hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

2016年12月

問い「悟りを開いたら」

問い「悟りを開いたら」

【ご質問内容】

こんにちは。四海と申します。質問を見ていただいてありがとうございます。

私は最近仏教の魅力を知り、ネットなどを使って仏教について調べて瞑想などにも挑戦しました。そしてあるとき突然猛烈な衝撃に襲われました。自分と周囲が共に呼吸して境目がなくなった感じがしたのです。それ以来痛みや空腹などを感じてもそれらに惑わされることがなく、心がつねに穏やかで喜びと感謝で満ち溢れています。(言語化すると非常に分かりにくい感覚なので拙い表現なのはご容赦ください。)ひょっとして悟ったのかなと思いましたが実際周囲に変化を指摘されたのでやはりそうみたいです。

ここでひとつ伺いたいことがあります。 
悟りを開いたら何をすればよいのでしょう。苦しむ人々を助けたいという気持ちこそありますが16歳の小娘に出来ることなどあるのでしょうか。

母や父にはとても相談出来なかったのでここで質問させていただきました。お知恵を拝借したいです。


【拙回答】

二障の断滅

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

最近は、「アドヴァイタ」(非二元性)、「ノンデュアリティ」(非二元)などの体験を「悟り」として誤解されている方が多くなってきてしまっているように存じます。

仏教における、「無分別」をめぐる議論にも関わって参りますが、それも悟りへ向けて必要となる二つの資糧、「智慧」と「福徳」のうちの、「智慧」の中における「空性」の理解の一つのことであって、その「空性」の体験的理解の一つを「悟り」と勘違いしてしまっている場合がほとんどでございます。

仏教の禅定における「三昧」や「等引」も勘違いされやすいのですが、拙見解では、確かに悟りを開く前の段階においては、そのような「空性」体験も大切なことであると認識していますが、しかし、まだそれは悟ってはいない段階のものであって、そのような体験から元の世界に戻ったとしても、結局は、無明・煩悩により、迷い苦しむままであるのが恐らく現実でありますでしょう。

悟りへと至るためには、煩悩障と所知障という悟りの障りとなっているものを、智慧と福徳という二資糧によって、しっかりと断滅させない限りは、真なる悟りへと至れることはあり得ないとして、是非、これも機縁として、これからも仏教の修習に取り組んで頂けましたら有り難いことであると存じております。

共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「追善供養について」

問い「追善供養について」

【ご質問内容】

浄土真宗で追善供養をしないのは何故ですか? 
「追善供養は自力だから」「亡くなった人はみんな極楽に往生して供養する必要がないから」などなど色んな意見があるみたいですが、どれが本当ですか?


【拙回答】

「追善供養」について

川口英俊でございます。問い拙生のお答えでございます。

「追善供養」の考え方も色々と宗派で異なるところはありますが、基本的には、「悟り」へと向けて、「亡くなられた方も私も皆も、供(一緒に)に養う善徳行」と考えておくと良いのではないだろうかと存じます。

上記のように考えておけば、浄土真宗の場合であっても、釋髙明様もおっしゃられています「聞法のご縁」も、「悟り」へと向けた「供に養う善徳行」の一つと捉えておくことができるのではないだろうかと思います。

また、供に養う善徳行を、亡くなられた方とも共有(回向)するという意味合いが「追」であるとすることもできるかと存じます。

川口英俊 合掌
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