hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

2015年03月

問い「お金への執着を無くしたい」

問い「お金への執着を無くしたい」
http://hasunoha.jp/questions/1124

【ご質問内容】

もともと安月給ですが、特にお金に対して不安はありませんでした。
家にお金を入れたり、携帯や保険などの生活に必要な支払いをしても残金はある。貯金もできてます。
好きな旅行に行ったり、買い物もしていました。

ただ…昨年祖父が亡くなり家のお金事情に深く関わるようになってから不安が芽生えてきました。

あれ?もう給料がない…
これを買ったら残金が少なくなっちゃう…
など、何かとお金を気にして生活するようになってしまったんです。

正直、こんな生活楽しくありません。
心が狭くなったような気がします。
お金に執着しないように生活するには、どうしたらいいのでしょうか?

【拙回答】

お金

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

貨幣経済で成り立っているこの社会においては、お金は良くも悪くも人と密接に関わってくるものとなります。

極端には、お金にまつわるトラブルによって、あるいはお金が無くて命を落とすこともあれば、お金があって命が救われること、トラブルが解決することもあります。

お金自体には善悪はございませんが、それを扱う人の心が常に問題になるのですよね・・その心のありようをどうすべきかが、やはり大切なことになります。

また、よく「足るを知る」ことが必要だとも言われますが、じゃあ、一体、その足るとはどれぐらいだと言われても、人それぞれによって結構難しいものになりますよね・・お金は特に人間の煩悩の三毒の一つである「貪り」にも関係してくるところになりますが、まずはお金の扱いに失敗しないためにも、収支のバランスを調えることと、一定のルールを作って自制を設けることが必要になるのではないかと存じます。

とにかく、お金が使えるのも社会、経済・金融が正常に機能していて、お金を使う人と関われている間だけのことであります。お金は天下の回りもの、できるだけ生きている間に有意義に使っていきたいものでございます。

仏教的にはどう考えるべきかとなりますと、「・・お金の問題は、執着や煩悩の対象となりやすい最たるものであるため、特に気をつけることが必要となります。むしろ、有るならば必要最低限以上のものは、喜捨布施致すことでの善い行いに使って、善業を積むことを推奨することとなります。・・」と以前に述べさせて頂いております。

お金に関することにつきましては、下記の各問いにてもお答えさせて頂いておりますので、またご参照下さいませ。

問い「お金への不安や執着から解放されたい」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1007329735.html

問い「自分より稼いでいる友人との付き合い方が分かりません」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002992854.html

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/お金

川口英俊 合掌

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http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16

問い「地震に対する恐怖心や不安が強いです」

問い「地震に対する恐怖心や不安が強いです」
http://hasunoha.jp/questions/1112

【ご質問内容】

またいつか大きな地震がくるのではないか・・・と考えてしまい、
不安な気持ちが消えません。

私はもともと心配性で、どんなことに対してもネガティブに考える癖があります。
いろんな心配事の中でも、特に怖いのが、いつか起こるかもしれない大地震です。

最近、不安と恐怖心で、物事に集中できなくなったりする自分がいて困っています。
起こるかどうかも判らない未来のことにとらわれて、今やるべきことに集中できない・・・そんな自分に嫌気がさして落ち込んだりもします。

恐怖心・不安感がずっとあり、気持ちを切り替えられず、ぼうっとしてしまいます。
やらなくてはいけないことが沢山あるのに、なかなか進まず、自分はだめなやつだと思ってしまいます。

こういった不安を気にしないで、やるべきことをやれるようになりたいです。
どうしたら心の平穏をとりもどせるでしょうか?

不安感・恐怖心を軽減させるためのアドバイスをいただけると
助かります。よろしくお願いします。

【拙回答】

不安や恐怖の根本原因について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

大地震・・確かに不安で心配になりますよね・・

実は、その昔、地震予知の研究していましたが、東日本大震災を機にどこか虚しくなって諦めました・・

さて、以前にも同じようなご質問にお答えをさせて頂いております。

問い「自然災害が怖いです」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002996507.html

『・・自然の脅威には逆らえない・・それを受け入れるのも必要なこと、無常の理趣を認めるべきだと。もちろん、後々に後悔しないためにも防げることであるならば、防ぐことに努力するのは大切なことです。防災・減災にできる限り取り組むべきであります。しかし、どうにもならないことは、本当にどうにもならないのだと受け入れて諦めることも大切なことでございます。・・』

『・・良寛禅師は、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候 かしこ」と述べられておられます。災難にあっても、しっかりとそれはそれとして現実を受けとめて、冷静にその時にできることをできる限りに対処していくことが肝要となります。いまだ起こってもいないことにあれこれと思い悩んでも詮無きこと、杞憂なることでしかありません。とにかく目の前の現実の一つ一つと真摯に向き合って、なすべきことをなしていかないといけないという次第でございます。・・』

とにかく、不安や恐怖というものには、必ずその原因がございます。

仏教では、その原因を無明(根本的無知・真理を知らない愚かな状態)であるとして、その無明の対治に取り組むことになります。

無明の対治のためには、特に智慧と福徳(方便行・善徳行・慈悲利他行)という二資糧を円満に積むことが必要となります。もしも、本格的に不安や恐怖を克服なされたいとなりましたら、是非、仏教の修習にお励みを頂けましたら有り難くに存じております。

不安や恐怖につきましては、下記の各問いにても扱わせて頂いておりますので、お時間のある時にまたご参照下さいませ。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_321055.html

川口英俊 合掌

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問い「仏の教えって伝わりづらいものですか?」

問い「仏の教えって伝わりづらいものですか?」
http://hasunoha.jp/questions/1099

【ご質問内容】

最近、仏教について勉強しています。
座禅の仕方や四法印の意味など、知れば知るほど『なるほど』と、思うことが多く、大変勉強になっています。

私にとって特に影響力があったのが、小池龍之介先生の考えない練習です。
心の扱い方や感覚に意識を向けることなど、試してみたところ集中力ものびたし悩みもずいぶんと減りました。

仏の教えは、心の教育にすごく役立つと思ったのですが、私の個人的な実感としては、今の日本にはあまり広まっていないような気がします。

これは、個人の興味の有無の問題なのですが、仏の教えが伝わりづらい理由は何か別にあるのでしょうか?

先生方の実感としては、どのようなところに伝わりにくさがあると思いますか?

【拙回答】

「梵天勧請」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教を修習頂けますこと、誠に尊く有り難いことでございます。

「仏の教えが伝わりづらい理由は何か別にあるのでしょうか?」・・はい、ございます。

このことに関して釈尊成道後における一つのエピソードがございます。それは、「梵天勧請」という出来事でございます。

菩提樹下にてお悟りを開かれた釈尊は、その悟りの内実に関して、涅槃の境地を静かに喜び、このまま更に深い禅定に入って、もはや再び迷い・苦しみの世界に生まれ現れることのないように、この世界から完全に解脱しようと考えられたと伝えられています。

また、この涅槃へと至るための深遠なる教えについて、例え説いたとしても、誰にも理解してもらえないのではないかと考えられて、教えを説くことを躊躇されたと言われています。

このように釈尊が教えを説かれることを躊躇なされていた時、梵天が現れられて、「そのすばらしい涅槃へと至るための道を衆生にも大いに説き、迷い・苦しみから衆生を救済して下さい」と、三度も勧められたと伝えられています。

