hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

2016年09月

問い「悟りすら単なる概念?」

問い「悟りすら単なる概念?」

【ご質問内容】

悟りとは 
実はすべて幻だった!ときづくことですよね?

悟りすら単なる概念ですよね?


【拙回答】

悟りも「空にして縁起なる」幻の如きようなもの

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「悟りとは 実はすべて幻だった!ときづくことですよね?」・・

仏教では、確かに一切の全てのモノ・コトというものは、幻の「如き」ありようだと説明されます。

それは、あたかも、幻、夢、陽炎、こだま、逃げ水、蜃気楼、ガンダルヴァ城のようなものであるというような例えの表現で示されています。

しかし、あくまでも「如き」、「ようなもの」であることに気を付けないといけません。

何も無いわけではなく、確かにモノ・コトは「縁起」(因縁、依存関係など)において、あり得ています。

無いとして否定されるべきものは、「実体」(他に依存せずに独立自存にて、永久永遠に変わらずに存在し続けているような自性・自相)というものとなります。この実体が無いということを、仏教では「空」と申します。

ですから、「全ては幻だ」と言って、赤信号であるにもかかわらず、信号も車も「幻である」として、交差点に突っ込んでしまっていけば、当然に事故に遭い、怪我してしまう、最悪、死んでしまうことになります・・

悟りの一部分としては、智慧としての上記の「空と縁起」の理解をしっかりと修習していくことが大切なことになります。

「悟りすら単なる概念ですよね?」・・

概念であって概念でない・・むしろ、概念を超えた概念とでも言いますでしょうか・・また、「戯論寂滅」とか「言語道断」とか、概念を超えたところに「ある」ものだとも勘違いもされがちですが、悟りというものも、実は「空(実体としては無く)であり、縁起(因縁・依存関係など)により成り立っているもの」であります。

ですから、しかるべくに悟るための因縁(原因と条件、簡単には、原因としての菩提心と条件としての智慧と福徳の資糧の集積)を調えることができていけば、やがては、悟りへと至れることになるということでございます。

共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「般若心経を唱える効果」

問い「般若心経を唱える効果」

【ご質問内容】

先日質問をさせてもらい、丁寧なアドバイスありがとうございます。

さて、質問なんですが、私は以前から知人から、般若心経を唱えると私はもちろん、私の周りの方、家族などにもよい影響を与えると言われたので、毎日寝る前などに唱えてます。

宗派は関係なく、唱えてOKと言われました。

般若心経を唱える効果をお聞きしたく質問させてもらいました。


【拙回答】

般若心経の真意について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

般若心経は、「最高の智慧の心髄なるお経」として、私たちの迷い苦しみの原因である無明(根本的な無知)を対治していくための教えとなってございます。

ですので、ただ唱えるだけではなくて、その意味内容をしっかりと理解した上で、実践的に活かしていくことが何よりも大切なことになって参ります。

その般若心経の説く真意につきましては、下記の拙論におきまして僭越ながらにも扱わせて頂いておりますので、少しくご参考頂けましたら有り難くに存じます。

『般若心経における「空」について』 

「・・お釈迦様の教えとなるお経は、その内容を理解して、悟りへと向かうための実践として活かしていくことが大切となります。「般若心経」も同様に、ただ読経するだけ、ただ写経するだけではなく、その「深遠なる空の智慧」の内容を理解して、生きる実践、仏道の実践に役立てていかなければならないものとなります。・・」

共に頑張って努めて参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「空についての理解」

問い「空についての理解」

【ご質問内容】

2回目のご質問になります。前回も真摯なご回答を 
ありがとうございました。 
尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な 
ご相談を優先させて下さい。

仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりませんので、 
ご教示頂ければ幸いです。

世俗諦としての表現でしか質問できませんので、 
質問の意味も理解されるのか心配でもあります。

これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」 
であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」は 
なく、全て川のように流れていくものだと理解し 
ました。=無常・無我 
→この理解で正しいでしょうか?

物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空? 
この意味が正直、理解に苦しんでいます。 
「空」(から)という世俗諦としての言葉のイメージ 
だと、「からっぽ」のように感じます。 
でも、何もないと定義すると六根センサが何も作動 
しないと思います。 
「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。

