hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

2015年12月

問い「Amazonのお坊さん便について」

問い「Amazonのお坊さん便について」
http://hasunoha.jp/questions/2684

【ご質問内容】

最近Amazonでお坊さんを手配するお坊さん便が始まったそうですが、お坊さんに知り合いがいない人やお寺が身近にない人達にとってはお坊さん便は便利なサービスかも知れません。 
ですが、「仏教をビジネスと考えてるからけしからん!」といったお坊さん便に対する反対意見もあることは確かです。

ちなみに私はお寺に縁のない若い世代の人達の為にもお坊さん便はあってもいいのではないかと思います。

そこでハスノハのお坊様方に質問なのですが、Amazonのお坊さん便に関して賛成ですか?それとも反対ですか? 
詳しい意見の方よろしくお願いいたします。

【拙回答】

賛成、反対のどちらでもない

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

色々と物議を醸しているAmazonの「お坊さん便」、拙生は、賛成、反対のどちらでもないのですが、仏教・仏法の本来的な目的・実践は、「衆生済度の聖業」(一切の衆生、輪廻に迷い苦しむものたちを救うための聖なる行い)であり、色々な方便は、方便としても、仏教・仏法の本来的な目的・実践に適うものとなっているのかどうかが、最終的に重要になるのではないかと存じております。

Amazonの「お坊さん便」においても、その問われるべき問題は、そこに単なる気休めではない、真なる救いや安心がありうるのかどうか、ということになるのではないかと存じます。

仏教とビジネス、仏教と営利、仏教と経営・・色々と相いれないと思われることももちろんあるでしょうが、その時代や環境の変化に応じて、寛容・柔軟になるべきことと、絶対に妥協・譲歩してはいけないことと、そのバランスを取りながらにも、「衆生済度の聖業」という本来的な目的・実践をしっかりと推し進めていく役割を担っていかなければならないのが、僧侶、寺院のあり方として最も大切になるのではないかと考えております。

確かなる「衆生済度の聖業」の実践へと向けて、犀の角の如くに中道を歩むことができていけますように、この浅学菲才の未熟者におきましては、しっかりと省察しつつ、これからも仏法の修習に努めて参りたいと存じております。

川口英俊 合掌

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これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。

問い「私の般若心経の解釈はあっていますか?」

問い「私の般若心経の解釈はあっていますか?」
http://hasunoha.jp/questions/2600

【ご質問内容】

仏師になろうと思い、本日届いた般若心経と金剛般若経の本を読みました。
そして私なりの解釈をしたのですが、間違った解釈をするといけないと思い、専門家の方々に聞こうと思いました。

私は赤子に戻って本を読んで思ったのは、「全ては空である。」です。
空とは無であり無限であることだと思います。

人間は苦しみを持ちますが、それはあると思うからあるのです。
本当はそんなものはありません。
さらに言えば自分というものさえありません。

とはいえ、世界が無なのではありません。
その逆に世界は無限です。
何故ならば、個がないのだから、他者も自分、万物も自分だからです。
全ての人々が他者も自分と思えば世界から苦しみがなくなります。

般若心経が呪文で終わっていたのが印象的でした。
頭でっかちになりがちな現代人に対する大変効果的な修行です。

金剛般若心経の「○○といったから○○ではない。それ故に○○である」の部分も興味深かったです。
確かに空となったらそうなります。
他者との視点と自分の視点の事象を、空としてとらえると面白い論理になると思いました。

総じて懐かしい感じがしました。
不思議なことに以前から知っていたような気がします。
人は誰しも生まれる前に仏の説法を聞いて生まれてくるのかもしれません。

私の般若心経の解釈はあっていますか?

【拙回答】

「空」について

これまで般若心経につきましては、下記の各問いにても扱わせて頂いて参りました。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/般若心経

般若心経は、誠にその名の通り、「般若波羅蜜」の心髄を説く智慧の御経となります。

「「全ては空である。」です。空とは無であり無限であることだと思います。」・・

まず、全ては「空」であるというのは、確かにその通りです。

但し、その「空」も「空」であるというところとなります。その理解が難しいところになりますが、是非、これからも関心を強く持って頂きまして、学びを進められて下さいませ。