この梵天からの勧請を受けて、釈尊は、その慈悲の御心と共に、涅槃へと至る道を衆生に説くことを決意され、いよいよ仏教が始まるのであります。

釈尊が教えを説かれることを躊躇なされた真意の一つとして考えられるのは、仏教は対機説法、方便を用いる教えであり、説く対象となる相手の悟りへと向けた機根に応じて(理解できる能力に合わせて)、説かれるものであって、一般的な教えとしてはある意味で成り立たないものもございます。それが故に、ある者に説いた教えが、別の者に対して適用できるかどうかは非常に難しく、かえって誤解や混乱を生じさせてしまい、益にならないかもしれないと考えられたのではないかと存じます。

もちろん、四法印や空、縁起などの代表的な教えは一般的なものとして挙げることもできますが、それでもやはり解釈においては、かなりの相違や範囲の広がりが見られます。なかなか統一した見解としては決定されにくいというのにも、やはり上記の理由があるからではないかと思われます。

伝わりにくい実感というものにつきましては、結局は機根を見極める拙生の力量不足、方便力の拙さによるところであり、誠に申し訳ないことであると日々反省致しております。

川口英俊 合掌

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http://hasunoha.jp/users/16

問い「真面目すぎる?」

問い「真面目すぎる?」
http://hasunoha.jp/questions/1090

【ご質問内容】

飲食店でアルバイトをはじめたのですが
真面目すぎる、人間味がない
と指摘を受けたことにとても悩んでいます。
正直、続けたいと思えなくなってきました。

接客自体はすごく好きで一生懸命にやっているし、
真面目すぎる、というのは緊張したり作っているのではなくこれが自分の素なんです。

フレンドリーな接客というお店の方針と
私の元の性格が合っていないように思ってつらいです。

受験では筆記に加え面接重視の試験を受け、そこで高い評価をいただことに甘えていたのかもしれません。
働くのってこんなにつらいのか、受験生に戻りたい
とそればかり考えてしまいます。
調理も担当しますが料理に興味すら湧かなくなりました。

現在、国公立大学に進学が決まり、個人で家庭教師の依頼をいただいており
そちらに気持ちが傾きつつあります。
しかし、まだ確定ではないし
今のアルバイトをはじめてまだ2ヶ月なので転職する決断が出来ずにいます。
(来年までは働いてもらう!と言われているのもありますが、辞めることはできるのでしょうか?)
今まで勉強、習い事、部活、辛いこともたくさんありましたが全てやり通してきたので
自分ってこんなに弱い奴だったんだな。と家に帰って涙が出るときもあります。

真面目すぎる、丁寧すぎる
というのは
直すべき性格でしょうか。
単に私が甘いだけなのでしょうか。
うまくできないことがあると
ここでは優等生じゃない。
と言われたこともあります。私は優等生ではないです。何もかも1から一生懸命がんばっているのに……とも思いました。
笑顔で仕事をしていることは指摘してくれた方も知っていますがやはり堅いと……
直していまのアルバイトをつらくてもやるべきでしょうか。
いつ何を指摘されるか常にビクビクし、本当の自分がなくなっていくような気がします

それとも向いていなかっただけだ、自分の欠点が分かってよかったと今のアルバイトを辞め、
自分も興味を持っている家庭教師の仕事に飛び込んで新しくがんばるべきでしょうか。

悩みから感情がまとまらず、
文章が滅列で申し訳ありません。

働くのはとても大変で、自分はまだまだ甘い、勉強のほうが何倍もラクだったと痛感しています……次の出勤のことを考えるとご飯も喉を通りません。

背中を押してくださる助言が欲しいです。
宜しくお願いいたします。

【拙回答】

自分の良い塩梅へと向けて

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

しばらく回答をお休みさせて頂いておりまして、お返事が遅れてしまいました。誠に申し訳ございません。

この度は国公立大学への進学、誠におめでとうございます。いよいよこの春からキャンパスライフ、色々と期待と不安が入り混じってあるかとは存じますが、是非、悔いのない学生生活を楽しんで下さいませ。

そのためにも、まずは今のバイトの件について決着をつけないといけませんよね。。

もちろん、学業と共にバイトなどをなさられるのも社会経験の一つとして役立つこともございますが、無理に、嫌になっているのに我慢してまで続ける必要は、今のところ無いのではないかと存じます。

実は私も学生時代のバイトで苦い経験がありまして・・塾講師をさせて頂いたことがありましたが、結構、大変で、他の忙しいこととも重なってきてしまい、途中で半分放り出すようにして辞めてしまったことがあります・・また、バイト以外のことでも幾つか同様のことがございました・・

若い間は、何かと自分の良い塩梅(仏教的には「中道」と言います)のペースがつかめずに、己の力量を過信しすぎたり、慢心してしまうこともあり、無理しすぎたり、オーバーペースになって潰れたりとなりがちではないかと思います。

真面目で、丁寧すぎるぐらいの性格のまいさんならば、尚更になってしまわれるのではないかと存じます。

もちろん、その失敗、経験を反省して、次に活かすということを繰り返す中で、自分の良い塩梅をつかめることができていくもので、最初から何でもかんでもができるという方が逆におかしいと思っておいて下さいませ。

さて、もう答えは既にご自身の中で出されていらっしゃいます。

「それとも向いていなかっただけだ、自分の欠点が分かってよかったと今のアルバイトを辞め、自分も興味を持っている家庭教師の仕事に飛び込んで新しくがんばるべきでしょう」

是非、前向きに捉えて下さい。

ただ、バイトはあくまでもバイト、学業や生活に支障をきたさないように、無理はしないように、できるだけ余裕をもって取り組んで下さい。また、色々と忙しくなってきた時には、またこの回答をふと読み返して下さいませ。

良い学生生活を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16

拙500回答の検証結果

拙500回答の検証の結果、「拙回答の基本的な前提となる考え方について」の小前提3を下記のように修正、そして、善悪論・正邪論に関しまして補足を追記させて頂きました。

「拙回答の基本的な前提となる考え方について」
http://www.hide.vc/h1.html

小前提3

修正前 3、善因善(楽)果・悪因悪(苦)果の因果関係を破壊しかねない考え方の否定。

修正後 3、因縁果の法、あるいは、因縁果の縁起によるあり方を破壊しかねない考え方の否定。(H27.3.25修正)

善果・悪果の側からは善因・悪因があったことは類推できたとしても、善因・悪因の側から善果・悪果を類推するためには因と、特に「縁(条件)」を調えることを通してからでないと善果・悪果を説明できなくなるため。

補足事項

善悪論・正邪論について、その判断・範囲の問題は、慎重に「空と縁起」の理解による中道において見極めて判断していくことが求められる。(H27.3.25追記)

以下は今回の拙検証に関しての考察の転載・・

『 仏教の基本的な理解のために 』平成27年3月・春彼岸施餓鬼法要・配布資料
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/55ced9a1512c6ef6e095caa4fbe9eb8c

2015.3.11

最近、hasunohaの回答でも、やたらと「因果、因縁果の法」を結構多用してしまっていますが、正直なところは、もうあまり使いたくはないというのが本音なのであります。

かなり多用してしまったのは、あくまでも便宜的にと言うか、方便的にと言うか・・500回答を機に検証したかったのも本丸が実はそこなのですよね…

そもそも因、縁、果も実体、自性、自相としてはそれぞれ成り立っていないものであり、固定化させられないもの、価値判断できないものでしかないのです。

簡単には、例えば、因も縁、果にもなり得るものでもあり、果も因、縁になり得るものでもあって、一つの果から見れば、因、縁の価値判断ができることもあれば、別の果、縁から見れば、全く別の価値判断になることもあるのです。正直なところ決められないのですよね・・

