああ。
諦めに近い感情をもよおす。
おきつねさまと触れ合う事によって、常識では推し測れぬ存在が確かにこの世界には存在しているのだ、と認めていたはずだった。
それでも、矢張り心の底から納得はしていなかったのだな。
けれど、それもここまでだ。
今、目の前に揺れている緑の炎はともかく。
正真正銘の読心術、それを今、目の当たりにした。
なんのトリックもない。
「さて、何から話したものか」 タマモノマエは、少し先の方にある川、そこに架けられた橋の方をちらと見て、カノエに目配せする。
ついてこい、と言っているのだと知れた。
優雅な足取りで歩を進めるタマモノマエに、カノエは率直な言葉を投げかけた。
「神様にしては、随分と現代的な言葉を話されるのですね」
と。
聞きようによっては失礼、皮肉とも取れる言葉だったが、タマモノマエはころころと鈴の音のような声で笑うばかり。
カノエの言葉が悪意のもと発されたものでない事も見透かしていたから。
「それはそうさ。 私の本来の言葉では君には何も理解できないもの、君に合わせるさ。 それに、その時代の言葉がわからないでは、その時代の人々の願いも聞き届けられない」
橋の欄干に楚々とした所作で腰を下ろし、タマモノマエはにっこりと笑った。
おきつねさまと似た笑顔だが、加えて、妖艶でもあり、同時に気品も備えていた。
「さて君の願いだけど。 "優しくて、できれば可愛い恋人が欲しい"……そうだったね」
カノエは目眩をおぼえた。
もう、わかりました。
あなたが紛れもなく神であること、さなくともそれに匹敵する力の持ち主であることは充分に理解しました。
裡に秘めた言葉を、一言一句違わず再現するなど、普通の人間には無理です。
もう勘弁してください。
「ミルを好いてくれているんだろう?」
にこにこしながらタマモノマエはそんな事をしれっと言ってのけた。
カノエはもはや何も答えなかった。
頭の中に思い浮かべるので、それを以って答とするつもりだった。
タマモノマエは笑顔を絶やさない。
「……そうだね、あんなでも一応神の遣いだ。 恋愛対象として見るのは後ろめたい、というのはあるだろうね」
カノエはいくらか落ち着きを取り戻して、答える。
「高嶺の花と言うか……叶わない願いのように思っています」
「そうでもないさ。 あれはずっと人の間で、人として生きる事に憧れていたし、私も、時が来れば役目を解いて好きにさせるつもりでいた。 何より、あれも君の事を好いてる」
えっ、と声をあげるカノエに、タマモノマエはまた鈴の音の声で笑う。
「気がつかなかったかね? まあ無理もない……あれは子供みたいな表現しか知らないからね。 でも間違いなく、あの子は君に惹かれてる」
……ああ。 そうか。 彼女の力を以ってすれば、おきつねさまの秘めたる気持ちを悟る事も、造作もない事なのだろう。
「そういう事。 尤も、心など読まなくともあれの気持ちはわかったさ。 私にとって、ミルは娘みたいなものだもの」
だとしたら、どうして……何故おきつねさまは、「済まない」と言って、逃げるように姿を消してしまったのだろう。
「あれは勘違いしてるんだよ。 少し長い話になるが……」
タマモノマエは番傘を畳み、膝の上に乗せる。
「私はここしばらく、社を留守にしていたんだ。 その間に、君が社を訪れるようになった。 ミルはこう思った……『願いを聞き届ける者もおらぬ社に熱心に通うとは不憫な』……と」
「無論それは誤解だけどね。 私にしてみれば、少しばかり社を離れたくらいの事で、詣でてくれた者の声を聞き届けるに不便はないから」
「ともあれ、ミルは、そういう気懸りもあって君の前に姿を現した。 あまりにも長いあいだ暇にしていたから、退屈で、誰かと話したかったというのもあったろうけど」
「そして……君に恋をした」
突然、刺すように鋭い視線がカノエに向けられる。
まるで、我が娘の伴侶となる覚悟は出来ているか? と確かめるように。
