hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

各宗派の教えについて

問い「素晴らしさはわかるのですが…」

問い「素晴らしさはわかるのですが…」
【ご質問内容】

お念仏のありがたみは分かるのですが、どうしても「阿弥陀さまを信じてお念仏を唱えたら極楽に往生できる」ということに疑念を抱いてしまいます。疑い深い性格でして、「たったそれだけで?」と思わずにはいられません。 
もちろん、「たかがそれだけ、されどそれだけ」というのはわかるのですが、どうしても信じられないというか。 
信じるって難しいですね。 
私にはお念仏があっていないんでしょうか?


【拙回答】

悟りへと向けて

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

私たちが仏教を修習して目指すところは「悟り」です。

往生も大切ですが、何よりも悟りが目指すべき最終の目標となります。

往生というのは、悟りを目指すための一道程、過程に過ぎません。

自分に合わないルートであると判断されれば、まだルートはお釈迦様により幾つも開かれているのですから、別のルートを選択するのも必要なことであるかとは存じます。

頑張って悟りを目指して仏道に精進して参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「法華経が好きなのにお念仏」

問い「法華経が好きなのにお念仏」

【ご質問内容】

私が仏教に興味を持ったのは、ある落語家兼尼さんの著書で仏教と法華経の解説を読んだからです。 
私はそれまで大乗非仏説を支持していたのですが、この方の著書を読んで考えが180度変わりました。

ところが、私は不思議とお題目を唱える気にはなりませんでした。天台宗で法華経が顕教だけではなく、密教の経典としても扱われていることを知り、すぐにご真言に興味を持ちました。

ある時、法華経に「一称南無仏 皆已成仏道」と書いてあるのを知り、私はこれをお念仏の教えと解釈し、今度はお念仏に興味を持ちました。

大無量寿経を読むと、お釈迦様が「私が死んでも阿弥陀如来に関する教えがなくなることはない」というようなことをおっしゃっていて、お釈迦様の最後の教えである法華経とも矛盾しておらず、何だか嬉しくなりました。

しかも私は統合失調症という精神病を、軽くですが患っておりまして、「厳しい修行やなんやかんやは無理やけど、阿弥陀さまを信じてお念仏を唱えるだけでいいなんて、なんと大きなお慈悲なんだろう!」ととても感激いたしました。

更に、法華経で「法華経の説く清浄な意根を持っていれば、他の宗教や信条を信じていてもお釈迦様の教えに通じている」と説かれていることから、大乗仏教の裾野の広さ、寛容さを実感し、「みんなで幸せになれる!」とまたまた嬉しくなりました。

長くなりましたが、これって「阿弥陀さまに仏縁をいただいた」と認識しても問題ないですかね? 
法華経の解釈とかあくまで自分の解釈なので、勝手な思いあがりかと思い少し心配になりました。


【拙回答】

法華経と大無量寿経

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

以前の他の方からのご質問の拙回答と被ってしまうものとなりますが、実はこの私たちの今いる世界は途方もない広い三千大千世界(十万億土)のほんの一つであり、この三千大千世界を一つの仏国土として、この仏国土に2600年ほど前に現れられたのが、偉大なる世尊仏陀、お釈迦様(最勝応身)でございます。

現在、この仏国土では応身の仏(如来)様は不在となっておりますが、56億7千万年後には、兜率天でご修行されておられる弥勒菩薩様が如来となって応身として現れられるとされています。

そして、この仏国土の他にも、同じように三千大千世界(十万億土)を持つ仏国土があり、例えば、私たちの仏国土の西側には阿弥陀如来様の西方極楽世界が、東側には、東方浄瑠璃世界、あるいは、妙喜世界があり、それぞれ薬師如来様、阿しゅく如来様がいらっしゃり、また、密厳浄土という仏国土においては、大日如来様が、それぞれに法をお説きになられて各仏国土にて有り難く尊くにも衆生済度にお取り組みなされておいででございます。

悟りを開かれた仏様、如来は、皆同一にお偉いお方たちとなります。

各如来様方は、もちろん、違う如来様方となります。

真如・真理としての法身については、如来として同一であっても、教化するための報身や応身は、悟りへ至ったための誓願や修行内容などの因縁(原因や条件)により異なるものになっております。

