2008年08月

作る 造る 創る・・・11  突然やってくるもの?

NO10で、フンコロガシや鳥の巣作りと人間の創作の違いに触れました。人間の其れは、脳の作業がその土台になっている、それが 物質の量とは異なる量であり「質」えの変化を引きを越す原因になるのではないか?という私の考え方をお伝えしたと思います。では、「質」の変化をどう読み取るのでしょうか。
 皆さんは、自分の作品が何か変わってきたな?と思うことを経験してはいませんか。勿論 まだ焼き物つくりを始めて間もない方や、完成総数が100にも満たない方にはお聞きするのが無理なのですが・・・ 10年余、作陶し続けている方には、思い返すと、そういえばあの時!思い出すことがあると思います。
 そんな時が皆さん自身 身体中の力を集中させ「何なんだろう」と繰り返し想い返す時なのです。私が、日頃、見慣れた景色が分からなくなることが時々あると書きましたが、こんな時のような気がするのです。「突然やってくる」この症状を(人によって現れ方は違うのでしょうが)は、自分の変化に大切な意味を持っていてると思います。次回は、少しくどくなりますが 無き、落語の名人と言われた、六代目 三遊亭円生を例にとって説明してみます。 長ずぎるのご批判がありましたので今回はこれにて。

作る 造る 創る・・5の作品です。「破れ筒」

72610b2a.JPGNO5に書きました、二人展時の作品です。サ−クルの習作展のお客様接待コ−ナ−の花池に使われています。

作る 造る 創る・・・10 「フンコロガシ」

 NO9まで、「量から質へ」について書いてきました。会員さんから「分かりにくい」とい言う感想を頂いています。読み返して見るとあまり分かりよいとはいえません。しかし、もう暫くお付き合い下さい。
 お寄せ戴いたコメントの中にも「量から質え」の変化を妨げる物があるとすれば何か?と言う難しいご質問も頂きました。そこで少し角度を変えて「量」を考ええ見ます。
 私はこの文章のテ−マの中心を「ツクル」と言うことにおいていることはお分かりだと思います。そしてテ−マの表題を「作る 造る 創る」にしました。日本語の難しいところで発音は同じでも意味に違いがあります。そこでこれを自分流に区別して書いてみましょう。
 ファ−ブルの昆虫記に「フンコロガシ」の話があったことは皆さんご存知と思います。動物の糞 (象かなんかでしたっけ)を見つけひたすらボ−ル状に丸め、転がしながら自分の巣に運び、餌として子孫を残してゆく虫です。何千年?もこの作業を繰り返しえ行きます。また、蜂は毎年毎年同じ形の巣を作りますし、鳥も夫々の種にあった巣をつくり子孫を残します。これらは飽くことなく繰り替えされます。これは「作る」です。私達人間にもあります。しかし私達人間はこれらを見て、人間の「作る 造る 創る」と同じ意味で捉えるでしょうか。まず、そんな人は誰もいないでしょう。本能として繰り返されるそれと、本能とは別の次元で創られるものとは、もともとその性質が違うわけです。人間が繰り返す「量」の中には、脳内で繰り返される膨大な作業が伴っており、この作業があることが、物作りの必須の条件なのです。皆さんが「こんなのが出来ちゃった」とか「ここが難しい」とか言うことは、他の昆虫や、動物にはありえないものです。人間の「ツクル」にはハッキリとした目的意識があるのです。この目的意識の上に立って繰り返されるものを、あるいは持続されるものを 物質の質量とは違ういみでの、また「経験」とも違う「量」と考えて良いのだと思います。従って、余談に感じるかもしれませんが、私達が日常的に使う言葉にでてくる「こんなになっちゃた・・」と言う他動詞は、自らの意思ではないと言う語感がありますね。「先生こんなになっちゃった」には、脳内の自己目的的意識と現実とが違ってしまった意味が込められいますから、「こんなにしちゃった」でないと「質」えの変化に向かっての「ツクル」ではなくなってしまいますよね。また難しくなったって?では次回に。

お詫びと訂正「2」

前回書きましたブログ、誤りがありました。
先ずNOですが(8)とありますが、タイトル、本文中とも(9)の誤りでした。
次に本文中「唯物弁証法」は、「弁証法的唯物論」に訂正します。