「この社に主はおらぬ、と、その事実を伝えてしまえば、君は参拝をやめてしまうかもしれない……ミルはそう考えた」
「君と会えなくなるのが淋しくて、耐えられなくて、事実を隠していた。 その一方で、隠し事をし続けるのを気に病んでいた……あれは馬鹿正直な子だからね」
「さっき逃げていったのは、君に隠し事をしたままでいるのにとうとう耐えられなくなったのさ」
そんな……と、カノエは呻く。
気にする事はなかったのに。
言ってくれても、良かったのに。
願いが届く事がないのだと知っても、毎日でも会いに行ったのに。
「そんな所に隠れていないで、出ておいで」
それはカノエに向けられた言葉ではなかった。
カノエの後方……バス停に設けられた申し訳程度の雨避けの小屋の陰から、おずおずと姿を現したのは、ミル。
叱られる前の子供みたいに、肩を小さくして、萎れた顔をしてゆっくりとカノエたちのもとへと近寄って来る。
さて、と、小さくもよく通る声を発してタマモノマエは欄干から腰を上げた。
「八街カノエ、君の願いを叶える時が来たようだ。 不束者な娘だが、よろしく頼むぞ」
カノエとミルの口から同時に「えっ」という声が放たれる。
「ミル、そなたが人として生きていくに必要になるものも準備してある。 そら、ここに……」
言うや、タマモノマエは番傘の先で橋の上に円を描く。
すると。
円の内部に、夜の闇よりも黒い黒が水面にインクを落としたように広がり、その中から、キャリーバッグがぷかりと浮かびあがってくる。
まるで水底から浮かびあがってきたように。
カノエの方に視線を移し、タマモノマエは言葉を次ぐ。
「戸籍もひとつちょろまかしておいた。 君なら上手く立ち回れるだろう。 他にも色々必要そうなものを見繕って入れてある。 また困った事があれば社を訪れるといい。 力になる」
ミルは今にも泣きだしそうな顔で、タマモノマエの顔を上目遣いに伺いながら、あの、あの、と何か言いあぐねている。
タマモノマエは微笑しながらも毅然とした表情を示す。
「ミル。 この男は信用するに足る。 安心してついていくといい。 おまえの御遣いとしての役割は今日で終わるが、私のたった一人の娘である事に変わりはない……達者で暮らせよ」
その言葉に、ミルは堪えていたであろう大粒の涙をぼろぼろと零し始める。
子供みたいに、手の甲でそれを何度も拭う。
何度も。
何度も。
そのやり取りを、カノエはただただ見守った。
この二人は、気の遠くなるほどの年月を一緒に過ごしてきたのだ。
タマモノマエは今生の別れではない、とは言うものの、互いを繋ぎ止めている関係のひとつが解消されるのは、なんらか強い感情を惹起するに違いない。
タマモノマエは、しゅっ、と軽やかな手捌きで番傘を開き、二人に背を向ける。
「ではな」
短い別れの言葉を残すと、彼女を照らしていたふたつの狐火は吹き消すように消え、あとに夜の闇だけを残した。
カノエは困惑していた。
タマモノマエは、嫁にやるも同然におきつねさまの身を預けてきた。
無論、それは嬉しい。
恋心を抱く相手と一緒に暮らせるのだ、嬉しくないはずはない。
しかし現実問題として、自宅に人ひとりを迎える準備はまるで出来ていない。
それに。
彼女を養っていけるくらいの稼ぎはあるけれど、今日初めて一緒に出掛けたという段の相手を、そのまま家に住まわせる、食べさせていくというのは一足飛びに過ぎる話だ。
そんな内心を感じとったのか、ミルは不安げな表情をカノエに向けている。
これまで時間をかけて何度も会って、色々な話をして、相互理解はそれなりにあるとはいえ、彼女にとっても、カノエは「今日初めて一緒に出掛けた相手」だ。
いくら好きでも、自分の今後の生活を託すに不安があって当然だ。
だからこそタマモノマエも「この男は信用するに足る」と後押しする言葉を与えたのだろう。
カノエはひとつ息を吸い込む。 そして、ミルにこんな言葉をかけた。
