問い「プライドの高さと人を見下しているいう感覚」
http://hasunoha.jp/questions/389

【ご質問内容】

いつも色々とご指南いただきありがとうございます。
ずっと考えていて、もうどうしていいかわからず八方塞がりになり相談させて頂きます。

人付き合いに悩んでいる私を見て、プライベートの友人が指摘をしてくれました。「プライドが高い」「表向き社交的だが、壁がある。さらけ出していない」「どこかで人を見下している」それがなくなるとすごくステキになるよ、と背中を押してくれました。

大人になってから指摘してもらえることはとても幸せですし、教えてくれた友人のためにも、自分のためにも改善していきたいです。

ただ、厄介なことに自分自身、何となくは理解できるのですがどうしても「こういうとき」の「これ」という感覚が曖昧で実感がありません…口調の強さ云々ではなさそうな気がします。

もちろん私自身人をバカにしたり見下したつもりは到底ありませんし意識したこともなかったです。正直仕事においてのプライド(拘りや誇り)は具体的に理解していますが、プライベートは全く実感がありません・・・それが原因で痛い目を何度も見てるのに、学習できないねと言われました。やはり実感できていない証拠だと思います…

彼曰く、人に対する言動を見ていると根底にはそれがあると言われ、実感していないところが一番厄介だといわれました。私は普段から人が嫌な思いをしたら嫌だなと思い、必要以上に遠慮したり、考えたり、気を遣ったりすることが多いのですが、その行動自体も実は根底にはそれがあるともいわれました。自分本位の行動・押しつけがましいということですよね。

今回の指摘は私自身の根幹部分の指摘にも関わらず、実感・意識がうまくできずにいます。
自分が分からないということは、とても恥ずかしいことなのですが、これが改善されねばどんなに笑顔でも、柔らかい口調でも同じ結果になる気がします。…でも何から意識し心がけていけばよいかわかりません。

ちょっと気を付けただけで解決するような話ではないと重々分かっていますが、少しでも前進したいです。ご助言をお願いします。

【拙回答】

「縁起」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

以前に下記問いにて、「自我の"押し合わせ"でない"お幸せ"を 」と我ながらにも上手く回答させて頂きました。

http://hasunoha.jp/questions/398

どうしても私たちは、自分中心として物事を考えてしまうところがございます。なぜならば皆、自分が一番に大切で自分を愛しているからであります。

ある意味でこれは性でもあり仕方のない面もございます。

仏教的には、「我執」というものをその原因と捉えますが、誠にやっかいなものでございます。

そこで、仏教では、この「我執」という自我への執着、モノ・コトを実体視するとらわれを無くしていくことを勧めることになります。

それは、いわゆる「空」という理解でございますが、「空だ、空だ」(無実体・無自性)と言われても何のこっちゃとなってしまいますので、「空」の理解と併せて「縁起」の理解も平行して進めることが大切になります。

「縁起」の理解とは、例えば、「果たして自分は、自分だけで生きていくことができるのか」ということを考えてみたとき、全くそうは有り得ないという存在だということに気づきます。色々なモノ・コト、無数の他者に縁りて成り立ち起こっている、つまり「縁起」なる存在であること、それは、「生かされて、生きている自分」のありようを理解する時に、自分を生かしてくれている存在に対しての気づきと有り難さ、感謝、報恩を思うようになることで、私たちは、傲慢さや愚かさを諫めて、謙虚に、思い遣りや譲り合い、親切心、慈悲心を持って、他者と接していくことができるようになります。

自分のことを誰もが大切で愛しているように、皆、自分のことを大切で愛しています。そんな自分がされて嫌なことは他の者も嫌に決まっています。自分のされて嫌なことを相手にしないということ、つまり、他に迷惑を掛けないということと、更にできれば他のお役に立てれること、他の為になることをできるように調えていくことが、互いにこの縁起なる世界を円満に過ごしていく上で大切になる次第でございます。

この度は、まず自分は色々なモノ・コトに支えられて生かされてある存在だということを少しずつ意識して心掛けていかれることから始められたら良いのではないかと存じております。

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16