但し、互いに何でも知り尽くしている一切知者同士であり、お釈迦様も阿弥陀如来様も互いのことは自分のことのように把捉できるのであります。

ですから、仏典でも互いの事を述べあったりということも、当然にあり得ているのであります。

話を戻しまして、法華経と大無量寿経における内容が矛盾していないというのも、一切知者同士におけることでの話であるから当然と言えば当然なことになります。

但し、問題は、悟り得た側によっての顕現している世界についての様々な表現を、我々凡夫の側からでは字義通りに正しくに解釈できないこともあるというところでございます。

仏様のお言葉を解釈する際には、了義(最高の真理)と未了義(最高の真理へと至るための方便)の二種により説かれているということについての前提理解も必要となりますので、その点は注意が必要となります。

川口英俊 合掌

問い「般若心経読んでみました。」

問い「般若心経読んでみました。」

【ご質問内容】

教えてください。 
般若心経読んでみました。

つまり般若心経は。

リラックスしようよ。 
あなたが思っているようなことは 
何も起こらないよ。 
感情は浮かんでは消え川のように流れ、 
大海に流れていく。 
そして、 
あなたは大海そのものだから、 
決して溺れることも沈むこともない。 
だから身を委ねてマントラ?を唱えましょう。 
みたいなことですよね?

全てはひとつ。(ワンネス) 
と言っていても、

色と空は一つにできない 
って書いてありますよね。 
そこらへんがわからない。

色と空がさっぱりなんですが、 
そんなに深く考えなくてもいいところでしょうか?


【拙回答】

焦らずに

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

早速に、どなたかの般若心経の解説の本を読まれたのですね。。

ただ、どうもやや抽象的で捉えにくいところがあるような感じにも見受けられます。

とにかく焦らずに、少しずつ字義の真意について納得されていかれると良いのではないだろうかと存じます。

これからの理解へと向けたヒントとしては、「縁起と空」、そして「世俗諦と勝義諦」ということにて、その理解も必要となって参ります。

「色と空」は、「顕れの世界と世界の本質」というものについての考察となりますが、まだ全く何のことかは分からなくて構いません。

般若心経に関する解説本はたくさんありますから、できる限り、色々と、それぞれを学ばれる中で、検討吟味しつつ、また、仏教の基本的なことも学びながら、是非、今後ともに仏教に興味を持って取り組んで頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「仏教における勉学」

問い「仏教における勉学」

【ご質問内容】

ご閲覧頂きありがとうございます。

仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 
中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。

誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。

ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。

仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。

【拙回答】

向こう岸(悟り・涅槃)に渡れば、捨て去る筏のようなもの

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教から見た「学問を勉強すること」について、でございますが、もちろん、例え仏教であっても、この世俗世間で生きていくためには、学問の勉強も当然に必要で大切なことになります。

ある程度、モノ・コトの分別、世俗的常識、生きていくための知識、仕事のための知識なども付けていかなければ、社会生活はとても営めるものでありません。その点は、仏教であろうがなかろうが、この世界で実際に生きて生活している以上は当たり前のことになり、疎かにできないものとなります。

しかし、仏教の最高真理としての「勝義諦」としては、学問も、学識も、知識も、分別も、これら全ては実体としては成り立っていない「空」なるものであって、そこにとらわれて、執着することはできないものとなります。

もちろん、それらにとらわれて、執着することはできないにしても、世俗世間で生きていくためには、完全に捨て去ることはやはりできません。しかしながら、あくまでも、それらは依存関係、縁起によって成り立っているものに過ぎないということを理解していくことが求められるものとなります。

仏教の目的とする悟り・涅槃へと向けて、学問も、学識も、知識も、分別も、もちろん必要で、悟り・涅槃という向こう岸へ渡るためにも必要ですが、渡り終われば捨て去る筏のようなものであるという感じでございます。

そのあたりのことの理解へ向けては、是非、興味がございましたら、龍樹大師の「中論」も学び進められて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「仏教の新興宗教って」

問い「仏教の新興宗教って」

【ご質問内容】

友人の誘いで仏教系の新興宗教?に顔を出しています。

宗教といっても、軽いサークルのような所です。

それは置いておいて。

今ある環境が私はとても苦しく大変だなと感じているんですが、これもお釈迦様の計らいというものでしょうか?