「おきつねさま。 ともあれ、ここにいては風邪をひきます。 私の家に参りましょう」
ミルは──申し訳なさそうな表情を示しつつも、微かに笑みを取り戻した。
「よいのか……?」
声も先程より少し明るく。
それを見たカノエも表情を和らげる。
「ええ。 これからの事は、またゆっくり考えましょう」
ミルは安心したのか、にっこりと笑って、
「それがいい! そうする!」
と、数時間ぶりに明るい声を発する。
冬の澄んだ空気に満天の星。
その下で、二人は家路を辿る。
終バスだった。
僻地ゆえに運行の本数も少なく、終わる時間も早い。
現在時刻は21時。
ミルはじっと車窓の外を見つめている。
先程からずっと言葉少なだった。
窓に映るその表情にも心持ち元気がない。
街に下りたのは初めてだったというから、疲れたのだろう……カノエは努めてそう思う事にした。
もしかしたら道中、何か落ち度があって気分を害したのかもしれないが、今日一日そのような素振りはなかったし、バスに乗る直前までは大はしゃぎだったから、きっと単純に疲れが出たのだと思うが……。
カノエがミルと出会ったのは、一年ほど前の事だった。
カノエは母子家庭に育ち、社会人となって数年で、母も失った。
兄弟はいない。
そうして孤独に過ごしているうち、職場と家を往復するだけの日々に何か少しでも変化が欲しくて、地元の神社に詣でて願をかけるようになった。
優しくて、できれば可愛い恋人が欲しい、と。
そんなある日。 誰ひとり訪れる者などいないと思われた社で、居合わせたのがミルだった。
自身を、御神体であるタマモノマエの遣いであると名乗り──。
当初は、そのあまりにも突飛な物言いに「この人は人格に何か障害があるのではないか」とカノエは疑った。
無理もない。
特定の神を信仰している者ですら、眼前に神を名乗る者や、その遣いだと名乗る者が現れても俄かには信じがたいだろう。
ましてカノエは典型的な理系人間で、基本的にオカルトの類を一切信じない。
願掛けに社を訪れるようになったのも、殆どの人が「御利益が必ずある」などとは思ってもいないように、ただ、少しの希望を託したかっただけだ。
彼女の言う事を信じるようになった契機は、いつも参拝する時に見かけている狐の像が一体、忽然と姿を消しているのを認めた所からだった。
重ねて、その博識さ。
彼女はこの地元にまつわる地理、歴史に極めて明るく、土地の由来や時に訪れた災害といった出来事をまるで見てきたように話した。
あまりにも流暢に語るものだから、出まかせではないのかと疑ってのちのち調べてみると、恐ろしいほどに完全に裏が取れ、しかも、彼女の語った話の方が、文献よりもずっと情報量が多い。
そして、それらよりももっともっと強い説得力を持っていたのが、彼女の「耳」だった。
側頭部に突き出た、ふっさりとした毛に覆われた獣の──狐の耳。
それは神経が通っているとわかる挙動を常に示した。
犬や猫といった卑近な動物と同じように、音の源を探して小刻みに動いたり、寒さに震えたりもした。
耳の付け根を見せてもらえないかと頼み込むと、彼女は恥じらいながらも髪を除けてみせてくれた。 果たせるかな、それは良く出来た飾りなどではなく、皮膚と繋がっていた。
触れてみると、ぬくもりもあった。
──少なくとも、人間と同じ生物ではない。 カノエはそう判じた。
そうして彼女に興味を持ち、彼女もまた、カノエに興味を持った。
参拝客の絶えた社の番をずっとしているのにミルは退屈していた。
世の中が移り変わっている事は地域の動物たちから聞かされてはいたが、彼らの与えてくれる情報は断片的に過ぎた。
もっと、知りたい……彼女はそう願っていた。
そうして、カノエは殆ど毎日、社を訪れるようになった。
ミルは無邪気で、どんなつまらなそうな話でも楽しそうに聞き、新しい話をねだった。
その無垢な反応と、いとけない仕草。
