問い「こちらの心が無くて、あちらの心が動くでしょうか?」
http://hasunoha.jp/questions/380

【ご質問内容】

いつもお世話になっております。
ゆうりです。

お坊さんの、一言というのは、何故こうも、身に染みるのか。
お坊さんは、話上手です。(この言い方は怒られてしまうでしょうか?すみません。)
気になりました。
タイトルは、以前の質問で頂いた、今、大切にしている言葉です。
私は、将来研究者になるにしても、農業高校の先生になるにしても、(ノンプロで噺家、漫才師、芸人になるにしても)喋るという行為は、不可欠で欠かせません。

特に先生というのは、人間をつくる(あえてひらがなです。)職業であり、また農業を通じて命を慈しむ力を育んでもらわないとなりません。
さらに、私が噺家もを目指すの理由というのも、弱い奴に立ち上がってほしいからです。社会の皺寄せは弱者に来ます。そういう人に、立ち上がってほしいからです。

さて、「こちらの心が無くて、あちらの心が動くでしょうか?」

この「心」という部分があるから、「周りの友達」ではなく「hasunoha」に救いを求めるのだと最近思いました。私もその一人です。
その熱い「心」はお坊さんの場合は、「修行」によって培われているのは言うまでもありません。
(私の場合は、理由が異端なだけに、「信念の強さ」で解決出来てしまうかもしれませんが・・・)
しかし、私たち質問者は、どのようにそれを鍛錬すればよいのでしょうか?
その「心」どうしたら磨かれるでしょうか?

自分磨きというものは「自分が自分をするのみ。」「自分が自分の行を行うのみ」
精神的な強さを得るためには、「自分が自分を学んでいくこと。」
そう、以前にお言葉を仰ぎました。

これの継続によって得られるものなのでしょうか?
また、これだとまだ何か、足りないでしょうか?

お手数をおかけしますが、お手おすきの時間がありましたら、回答の方を宜しくお願いします。

【拙回答】

「達磨安心」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

禅問答「南嶽磨磚」を以前の回答にて扱わせて頂きました。

この度は、禅問答「達磨安心」をご紹介申し上げたくに存じます。

「達磨面壁。二祖立雪断臂云、弟子心未安。乞師安心。磨云、将心来。與汝安。祖云、筧心了ニ不可得。磨云、為汝安心竟。」

「達磨面壁し、二祖、雪に立ち臂を断ちて云く、弟子、心、未だ安からず。乞う、師、心を安んぜんことを。磨云く、心を将(も)ち来れ、汝が與(ため)に安んぜん。祖云く、心を筧(もと)むるも、了(つい)に得べからず。磨云、汝が為に心を安んじ竟(おわ)んぬ。」

達磨大師は、(中国)禅宗の開祖です。壁面に向かって坐禅をしている達磨大師に対して弟子入りを請う、後の(中国)禅宗・第二祖となる慧可大師とのやりとりとなっております。

雪の中で面壁している達磨に対して、慧可は自らの腕を切り落として、その覚悟の程を示して、教えを請おうとします。但し、この腕を切り落としたというエピソードは、それほどの覚悟で弟子入りを望んだということを表すための創作的なものというのが通説となっています。

慧可、「心がいまだに安らかとならずに、不安でございます。どうか、この心を安らかにして下さい」
達磨、「では、その不安になっている心を取り出してください。そうすれば、あなたの心を安らかにしてあげましょう」
慧可、「その心を探し求めましたが、結局、見つからずに得ることができません」
達磨、「はい、これで私はあなたの心を安らかにしましたよ」

実は、こちらの(自分の)心も、あちらの(他の)心も、実体の無いもの、つまり「空」であり、本来捉えることのできないものでしかありません、しかし、何かその心というものに実体があるかのように、その心の状態(特に悪い状態、不安や恐怖など)にもとらわれ(執着)を起こしてしまって、苦しんでしまっているありようをしっかりとまずは理解しなさいということを達磨大師は慧可に伝えたかったのでございます。

ただ、実体は無くとも、心は「縁起」として、一応は「ある」と言えるものでございます。その心を善い状態に保つには、善い「縁」がもちろん必要であり、そのためには、悪を成さずに善に励み努めることが仏教の基本として大切になる次第でございます。

川口英俊 合掌

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これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
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