hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

仏教の学びについて

問い「仏教における勉学」

問い「仏教における勉学」

【ご質問内容】

ご閲覧頂きありがとうございます。

仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 
中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。

誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。

ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。

仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。

【拙回答】

向こう岸(悟り・涅槃)に渡れば、捨て去る筏のようなもの

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教から見た「学問を勉強すること」について、でございますが、もちろん、例え仏教であっても、この世俗世間で生きていくためには、学問の勉強も当然に必要で大切なことになります。

ある程度、モノ・コトの分別、世俗的常識、生きていくための知識、仕事のための知識なども付けていかなければ、社会生活はとても営めるものでありません。その点は、仏教であろうがなかろうが、この世界で実際に生きて生活している以上は当たり前のことになり、疎かにできないものとなります。

しかし、仏教の最高真理としての「勝義諦」としては、学問も、学識も、知識も、分別も、これら全ては実体としては成り立っていない「空」なるものであって、そこにとらわれて、執着することはできないものとなります。

もちろん、それらにとらわれて、執着することはできないにしても、世俗世間で生きていくためには、完全に捨て去ることはやはりできません。しかしながら、あくまでも、それらは依存関係、縁起によって成り立っているものに過ぎないということを理解していくことが求められるものとなります。

仏教の目的とする悟り・涅槃へと向けて、学問も、学識も、知識も、分別も、もちろん必要で、悟り・涅槃という向こう岸へ渡るためにも必要ですが、渡り終われば捨て去る筏のようなものであるという感じでございます。

そのあたりのことの理解へ向けては、是非、興味がございましたら、龍樹大師の「中論」も学び進められて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「知識は救ってくれない。」

問い「知識は救ってくれない。」

【ご質問内容】

自灯明 法灯明なのですが、 
どんな素晴らしい教えも 
その教えを鵜呑みにするのではなく 
本当にそうなのかを自分で掴みにいき確かめないといけない 
と、思うのですが、

もうここで聞くのが間違っているのですが、 
自分に自信がありません。 
だからいつも知識に走ってしまいます。 
知識しかつかまないから 
何も身にならないわけです。 
でも自分ではわからないことがあって不安です。

それを聞くことが間違ってるのは承知なのですが 
自分で掴むことの 
アドバイスください。


【拙回答】

知識は大切です。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教において、知識は、直接知覚(現量)と推論論証(比量)と二つにて説明することになりますが、仏教の修習を進めていく上において、後者の論理思考能力の向上を図ることは、とても大切なことになります。

つまり、何が正しい方法、実践であるのかを明らかにしていかなければ、いくら頑張って進めていったとしても、全く見当違いのことをしてしまっていたりして、無駄、徒労に終わってしまうかもしれないからであります。

ただ、何でも言われたとおりに、こう書いているからといって実践するだけではなくて、自分で論理的に検討して、十分に納得した上で進めていくことが大切となります。

ここで疑問を聞かれることも、論理思考能力の向上に大いに資することです。

構いません。疑問があれば、どんどんご質問下さいませ。

川口英俊 合掌

問い「「般若心経不信」になってしまいました。」

問い「「般若心経不信」になってしまいました。」

【ご質問内容】

こんにちは。 
何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。

私が読んだ本に依ると、 
ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 
ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 
大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。

科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 
でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。

それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。

先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。

(私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 
私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 
皆様は般若心経をどのようにお考えですか?


【拙回答】

『般若心経における「空」について』

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

丁度先月のお盆法要にて配布させて頂きました資料が、『般若心経における「空」について』でございます。

是非、ご参照になさられて下さいませ。

『般若心経における「空」について』 平成28年8月・お盆施餓鬼法要配布資料 

川口英俊 合掌

問い「信心がない人の仏教入門の方法を教えてください。」

問い「信心がない人の仏教入門の方法を教えてください。」

【ご質問内容】

初めて質問させていただきます。 
結婚を考えている相手が、とても生活と宗教が近い人です。実家が高野山の真言密教?を信仰していて、お寺さんのところによく行き、地域の人がそこへ相談をしたりお経を読みに行ったりする感じです。(一度訪れた折に、お寺さんに連れて行ってもらい、彼との相性を見てもらいました。おっさま曰くあまり相性は良くないみたいです。。ですが現在妊娠してるので結婚すると思います。) 
彼の部屋には空海の絵と水が備えており、彼は日々お守り持たない日はありません。