そして時に、何百年も生きたという事が嘘ではないと信ずるに足るだけの知識と思慮深さをミルは示した。
カノエは知らずのうちに、彼女に心惹かれるようになっていた。
佳き出会いが齎される事を期待して参拝してきた筈なのに、今や、「あの人が自分の側にいてくれたなら」と思うようにさえなった。
だから、昨晩突然に、丑三つ刻に「でえとに連れていけ」と迫られた時には仰天したが、その気持ちはとても嬉しかった。

月を眺めて語り合って過ごすのも立派なデートであろうが、彼女は下界に出たがっていたから、結局夜が明けてから出直す事にして、そうして今に至る。
バスの運転士が間も無く次の停留所だと告げる。
その次はもうバスの営業所なので、実質の終点。
降車。
バスはゆったりと発進し、その淡い赤のテールランプをカノエたちは見送った。
カノエが「行きましょうか」と声をかけると、ミルは小さくうなづいて、ゆるゆると歩を進める。
カノエの自宅はここから100メートル足らずの所にあり、ミルの棲まう社は、その途次にある。
小高い山の、中ほどまで階段を上った所にある社だが、昔あった地震でその階段は殆どその機能を失っていて、以後、補修もされておらず荒れ果てている。
それも参拝客の激減した理由のひとつだった。
そもそも存在を知らない住民さえいる。
その元参道の前までやってくると、ミルは、ぽつりと言った。
「すまんの……」 と。
つらい顔をしている。
カノエは腹わたを冷たいもので撫でつけられたような気持ちになった。
非情な事実を突きつけられる前によくある感触。
例えば、何らかの試験に落ちた時。
例えば、別れを告げられる時。
済まない、とは──。
その言葉の真意を問いたく、カノエは一歩、彼女の方へ脚を踏み出す。
と。
ミルの姿は一瞬にして消滅した。
かと思うと、先まで彼女のいた場所に、一匹の狐が姿を現していた。
えっ、と思う間も無く、その狐は敏捷な動きで参道を駆け上がっていった。
呆気にとられ、ぼんやりと、参道の先を見つめる。
……どうして。
……済まない、とはどういう意味だったのか。
おきつねさまとは、これきりもう二度と逢えないのだろうか……そう思うと、どうしようもない空疎感が襲ってくる。
立ち尽くしているカノエの体温を、冬の透徹した大気が少しづつ奪っていく。
──と。
「やれやれ、不器用な……」
不意の声。
凛として、品格を感じさせる女声。
カノエは辺りを見回す。
どこから聞こえたものか、周囲には人影もない。
その一瞬のち。
ぼうっ、と、ネオンにも似た緑の光を放つ炎が、少し離れたところにふたつ浮かびあがる。
高さはカノエの肩ほどか。
その幻想的な光がひとつの人影を浮かびあがらせる。
脚をすっかり覆い隠す袴に、着物。 雨もないのに、番傘をさして。
そして、その側頭部には。 おきつねさまと同じ、狐の耳──。

カノエは直感的に、その人が、あの社の主タマモノマエなのだろうと理解した。
「いかにも、私がタマモノマエだ」 彼女はそう言った。
カノエはまた、臓腑を氷で撫で付けられたような感覚に襲われた。
先程から、自分は全く口を開いてはいない、にも関わらず、彼女がこちらの内心を読んだとしか思えない物言いをしたからだ。
「そう驚かなくてもいい。 うらぶれた小さな社の主とはいえ、神のはしくれだ。 心を読むくらいは造作もないよ」
……まただ。
ああ。
諦めに近い感情をもよおす。
おきつねさまと触れ合う事によって、常識では推し測れぬ存在が確かにこの世界には存在しているのだ、と認めていたはずだった。
それでも、矢張り心の底から納得はしていなかったのだな。
けれど、それもここまでだ。
今、目の前に揺れている緑の炎はともかく。
正真正銘の読心術、それを今、目の当たりにした。
なんのトリックもない。
「さて、何から話したものか」 タマモノマエは、少し先の方にある川、そこに架けられた橋の方をちらと見て、カノエに目配せする。
