創作には誰が見ても直ぐ分かるもの、およそ、使い方の見当がつくものと、でない物が存在しますね。例えば絵画・彫塑・飾って鑑賞するもの、書 書体の美、その意味を鑑賞する。写真、ETC全て鑑賞し感動し人格に影響を与える物です。それらは、およそその目的が、知的産物としての位置が与えられ、存在の主張に同意されていますね。その点、工芸の分野 漆芸や陶磁器等はたんにそれだけでなく、生活のなかに人間の手で使用されると言う部分が多くあります、と言うより、其れが主たる目的になりますね、その作品の性質や完成度によってはひたすら鑑賞されるものもありますが、主たる目的は違いますね。にもかかわらず、私達は陶磁器の製作にあたって使用を主たる目的として、その完成度によってのみ「使うのがもったいない」というので、鑑賞用にするというのが実際では無いでしょうか、問題はここなのです。およそ、部屋の中でかさばりすぎるほど大きな物 何も入らない、見えないくらい小さなものを作る人はいませんよね。ですから実用、このエリアの中に閉じ込められ安い環境て数十年生作することにならざるを得ず、其れでもNO28に書いたようにそれでも無限の角度からの感じ方に晒されるのです。こんなこと考えたことありますか。ならばひたすら鑑賞のみにしても意味のある製作向かってみう、すると、あらゆる思考の結果が「自分の作品を限りなく前進させる、発展させる、・・」ことに自分の作陶の方向が向いてゆくのは必然に近いのではないでしょうか。これがズ−ット続いてゆくと考えて見てください。何処に行き着くと思いますか。僕は自分に行き着くと思うのです、結果、が量から質、そして対立物に向かってしまうのが必然ではないかと感じています。なんかグルグル回りに感じますが3月の習作展の私の作品が其れですから、みていただいた方なら、そうでないことはお分かりいただけると思います。長くなりました、次回に。