そして、次に、「空」とは、「虚無・絶無」の「無」ではなくて、あくまでも「実体・自性・自相」による成立では無いという意味となります。

また、「空」とは、「無であり無限である」ということでは、「無であり無限である」というところに矛盾を内包してしまうことになってしまいます。

「無」はあくまでも「無」であって、本来、「無」からは何も「有る」余地はないはずであって、「無」では、この世の現象・事象のことを何も説明できなくなってしまいます。

ですので、「空」は、何も無いという「無」ではないというものとなります。

「無限」というのは、何が無限なのかという主語の問題にもなりますが、例えば、この宇宙・世界について、有限か、無限かという議論は、「無記」として、あまり議論するに益のないものとして退けられるものとなります。

また、「無限」を、永久永遠に変わらない、実体としての何らかのモノ・コトを想定するとなっても、そのようなモノ・コトは存在しないということとなります。

是非、般若心経にも色々と解釈はございますが、上記のことも少しなりにもご理解へ向けましてご参考にして頂けましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌

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http://hasunoha.jp/

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問い「八正道の正見と正思」

問い「八正道の正見と正思」
http://hasunoha.jp/questions/2641

【ご質問内容】

八正道の正見と正思について質問があります、正しく見るとことと正しく考える。
正しくってなんでしょうか?
どうなったら正しいのでしょうか?
どうやって正しくするのですか?

身近な例をあげて教えていただけませんか?

【拙回答】

「中道」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「八正道」における「正しい」とは何かというご質問、実は拙生も昔に疑問に思ったことがございます。

もうかれこれ八年も前に書いたものにて、色々と恥ずかしい、修正・訂正・補足したいと思うところばかりですが、下記のページの内容をご覧下さいませ。

施本「佛の道」・第七章「八正道・中道」
http://www.hide.vc/hotokenomichi7.html

ここでは、「正しい」とは、偏見・差別・恣意性の無い「中道」であるというようなことが書いてございますが、それでもやはり、曖昧というか、抽象的であるとお感じになるかとは存じます。

また、それもそのように主張する、定義付けている、あなたの主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足ではないのか、と言われてしまったら、そこまでになってしまいます・・

では、何を正しさの根拠とすべきかとなりましたら、四次元法華塔様のおっしゃられていますように、如来・覚者による真理の教えを根拠としなければならないのではないかと拙生も考えます。

そして、その教えを実践していくことによって、間違えのない仏道を歩むことで、確かなる悟りへと向かっていかなければならないのではないかと存じております。

但し、すでに釈尊もご入滅なされておいでであり、この世に如来・覚者は現在いらっしゃられないため、釈尊のお言葉が、釈尊の後世に弟子たちによりまとめられている仏典、聖典、あるいは論書等を頼りにして、その真理の教えを探究していくことが必要になります。

また、「八正道」の別名が「中道」と言われておりますように、「中道」とはいかなる事態であるのかということを考えてみるのも「正しい」ということの理解へと向けて重要になるのではないかと存じております。

もし、ご興味が更におありでございましたら、龍樹(ナーガールジュナ)大師の「中論」の内容も学ばれると良いのではないかと存じます。

川口英俊 合掌

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問い「片思いは断ち切れますか?」

問い「片思いは断ち切れますか?」
http://hasunoha.jp/questions/2627

【ご質問内容】

1年程前から、職場のひとつ年下上司に片思いしていました。

相手は独身、私はシンママですが、お互いに奥手で押したり引っ込んだりの状況が暫く続いていました。
じっくり前向きに温められると良かったのですが、二の足を踏んでいました。

上司としては尊敬しているけれど、簡単に勘違いしたらダメと、常に自分に言い聞かせ、恋愛妄想と必死で戦っていました。

ですがやはり彼の持ち前の暖かさや人間的な抱擁力、あどけなさ、何よりケンカしても話していたいし、話さない日は切なすぎる気持ちを振り切れず。この恋心は消せないと、夏頃にはもう少し親密になろうと努力し始めた頃でした。

新しく入社した女性と、彼がいつの間にか仲良くなっており、私が多忙でほぼ事務所に居なかった2カ月間でとても親密に見える間柄になっていました。
勿論ショックです。
涙で眠れない日々でした。

それでも振り切って仕事してやる!始めから諦めるつもりだったしと強がっていたのもつかの間。今度はその彼女に私の仕事の半分をもぎ取られ、上司である彼もそれを公認。
熱意を冷たく踏みにじられた気分になり、自信を喪失して彼に相談しましたが、私があまりに大変そうだったから彼女にも仕事を、と。