ここが、善因善果、悪因悪果を説く際にもよく落とし穴になるところで、例えば、極端に言えば、アングリマーラが999人殺害したことも、やがて、釈尊と出 会える縁となり、阿羅漢となった果から判断すれば、ある意味では999人殺したことが善因と判断されかねないということであります。

もちろん、常識的に考えれば、釈尊との出会いが善因であって、仏道修行の数々が縁となりて、阿羅漢という仏果となったと考えるのが当然となりますが、そうは考えない場合もあり得る以上は、あまり説くべきではないと思うところでございます。

要は善因、善縁の許容範囲の問題なのです…拡大させすぎたら、結果次第では、それまでの全てが善因、善縁となってしまう可能性もあるのであります。

このあたりは、如来蔵思想、仏性思想とも絡んでくるのですが…

ある意味での因中有果的な考え方で、それこそ、因により、もう縁はほとんど関係無く、既に果が約束されてしまっているようなものとなってしまい、多くの弊害を生み出しかねない懸念が出て参ります。

・・

先述にて、少しアングリマーラの例を出して「因縁果」のことについて触れましたが、まさに如来蔵経典類の一つとしての「央掘魔羅経」では、アングリマーラ は、一切世間楽見大精進如来の化身としてまで扱われてしまっており、その背景には、「空」に関する誤解が関わっているのは明白で、それは、「空」の有への 傾斜、あるいは「空」の無への傾斜のいずれかの弊害である可能性が高くあります。

「央掘魔羅経」の場合では、どちらかと言えば、「空」の無への傾斜、一切が幻としての顕れ(アングリマーラの999の殺人も)であったという始末でありま す。実は、「一切が幻である」と「一切は幻のよう(如幻)である」との微細な違いが理解できていないと、「一切が空であり、幻である」というような誤解を そのまま受け入れてしまうのであります・・

幻と如幻の微細な違いをどう理解するかかがまさに問われてくるのであります。

2015.3.12

「因・縁・果」のことについての続きとなりますが、それらも実体・自性・自相としては成立していないというのも、結局のところは、「過去・現在・未来」と 同じようなもので、「相対」として一応は(縁起的に)仮に成立はしているものの(因があっての果、果があっての因、縁があっての果、果があっての縁のよう に)、実体としての確定は不可能なもの(時間も止められない以上は、例えば現在ですら確定ができないものですし、もしも止めれたとしたら、それはそれで三 時全てが成り立たなくなってしまいます)であるとして、本来は確定した価値判断ができないものとなります。

そのため、善因、善果、悪因、悪果、あるいは善縁、悪縁も、本来的にはその内容を絶対的には確定のしようが無いものであります。正直、hasunohaの回答において、この確定のしようがないものを扱うことへの後ろめたさが、かなりあったのは事実です・・

ただ、「因・縁・果」を仏教的に扱うのであれば、あくまでも大雑把には、菩提心・慈悲心を因として、智慧と福徳の二資糧を積むことを縁として、悟り・涅槃 を果とするということにはなるのでしょうが、その個別具体的な内容、範囲の言及、許容の問題になると、やはりかなり難しいものになってしまうのですよ ね・・それこそ「行」の範囲・許容の問題とも同じようなことになります。

一切智者、全知者でなければ難しいことになるのでしょうが、私たち凡夫においては、確かな悟り・涅槃へと向けての如来・菩薩による密意を仏典から誤りなく確実に導き出していくことが求められることになります。

もちろん、一応は縁起の第一層目の説明としての「因果、因縁果の相対性のありよう」については、「空」を示唆するための基本的な理解として必要であるかと は思っています。しかし、それ以外で確定的・断定的に、善悪あるいは、そのどちらでもないことも含めて言及するのは、まだまだ控える必要があるのかもしれ ないと考えております。

しかし、そうなると回答できる内容も相当に限定されてしまうことになりかねないため、今後の方針をどうすべきかを思案中であります・・

とにかく、回答の前提( http://www.hide.vc/h1.html )としていた小前提3は、一旦ここで見直しを図りたいと思っています。

・・

ここ数日、因縁果を引き合いとして少し善悪論について述べさせて頂いておりましたが、丁度、菅原研州さんが本日のブログで「宗教の正しさを決めるのは何か?」として鋭い指摘をされておられます。

http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/cd488a504facba3f9b663536e65db34e

『引用開始・・「超宗派」などの看板を背負って宗教的な発言をする者の言動を注意深く見ているが、矛盾している複数の文脈も容易に弄し、結果として、体系 的な発言を行えなくなってしまっている。ダブルスタンダードなんて手緩い、まさしく、マルチスタンダードであるが、結局はスタンダードの虚無化、アンチス タンダードである。この虚無性がもたらす最大の問題点は、シングルスタンダードの中では単純な善悪であっても、それが相対化されていくことだ。

なんとなく、仲間が皆それで良いと言っているなら、といって、誰も悪事に歯止めを掛けず、しかも、マルチスタンダードの中で、様々な文脈のいいとこ取り (という名の断章取義)を行いながら、さも、自分たちが正しいかのように説明してしまうのである。そして、自らの正しさに酔う。まさしく、迷中又迷・夢中 説夢である。そして、何にも依拠していない、不透明な正しさ(しかし、その本人達は、その正しさを疑わない)のみが再生産されていき、集団による熱狂を再 生産していく。

拙僧が、一種のユマニストとして、特定の宗派(拙僧の場合は曹洞宗)の価値を最大限に認めている理由は、アンチスタンダードへの堕落を行わずに済ませるためである。善悪の根っこには、シングルスタンダードがなければならない。・・引用ここまで』

正直、ここ数年で超宗派系・無宗派系の団体の動きや、超宗派・無宗派系の寺院単立化などの動きも加速して進むかと思われたものの、一定、意外にもブレーキが掛かってしまっているように思えます。

もちろん、お寺の未来さんが取り組んでいる「未来の住職塾」の今後の展開や「アップデートする仏教(仏教3.0)」の取り組み、または拙生も参加させて頂 いている「hasunoha」等、動きがまだこれから加速していくのか、あるいはブレーキが既に掛かりつつあるのか、一気に失速していくのかの判断ができ ないところもありますが、さほど当初に思っていたほどには動きが加熱しているようには思えないところもあります。

それには、ある種の逆バネ効果やアナウンスメント効果とでも言うのか、超宗派を叫べば叫ぶほどに、自宗派のアイデンティティーの確立への動き(宗派内にお ける研修会や事業等)が活発化していっているということが、超宗派の動きの一つのブレーキになっているのかもしれないかなと思います。

とにかく、宗旨宗派、超宗派、無宗派に拘らず、「正しさ」を確かめていくためには、常に批判的、合理的な検証を都度都度にしっかりと行いつつに、その「正しさ」を慎重に判断していかなければならないと存じております。

改めて「正しい」とは何かということについても善悪と共に考えて参りたいと思っております。

2015.3.13

引き続いての善悪論、正しさ論・・

昨日に少し引用させて頂きました菅原研州さんのブログでの「宗教の正しさを決めるのは何か?」(http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/cd488a504facba3f9b663536e65db34e)の中で、「正しさに酔う」ということについて言及されておられました。

この「正しさに酔う」ということについて、超宗派系に関連してくることも含めて、現在、トレンドになってきているマインドフルネスや、あるいは、アップ デートする仏教(仏教3.0)、未来の住職塾関係の取り組み、またはその他の仏教系イベント、更にはぶっちゃけ寺などの仏教とバラエティ番組等、今後の展 開において、気をつけておかなければならないのではないかと懸念するところでございます。

