2008年10月

テ−マから外れて・・・川崎市美術展によせて(特に陶磁器)

数年ぶりに「川崎市美術展」の工芸部門の選外作引取りの手助けに行きました。随分前に同じ市美展(略)の講評を聞いたのが最後ですから随分昔ですね。その際の講師は、吉田耕三氏(勉強に行くつもりで聞きましたが)でなく長谷部満彦氏でしたからまだ市美展が教育委員会主催の頃でしょう。ご存知の方は直ぐ分かると思いますが吉田氏にしても長谷部氏にしても大変な経歴の方ですから、講評は厳しいながら納得がいき勉強になったものです。(勿論 講評者が入選作に全て納得していなかったのは感じましたが)、講評を聞いた後の帰路はなりに満足し、勉強になったものです。
 ところが、今回、いや前回もですが、特に陶磁器の入、落の選別に選者の見識に首を傾げざるを得ない物を感じています。選者のご苦労を感じさせる作品も沢山ありましたが、入、落の基準を何処に置いて居られるのか考えてしまう物がありるのを、入、落の作品群の中に見ることが出来ました。
 私見ですが、1. 工芸の分野に、陶磁気と手芸を一緒にするのは無理があるように思えます。 2. 審査員の経歴、あるいは略歴くらいは応募用紙に入れてはどうでしょうか、昨年の工芸部の講評で「陶芸は良く知りません(趣旨)」の講師の発言があったとの話を何人かから聞きましたが、公募展として出品料を受け取るのでしたら、私のような意見が出るような審査は、真剣に市美展目指している人にとっては気の毒の感は否めませんね。
 市民の中に本当の「美」を教えてゆく「市美展」であって欲しいと願う私の意見です。

作る 造る 創る・・・17 アマの作るの先に見えるもの

「量から質えの変化」・・が続来ます。うんざりしないで下
およそ物を作る人にとって、完成品として出来の良し悪しがあるのは当然の事です。作ることによって生活いている人(続にプロ)、生活費を稼がないでよい人(アマ)がいますが、作る行為には差はありませんね。差があるのは先述した、稼ぐか否かだけです。勿論 プロの仕事量はアマの届くところではありません。従って、たんに、量で、いわゆる 上手、下手を比較しては無意味です。作り続けられる限りやっていれば、差が広がるばかりです。そのプロが質えの変化を起こし「作風が変わった」といわれるにはかなりな量をこなし、自らに問いかけ、他人から受け入れられたり受け入れられなかったりしつつ、質への変化の結果を身に沁みさせられ、また続けて行くのです。が、アマにはそんな時間も、他の条件もありません。一つ一つ、教えてもらったことを続け、完成した一つ一つに感激し、喜び、ガッカリし、を繰り返しながら作り続けて行くのが普通です。勿論、その人の条件によってその数も変わってきますから、作陶についての知識に差がでるのも当然の事です。
 このように、量と言う角度から見ると「質」えの変化、作風が変わる、とか、気持ちに凄い変化が来るような経験は少なくなると思ってしまいますよね。しかし、私はアマの仕事の1個は、場合によっては、プロの何千個に匹敵する内容があることを何度も見てきています。なりに真剣に作っているとはいえ、プロにはアマほど思いいれを持ち続けてはいられないですし、アマの作陶(真剣な時の)姿勢はなかなかできません。皆さんの作るたどたどしい姿を観ていて「ドキ!」っとすることが沢山あります。そんな時、私は、量の内容は「数」ではなくどれだけの思い入れが作品に加わっているかがとても重要な位置にあることを実感するのです。アマの皆さんの数年の作陶は、実は完成品の「一つ一つ」に対する思い入れの強さが秘訣のようです。少し粘土いじって、世間話して、お茶飲んで、手伝ってもらうことに慣れていては・・・?でしょうが、でなければ皆さんがプロが届かない「質えの変化」が待ているはずなのです。長くなりました、次回に・・・