私の理解したことは、 
全ての物は「地水火風」の構成のされ方で、現象 
としての現れ方が異なる。 
→物質、人、動物、植物・・等々

全ての物は、エネルギーと言えるのではと、感じました。 
エネルギーという表現が適切かわかりませんが。

物質には、質量というエネルギーがある。 
生命にも質量もありますが、心があり、生存欲求や色々 
な欲求がある。これらをエネルギーと表現しました。

このエネルギーが他のエネルギーとぶつかりあって変化 
を生み、因果法則によって、現象として常に変化し続ける。

物質も空気に触れ、物質と空気のエネルギーのぶつかり 
合いで酸化し、そのもの自体も変化し続ける。

自分の心(本当は自分という実体はないのでしょうが)も 
六境が六根センサにぶつかり、物事を認識し(エネルギー 
がぶつかる瞬間)、六識で心が何らかの反応をする。

ぶつかるという表現より影響し合う方が適切かも 
しれません。

ですから、「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、 
あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、 
因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは 
誤りでしょうか? 
空=無常=無我と感じられます。

以上、初歩的な質問で恐縮ですが、宜しくお願いします。


【拙回答】

「空」の理解へと向けて

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりません」・・

「空」の理解は、ある程度論理的(比量)に把捉していけるものと、(体験的)直観(現量)にて把捉していけるものとがありますので、慌てず、焦らずに、仏教の修習を進めながら努めていくことが大切となります。

「世俗諦としての表現でしか質問できませんので、 質問の意味も理解されるのか心配でもあります。」・・

勝義諦へ向けては世俗諦の扱いが重要となることは言うまでもありません。また、世俗諦の定義についても、色々と見解が分かれてしまっているところもあり、しっかりと考えていくことが大切となります。

「これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」 であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」はなく、全て川のように流れていくものだと理解しました。=無常・無我」・・

おおよそ、そのようなご理解で良いのではないかとは存じます。ただ、無常については、「縁起」の中における「因縁」(原因と条件)によっての変化と理解されておいて下さいませ。

「物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空? 」・・

『物事が「実体として」あるでもなければ、ないでもない。』、「実体として」が重要なポイントとなります。

「「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。」・・

「縁起」によってあるものは、ありえています。ただ、「実体として」はありえていないということになります。

「「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、 あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、 因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは 誤りでしょうか? 空=無常=無我と感じられます。」・・

「縁起」には実は、大きく三つの依存関係について考える必要がございます。上記の場合は、一つ目の「縁起」としての理解となりますでしょうか。あとの二つについては、下記の拙論にも少しく書いてございますので、是非、ご参照下さいませ。

『般若心経における「空」について』 

字数制限の関係上、ここまでにて失礼致します。

川口英俊 合掌

問い「悟ったお坊さんへ」

問い「悟ったお坊さんへ」

【ご質問内容】

悟ったら毎日どんな感じですか?

悟ったら毎日たのしいですか?

たのしいだと 
つまらないが対極について回るから

たのしいというより 
静かな感じですか?


【拙回答】

悟りへと向けて・・

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

悟りへのご興味、誠に有り難く尊いことでございます。

どんな境地が目的・ゴールとなるのか、それを事前におぼろげながらにでも、しっかりと理解した上で、仏教の修習を進めていかないと、一体どこへ向かっているのかも分からずに、無駄に五里霧中を彷徨うようなものとなってしまいかねません・・

悟っておられる如来様の境地につきましては、難しい言葉で申しますと、仏教を修習なさられて、智慧と福徳を円満に成就されて、輪廻して迷い苦しむ原因となってしまっている煩悩障と所知障を断滅されておられて、悟り得られたる如量知・如実知(一切知・勝義知)によって、例えば、モノ・コトの顕現については、「ご覧にならない仕方で、ご覧になる」と言うような表現となります。

もちろん、当然に「なんのこっちゃ・・」となるでしょうが・・

もし、大いに興味がございましたら、そうですね・・

全訳・ツォンカパ大師「中論註『正理の海』」の「第24章・聖諦の考察」の内容を理解できるところまで、是非、まず仏教について優しく分かりやすく説かれている教えから、一つずつ段階的に学びを進めていって頂けましたらと存じます。

拙生はもちろん全くまだ悟ってはおりません。共に悟りへと向けて頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「受け入れるしかない「苦しみ」について」

問い「受け入れるしかない「苦しみ」について」

【ご質問内容】

親が老いて体が動かなくなり、認知症になり、死んで行くのを看取る苦しみ。

そして、同じ様に自分も老いて行く事が分かっていながら何も出来ない苦しみ。

なので、時の過ぎるのがとても怖いです。

「一日一生」と分かっていますが、生きてきて46年。

無駄にしてきた時間を思い返し、もう若くなく、社会では「初老」

人生を社会でやり直すには必要とされない年齢となり、思い描いてい

た自分の像と、現在の自分とのギャップに苦しんでいます。

仕事はしていますが、自分のしたい事ではありません。

すれば良いと言われるかもしれませんが、年齢を考えると事業に失敗する事が恐ろしいです。

でも、したい。

「老い」も怖いのですが、「思っていた事をしないうちに老いる」のが怖いのです。

今は、高齢者の方を見ても、死んで空き家になった家を見ても、老い

始めた両親を見ても「怖さと不安」がこみ上げてきます。

この苦しみを受け入れる心構えを教えて下さい。


【拙回答】

良い因縁へと向けて

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「苦しみ」というものは、ある一面において、私たちの都合(期待や希望、欲望など)によって生み出して(生み出されて)しまっているところがあります。