「正しさに酔う」ということは、まさにお酒に酔った時と同様に、正常な判断を鈍らせてしまうことになり、それが、例えば、傲慢さや高慢さと結びついて高権 的な態度に出るようになったり、自己都合・自己満足的な正義の押し付けや強制・強要へと繋がったり、更には、批判や反論、忠告や助言にも耳を傾けなくな り、やがては、排他主義や孤立主義、あるいはレイシズムに陥る危険性も生じてしまうことになりかねないこともあります。

そして、結局のところは、酔いが覚めるまで、その過ちに気づかない場合もあり、後々で後悔することも、もちろんあり得て参ります。

酔いが入り始めたら、例えば、飲み過ぎになる前に烏龍茶や水に切り替えるように、どこかで自制ができれば、大きな過ちにまでは至らないのでしょうが、大丈 夫、まだ大丈夫だと過信しすぎては、やがて車まで運転してしまうような倫理観の欠如にまで繋がり、その上、酩酊による運転にて人を轢いてしまうような重大 事故まで起こしてしまっては、もはや取り返しの付かないことになってしまいかねません。

その間違ったままの正義による暴走に歯止めが効かずに、とんでもないことまで引き起こしてしまった極端な例が、まさにオウム真理教による数々の事件であると想起されるところでございます。

とにかく、何が正しいのか、自分は果たして正しいのか、常に謙虚な姿勢にて、自らに問いながら、それこそ第三者からも含めて様々に検証もしつつに修正していく必要があるのではないかと存じております。

2015.3.14

さて、これまでのhasunoha拙回答の検証において、色々とオウム真理教のことも引き合いに出して参りました。

かなり昔になりますが、オウム真理教の「ポア」について、とある方と意見交換をさせて頂いた際に、もしも、本当にオウムのポアが成功していたとしたらどうなるのか、ということについての話となったことを思い出します。

正直、証明のできないことを議論するのは、かなりナンセンスであるとは思ったものの、もしも、オウム真理教によるポアで仏国土・浄土への導引が本当になさ れていたのだとすれば・・善業を非難・誹謗中傷した罪に、もしも、麻原彰晃氏が悟りを開いている者だとすれば、死刑を執行することや教団を破壊したことが 五逆の大罪にあたるのではないかなどと、ある程度そこまで考えたこともございました。

いずれにしても、様々に私利私欲、煩悩・無明にまみれていたことが、その後色々と明白になったため、動機の点でも、完全にアウトであったのはアウトに変わりはなく、お話にもならない、言い訳の余地も全く無いということに落ち着きましたが・・

ただ、その後に葬儀での引導(あるいは往詣・往生)のことも考えると、仏国土・浄土への導引(あるいは往詣・往生)がなされたことを確かに証明できない以 上は、殺す・殺さないという違いは大きくあるものの、死後における導引(あるいは往詣・往生)に関しては、どちらも証明できないことを扱っているという点 で、あやふやさはオウム真理教のポアと同じではないかと思うようになりました。

本当に導引できるというのであれば、別に生前においても同様の引導式を執行することで仏国土・浄土へと導引することが可能になるはず・・しかし、どちらに してもこの肉体のままでは、あるいは、この世から離れない限りは、仏国土・浄土へは行くことができないとしても、生前に受けた引導によって、死んでからで も実際に本当に仏国土・浄土へと行けたのかどうかということも含めて、もちろん知りようがない、証明できないことであります。一切智者・全知者たる仏陀で あれば別となりますでしょうが・・私たち凡夫ではやはり難しいこと限りなしでございます。

そのようなことから、お葬儀に関することにおいては、最近に下記のように拙考え方を改めてお示しさせて頂いた次第でもございました。

「お葬式について」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/0816eb5e788bf5ecfc8eed8e901b1a76

また、同様のことは、追善供養や功徳回向においても、実際に功徳や供養が亡き方の悟りへと向かうための力となって役立っているのかどうかについても言えてくるのですが・・非常に難しいところがございます・・

そう言えば、前述のとある方は、確かにオウム真理教によるポアは成功していなくても、地下鉄サリン事件の犠牲者の皆様への御供養は、普段一般の御供養より 僧侶各位、遺族、一般の皆様からによっても一層に懇ろに行われているとして、その御供養の力により、恐らくは仏国土・浄土へと赴けているのは確かとするな らば、ある意味では、地下鉄サリン事件が結果的に仏国土・浄土へと確かに赴けるための一つの契機、原因となった、きっかけ、縁となったと言えるのではとい うようなことも言われていましたが、それは明らかに詭弁であり、それこそ結果さえ良ければ、それまでの全てが肯定されて良し(例えば、オウム真理教による 行為が善業と判断されかねない)とされてしまうような恐ろしいことになってしまいます。

同様のことは以前に善因、善縁の許容範囲の問題として「アングリマーラが999人殺害したことも、やがて、釈尊と出会える縁となり、阿羅漢となった果から判断すれば、ある意味では999人殺したことが善因と判断されかねないということ」について少し触れさせて頂きました。

とにかく、昨日の投稿のコメント欄でも少し述べさせて頂いておりますが、仏教が対機方便的な救済論である以上は、どれだけその者の悩み苦しみに応じた効果 的な処方箋を用意できるかということが大切となるため、そのためにもあらゆる仏教分野の修習により、処方箋の品揃え、選択肢を広げるという点では、超宗派 的な学びは欠かせずに必要になるのではないだろうかと思っております。

hasunohaの回答においても、超宗派で対応するという強みは、まさにその処方箋の品揃え、選択肢の幅の広がりにあるわけです。そして、回答者の個々 人においてもその品揃え、選択肢の幅が広がれば広がる程に、より質問者へのカスタマイズ化された対機方便も可能になっていくのではないだろうかと考えてお ります。

そうすることで、効果的な救済がより可能となるサービスとして、更にhasunohaの意義が高まることになるのではないだろうかと存じております。

拙生が超宗派でとにかく修習を進めるのも、まさに狙いは、より効果的な方便へと向けたためであるのであります。

2015.3.15

正直なところ、宗教・仏教を扱わせて頂く者として、証明できないようなことを扱うストレス、あるいは善悪や正しさ等、その範囲があやふやなものを扱うスト レス・・ましてや、証明できないようなことを扱いながらも、お布施を頂く申し訳なさへのストレス・・このストレスが、仏教を一から学び直す一つのきっかけ にもなりました。

私たち僧侶の役割とは・・と悩み考え続けている中で、その一つの答えと致しましては、仏教を学び修したことを活かして、善巧方便を巡らせることにより、悟りへのご縁を紡がせて頂けることが、その一つの役割であると今は解させて頂いております。

hasunohaでも、まさにそのお手伝いが少しなりともできればという思いでございました。そのためにも「仏教が対機方便的な救済論である以上は、どれ だけその者の悩み苦しみに応じた効果的な処方箋を用意できるかということが大切となるため、そのためにもあらゆる仏教分野の修習により、処方箋の品揃え、 選択肢を広げるという点では、超宗派的な学びは欠かせずに必要になる」と述べさせて頂きました次第でございます。

この事に関連して、昨日には吉村均先生からも一つの重要な視座を頂きました。

『・・なぜ伝統仏教で如来蔵思想が重要なのかというと、菩薩というのは、一切衆生の仏性が見える人で、その実践は、衆生たちに、自分が気づいていないその 価値に気づかせてあげることで、自分が救ってあげるわけではない、という視点が菩薩行に欠かせないからです。そうでなければ、菩薩行は進めば進むほど、自 分の慢心を肥大させるものになってしまいます。「私」が法力で浄土に「送る」わけではなく、浄土に生まれるのは阿弥陀仏の誓願の働きによるもので、お坊さ まの役割というのは、阿弥陀仏の指し伸ばしている手とそれを求めて手探りをしている衆生の手をしっかり結びつけてあげるお手伝いなのだと思います。・・』