私の母親の実家は信心深く、毎朝の読経やお供え?をかかさない家ですが、私自身生活していた実家は仏壇はありますが信心深くありません。お盆のお墓詣りなど、近所に見えるところだけします。

彼の育った環境も、それに関わる人々もとても温かく、うまく言えませんが、仏様に愛されている人、という感じを受けました。母の実家もそんな印象です。仏壇の周りが明るいというか。。 
うちの仏壇は暗くてなんだか近寄りがたい印象です。実際に、帰省した折のお菓子を備えて手を合わせるときぐらいしか行きません。

私自身は信心のなさや、食への執着や自立出来てない心もあり、なんだか一緒にいるのが居た堪れない気持ちを感じます。憧れもあるのかもしれません。

なので、彼や母の実家の人々といても気後れしないよう、信心があまりない私ですが、仏教に入門したいなと思います。 
何から始めれば良いのか全く分からず相談させていただきました。

前置きが長くなってしまいましたが、 
日々の読経を含め、行いや心持ちなど、ご指導いただければと思います。

彼や両親に相談すれば良いと思われるかもしれませんが、気にしなくていいと言われてしまいますし、知らないことや信心がないことが恥ずかしく中々強く聞けないでいます。

よろしくお願いいたします。


【拙回答】

「四聖諦」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教は信仰も大切ながら、それよりも実践思想哲学的な側面も強くございます。

是非、これから仏教を少しずつでも学ばれつつに、実際の生き方、人生における実践にもお役立てを頂けましたら有り難くに存じます。

お釈迦様による教えはたくさんございますが、そのもともとの原理は何かと申しますと、お釈迦様がお悟りを開かれてから始めて教えをお説きになられた「初転法輪」の中で説かれました「苦・集・滅・道」の四つの聖なる真理「四聖諦」(ししょうたい)となります。

それは、例えば、私たちは、代表的に八苦する中にありますが、それらの苦しみには、その苦しみという結果へと至らしめている因縁(原因と条件)が必ずあって、苦しんでしまっているのであって、その苦しみをもたらしてしまっている因縁を何とか解決して、より良い結果へと向かわしめるための因縁へと変えていくことができれば、やがて、苦しみを滅することができ、更に、仏道の実践によって、悟り・涅槃へと至るための因縁もしっかりと調えていくことで、いずれ、悟り・涅槃へと至れることになるものであるとして、そのための方法論を、お釈迦様が、対機説法、善き巧みなる方便(善巧方便)を駆使なさられてお説きになられております。

ですので、これから仏教を学ばれていかれる際にも、少し上記の「四聖諦」を意識されながら理解を進められていかれると良いかと存じます。

共に頑張って参りましょう。

八苦・・「生・老・病・死の他に、愛するモノ・コトとも別れなければならないという苦しみの愛別離苦(あいべつりく)、憎しみ怨むモノ・コトとも出会っていかなければならないという苦しみの怨憎会苦(おんぞうえく)、(実体的に)求めても得られず満足できないという苦しみの求不得苦(ぐふとっく)、心身共の作用が盛んに働いていることによる苦しみの五蘊盛苦(ごおんじょうく)」

川口英俊 合掌

問い「お坊さんオススメの本」

問い「お坊さんオススメの本」

【ご質問内容】

私は、最近よく読書をするようになり、そのなかで「禅」に興味を持ち、「100歳の禅語」や「道元『禅』の言葉」などを読んでもっと学びたい、もっといろいろな事を知りたいと思うようになりました。 
本屋の宗教や自己啓発のコーナーなどで「これだ」と思う本を探していますがなかなか良いものに巡り会えません。 
何かお坊さんオススメの本のはありますか? 
「禅」や「仏教」以外の分野でも「これはためになる」「この本はぜひ読んでほしい」「これはおもしろい」というような本があればぜひ教えて下さい。


【拙回答】

「官僚たちの夏」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

よく無人島に一冊だけ持って行くとしたら・・というような聞き方がありますが、これまでの拙い読書の中において、一冊だけ挙げさせて頂くとすれば・・

「官僚たちの夏」城山三郎氏著になりますかね。これでも昔は天下国家を論じるのが大好きな青年でしたものでして。今でもたまに何かにつまづいた都度において読み返すことがあります。