でも実際には彼女のたくみな手回しで強引に進めた事だと思ってしまいます。
事実、彼女の強引さには現場の他の同僚も参っていました。彼女は上司群には上手く取り入っているので、その状況は理解されていません。

なんとか堪えながら仕事をしようと努力したのですが、それでも平然としていられる自分ではありませんでした。

仕事、上司への信頼、恋愛、大きなものを彼と彼女に踏みにじられた感じで。やりきれない怒りと苦しさが日々増していきました。
毎日事務所で彼と彼女の隣り合わせの席から聞こえる会話。私が彼に仕事の報告をする度に被せてくる彼女の別件報告、日常会話…。まるで拷問です。

弱いかもしれませんが気持ちが堪えきれずに生活にも支障が出てきたので彼よりも上の上司へ異動を申し出ました。

近く部署を変えて貰えるようですが、失恋と自信喪失が重く重なって狂いそうな日々です。
異動後にはまた心境も変わると期待したい反面、このまま自分が保てる気がしません。
始めから吹っ切るつもりだったのにここまで自分を狂わせている片思い、断ち切ってまた元の平和な日々に戻れる日が来るのでしょうか。

【拙回答】

片思いは、肩重いですよね・・

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

片思いは、肩重いですよね・・

色々とあれやこれやと思い悩んでは疲れてしまいます・・肩も凝ります・・

そんな疲れた時は、やはり、リフレッシュが必要です。肩(心)に乗せている色々なもの(重い思い)も外してみて下さい。

温泉なり、エステなり、旅行なり・・お仕事の疲れもおありでしょうから、どうか少しでも傷心を癒して頂きまして、気分転換、心機一転をなされて下さいませ。

拙生にも経験がありますが、片思いというのは、本当につらいものです。ほとんどの場合、一方的なものになってしまいますから・・

でも、そんなつらい経験が、一つ一つ糧となって、幸せへと向けて必要になるのではないかと存じます。

「辛」いに一つ足(プラス)してやれば、「幸」になります。

辛さを辛さで終わらすのではなくて、前向きに何かをプラスできていて、一歩一歩幸せに向かっているのだと思ってください。

そして、辛い思いをするからこそ、本当の幸せが何かも分かるようになりますし、また、辛いも、幸せも、それは己の心次第となります。

進展のない、見込みのない状況から離れられて、まずは良かったと思って下さい。

次の恋愛では、あまりあれやこれやと考えすぎて、力み過ぎないようにも気を付けて、何より、正直に、素直に。

また、「愛」という字は、心を真ん中で受けると書きます。

お互いにしっかりと向き合って、心を受け取れ合える、正直な想いをお互いに伝えられる、そんな恋愛が今度こそできますようにと、心から祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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http://hasunoha.jp/users/16

問い「二諦解釈について。」

問い「二諦解釈について。」
http://hasunoha.jp/questions/2596

【ご質問内容】

ツォンカパと龍樹の勝義諦 世俗諦についての解釈の違いは何でしょうか?

【拙回答】

「二諦」を理解する意義について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「龍樹大師の二諦」と「ツォンカパ大師の二諦」の相違についてのご質問、誠にありがとうございます。

龍樹大師が「中論」にて「二諦」について言及されて以降、世俗諦と勝義諦のそれぞれの解釈につきましては、精緻な議論が展開されて参りました。

例えば、「中論」の主な注釈書だけでも、ピンガラ大師の「注釈論」、ブッダパーリタ大師の「根本中論註」、バーヴァヴィヴェーカ大師の「般若灯論」、チャンドラキールティ大師の「浄明句論」、そしてツォンカパ大師の「正理大海」、また著者不明の「無畏論」と、ここで数えるだけでも六つもございます。

その中でも中観帰謬論証派の流れとなりますのが、ブッダパーリタ大師、チャンドラキールティ大師、ツォンカパ大師のものとなって参ります。

そして、ツォンカパ大師の中観思想も、チャンドラキールティ大師の中観思想とやはり異なるところがございまして、「二諦」の解釈においても、確かに、ツォンカパ大師は、チャンドラキールティ大師の「入中論」における二諦解釈を引き継ぎながらにも、独自の二諦解釈を示されておられます。