これまで如来蔵・仏性思想については、中観思想との関係でかなり考察をして参りました。如来蔵・仏性も実体・自性・自相としては成り立っていないものであ るのはもちろんながら、あくまでも悟れる可能性に関する問題であるとして、「・・如来、菩薩は、その可能性である機根を汲み取り、善巧方便を巡らせて、悟 りへの縁を紡ぎ、仏の教えへと導く、そこには、上下、優劣は無く、強い慈悲が導くための動機としてあるのみ・・そのように拙考致しました。仏縁への橋渡し がまさに僧侶の役割であり、そこには世間で導師や先生やと言われる立場とは言えども、まさに上下・優劣無し、強い菩提心と慈悲心という動機が大切であるよ うに存じております。・・」と述べさせて頂きました。

吉村先生がおっしゃられておられますようにくれぐれも「慢心」に陥らないためにも、強い菩提心と慈悲心という動機を常に保ち続けて参りたいものでございます。

補足コメント・・『現代仏教塾』Ⅰ、吉村先生のところを読み終わりました。一つ確認できたのは、臨済宗はお釈迦様が本尊であっても、お葬儀で阿弥陀如来様 に霊位の悟りへの資助を願う理由として、その典拠の一つに無量寿経が考えられるということであります。資助を願うための往生呪も唱えますしね。少し疑問が 解けました。有り難いことです。

2015.3.17

引き続きましてのhasunoha拙回答の検証となりますが、これまでの500回答の全てがもちろん大切な問答でございましたが、その中で最も印象深い問答はどれになるのかとあえて申させて頂きますと、下記の問い「分別と無分別について教えて下さい」となります。

端的なご質問ながら、これほどに難しい質問もないと言えるほどの示唆に富む内容でございますが、ご質問を確認させて頂いた瞬間に、拙最新の知見をお示しできる機会であると存じまして、ご回答をさせて頂きました。

実は、ここ十年、自身が取り組んできた仏教の学びの中心には、いつも、仏教の思想哲学史上の一つの結晶でもある中観帰謬論証派思想、並びに、ツォンカパ大師の中観思想がございました。

もちろん、まだまだこの未熟者による浅学な理解にしか過ぎませんが、中観帰謬論証派思想、ツォンカパ大師の中観思想を基に方便を駆使できるようになりたいという憧れにも似た強い思いがございます。

hasunohaにおいても、「空」や「縁起」というものを多用させて頂いて参りましたのも、上記のことを少しなりにも意識していたところがございます。

しかし、そこでも最終的に拙理解において、まだまだ中途半端なところが露呈してしまっておりますのが、これまでにも取り上げて参りました善悪の判断、許容範囲の問題でございます・・

「・・善い分別・無分別を慎重に選択して修行を進めていかなければならない・・」

では、真に何が善い分別、悪い分別で、何が善い無分別、悪い無分別であるのかということにおいて、おおまかな範囲について、そのおおよその理解はできるものの、問題は微細なレベルにおける判断、またその差異についてでございます。

その微細なレベルの見極めのためにも、やはり更なる修習が欠かせないものであると存じております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1017880810.html

問い「分別と無分別について教えて下さい」
http://hasunoha.jp/questions/977

【ご質問内容】

分別と無分別について詳しく教えて下さい

【拙回答】

分別と無分別について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

もう六年以上前のかなり中途半端で恥ずかしい内容ですが、拙論「仏教・空の理解」の第六章「無分別について・再考察」にて、「無分別」に関して扱わせて頂いております。

施本「仏教・空の理解」・第六章「無分別について・再考察」
http://oujyouin.com/sunya6.htm

この内容を記させて頂きましてから、「無分別」に関しましても更に学びを進めさせて頂いている次第ですが、現在における拙生の考え方につきまして以下に少し述べさせて頂きます。

まず、「分別知」と「無分別知」に関して、それぞれ二段階で考える必要があるかと存じております。

無明・煩悩による影響のある分別知(真実執着・真実把握・迷乱知・顛倒知など)
無明・煩悩による影響のない分別知(後得知・正理知・比量了解など)

顕現しているものに対する無分別知(後得知・正理知・比量了解など)
無顕現に対する無分別知(三昧・等引知・現量了解など)

分別知は、特に言説知・言説量によって把捉されたるモノ・コトとなり、無明・煩悩に犯された言説知・言説量と無明・煩悩に犯されていない言説知・言説量による二通り、無分別知は、顕現しているものと、顕現していないものの二通りを対象にしていると考えることができます。

拙理解仏教図式No.7(2014.6.14)
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/f11483ea1a2eb35ce5dcda72284b2bfa

上記拙図において、無分別知は、この図における空性へと向かう知になるのではないかと考えております。

しかし、ここで注意しなければならないのは、「無分別知」=「悟り」という勘違いでございます。これは、よく一般的な仏教理解においても間違われてしまい ますが、仏陀・如来となるまでは、善い分別と悪い分別、善い無分別(空性了解)と悪い無分別(悪取空など)があり、仏道においては、善い分別・無分別を慎 重に選択して修行を進めていかなければならないのではないかというのが現時点における拙見解でございます。

制限字数の関係上、詳しくはここまでとなりますが、簡単には、分別・無分別を理解していく上において大切となるのが「空と縁起」の理解になるかと存じております。

川口英俊 合掌

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「 仏教の基本的な理解のために 」 平成27年3月・春彼岸施餓鬼法要・配布資料

平成27年3月・春彼岸施餓鬼法要・配布資料

『 仏教の基本的な理解のために 』

岩瀧山往生院六萬寺 副住職 川口英俊

はじめに・・

平成24年11月からスタートした「お坊さんがこたえるQ&Aサービスhasunoha(ハスノハ)」 http://hasunoha.jp/ に参加致しまして、2年が過ぎました。サービス開始当初から回答させて頂きまして、平成27年3月2日にて、ようやく500回答に達成することができまし た。多くの皆様から日々、多種多様なご質問を頂きまして、浅学菲才の未熟者ではございますが、他の登録僧侶の皆様と共に何とかここまで継続してお答えする ことができて参りました。この間、お答えさせて頂きました内容を振り返りまして、仏教の基本的な理解のために、今一度、確認しておくべきことにつきまし て、この度は改めて述べさせて頂いておこうかと存じております。どうぞ少しなりともご参考にして頂けましたら幸いでございます。

【 hasunoha拙回答の基本的な前提となる考え方について 】
http://www.hide.vc/h1.html

大前提 「 空と縁起の理法に反する考え方の否定 」
小前提
 1、実体的・絶対的な存在の否定、常見と断見の否定。
 2、輪廻思想・業論を否定しかねない考え方の否定。
 3、善因善(楽)果・悪因悪(苦)果の因果関係を破壊しかねない考え方の否定。
 4、仏教の修道論(智慧開発・善徳行・利他行・菩薩行)を無用化させかねない考え方の否定。
 5、無際限・無限定に如来の慈悲を根拠として引用しての楽観的な救済論の否定。
 6、仏教を不要化させかねない楽観的な現実全面肯定の理論の否定。
 7、神秘主義的な考え方の否定。

この以上の項目の内容に関しまして、今回は、補足を少し述べさせて頂くことにより、仏教の教えの理解へと向けた基本的なことについて考えて参りたいと存じます。

まず、仏教の修習において大切となるのが「智慧と福徳(方便行・善徳行・慈悲利他行)」の二つとなります。

智慧は、賢さを表す言葉ですが、その賢さとは、真理を悟るための力となるため、しっかりと学び修していくことが望まれます。その内容とは、端的には「空」 を悟ることになります。「空」を悟ることによって、全ての遍くに貫いている真理のありようを理解し、特には、誤った見解、邪見、とらわれなどを無くすこと が求められることになります。