ついてこい、と言っているのだと知れた。
優雅な足取りで歩を進めるタマモノマエに、カノエは率直な言葉を投げかけた。
「神様にしては、随分と現代的な言葉を話されるのですね」
と。
聞きようによっては失礼、皮肉とも取れる言葉だったが、タマモノマエはころころと鈴の音のような声で笑うばかり。
カノエの言葉が悪意のもと発されたものでない事も見透かしていたから。
「それはそうさ。 私の本来の言葉では君には何も理解できないもの、君に合わせるさ。 それに、その時代の言葉がわからないでは、その時代の人々の願いも聞き届けられない」
橋の欄干に楚々とした所作で腰を下ろし、タマモノマエはにっこりと笑った。
おきつねさまと似た笑顔だが、加えて、妖艶でもあり、同時に気品も備えていた。
「さて君の願いだけど。 "優しくて、できれば可愛い恋人が欲しい"……そうだったね」
カノエは目眩をおぼえた。
もう、わかりました。
あなたが紛れもなく神であること、さなくともそれに匹敵する力の持ち主であることは充分に理解しました。
裡に秘めた言葉を、一言一句違わず再現するなど、普通の人間には無理です。
もう勘弁してください。
「ミルを好いてくれているんだろう?」
にこにこしながらタマモノマエはそんな事をしれっと言ってのけた。
カノエはもはや何も答えなかった。
頭の中に思い浮かべるので、それを以って答とするつもりだった。
タマモノマエは笑顔を絶やさない。
「……そうだね、あんなでも一応神の遣いだ。 恋愛対象として見るのは後ろめたい、というのはあるだろうね」
カノエはいくらか落ち着きを取り戻して、答える。
「高嶺の花と言うか……叶わない願いのように思っています」
「そうでもないさ。 あれはずっと人の間で、人として生きる事に憧れていたし、私も、時が来れば役目を解いて好きにさせるつもりでいた。 何より、あれも君の事を好いてる」
えっ、と声をあげるカノエに、タマモノマエはまた鈴の音の声で笑う。
「気がつかなかったかね? まあ無理もない……あれは子供みたいな表現しか知らないからね。 でも間違いなく、あの子は君に惹かれてる」
……ああ。 そうか。 彼女の力を以ってすれば、おきつねさまの秘めたる気持ちを悟る事も、造作もない事なのだろう。
「そういう事。 尤も、心など読まなくともあれの気持ちはわかったさ。 私にとって、ミルは娘みたいなものだもの」
だとしたら、どうして……何故おきつねさまは、「済まない」と言って、逃げるように姿を消してしまったのだろう。
「あれは勘違いしてるんだよ。 少し長い話になるが……」
タマモノマエは番傘を畳み、膝の上に乗せる。
「私はここしばらく、社を留守にしていたんだ。 その間に、君が社を訪れるようになった。 ミルはこう思った……『願いを聞き届ける者もおらぬ社に熱心に通うとは不憫な』……と」
「無論それは誤解だけどね。 私にしてみれば、少しばかり社を離れたくらいの事で、詣でてくれた者の声を聞き届けるに不便はないから」
「ともあれ、ミルは、そういう気懸りもあって君の前に姿を現した。 あまりにも長いあいだ暇にしていたから、退屈で、誰かと話したかったというのもあったろうけど」
「そして……君に恋をした」
突然、刺すように鋭い視線がカノエに向けられる。
まるで、我が娘の伴侶となる覚悟は出来ているか? と確かめるように。
「この社に主はおらぬ、と、その事実を伝えてしまえば、君は参拝をやめてしまうかもしれない……ミルはそう考えた」
「君と会えなくなるのが淋しくて、耐えられなくて、事実を隠していた。 その一方で、隠し事をし続けるのを気に病んでいた……あれは馬鹿正直な子だからね」
「さっき逃げていったのは、君に隠し事をしたままでいるのにとうとう耐えられなくなったのさ」
そんな……と、カノエは呻く。
気にする事はなかったのに。
言ってくれても、良かったのに。