さて、ご質問の内容に戻りますが、正直、違いというよりか、釈尊以来の「二諦」に関する教説というものが、時代に応じて、精緻な議論が必要になっていったというものとして、違いではなく、釈尊から龍樹大師へと引き継がれた「二諦」の議論が、更に発展して、ツォンカパ大師まで至ったということになるのではないかと存じます。

ただ、龍樹大師の二諦にしてもツォンカパ大師の二諦にしても、理解する上で大切となるのは、二諦において、何を否定して、何を肯定するのか、あるいは、何を否定するにしてもどこまでとなるのか、何を肯定するにしてもどこまでになるのか、そのことを明らかにすることによって、一切のモノ・コトについて正しく設定することができ、迷い苦しみのありようから、悟りのありようまでもを正しく設定することができるというものとなります。

そして、正しい悟りへと向けた階梯を明らかにすることによって、悟りへと向けた取り組みにしっかりと励んでいけるようにするためとなります。

上記のことが、二諦を理解する意義というものとなります。是非、しっかりと理解して、仏道の修習に努めて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

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http://hasunoha.jp/

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http://hasunoha.jp/users/16

問い「輪廻転生する“私”は存在しないと思うのですが…」

問い「輪廻転生する“私”は存在しないと思うのですが…」
http://hasunoha.jp/questions/2571

【ご質問内容】

今日は! 食前と食後にお菓子を食うせいやです。

存在しないというより幻や夢といった表現が合っているのかもしれません。私はいないので、苦や世界もあるように思えて存在しないと思うのです。だから善悪すら本来は無いというか、あるんだけど絶対悪の如く極端に偏っている事はないと思うのです。世界は中立だと思うのです。心の持ちようで世界は地獄にも天国にもなると思うんです。

明晰夢をみている感覚です。湧き起こってくる心をみているというか、それに一々惑わされずに済むのです。この夢で行為しているのは自分ではなくて、観察しているのが本来の私だと思ったんです。仕事に行く前、ソファに座っている時、この事に気付いて腹を抱えて笑ったんです。

夢だとわかっても楽しめるものは楽しむんです。だから、食前と食後にお菓子を食べるわけです。

上手く言葉に出来ません。質問になっていないので回答はいらないです。お邪魔しました。

【拙回答】

「如幻・如夢」について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「存在しないというより幻や夢といった表現が合っているのかもしれません。」・「夢だとわかっても楽しめるものは楽しむんです」・・

まさにある意味ではその通りです。ただ仏教における「幻」や「夢」の表現の例えというものは、「空」(実体・自性・自相の無いこと)を示すための意味で用いられますが、正確には、「如幻」や「如夢」として、あくまでも「如し」であって、「幻」・「夢」そのものではなく、「幻・夢に似ているもの」ということになります。

なぜ、「如」と付くのかと申しますと、幻や夢は、何も効力を持ちませんが、現実世界では、色々な効力(効果的作用力)が生じることになるからであり、「イコール」ではないということで「如」が付くのであります。

例えば、幻の例えとして蜃気楼というものがありますが、海の彼方で浮かび上がっている蜃気楼の船は、何かを載せて運ぶことはできませんが、現実の船であれば運ぶことができます。夢の中での交通事故では怪我をしませんが、現実ではそうは参りません。

そのようにして両者の違いを理解していくことが大切となります。

「輪廻転生する「私」は存在しない」・・

「私」というものも、もちろん「実体・自性・自相」として存在はしていません。但し、今もこれからも連続していく、相続していく「私」というものは扱うことになります。空にして縁起により成り立っている「私」となりますが、このあたりのことを理解していくには、少し難しいところもございます。

是非、仏教を修習されながら、これからも探究していって頂ければ有り難いことでございます。

川口英俊 合掌

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http://hasunoha.jp/users/16

問い「縁起について」

問い「縁起について」
http://hasunoha.jp/questions/2558

【ご質問内容】

縁起にも様々な種類が有りますが、釈迦や龍樹が説かれた縁起の違いとは何でしょうか?

また、縁起=空=無自性は恒常不変である万物を想定しませんが、縁起の働きそのものは永遠ですか?
それとも縁起自体もやがて死滅する物でしょうか?
もし縁起が死滅するとして、その後に訪れるのは一体何だと思われますか?