「空」とは、あらゆる全てのモノ・コトには、「実体・自性・自相が無い」という事態を示しますが、簡単には、そのモノ・コトが、それ自体の側において、永 久永遠に変わらずに存在し続けているような様態としては成立していないということを表します。もう少し詳しく述べるならば、他に(例えば、要因や条件、要 素・部分等に)依存せずに独立自存として成立しているものがあり得ないということになります。

もっと更に分かりやすく述べるならば、もしも、他に依存せずに独立自存として存在するものがあるならば、一応、この宇宙の始まりと言われているビッグバン 以前からも、それはそれとして変わらずに存在していなければならないことになります。もしも、仮にあなたのその現在の心身が実体として有ると言うならば、 その現在の心身そのままのものが、ビックバン以前からも実体として存在して有るということにならなければいけません。しかし、もちろんそんなことはあり得 ないのですが、そのようにして、「実体・自性・自相が無い」という事態の理解を、あらゆる全てのモノ・コトへと及ぼしていくことで、これで間違いないとい う心底からの「空」の了解が必要となります。

ただ、ここで気を付けないといけないのは、「実体・自性・自相が無い」と述べても、何も無いという「虚無・絶無」ではありません。確かに現にモノ・コトは モノ・コトとして存在しています。但し、その存在のありようは、「縁」(よ)って「起」こっているという「縁起」(※三層の縁起のあり様につきましては、 以前の資料をご参照下さいませ)を理解することが同時に大切なことになります。

そのようにして、「空と縁起」を正しく理解するのが、「中道」の智慧となります。これが、大前提と小前提1の理解において必要なことになります。

次に、小前提2における輪廻思想・業論について、「輪廻」とは、迷い苦しみ(惑・業・苦)の連環のことであり、「業」は、身・口・意(身体・言葉・心)に よる言動の積み重ねのことで、これから先の結果へと繋がる要因・条件にもなっていくものであります。無明(根本的な無知)・煩悩に支配されたままであれ ば、迷い苦しみから逃れることができないということと、無明・煩悩に支配された状態における悪い言動の数々は、悪い結果をもたらす要因・条件になってしま い、もちろん、その逆に、無明・煩悩から離れた、もしくは離れるために行われる善き言動は、善い結果をもたらす要因・条件になることになります。輪廻・業 論の否定は、無明・煩悩、あるいはそれらによる悪業、または、悟り・涅槃、あるいはそれらへと向けた善業や仏道までも否定してしまうことに繋がりかねない ため注意が必要となります。

また、上記の小前提2におけることと同様に、小前提3の「善因善果・悪因悪果の因果関係」の否定も、悪業・善業の否定、無明・煩悩や悟り・涅槃の否定、仏 道の否定となってしまうため、やはり注意が必要となります。この「因果の理」は、全ての仏教思想に通底している基本的な理となります。モノ・コトは、必ず 因果の理、あるいは条件という意味の「縁」も加えて、「因縁果の理」によって成り立っていることを、まずはしっかりと理解しておかなくてはいけません。

次の小前提4としての「仏教の修道論(智慧開発・善徳行・利他行・菩薩行)」も、まさに善因善果・悪因悪果の因果関係を基本としているため、もしも、それ らを否定してしまっては、別に何もせずとも、あるいは、善業、悪業のどちらにも拘らず、何か善い結果、例えば、悟り・涅槃へと到れること、如来となれるこ とを認めてしまうことにも繋がりかねないため、否定すべきものではないと考えます。

更に、小前提5におけるように、「無際限・無限定に如来の慈悲を根拠としての救済」を説いてしまうことは、その救済の範囲をあまりにも拡大させすぎて、 「善因善果・悪因悪果の因果関係」・「仏教の修道論」を破壊してしまう恐れがあります。例えば、「いずれ如来の慈悲の中において、みんな必ずや救われる、 悟れることになるから大丈夫、安心だ」となってしまえば、それでは、どんな悪業や善業、修行にも拘らずに、いずれ誰もが救われることになり、何をしてもし なくても関係ないこと、平気なことになってしまいます。それが、小前提6の楽観的な考え方として、仏教そのものが、結局は、不要・無用となりかねなくなり ます。特に、「全ては既に悟っている、悟りの中にある、全ては皆成仏している」といったような全面肯定の考え方は危険極まりなく、それも、いずれは、「何 もしなくても大丈夫だ」となって、仏教の不要化・無用化に繋がりかねませんので、非常に気をつける必要があります。

最後の小前提7の神秘主義的な考え方も、上述のことに加えて、「何か訳は分からない、証明はできないけれども、それで悟れるらしい、救われるらしい」とい うような無責任なことを認めてしまっていけば、因果の理を否定することになり、確かなる仏道の修習が成り立たなくなってしまう恐れが出て参ります。

仏教における、その教え、考え方が正しいかどうかは、常に各々で合理的に十分に色々と検証していくことが大切であり、チベット仏教における教えの中に、 「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎 重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」とありますように、例え師の教えであろうとも、批判的、合理的に検証を繰り返し て、しっかりと納得した上にて、その教えを修習することが大切なことになります。とにかく、心の底から納得できるまでは、合理的に批判的に検証を繰り返し ていくことが必要であり、あまりにも現実的で無いような荒唐無稽なことを狂信したり、妄信、盲信してしまっては、善い結果(悟り・涅槃)へと到れるどころ か、まるで逆の悪い結果に陥りかねない危険性もありますので、十分な注意が必要となります。

とにかく、仏教の基本的な教えについて、過去この世に顕れられた七名の如来が、共通しておっしゃられていることを端的に表すお経がございます。それが「七仏通誡偈」(しちぶつつうかいげ)でございます。

「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
(しょあくまくさ しゅうぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう)

「諸々の悪い行いをなさずに、善い行いに努め励みて、自らその心を浄らかにすること、これが諸々の御仏の教えである」

仏教の基本は、とにかく、悪い行いを慎み、悪業を積まずに、善い行いに努めて、善業を積むことに励み、心を無明や煩悩に汚されないように浄らかにして、やがて悟り・涅槃へと到れるように、確かなる仏道の歩みを進めていくことが大切となります。

確かなる仏道の歩みを進めていく上で、特に前述の「智慧と福徳」の二つのことにしっかりと修習していくことが望まれます。是非共にこれからも頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

・・

hasunoha拙回答・500回答到達にて検証・充電期間中。再開はお彼岸後以降の予定。どうかご容赦下さいませ。

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・・

精読すべき本が色々と溜まってしまっておりますが・・

起心書房さんから、アティシャ大師・全訳「菩提道灯論」、「ガナチャクラと金剛乗」やインド論理学研究会さんからは、「インド論理学研究・第7号」とそれぞれ高価なる三冊の専門書がまもなく発行となります・・

起心書房
kishin-syobo.com/

インド論理学研究会
http://blog.goo.ne.jp/indianlogic

四月の参画各団体への一斉会費納入も控えており、結構な入用となります・・更には、四月には何とか東京にダライ・ラマ法王猊下様のご法話もご拝聴に参らね ばなりません・・金欠必至です・・もう、とてもお小遣いを切り詰めてというものではなく、やむを得ない色々な入用も他にあるため正直結婚前の貯金を崩して いってます・・誰かどうかお恵みを・・