仏教書となれば、「チベット仏教哲学」松本史朗氏著になりますかね。以後、自身の仏教思想哲学の方向性が決定付けられることになりました。

もし、大乗仏教全般を学びたいとなりましたら、「ダライ・ラマの仏教哲学講義」福田洋一氏訳がお勧めであるかと存じます。

ご参考までにて。

川口英俊 合掌

問い「仏教の理解と学び方」

問い「仏教の理解と学び方」

【ご質問内容】

初めて、お便りさせて頂きます。

最近、仏教の教えを知り教えを学ぼうと考えています。 
現状の仏教の理解や考え方の方向性が正しいのか確認をさせて 
下さい。

現在、深刻な悩みはなく本件のご相談は、急ぎではありません 
ので悩みごとのご相談の皆様を優先させて下さい。

■現状の理解内容(超要約して記載します) 
1)仏教の目的:涅槃(解脱)に至ること。幸せを説くこと。 
2)涅槃(解脱)への到達の方法として「四聖諦」があり、日々の 
 実践として「八正道」がある。 
3)最初に苦諦の理解の為に、無常・無我、因縁を理解することが必要 
 以下は、私の解釈した定義です。 
 無常:この世の全ては移り変わるもの 
 無我:全ては繋がりの中で変化している現象である 
 因縁:原因+条件(環境等)があって結果がある

4)今後の方向性(考え方や実践内容)について 
・目的: 
  日々の生活や仕事で、怒りなく、平穏で周りの役立つ人生を送る 
・行動や思考の指針 
 日常生活では、八正道、慈悲喜捨、五戒などを意識し、正しい判断 
 基準で行動する。 
・貪瞋痴に支配されない為の手段として、ヴィパッサナー冥想があり 
 今の瞬間に気付けるようにする。これにより、無常・無我、因縁が 
 頭でなく、身体で理解(体験・体感)できるようになる。 
 常に、今の瞬間の自分に気付くようにし、正見・正念・正定の向上 
 を図ることにより、煩悩が湧いてこないようにする。

以上の認識や方向性で、大きな誤りや重大な認識漏れがないか、 
ご指導を頂けましたら幸いです。


【拙回答】

少しでも今後の参照として

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教を真摯に学ばれておられますこと、誠に尊く有り難いことでございます。

少しでも今後の参照として、お役に立てて頂けましたら幸いに存じます。

1)仏教の目的:涅槃(解脱)に至ること。幸せを説くこと。

涅槃にはいくつか種類がごさいますが、ただ自分だけが「解脱」することには留まらず、全ての迷い苦しみにある衆生を救うまでは涅槃に住さないという「無住処涅槃」もございます。できましたら、そのような境地としての涅槃を目指して精進致して参りたいものでございます。

仏教の説く幸せは、世間世俗における幸せとは全く異なっていますので、その点は注意が必要です。あえて申すならば涅槃・悟りという「勝義の幸せ」と言えますでしょうか。ですので、世間での幸せ、例えば、お金や地位や名誉、権力など、そのようなものを求める教えではないということになります。

2)涅槃への到達の方法として「四聖諦」があり、日々の実践として「八正道」がある。

「四聖諦」は、まさに仏教の要諦。この四聖諦を基として釈尊の「八万四千の法門」、「対機説法」、「善巧方便」もあるのだとお考え頂けましたらと存じます。

八正道(中道)は、三十七道品における一つの指標的な行いとなります。但し、この「正しい」には、非常に世間的、抽象的な意味合いもあり、実際に進めて行く際には、何が真に勝義的に「正しい」のかを、慎重に吟味しながら進めていく必要がございます。その見極めのためにも「智慧」の開発による「中道」の確立が絶対に欠かせないものになります。

3)最初に苦諦の理解の為に、無常・無我、因縁を理解することが必要 
 以下は、私の解釈した定義です。 
 無常:この世の全ては移り変わるもの 
 無我:全ては繋がりの中で変化している現象である 
 因縁:原因+条件(環境等)があって結果がある

「無我」については、「空」と「縁起」も併せて理解することも必要となるでしょう。般若心経における「色即是空 空即是色」の内容など。

「因縁」については、厳密に分析していけば、では、どれが原因で、どれが条件であるのかを特定させることが実はできないため(原因にも条件にも実体が無い)、その点は注意が必要となります。