作る 造る 創る・・・番外編・・・教室にて

NO17を書こうと思いましたが気が変わりまして、番外編
 サ-クルの教室にてになりました。ゴメンナサイ! 
@ 講師「なに作ってんの?」 会員「ウ−ン・・一応鉢の心算です。」 講師「フ−ン」 会員「変ですか?」 講師「別に」 会員「変だったら言ってください・・」
講師「変じゃないよ」会員「何かヤダナ−」講師「とにかくやって見て、それから?? まあいいや」 と言うようなヤリトリがよくあります。不安そうになる方、気にしない方、色々ですが、こんな時の講師の心境です。
 * 何作っているのだろう? 鉢?どんな格好考えてんだろう。まだ作り始めてばかりだから物によっては注意しないと・・変だかどうだか? 出来上がらないのに分からないもんな-。 あのロクロであの直径の底辺でもし25cmくらいの浅鉢だったっら作り始めの粘土不足じゃないかな-。まあいいや スタ-トから余り注意するとOOさんらしく無くなるかも知れないから。もう少し観ていよう- 
@ 講師「それ湯のみ?」 会員「ジョッキです。」 講師「だったらどっちにしても厚みが厚すぎないかな-」 会員「厚いですか」 講師「と思うけど」 会員「じゃ- 花活けにします。」 講師「時間あるんだから治したら」 会員「別にどっちでもいいから花活けにします。」 講師「そう、それでもいいけど」 会員「なおしたほうがいいんですか」 講師「どちらでもいいんですよ。OOさんの希望どうりで。」 会員「え--、困っちゃうな-」 講師の心境ですす。
 * あれ?したの厚み厚いままで上げてるけど何作んだろう、エ!ジョッキ?ジャ今のうちに軽くしなきゃな-。今なら直して上げられるけど。 なに。花活けにするの、だとすると高さのバランスとるの難しくなるだろうな-、今ならなおして広げれば花活けになるけど。直した方がいいですかって言っても何にするかわかんなきゃ出来ないし、どうしよう。ウ−ン困ったな・・・
 講師の簡単な質問の裏にはこんな思考が働いてるんです。結構親切に考えてんですよ。 
意地悪・・・じゃないんだぞ-!!なんちゃって・・・

作る 造る 創る・・・16 他の分野えの関心

ブログのあまりの評判の悪さに、少々嫌気がさしてきまして、しばらくペ−ジも開きませんでした。評判いわく「難しい」「長すぎる」「面白くない」Etc
 それでも、わずかの方からの声もありまたPCにむかってみます。
 テ−マは表題の通りです。前回「慣れ」の中にも「質」への変化の要素は含まれていることに触れました。してみると、私が焼き物を始めたころのように、ひたすら「技」を磨く「腕を上げる」ことに取り組んでいれば、「質」への変化はかなりおきて良いはずですが、所謂 職人になってしまいやすく、同じものを作り続ける技の名人に行き着くのではないでしょうか。これはこれとして立派なことですし、「伝統工芸士」の指定を受けた方は沢山おります。私のような中途半端な人間とは違い「凄い」技の持ち主になってゆきます。ではこの方々がすべて後世に名を残すような個性的な仕事を全てしたかというと、そうはなりません。明治 大正 昭和と百余年近くの間に、キラ星のごとく名を残した陶芸家達がいましたが、そのすべてが技において名工ではありません。職人的に見れば決して腕が良いだけではないのです。此の方々の経歴を見ればすぐ気がつくこと。すなわち、かなり広い分野にわたって教養の高さが目立ちます。もちろん天性の才能に恵まれた方もいるでしょうが、焼き物以外の他の分野の知的産物にもその本質を見つけ、見抜いて自らの作品というより、人間性を高めるために取り入れているように思います。この行為は自らの創作に影響を与え質への変化に大きな要素として無意識かもしれませんが取り込まれているように思います。「絵は嫌い」「音楽は好まない」「書道は分からない」などと言って拒否してしまうのは、自らの発展を閉ざすようなものではないでしょうか。こう考えてくるとプロがプロとして自分の個性を保ちながら進歩することはとても難しいのです。「いったい誰の作品」と言われてはだめですし、蓄積した自分らしさを失うほどの変化は、もろに生活に影響しますし・・に対して自分であることを証明する必要のない皆さんの経験は、経験を多く積めば積むほど質への変化に近くなりますし、生活しなければならないという負担のないだけ取り入れてゆく間口が広がることになりますね、このサ−クルで焼き物を始めたら、ぼんやり過ごすのではなく、ぼんやりが経験になり、次の質への糧になるのだと考えてみてください、そこに無限の他の分野があり「質」があることに気がつきます。あとは、サ−クルで楽しく、だけど一片の土の動きにも目を配る気持ちを持ち続けることが、上達の道であり喜びのみちにつながって行くことに気つくはずですし気ついてください・・・次回はアマの作る!の先に見えるもの・・を考えてみましょう、ここにも「量から質」が浮かび上がってくるのです。
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