願いが届く事がないのだと知っても、毎日でも会いに行ったのに。
「そんな所に隠れていないで、出ておいで」
それはカノエに向けられた言葉ではなかった。
カノエの後方……バス停に設けられた申し訳程度の雨避けの小屋の陰から、おずおずと姿を現したのは、ミル。
叱られる前の子供みたいに、肩を小さくして、萎れた顔をしてゆっくりとカノエたちのもとへと近寄って来る。
さて、と、小さくもよく通る声を発してタマモノマエは欄干から腰を上げた。
「八街カノエ、君の願いを叶える時が来たようだ。 不束者な娘だが、よろしく頼むぞ」
カノエとミルの口から同時に「えっ」という声が放たれる。
「ミル、そなたが人として生きていくに必要になるものも準備してある。 そら、ここに……」
言うや、タマモノマエは番傘の先で橋の上に円を描く。
すると。
円の内部に、夜の闇よりも黒い黒が水面にインクを落としたように広がり、その中から、キャリーバッグがぷかりと浮かびあがってくる。
まるで水底から浮かびあがってきたように。
カノエの方に視線を移し、タマモノマエは言葉を次ぐ。
「戸籍もひとつちょろまかしておいた。 君なら上手く立ち回れるだろう。 他にも色々必要そうなものを見繕って入れてある。 また困った事があれば社を訪れるといい。 力になる」
ミルは今にも泣きだしそうな顔で、タマモノマエの顔を上目遣いに伺いながら、あの、あの、と何か言いあぐねている。
タマモノマエは微笑しながらも毅然とした表情を示す。
「ミル。 この男は信用するに足る。 安心してついていくといい。 おまえの御遣いとしての役割は今日で終わるが、私のたった一人の娘である事に変わりはない……達者で暮らせよ」
その言葉に、ミルは堪えていたであろう大粒の涙をぼろぼろと零し始める。
子供みたいに、手の甲でそれを何度も拭う。
何度も。
何度も。
そのやり取りを、カノエはただただ見守った。
この二人は、気の遠くなるほどの年月を一緒に過ごしてきたのだ。
タマモノマエは今生の別れではない、とは言うものの、互いを繋ぎ止めている関係のひとつが解消されるのは、なんらか強い感情を惹起するに違いない。
タマモノマエは、しゅっ、と軽やかな手捌きで番傘を開き、二人に背を向ける。
「ではな」
短い別れの言葉を残すと、彼女を照らしていたふたつの狐火は吹き消すように消え、あとに夜の闇だけを残した。
カノエは困惑していた。
タマモノマエは、嫁にやるも同然におきつねさまの身を預けてきた。
無論、それは嬉しい。
恋心を抱く相手と一緒に暮らせるのだ、嬉しくないはずはない。
しかし現実問題として、自宅に人ひとりを迎える準備はまるで出来ていない。
それに。
彼女を養っていけるくらいの稼ぎはあるけれど、今日初めて一緒に出掛けたという段の相手を、そのまま家に住まわせる、食べさせていくというのは一足飛びに過ぎる話だ。
そんな内心を感じとったのか、ミルは不安げな表情をカノエに向けている。
これまで時間をかけて何度も会って、色々な話をして、相互理解はそれなりにあるとはいえ、彼女にとっても、カノエは「今日初めて一緒に出掛けた相手」だ。
いくら好きでも、自分の今後の生活を託すに不安があって当然だ。
だからこそタマモノマエも「この男は信用するに足る」と後押しする言葉を与えたのだろう。
カノエはひとつ息を吸い込む。 そして、ミルにこんな言葉をかけた。
「おきつねさま。 ともあれ、ここにいては風邪をひきます。 私の家に参りましょう」
ミルは──申し訳なさそうな表情を示しつつも、微かに笑みを取り戻した。
「よいのか……?」
声も先程より少し明るく。
それを見たカノエも表情を和らげる。
「ええ。 これからの事は、またゆっくり考えましょう」
ミルは安心したのか、にっこりと笑って、
「それがいい! そうする!」
と、数時間ぶりに明るい声を発する。
冬の澄んだ空気に満天の星。
その下で、二人は家路を辿る。