【拙回答】

「縁起」について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

釈尊のお説きになられた「縁起」は、「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」という「此縁性の縁起」として、主に「四聖諦」や「十二支縁起」の理解のためにお説きになられたものではないかと存じます。

龍樹大師がお説きになられた「縁起」は、「相依性の縁起」とよく言われますが、その目的は、徹底した「実体の否定」として、私たちの顛倒したモノの捉え方、誤謬の対治に向けて主眼が置かれているのではないかと考えることができます。

「縁起」は、あくまでもモノ・コトのありようのことを示唆するための表現であって、「縁起」そのものにも何か「実体・自性・自相」があるわけではありません。「縁起」が、「永遠であるのか、永遠でないのか」とか、「縁起」が、「生じるとか、滅するとか」というのは、議論にそぐわないものになるのではないかと存じております。

もちろん、この宇宙に一応、モノ・コトがある限り、それは「縁起」によって成り立っているということにはなります。そして、また、「縁起」によりて、何らかモノ・コトが成り立っていくことにはなるのでしょう。

では、いずれこの世界、宇宙も完全なる「絶無」となるのかどうかということは、正直、「無記」と言わざるを得ないのではないかと存じますし、あまりそのことを議論するに益はないのではないかと存じております。

仏法において「縁起」や「空」の説かれる主目的は、あくまでも、迷い苦しみ、煩悩・無明の排撃のためとなります。

しっかりと迷い苦しみ、煩悩・無明の排撃と正しい悟りへと向けて、「空と縁起」を理解して参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

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http://hasunoha.jp/users/16

問い「安楽死の合法」

問い「安楽死の合法」
http://hasunoha.jp/questions/2537

【ご質問内容】

今、安楽死について習っています。
私は、安楽死を合法化するのはいけないとおもいます。
もし自分が重い病気になって、安楽死が合法化されていたら、安楽死したいと思うかもしれません。
でも、まだその病気で死ぬとは限らないし、
今の医学からしたら治る可能性も十分あると思っているので、どんな理由があっても薬剤などで直接手を下して患者の命を断たせることはいけない。
そして、病気になって苦しくて、死んで苦しみから解放されたいと思うことはあるかもしれないけど、どんなに苦しくても、病気と向き合って頑張って負けずに闘ってほしいと思うので、安楽死は合法化しない方がいいと私は思います。
和尚さんは、安楽死についてどう思いますか?

【拙回答】

拙生も「安楽死」は合法化しない方が良いと思っています。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「安楽死」につきましては、これまでにも下記の各問いにて少しく扱わせて頂いております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/安楽死

個人の尊厳の尊重の観点から鑑みても、「安楽死」は合法化しない方が良いと思っています。

仏教では、死は終わりではなく、今の肉体が滅んだ、その後も続いていく心の状態(心相続・心の連続体)をどうするべきか、もちろん、死を迎えるまでにどのように調えておくべきか、ということが大切となります。

ダライ・ラマ法王猊下様は、「安楽死」について、以下のように昔に述べられています。

「仏教の観点からすると、臨終の床にある人間が、肯定的な、善なる考えを抱く機会があるならば、わずか数分でも長く生きることは意味があり、大切である」

「死にゆく人が肯定的な、善なる考えを抱く可能性がまったくない場合、単にその命を維持するために膨大な金を費やしても、たいして意味は感じられない。しかし、いずれの場合も、個々の事情を考慮すべきだ。一般化するのは危険といえる」

この問題に関しましては、肉体と心は、別で考えるべきであると思っております。

肉体の働き・作用がほとんど無くなる、機能しなくなろうとしていても、存続していく心の状態を重視して、その赴きがより善いものとなるように、できるだけ本人も周りも努力することが大切となります。

とにかく、死にゆく者の「心」の状態を尊重し、どの選択がより善い心の存続のためになるのかを、周りの関係者も含めて、個々の事情を考慮して、慎重に選択していくことが必要であると存じております。それを法律で一律に決めてしまうというのは、やはり難しいものになるのではないだろうかと存じております。

川口英俊 合掌

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http://hasunoha.jp/users/16

問い「「チベット仏教哲学」について」

問い「「チベット仏教哲学」について」
http://hasunoha.jp/questions/2520

【ご質問内容】

松本史朗氏は『チベット仏教哲学』に於いてツォンカパを称賛される一方で、
「縁起説を擁護するツォンカパでも、縁起よりも無自性を重視し過ぎてしまった事により、
論理的矛盾から逃れられなかった。」(意訳)
と仰っておられますが、果たしてツォンカパの論理的矛盾とはどういう物でしょうか?

