問い「呼び名について」
http://hasunoha.jp/questions/322

【ご質問内容】

御坊さまたちは、一般人と会話をする際にご自身のことを何と呼ぶのでしょうか? また御坊さま同士はどう呼び合うのでしょうか? そして、同じお寺に複数の御坊さまいらっしゃる場合、先輩後輩の別があると思うのですが、先輩後輩関係ではどう呼び合っているのでしょうか? 教えていただきたくお願い致します。

【拙回答】

名前はあくまでも仮の一時のラベルでしかない

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

丹下様の誠に示唆に富むご回答の内容に触発されまして、少し述べさせて頂きたくに存じます。

問い「お経の種類」
http://hasunoha.jp/questions/186

の拙回答から、

「経典は、真なる「仏智」を顕しうるのかどうか・・」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52135786.html

という小論の中にて、『・・一切が空であるこの世界において、モノ・コトの実体は決して捉えられない以上は、それが本当は何ものであるのかは真なるところ「語り得ないもの」でしかないはずなのであります。自分という実体は何かと聞かれても誰も「これが私という実体です」として示せるものはどこを探しても見あたらないことからでも、このことは少しくは理解できるはずであります。言葉・言語活動はあくまでも世間の慣習、世間の常識を頼りに、便宜的・一時的に「仮」として実体を捉えたつもりのものとして成り立っているだけであり、単語など名称も同じく単なる一時の「仮」のラベルでしかないのであります。言葉・言語活動においては、本来一切は無自性なる空であるということをできる限りに理解しておかないと、煩悩などによる様々な弊害が生じてしまうこととなります。もちろんこの世の存在は、「無」ではなく、確かに存在は存在しています。でもそのありようは、「縁起」にて成り立っている「空・無自性」なるありようなのであります。・・』

と述べさせて頂いております。

問題は、私たちはこの一時の「仮」でしかないラベルの向こう側に、まるであたかも、それがそれとしてその側から実体として成り立っているかのようなとらわれを起こして、迷い苦しむことになってしまっているありようでございます。

もちろん、存在は、何も無いということでありません、存在は縁起によって確かに存在していますが、そのありようを緻密に分析すると、どこにも実体が見い出せない、そのため、このことを「幻の如くのありよう」、「虚空の如くのありよう」と表現することとなります。

上記のことも併せて、丹下様のご回答の道元禅師「魚行きて魚の如し、鳥飛んで鳥の如し」の内容を考える上でも少しく参考になるのではないかと存じております。

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16