現在読み進めの本・・「チャンドラキールティ大師著「四百論注」第一~八章和訳」・「ツォンカパ大師 菩提道次第大論の研究2」

・・

ダライ・ラマ法王猊下様のご来日のイベント追加情報

4/3「世界とのつながり~世界を変えるのは、我々一人ひとりの一歩から始まる~」
http://www.sapporo-jc.or.jp/2015/event/post-4.html
主催・ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
共催・一般社団法人札幌青年会議所

2015年度、ダライ・ラマ法王猊下様のご来日のイベント情報
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52183921.html

「ダライ・ラマ14世とチベットに迫ったドキュメンタリー、6月公開」
http://www.cinematoday.jp/page/N0071137

・・

塾長の松本紹圭様を始め、色々な諸師の皆様からのお誘いを頂戴致しておりました「未来の住職塾」・・諸事情色々と鑑みまして、この四期は見送らせて頂きま して、余程の参加できない事情が発生しない限り、来年の五期には何とか関西での開講に参加できましたらと考えております。どうかご容赦の程を宜しくお願い 申し上げます。

一般社団法人・お寺の未来「未来の住職塾」
http://www.oteranomirai.or.jp/juku/regular_course/
Facebookページ
https://www.facebook.com/jushokujuku

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・・

勝義方便メモNo.10 「イスラーム国に関することについて」73-77追記
http://togetter.com/li/719545

「マインドフルネス」再考・ティク・ナット・ハン師の「インタービーイング」考も進めさせて頂きます。

勝義方便メモNo.9
http://togetter.com/li/681727

勝義方便メモNo.9 超宗派系一覧(2014.7.13時点)
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52167906.html

「拙理解仏教図式No.7(2014.6.14)」ご提示・再考随時訂正予定
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/f11483ea1a2eb35ce5dcda72284b2bfa

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「 死後について 」平成26年9月・秋彼岸墓前回向 配布資料
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/46df9bb57071ef4f2b56161423dba66f

平成26年・お盆施餓鬼法要 法話内容 録画配信Ustream
http://www.ustream.tv/recorded/51379634

「お葬式について」平成26年8月・お盆施餓鬼法要・配布資料
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/0816eb5e788bf5ecfc8eed8e901b1a76

2013.11.19「空と縁起」に関する拙質問に対してのダライ・ラマ法王猊下様の御回答内容について
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/710b99c74854aebc871a6f75e28dde12

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2014.4.14 ダライ・ラマ法王猊下様によるチベット密教・胎蔵曼荼羅灌頂・ご報告
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/bc5c08f69d78bdda5c6cca62d17d87df

ダライ・ラマ法王猊下様今春ご来日動画集
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52160454.html

「偉大なる第十四世の長寿を祈願する如意自在王〔経〕」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/8f49efb18934ec00993d52e91c603327

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NGO「国境なき僧侶団」フェイスブック・ページ
https://www.facebook.com/pages/国境なき僧侶団/578961352183094

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【チベット問題】

チベット問題・焼身抗議等の詳細情報は、チベットNOW@ルンタ・ダラムサラ通信・中原一博氏のブログが参照となります。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/

「太陽を取り戻すために チベットの焼身抗議」中原一博氏著
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51799025.html

無償ダウンロード
https://docs.google.com/file/d/0B6cmrkvyxC23QmhCRTZyeWRrNm8/edit

「自らを灯明と化した菩薩たちの願い」~チベット問題・焼身抗議を考える~
http://t.co/PwVvYWck

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川口英俊の自動配信・デイリー自動情報収集ネット新聞
http://paper.li/hide1125/1307742529

問い「「空」とはどういう意味でしょうか?」

問い「「空」とはどういう意味でしょうか?」
http://hasunoha.jp/questions/1076

【ご質問内容】

分かりやすく教えて下さい。
物質はあるのに空であるっていう意味がよく分かりません。
こちらの思い一つで物質の意味が変わるというようなニュアンスでいいのでしょうか?

「空」だと知ることに何の意味があるのでしょうか?

【拙回答】

hasunohaに参加させて頂きまして以来、この問答にていよいよ500回答となりますが、この間、拙生の取り組んで参りましたテーマとも言えますのが、まさに「空」、そして「縁起」でございました。

仏教は、「智慧と福徳(方便)」を両輪として、確かに修習していくことが求められます。その中でも、智慧の開発における最大の要諦が「空と縁起」の理解となります。

「物質はあるのに空である」とは、般若心経の「色即是空」のことを言及されているのではないかとお察し致します。しかし、それは、次の「空即是色」という理解も併せて行うことが必要となります。

もちろん、「空と縁起」の理解は、非常に難しいですが、とにかく、私たちは、般若心経の中にも出て参ります、「顛倒夢想」の中、あるいは難しい用語となりますが、「倶生諦執」、「有染汚無明」、「二(人我執と法我執、倶生我執と分別我執)我執」の中にあり、常に誤った認識状態で、モノ・コトを実体視執着してしまい、それで迷い苦しむことになってしまっております。

「空」というのは、つまり、無実体・無自性・無自相ということなのですが、要は、そのモノ・コトが、それ自体の側において、永久永遠に変わらずに存在し続けているモノ・コトとして有り得ているのかどうかということであります。もう少し詳しく述べるならば、他に(例えば、要因や条件等に)依存せずに独立自存として成立しているものが果たして有り得るのかどうかということを考えてみる必要がございます。

更に分かりやすく述べるならば、もしも、他に依存せずに独立自存として存在するものがあるならば、一応、この宇宙の始まりと言われているビッグバン以前からも、それはそれとして存在していなければならないのであります。もしも、シャ家族様のその現在の心身が実体として有るとするならば、その現在の心身そのものが、ビックバン以前から実体として有るということにもなります。しかし、もちろんそんなことはあり得ないのですが、その理解を一つ一つに及ぼしていくことで、これで間違いないという心底からの了解が必要となります。

字数制限の関係上ここまでにて、関連の過去問答も是非ご参照下さいませ。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/空と縁起

川口英俊 合掌

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これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16

問い「苦しみの多い人生を少しでもましにするには?」

問い「苦しみの多い人生を少しでもましにするには?」
http://hasunoha.jp/questions/1062

【ご質問内容】

仏教では生きることは苦しみであると説いていることは、自分なりに仏教を勉強して少しは分かっているつもりです。しかし、去年は私をかわいがってくれた祖母を亡くして愛別離苦の苦しみを味わい、数年前からは、会社の老害である人物に毎日顔を合わせて怨憎会苦の苦しみを味わい、仕事では待遇に見合わない責任を負わされ心労が絶えません。たまには、楽しいと思う事や、うれしいと思う事もあります。しかし、苦しいと感じる事のほうがはるかに多いと思います。ふと冷静になると、こんなに苦しいことばかりで生きていくのが苦痛で、自分のこれからの将来に絶望してしまうことがあります。まだまだ不勉強でわからないのですが、仏教(釈尊)はこういった悩みにどういった回答をされているのでしょうか。最近、年を取ったせいか(まだ31歳ですが)釈尊や阿弥陀如来様、地蔵菩薩様などのエピソードやそのお慈悲を知り、有難さに涙してしまうことがあります。人間の苦悩に真剣に向き合う宗教は仏教だけだと思っています。ご回答お願い致します。

【拙回答】

「出離心」と「菩提心」と「慈悲心」について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

人生、本当に苦しいことばかりが多いように思います・・拙生もそうでございますし、皆さんもそうなのではないかと存じます・・それだけやはり、生きるということは苦しみを伴うことが多いのだと実感致します。