制限字数の関係上、ここまでにて失礼致します。

川口英俊 合掌

問い「仏教の道に進みたい」

問い「仏教の道に進みたい」

【ご質問内容】

仏教に生きる道を探しています。大学は仏教系で少しかじってはいます。たまにお寺にいったりする段階から、仏教に生きる道を探し、人生の悩みの解決を仏教に見いだしたいと思っています。 
 考え方や道筋を教えていただきたいです。自分の解決から家族などの悩みの解決に結び付けばと思います。 
 よろしくお願いいたします。

【拙回答】

お志、誠に尊く有り難いことでございます。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏道を歩まれたいとのお志、誠に尊く有り難いことでございます。

ご自身の悩み苦しみの解決も大切ですが、何よりも全ての者たち、一切衆生の悩み苦しみの解決を目指すことも仏道においては大切となります。

是非、この機会に堅固なる悟りを目指すための決意としての「菩提心」を発心して頂きまして、共に頑張って参りましょう。

「三宝帰依と菩提心生起」

仏陀・仏法・僧伽に 
悟りに至るまで私は帰依いたします 
私が積んだ布施行などの資糧によって 
有情を利益するために仏陀となることができますように

すべての有情を救済しようという願いによって 
仏陀・仏法・僧伽に 
悟りの心髄に至るまで 
常に私は帰依いたします

智慧と慈悲をもって精進し 
すべての有情を利益するために 
私は仏陀の御前に 
完全なる悟りのために菩提心を生起いたします

この虚空が存在する限り 
有情が存在する限り 
私も存在し続けて 
有情の苦しみを滅することができますように

また、仏教の学びを進めていかれることにつきましては、以下の拙回答も是非ご参照下さいませ。

問い「私は修行できるのでしょうか。宗派を決めるのが難しいです。」 

川口英俊 合掌

問い「仏縁」

問い「仏縁」

【ご質問内容】

(ー人ー) 
仏縁の定義を教えてください。 
よろしくお願いします。

【拙回答】

「縁なき衆生は度し難し」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「縁なき衆生は度し難し」・・

仏教、仏法を学び修するご縁が無ければ、悟り・涅槃へと至れるのは難しいという内容の言葉でございます。

「仏縁」とは、「仏様の教えを真摯に学び修する機会・機縁」になるのではないかと存じております。

仏教では、この世における全てのモノ・コトは、因縁(原因と条件)に依りて変化し、無常であると考えます。

確かなる因縁が調ってこそにおいて、様々な結果が出る、またその結果も何かの因や縁となりて、更に結果へと至る、更に・・ということにて、悟り・涅槃も、悟り・涅槃へと至るための因縁無しでは、至れることはありえないものとなります。

「仏縁」を確かに、悟り・涅槃へと至るための因縁をしっかりと調えていくことが大切になります。

特には、

因=「堅固なる菩提心の発心」 
縁=「智慧と福徳(方便・功徳)の資糧」

が必要になるかと存じます。

仏様と供に、皆と供に、悟りへの因縁をしっかりと養って、悟りへと至れるように頑張って仏道を歩んで参りましょう。(供養)

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。

問い「偽経と信心について」

問い「偽経と信心について」

【ご質問内容】

大学で仏教の事を学んでいる真宗の信徒です。先生には質問しづらい内容ですのでここで質問させてください。 
大学で四諦の教えや空の思想を知り、苦しみの生まれるプロセスを理解しました。 
ただ私は意思が弱い凡夫ですので、渇愛煩悩を絶つために修行し自力で悟りを得られるような人間ではありません。 
やはり阿弥陀仏の本願に縋るしかないと考えております。

しかしながら、偽経について学び、同時に観経が偽経である事を知ると疑いの心が生じてきました。 
信じたいと思っているのですが、釈尊が説かれた教えではないものと知ってしまうと、阿弥陀仏は本当に自分を救ってくださるのかどうしても心配になってきます。 
この心にどう折り合いをつければ良いでしょうか?