【拙回答】

ツォンカパ大師「縁起賛」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

ツォンカパ大師には「縁起賛」という著作もございますが、「縁起賛」はツォンカパ大師の「縁起」に関する見解について、最も理解できる著作であり、そこから鑑みても、「縁起よりも無自性を重視し過ぎてしまった」と果たして言えるのかどうかというところが実はございます・・

「縁起賛」につきましては、下記の内容をご参照下さいませ。

「縁起賛」他
http://goo.gl/Fk8Hje

もちろん、ご質問の内容は、『チベット仏教哲学』松本史朗先生の第9章「ツォンカパ哲学の根本的立場」p287-320、第10章「ツォンカパと離辺中観説」p321-401の内容を指事されてのことであるかと存じます。

松本史朗先生が、「縁起説を擁護するツォンカパでも、縁起よりも無自性を重視し過ぎてしまった事により、論理的矛盾から逃れられなかった。」(ご質問者の意訳) と述べられておられますのは、『「空」(無実体・無自性・無自相)を指示するための空思想・中観思想が、実体論・実在論的なもの、あるいは如来蔵思想的なものへと転落してしまった』ということの論理的矛盾についておっしゃられようとされているのではないかと存じます。

この点は、色々と危惧すべきところがあり、あまりにも「空」を重視しすぎれば、「虚無・絶無」論へと転落してしまう可能性があり、「縁起」を重視しすぎれば、「実体・実在」論へと転落してしまう可能性があり、または、その逆も言えることで、「空」を重視しすぎて、「空」が「実体・実在」論へと転落してしまう、「縁起」を重視し過ぎて、「縁起」が「虚無・絶無」論へと転落してしまうこともあり得るだけに、気を付けなければならないものとなります。

とにかく比量における理解においては、「空」は「縁起」と同等のレベルにて捉えて理解すべきものとして、「空」→「縁起」と「縁起」→「空」と、互いに理解を相互補完すべきものであると存じております。

ツォンカパ大師が、「縁起よりも無自性を重視し過ぎてしまった」のかどうかにつきましては、まだまだツォンカパ大師の中観思想について拙学びの課題として意識して、安易に結論は出さずにおきたいと存じております。ご容赦の程を宜しくお願い申し上げます。

川口英俊 合掌

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http://hasunoha.jp/users/16

問い「縁起とは」

問い「縁起とは」
http://hasunoha.jp/questions/2515

【ご質問内容】

あらゆる物は縁によって生起させられる故に「無自性」・「空」であり、
その縁起すらも恒久的に存在するのではなく「不生」「無自性」であると喝破し、
最終的には「空」の否定により戯論が寂静した境地こそが、涅槃・勝義諦であると云う事でしょうか?

ところで龍樹は「釈尊は不生不滅にして戯論寂静なる縁起をお説きになった。」と仰られておりますが、
「戯論寂静なる勝義こそが縁起」と云う事はあまり耳にしません。

これらの事について解説して頂いても宜しいでしょうか?

【拙回答】

「空」と「縁起」について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

悟り・涅槃・勝義諦というものは、確かに戯論寂静、離戯論の境地となりますが、『「空」の否定により戯論が寂静した境地こそが、涅槃・勝義諦である』では なくて、「空」という言葉が示すところ、意味するところにすらも、何らとして実体・自性・自相が無いということにおいて、要は『「空」すらも、もちろん 「空」である』ということとして、戯論寂静を目指していかなければならないということになるかと存じております。

『「戯論寂静なる勝義こそが縁起」と云う事はあまり耳にしません。』・・

「縁起」は、モノ・コトのありようを理解する上で大切な概念ではありますが、あくまでも世俗のモノ・コトのありようを措定的に示すために説かれるもの、「空」を理解するために説かれるものとして、「縁起」が「勝義」ということにはならないかと存じております。

また、「縁起」には、主に三つの理解として、第一に、「原因と条件と結果における依存関係」、第二に「部分と全体とにおける依存関係」、第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによるという依存関係」がございます。

「空」と「縁起」について、正しく理解することで、しっかりと悟り・涅槃・勝義を志向して参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

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http://hasunoha.jp/users/16
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