私を成長させるために仕向けたものなのですかね。そんな感じで言われたのですが。 
最初は納得するのですが後で本当かなぁとちょっと疑ってしまいます。

教えを聞いて、納得して、疑問に思っての繰り返しです。

相手を変えないで自分が変わる、親や先祖を大事に。感謝。

人としての基本だと思うことを教えていただ いて、実践しています。

ただ、私が若いせいか、親や親戚が宗教=危ない

という考え方でちょっと探るために知り合いが宗教を?と話すとやってはいけないと言われます。

なので通っていることは秘密です。

そこは生活の制限など何かをしてはいけないというのは全くないので、たまに顔出して色んな人の悩みを聞かせていただいています。

色んな宗教があって、中には危ない場所もありますが全部が全部悪いわけじゃないですよね。若い私たちは、安全な宗教とそうじゃない所を見極める必要がありますが。

しかし宗教をやってない人には言えないこの罪悪感はなんなのでしょうか。


【拙回答】

盲目的、妄信的な信仰とならないように

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

石田智秀様もおっしゃられておりますように、盲目的、妄信的な信仰は危険なものとなります。

しっかりと疑いがあれば、批判的、合理的に検証して参りたいものでございます。

「自分が変われば、周りも変わる」というのは、確かによく言われることですが、自分の見方、捉え方だけがただ変わっているだけで、周りが変わって見えているだけに過ぎないという場合もございますので、そこは注意が必要です。

「親や先祖を大事」、「感謝」するというのも、ただ、抽象的な標語のようなものとなっていないかどうかについても十分に注意されて下さい。

色々と問題の本質のすり替えなどに終始していないかどうかを見極められつつ、しっかりと良い(幸せ、悟りという)結果へと向けた良い因縁(原因と条件、動機と行動)を調えて参りたいものでございます。

とにかく、カルトの傾向は、セクト化し、独善性・排他性・脅迫性が顕著となっていくと危険度が増していくものであると考えております。

例えば、「自分のところが一番正しい、他は全て間違っている」とか、「自分のところに入れば救われる、他では救われない」など、あるいは、「先祖の因縁が・・」とか、根拠のない陰謀論を持ち出してきて、不安を煽り、その不安に付け込んでくるなど、いくつかのサインがあるかと存じますので、お気を付けくださいませ。

「宗教をやってない人には言えないこの罪悪感」・・

まあ宗教のことは、別にあまり関心のない、求めてもいない方に対しては、しいて言う必要はないものではないかなとは存じます。余計なおせっかいとでも捉えられる恐れがあると申しますか・・それぞれの気質、機根もありますから、自分の合っているものでも、相手に合うかどうかもわからないものですし・・薬と同じで、とにかく他に勧めるには、まずは自分でその効果を実感しないと勧められませんし、合う合わないという副作用も気にしないといけません。

しっかりと確実に相手のためとなるものになるまでは、薬の治験と同じで、批判的、合理的に検証していくことは欠かせないかと存じます。

川口英俊 合掌

問い「知識は救ってくれない。」

問い「知識は救ってくれない。」

【ご質問内容】

自灯明 法灯明なのですが、 
どんな素晴らしい教えも 
その教えを鵜呑みにするのではなく 
本当にそうなのかを自分で掴みにいき確かめないといけない 
と、思うのですが、

もうここで聞くのが間違っているのですが、 
自分に自信がありません。 
だからいつも知識に走ってしまいます。 
知識しかつかまないから 
何も身にならないわけです。 
でも自分ではわからないことがあって不安です。

それを聞くことが間違ってるのは承知なのですが 
自分で掴むことの 
アドバイスください。


【拙回答】

知識は大切です。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教において、知識は、直接知覚(現量)と推論論証(比量)と二つにて説明することになりますが、仏教の修習を進めていく上において、後者の論理思考能力の向上を図ることは、とても大切なことになります。