こうだったらいいのに・・と思っていても、どうにもままならないという感じになりますかね・・

とにかく、この世が因縁(原因と条件)に依り変化していく世界である以上、因果律から逃れられることはできません。例えば、原因(と条件)もないところに結果は決して出ないということでございます。

ということは、因縁をより良いものにしてやることができれば、必然的に結果も良いものとなっていくはずだということです。もちろん、複雑な無数の因縁が絡むため、一概、一律に、「これとこれをしたから、はいこれになる」とも言えないところがあるのですが・・

仏教では、この因縁の流れについて、今生だけを限定的に見るものではなく、もっと過去世からの流れ、そして、これから先(来世、来来世・・)への流れも見ていかなければならないものとなります。

また、良い因縁を、と申しましても、その内容には、実は、世俗的なものと、そして仏教真理から説かれるもの(勝義的)の二通りがあります。

できれば、しっかりと仏教を修習していく中で、両方ともに良い因縁となるような行いに努めて参りたいものでございます。

仏教を学びますと、世俗的な良い因縁についても当然に調えていくことができるようになります。

是非、これを機縁に仏教により興味を持って学んでいって頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「生きる価値」

問い「生きる価値」

【ご質問内容】

冷静に客観的にみても

自分は生きる価値がないと思います。

普通はそんなことないよ。とか 
いうと思うのですが、

どうみても 
冷静にみても、 
価値がない気がします。 
そんな人はどうしたらいいでしょうか


【拙回答】

因縁次第で変わるもの

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

生きる価値・・

生きる価値も含めて、この世における全てのモノ・コトは、因縁(原因と条件)次第。

因縁次第で変わるものであり、実体として、「これだ」と言えるようなものではありません。また、因縁によってあり得るもので、全く無い(虚無)というわけでもありません。

良い因縁に依れば、良い価値に。悪い因縁に依れば、悪い価値に。しかも、良いも悪いも相対的なもの。何を基準の評価とするかによって変わりますし、人や社会、文化によっても変わるもの。

自分の納得する価値が得られるかどうかも因縁次第と自分次第。

最初から全く無いと諦めるものではなくて、納得する価値を得れるようにしていくための、それなりの因縁を調えることに努めて参りたいものとなります。

川口英俊 合掌

問い「人生の意味」

問い「人生の意味」

【ご質問内容】

生きる意味を教えてください! 
別に自殺を考えたり、リストカットしているわけではありませんが生きている意味がイマイチよくわかりません。 
100年後には確実に今生きている人のほとんどが死んでいます。たしかに生きていると悲しい事も楽しい事もあります。しかしこの世にはテロや残酷な殺人事件、強盗、DV、痴漢、いじめなど人生を狂わせることがあります。私は幸運にもそういう事件や事故には巻き込まれていませんがそういう方は多くいますし、見聞きするだけでもとても嫌な気分になります。全ての人が嫌な奴とは思いません。しかし人の人生を平気で壊すような人が大勢いる腐った世の中で生きていくのにはいったい何の意味があるのですか?血のにじむ努力して頑張ってる人にとって、平凡に静かに暮らしている人にとっては理不尽だらけです。さらにいえば貧困やエイズ、戦争、病気で若くして亡くなる人にとってはもっと理不尽です。悪いことをした人に罰は与えられないのですか?反省すれば許されるのですか?何も悪いことをしてないのに被害に遭う人に幸せはくるのでしょうか?毎日毎日学校に通い、手伝いをし、ボランティアや習い事、部活をしている自分が生きている意味がよくわからなくなります。


【拙回答】

「心の向上」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

生きる意味、人生の意味、確かに拙生も昔はよく考えておりました。

仏教を修習していくようになりまして、今は一つの結論が出ております。

「心の向上」、あるいは、「人格の向上」と言っても良いでしょうかね。

とにかく、この迷い苦しみの世界に生まれ死にを繰り返す(輪廻)原因として、「心」の問題が大きく関わってしまっています。無明(むみょう)という根本的な無知と、無明によって積みたる業(カルマ)の問題でございます。

来世、来来世へと続く心の状態を、何とか少しずつにでもよりよくに向上させていけるように、今世においてもできる限り努めて参りたいものと存じております。

是非、心をより善くに、より清らかに変容させていくための教えとしてある仏教に、関心を持って修習していって頂けましたら、大変に有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「どちら共 心に響くんです」