「こんなに苦しいことばかりで生きていくのが苦痛で、自分のこれからの将来に絶望してしまうことがあります。」・・悲観的・虚無的になってしまうのも、もちろん理解できますが、仏教では、まず何とかこの苦しみの世界を厭って、ここから脱したいと望む気持ちを大切に致します。それがまず「出離心」となります。

そして、「出離心」の次に大切となるのが、悟りを目指したいという志としての「菩提心」となります。

この苦しみの世界にいるのは、何もミジンコさんや拙生だけではありません。上記でも述べましたように、皆、「苦しい、苦しい」と喘いでおります。何とかこの苦しみの世界を皆と共に脱して、悟りの世界へと向かうべくに、「菩提心」を起こすことが求められるものとなります。

お釈迦様もそうですが、如来様方や菩薩様方も実は、悟りを開くまで、あるいは菩薩道を歩むまでは、「苦しい、苦しい」と私たちと同じように苦海の中を喘いでこられたのでございます。だからこそ、私たちのように苦しみにある者たちのこともよくよくに理解なされておられるからこそ、心底から何とか救ってあげたいという慈悲の御心がおありなのでございます。ミジンコ様がその慈悲の御心の有り難さに涙なされたのも、当然にミジンコ様の苦しみも我が事のように全て知っておいでであるからでございます。

人間の苦悩に真剣に向き合う宗教は仏教だけではなく、キリスト教ももちろんそうでしょうが、とにかく、仏教では、悟りへと向けてのより善い「縁」をできる限りに調えていくことが必要となります。その悟りへと向けたより善い縁を調えていくための教えが仏教となります。

是非、これからも仏教を学び修していくことを進めて頂けましたら幸いに存じます。共に頑張って参りましょう。

追伸・・まだ31歳、人生これからです。色々な良き出逢いのご縁もまだまだあるでしょうから、是非、前向きに取り組んでいって下さいませ。

川口英俊 合掌

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これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
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問い「悪縁を断ち切りたい」

問い「悪縁を断ち切りたい」
http://hasunoha.jp/questions/1063

【ご質問内容】

流産や不妊について、以前こちらで相談させていただいた者です。その後少しずつ立ち直りかけたところで、父が末期癌であることが分かりました。
父は健康こそが「趣味」のような人でしたので、癌であること、ある程度進行していることが分かると、精神的な苦しみは大変なものでした。絶望と怒り、痛みを訴えつつ10か月間闘病し、去年他界しました。そういう父でしたので最後まで末期であることは言えませんでした。余命はそれほど長くないということを隠しながら、母と共に父を励まし、付き添い、看病し、とてもつらかったです。
このため、私は昨年ようやく再就職した会社を再び辞めざるを得ませんでした。今は、夫の仕事もあまりうまく行っておらず、近いうちに会社を辞めることになるかもしれません。母は広い家に一人で寂しく暮らしています。

流産、家族の死、失業など、悲しいことや苦しいことが続いて、心が折れてしまいそうになります。このまま歩いていてもこの先は真っ暗な淵なのではないかという気持ちに襲われることもあります。

こういう悪循環というか、悪運みたいなものは断ち切ってしまうことなどできないのでしょうか?
ご助言いただければうれしいです。

【拙回答】

悪縁、悪運は断ち切れませんが・・

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

前回のご質問からこの一年余りの間に、お父様のご病気にて誠に大変なことで、つらい思いをされておられたのですね。何もお力になれませずにて誠に申し訳ありませんでした・・

改めまして、前回、前々回のご質問と拙回答も読み返させて頂きました・・前々回では「縁」について、前回では「空と縁起」について少し触れさせて頂いておりましたが、つらいこと、悲しく苦しいことがこうも続きますと、どうしても悲観的に、虚無的になってしまうのは、ある程度仕方のないことであるかと存じます・・

どうか、お父様の御供養と共に、少しずつでもまずはお母様と闘病の疲れをねぎらって頂けましたらと存じます。

もし可能でありましたら、もう少し暖かくなり、春になったら、お母様と共に親子水入らずにて少し慰霊の旅行にでもお出掛けなされて下さいませ。巡るところは、お父様との想い出の場所でも構いませんし、桜の綺麗なお寺などでもいかがでしょうか、また、温泉に入られたり、マッサージも受けられるなどされて、心も身体も少し癒されてみられて下さいませ。これからのことは、その旅行後にでも焦らず少しずつでございます。

拙生は、めんたいこ様の悪縁や悪運を断ち切るということはできません(分かりにくいかもしれませんが、そもそも過去に過ぎ去ってしまっている何か、あるいは概念的な何かを切るということは本来できないものの類となります。一休さんの頓智話の「屏風の虎」と同じようなこととお考え下さい)が、何とかこれから先のより善い結果へと向けては、善い「縁」をできるだけ努力して調えていくことで、その結果を変えていくことができるのではないかと考えております。そのきっかけや気づきとなることは私たちでも何かお手伝いできることがあるかとは存じます。

お父様のことでも、ご闘病の間のつらく苦しい気持ちを少しなりともこのhasunohaでお出し頂けておりましたら、何か少しでもお答えができていたかもしれないかなと存じております。拙生もすぐには回答はできないかもしれませんが、どうかご遠慮なされずに、hasunohaを頼って頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16

問い「宗教のことで迷っています。」

問い「宗教のことで迷っています。」
http://hasunoha.jp/questions/1087

【ご質問内容】

初めまして。
早速ですがご相談です。

お坊さんにこんなことをお尋ねするのも非常に申し訳ないのですが、私は最近仏教ではない宗教に興味を持ち、いずれ信仰したいと考えております。

ですが私は仏教的な考えである輪廻転生を信じております。その宗教では輪廻転生はないものとして考えているみたいなのです。

この点以外ではその宗教の考えに大変共感しているのですが、こんな私でもその宗教を信仰してもいいのでしょうか?
それとも、やめた方がいいのでしょうか?

誰にも相談できないことなので、是非お答えいただきたく存じます。

【拙回答】

信仰の要諦について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

この度は、「信仰」に関するご質問を頂きまして、誠にありがとうございます。

まず、「宗教」に関しましては、少し下記の拙回答をご参照下さい。

問い「宗教とは」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1017725553.html

『・・本来の宗教の目的は、・・「幸せや安楽、安心を得るため、あるいは、より良い生き方、人生を歩むため」にあるものかと存じております。それが、不幸や迷い苦しみ、悲しみの原因となってしまっては誠に本末転倒となります。何故本末転倒なことが起こってしまうのか・・それは、全ての人たち、仏教的には衆生たちが、幸せ、安心、安楽となることを目的とせずに、自分、あるいは自分たちの集団さえ良ければいいというような、自己中心、自己満足、独善的な考え方がどこかにあるために生じる問題であるのではないかと思われます。そうではなく、いかに皆が幸せに、安楽、安心に過ごせていけるかを第一として、どの宗教でも、どの仏教の宗旨宗派においても考えていくことがまず大切になるのではないかと存じております。・・』

信仰の要諦は、「幸せや安楽、安心を得るため、あるいは、より良い生き方、人生を歩むため」ということと、もう一つは、「皆が幸せに、安楽、安心に過ごせていけるための良い生き方、人生にも繋がっているかどうかということ」が大切な判断基準になるのではないかと考えております。

「信教の自由」につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますのでご参考下さい。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/信教の自由

問い「創価学会」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1017330696.html

上記の拙回答にて、「伝統宗教であれ新宗教であれ、その考え方が正しいかどうかは常に合理的に十分に色々と検証していくことが大切である」と述べさせて頂いております。とにかく心の底から納得できるまではしっかりと合理的に批判的に検証を繰り返していくことも大切になるかと存じております。

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16
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