つまり、何が正しい方法、実践であるのかを明らかにしていかなければ、いくら頑張って進めていったとしても、全く見当違いのことをしてしまっていたりして、無駄、徒労に終わってしまうかもしれないからであります。

ただ、何でも言われたとおりに、こう書いているからといって実践するだけではなくて、自分で論理的に検討して、十分に納得した上で進めていくことが大切となります。

ここで疑問を聞かれることも、論理思考能力の向上に大いに資することです。

構いません。疑問があれば、どんどんご質問下さいませ。

川口英俊 合掌

問い「どちら共 心に響くんです」

問い「どちら共 心に響くんです」

【ご質問内容】

 先日 墓前に手を合わせてきたのですが 
いつもなら ただ心のままに手を合わせ小さい時から耳馴染んできた南無阿弥陀仏と声に出さずとも…なのに 今は亡き父が闘病生活で今まで仏壇すらなかった家に見たこともない位に大きなそれに手を合わせ南無妙法蓮華経と一心不乱に題目してた記憶が頭の中を駆け巡り自然と南無妙法蓮華経と呟いていた自分が居ました。横で手を合わせていた子ども達が不思議そうに私を見て ふ と我に戻ったような気持ちで家についてからも悶々とした状態でした。数ヶ月前から、何度となくハスノハに質問し、有難い回答を宗派問わず色々な角度から聴かせて頂き、座禅会や供養で敷居が高いと遠慮していたお寺にも足を運び 随分と穏やかに過ごせるようになった今 菩提樹もなく仏壇もない自分ですが 一つの宗派にとことん向き合い毎日を丁寧に生きたいと強く思うようになりました。 ただ一つに決める事が出来ず身近な信頼してる人の話しを聞いたり足を運んだりしながらも本を読んでみたり…良いとこどりのズルイ信心だねと 
、からかわれたり…  しばらく、こんな状態が続きそうで ごめんなさい、コチラで愚痴らせていただきました。 ハスノハは、こんな中途半端な私の拠り所となり有難い居場所です。 


【拙回答】

ゴールである「悟り」へと向けて

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

八万四千の法門と言われますように仏教の教えの入り口はたくさんございます。

途中でもちろん道が交差していたり、分かれ道が一本道になり、また別れることもしばしばです。

でも目指すところのゴールは、一つ、「悟り」です。

「悟り」へと向けて、仏教のよいとこどりも、もちろんアリであると存じます。

拙生も色々と今はまだよいとこどりをしていっていますよ。。

ただ、問題は、何でもかんでも受け入れられるほどの器でなければ、食べ物と同じでいずれ消化不良してしまいかねません。

まずよいとこどりをしていく意図で、できるだけ仏教全体を概観、試されていかれた上で、いずれは、絞っていくことも必要な時期が来るかもしれません。

色々と寄り道をしてしまっていては、今生における時間がなくなってしまうという感じになりますでしょうかね。

拙生も、そろそろ道を絞らないといけないかもと実感しています。

川口英俊 合掌

問い「法蔵菩薩はいつ阿弥陀如来になったのか?」

問い「法蔵菩薩はいつ阿弥陀如来になったのか?」

【ご質問内容】

真宗大谷派の門徒です。 
仏教に興味があります

法蔵菩薩は、48の誓願をかがえて阿弥陀如来になったと言われてますが、最後に誰を救って如来になったのでしょうか?

人や菩薩は次々と生まれ、南無阿弥陀仏と唱えていくので、終わる事のない営みの中で、「これでよし如来になれた?」と言うタイミングは何時、誰を救った時なんでしょうか?

それと

すでに阿弥陀如来に救われているとよく法話で説かれてますが、「救われている」自覚ないのは信心がないのではと思います。 
救われていると言う感覚(自覚)はどのように感じるのでしょうか?