作る 造る 創る・・・8 量から質に

先ず NO7にコメント戴いた方に御礼申し上げます。
 さて、今回は「量から質えの変化」について書いて見ます。その前に、言葉の難しさを考えてしまいます。NO7で、私は「追い込まれて」突然何かが姿を見せると書きました。この場合、一般的には「切羽詰まる」「後が無い」と言う感じに受け取られます。私には自分では楽天家とは思っていないのですがこのような状態になることは無いのです。従って、「追い込まれる」と書いてはいけなかったようです。上手な表現が出来ないのですが、「もうこれ以上、自分の知的分野が反応しない」状態と言えば比較的近いかもしれません。
 そこで 量から質えの変化について書き続けます。「日常的に見慣れた景色が全く違って見えることがある。」と書きましたが、その変化に感じがよく似ているのが「量から質」えの変化なのです。自分のやろうと(作ろうと)した目的物とは全く異なる次元の形あるいは表現の結果が姿を現すのです。私は、絵画 彫塑 写真 Etc人間の創造の表現を見ることは大好きで、自分の本業そっちのけの傾向があるのですが、本業からも引き出されるのでしょうが、突然現れる物体は、とても強い意志で表現の実態に還元するよう私に要求しているように感じます。そして其れは、時によって秒を待たない速さを必要にするほどの強さで、作品に変化します。其処にあらはれる物は、過去の経験の組み合わせではありません。作品の完成度も、良し悪しは別に生まれてきます。私は常に作風の変わる人といはれるのもこんなところに原因があるのかもしれません。この状態のとても面白いと感じるのは、自分の本業を追うときに一番多く現れ、趣味の分野ではめったに現れない事です。かつて、学んだ弁証法の法則の一つが、正確に表現されたのではないかと感じています。言い換えると、ひたすら数をこなした物のみが「質」えの「変化」を得ることが出来るのではないかという考えに、今はなっています。頂きました「コメント」の「ヒラメキ」は過去の経験が重なりあいながら大きく育っていった物のような気がします。素晴らしく充実した仕事をしていないと「ヒラメキ」は生まれてくれない様な気もします。「よく天才的なヒラメキ」と言いますが、その人のみに与えられたものであり、私の「量から質」えの変化は誰にでも必ず来る道のように思えます。
 ちなみに、私の愛読した弁証法の本は、今は無き、ソビエト科学アカデミ−発行の「唯物弁証法」であったと記憶しています。へ−ゲルのそれではなかった記憶がありす。次は何故数が?を考えて見ます。

作る 造る 創る・・5に書いたときの「志野飯碗」です。

91e360d5.JPGNO5で書きました、2人展時の自分用に取置いた「志野飯碗」です。

作る 造る 創る・・・8  量の問題

前回 「量から質えの変化」について考えることを書きました。
 と言うのは、作品を作りあげて行く際に、必ずぶつかる事なのですが「どんな物を作ろうとしているか」です。勿論、注文を受けての仕事は目的はハッキリしていますが、目的をいかに自分の想いに近ずけるかは、やはり問題です。過去の経験だけに想いを馳せているだけでは作ろうとするものの具体的な姿にはなりません。完成予定日は近ずくばかり、しかし、殆ど、追い込まれると不思議に、突然ある姿が浮き上がります。其れも過去に作ったものではないす「形状」なのです。
 何故でしょう、その答えが最近おぼろげながらわかってきたような気がします。其れが「量から質えの変化」と言う弁証法の一つの原則です。私は若い頃、哲学に勤しんだ時代がありました。勿論、大学に行ったことも無く、学識も無い私ですから、ひたすら繰り返し繰り返しおぼろげながらでも理解できるまで読み返す、と言う勉強?でした。「量から質えの変化」はひたすら作るだけの時代には其れの意味する重要性等分かるはずもありませんでした。次回に・・・

作る 造る 造る・・5の作品「飯碗」です。

11f0dc21.JPG自分用にとっておいた「飯碗」です。

笠間美術舘 「岡部嶺男 作品展」観に行きました。

轆轤の名手、美濃の天才等と呼ばれていた 岡部峰男の作品展を 原 先生と観に行って来ました。これだけの数の峰男さんの作品が集められているのは観たことがありません。会場に一歩入った途端、「半端な気力では観ることは出来ない」と気力を振り絞っての鑑賞でした。皆さんにも鑑賞をお勧めします。感想を語り合うだけで、物凄い勉強になるような気がするのですが・・・・

作る 造る 創る・・7 「習慣と変化」

とにかく、こうして二人展を終えました。製作中の自分を何も記憶していないことを書きました。この状態は、日頃時々起きる「ここは何処だろう」と言う症状によく似ています。何故日常生活の中でこの症状が出のか分かりませんが、ハッキリしているのは、自分の知らない場所に出かけたときは、この症状が起きたことを記憶していませんから、「慣れ」と関係がありそうです。私たちは、同じことの繰り返しを「日常的」とか、「習慣」とか場合によっては「当たり前の事」と言って終わりにしているのが普通でしょう。とすると、画家にとっても、彫刻家にとっても人間の生命を維持する活動以外に、「絵を描くこと」「塑像を造る事」も普通の事かもしれません。私が「やきものを」作ってきた事も、普通の(私にとっては生活する為にですが)事だったのでしょう。この普通の事の繰り返しが、突然脳の中で、拒否されるか、脳自らを救う為に、思考停止されるかして全ての感覚機関の停止を引き起こし、視界に写る全てを「習慣」から切り離してしまう現象かな-?と考えてしまいます。脳学者では無いのでわかりませんが。ただ私の経験では、自分に対する極度の追求をしている時に起こる症状。「慣れの」あるい俗にい言う考え続けの最中に多く起きる症状ですから。そしてこの症状は、自分にとって変化の予感にもなっているのです。次回は「量から質絵の変化」を考えて見ます。 理屈っぽくなチャったナ-
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