問い「どちら共 心に響くんです」

【ご質問内容】

 先日 墓前に手を合わせてきたのですが 
いつもなら ただ心のままに手を合わせ小さい時から耳馴染んできた南無阿弥陀仏と声に出さずとも…なのに 今は亡き父が闘病生活で今まで仏壇すらなかった家に見たこともない位に大きなそれに手を合わせ南無妙法蓮華経と一心不乱に題目してた記憶が頭の中を駆け巡り自然と南無妙法蓮華経と呟いていた自分が居ました。横で手を合わせていた子ども達が不思議そうに私を見て ふ と我に戻ったような気持ちで家についてからも悶々とした状態でした。数ヶ月前から、何度となくハスノハに質問し、有難い回答を宗派問わず色々な角度から聴かせて頂き、座禅会や供養で敷居が高いと遠慮していたお寺にも足を運び 随分と穏やかに過ごせるようになった今 菩提樹もなく仏壇もない自分ですが 一つの宗派にとことん向き合い毎日を丁寧に生きたいと強く思うようになりました。 ただ一つに決める事が出来ず身近な信頼してる人の話しを聞いたり足を運んだりしながらも本を読んでみたり…良いとこどりのズルイ信心だねと 
、からかわれたり…  しばらく、こんな状態が続きそうで ごめんなさい、コチラで愚痴らせていただきました。 ハスノハは、こんな中途半端な私の拠り所となり有難い居場所です。 


【拙回答】

ゴールである「悟り」へと向けて

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

八万四千の法門と言われますように仏教の教えの入り口はたくさんございます。

途中でもちろん道が交差していたり、分かれ道が一本道になり、また別れることもしばしばです。

でも目指すところのゴールは、一つ、「悟り」です。

「悟り」へと向けて、仏教のよいとこどりも、もちろんアリであると存じます。

拙生も色々と今はまだよいとこどりをしていっていますよ。。

ただ、問題は、何でもかんでも受け入れられるほどの器でなければ、食べ物と同じでいずれ消化不良してしまいかねません。

まずよいとこどりをしていく意図で、できるだけ仏教全体を概観、試されていかれた上で、いずれは、絞っていくことも必要な時期が来るかもしれません。

色々と寄り道をしてしまっていては、今生における時間がなくなってしまうという感じになりますでしょうかね。

拙生も、そろそろ道を絞らないといけないかもと実感しています。

川口英俊 合掌

問い「私が死んだら、自力で成仏できますか?」

問い「私が死んだら、自力で成仏できますか?」

【ご質問内容】

私には子供がおりません。 
供養してくれる人がいません(たぶん)

私は、火葬と納骨までしてもらえれば、それで良いと 
考えております。

自然の摂理に沿って、最後は潔く死に、 
そして、誰からも供養してもらわなくとも、 
自力で成仏したいのです。

死後、お線香をあげてくれる人がいなくても、 
一周忌や三回忌の法要がなくても、 
自分の意志で成仏できますか?


【拙回答】

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

亡くなってからのことではなく、是非、できるだけ今のうちから、確かなるご仏縁、堅固なる菩提心(悟りへと向かうための決意)をお持ち頂けますように、仏教により接していって頂けましたらと存じます。きっと、よりよく生きていくための智慧にもなることでしょう。

川口英俊 合掌

問い「どうやって生きていけば」

問い「どうやって生きていけば」

【ご質問内容】

私は言葉がきつくて、たくさんの人を傷つけます。自分はその人のことが大好きなのに、公共の場でうるさくした友人に黙れといってしまっことがありました。私が友達に言ってしまったことはこれだけではないです。

毎日、夜に布団のなかで反省しては自己嫌悪に陥ります。そこで後悔しても、何度もくりかえしてしまいます。

人を傷つけるだけの私は生きている意味がないんじゃないかと思うことが多々あります。 
私はどう生きていけばいいのか教えてください。死ぬのも一つの手だと思っていますので、そのときは受け入れます。


【拙回答】

相手の事を思い遣る心を育てるために

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

怒りに任せて言葉が出てしまうといった感じでしょうかね・・

相手の事を思い遣る心を育てることで、抑制、配慮もできていけるようになるのではないだろうかと存じます。

相手の事を思い遣る心を育てるための一つとして、仏教的には「慈悲の瞑想」がお勧めとなります。

「慈悲の瞑想」につきましては、日本テーラワーダ仏教協会さんの「慈悲の瞑想」が有名ですので、下記にご紹介させて頂いておきます。

「慈悲の冥想 Metta Bhavana」 

「慈経 Metta Suttam/※注意・パーリ語読み自動再生あり」 

一つ参考として実践なされてみて下さいませ。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌
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