【拙回答】

菩薩と如来の関係性

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

菩薩と如来の関係性には、大きく分けて二通りあるものだと考えられます。

一つは、三身(法身・報身・応身)の具備したる如来としての在り方における「はたらき」としての報身の菩薩として顕現なさられておられる場合。但し、凡夫が逢いまみえることはできず、ある一定の聖者の段階となれば邂逅でき、教化を受けられることがあります。

つまり、阿弥陀如来の報身として、「はたらき」を持っておられる存在としての菩薩と言える場合が一つ。

もう一つは、まだ、如来となられておられない修行段階として、悟りへ向けて精進なさられておられる存在としての菩薩の段階。

三身のことや、悟りへ向けて精進なさられている菩薩の境地のことについては、「十地経」(華厳経・十地品)に詳しく記述されています。

前者の場合であれば、既に悟られておられる存在として、後者の場合であれば、これから悟られることになる存在として、と言えるのではないだろうかと存じます。

また、後者の場合であれば、悟りへと至るための智慧と福徳の資糧が円満に調って、所知障を断滅し終えた段階にて、如来となられると言えるのではないだろうかと存じます。

但し、色々とお聞きのことにおける浄土真宗での解釈については、龍樹大師の著作として伝わる(但し、実際に龍樹大師の著作であるのかどうかは疑わしいところも・・)「十地経」の注釈書、「十住毘婆沙論」の「易行品」についての親鸞聖人の関連解釈にあたられるのが、より正確な理解につながるのではないだろうかと思われます。

このように言っておきながらも、実は、「龍樹の仏教」(十住毘婆沙論)・ちくま学芸文庫を持っているのですが、龍樹大師真作ではないと疑っており、いまだ読めておりません・・すみません。早速に「易行品」のところだけでも読んでみまして、新たな知見がございましたら、また補足追記させて頂きます。

川口英俊 合掌

問い「南無阿弥陀仏をおとなえする意味について」

問い「南無阿弥陀仏をおとなえする意味について」

【ご質問内容】

私の家は浄土宗の檀家です。 
浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。

しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。

といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。

「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。

おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。

つまり

「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか?

「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか?

という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。

これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。


【拙回答】

聖道門も浄土門も要諦は二諦の了解

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

浄土門(他力)からのお答えが多くございますので、あえて聖道門(自力)から・・と偉そうに言えるほどではありませんが・・

とにかく、聖道門も浄土門も、その教えの中には、既に如来によって悟られた世界、顕現としての勝義諦の側から説かれている教えがあり、世俗的な考え方において、勝義諦の教えを理解するのは、かなり難しいところがございます。(つまり、誤解も生じやすいというところがあります。)

実は、如来の教え(仏教)には、仏法の究極的な最高真理としての勝義諦の教えと、悟りへと導いていくための方便(対機説法・応病与薬)として説かれた教えの二通り(二諦)があり、その教えがどちらのものであるのかを、仏典や先師たちによる論書、注釈書を頼りに慎重に吟味して理解していくことが必要であると考えます。

つまり、勝義諦の教えを勝義諦の教えと理解して、方便の教えは方便の教えと理解した上で、それらを正確に修習において使い分けることができて、自らの気質・機根に応じての確かな仏道の歩みとなっているのかどうかが、大切なこととなって参ります。

とにかく、仏教には、大きく分けて二通りの説き方(二諦)があり、その教えはどちら側の教えで、それを自分の修習にどう活かしていくべきか、このことを少し意識しながら、これからも仏教を学ばれていって頂けましたらと存じます。

お礼を拝見しての追記・・

まさに、そのことを龍樹大師が、「中論」(根本中頌)において「観四諦品」(第二十四・第八偈~第十偈)『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』、『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』、『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』と述べられておられます。

いかに、「最高の意義」としての勝義諦を理解していくべきであるのか、是非、色々と学ばれていって下さいませ。

川口英俊 合掌

問い「「般若心経不信」になってしまいました。」

問い「「般若心経不信」になってしまいました。」

【ご質問内容】

こんにちは。 
何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。

私が読んだ本に依ると、 
ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 
ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 
大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。

科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 
でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。

それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。

先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。

(私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 
私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 
皆様は般若心経をどのようにお考えですか?


【拙回答】

『般若心経における「空」について』

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

丁度先月のお盆法要にて配布させて頂きました資料が、『般若心経における「空」について』でございます。

是非、ご参照になさられて下さいませ。

『般若心経における「空」について』 平成28年8月・お盆施餓鬼法要配布資料 

川口英俊 合掌
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