【拙回答】

「最清浄法界等流」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

正直なところ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったため、後世に文字にて表されて伝えられている経典というものは、誤解を恐れずに申せば、釈尊のそのままの真意なる教えとして捉えて良いものかどうかは、非常に疑わしく、また、文字で表されたものは、釈尊の教えでないとするならば、全て「偽経」と言ってしまっても、ある意味において過言ではありません。

なぜ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったのか・・

拙私見ですが、「文字化→概念の固定化→実体視→執着→迷い苦しみ」ということがあるからではないかと存じております。

また、文字化の否定のことを「言語道断」、「戯論寂滅」、「離戯論」、「離言真如」などと概念化してしまっても同様なことになりかねず、やはり、宜しくないものとなってしまいます。

しかし、それでは、一体どのようにして釈尊の教え、仏教を修学・修習していくべきであるのか、となりますと、如来が不在である以上、やはり、私たちは経典を頼りにしていく他に、その教えを学び修していく術はないのであります。

もちろん、経典は、何も根拠のない教えというわけではありません。八万四千とも言われる釈尊の善巧方便による無数の教えにおける、ある一面であったり、要約や公約されたものであったりと、それぞれの経典における方便的な立場があると考えることができます。

アサンガ大師は「摂大乗論」にて、「最清浄法界等流」というお言葉を使われておりますが、まさに、清浄なる真理の世界から流れ出ている教えであるとして、経典の内容について、慎重に吟味して扱う必要があると存じております。

問題は、では、どの経典やその中の教えが、(自分やそれぞれの衆生に対して)頼りになり、あるいは頼りとすべきかということについては、それも慎重に判断していくことが必要となります。このことにつきましては、下記の拙回答もご参照を頂けましたらと存じます。

問い「お経の種類」 

問い「龍樹と唯識」 
http://goo.gl/GnWUpc

川口英俊 合掌


「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。

問い「自分に合う仏教の宗派」

問い「自分に合う仏教の宗派」
http://hasunoha.jp/questions/2378

【ご質問内容】

 生きていく指針を探しているうちに仏教が合うのではないかと思うようになりました。

 大学がキリスト教という事もあり、キリスト教の宗派だけでなく、イスラム教や神道も調べてみましたが、自分の考え方とは異なる印象があります。

 キリスト教の一宗派であるプロテスタントの勤勉さやキリスト教全体が持つ他者との共存や無償の奉仕には同意するのですが、自然に対して人間優位的な部分も見られるので、研究対象にはできるのですが、生きていく指針として合いません。

 そういった経路もあり、仏教に重きを置くようになりました。そこで、仏教の宗派を調べています。私が持つそれぞれの宗派についてですが、法相宗の色々な修行がある事には同意するのですが、『この世の物は自分が作り出したものである』という暴力的な印象を受け、日蓮宗や密教、浄土真宗、浄土宗はただ念仏を唱えているだけ、そして禅系は座っているだけという印象を持っています。

 私自身は、自分の心身を持って他者に貢献しながらも、修行をする事で悟りは開けるものだと考えています。また寺などのいわゆる(適切ではないですが)宗教施設にいるのではなく、浮世に属しながら伝えていくのが伝道だと考えており生き方にしたいです。

 伝えられていないとは思いますが、教えを下さい。

【拙回答】

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

以前にも似たようなご質問がございましたので、そちらから編集して引用させて頂きますので、少しくご参照下さいませ。

仏説は八万四千の法門と言われますように、多くの教えがございます。どうしてそんなに多くの教えが説かれたのかと申しますと、釈尊は、相手の機根(悟りへと向かうための能力・資質)に応じて、巧みに悟りへと導くために説かれた(善巧方便)からでございます。

簡単には、一人一人それぞれに対して説かれた、または八万四千の煩悩の一つ一つの対処法を説かれたと考えることもできるでしょう。まあ、それらの教えのある程度の公約数が、各宗派的なものとしてまとまっていると考えることもできますが、ではいったいどの教えが自分に合うのかと申しますと、やはり、ある程度それぞれあたりを付けていく必要があるのではないかと存じます。

かといって、全ての仏典や論書等を読むには膨大な時間と労力がかかってしまいますから、とにかく仏教思想の全体を概観できるような入門書、参考書からまずは学ばれていかれると良いのではないだろうかと存じます。

そして、やがて本格的に学び修していきたいものに出逢えましたら、その師を求められて、そして指導を仰ぐようになさられると良いのではないかと存じます。

在家のままでも授戒を受けるなどして正式な仏弟子となって、仏道を歩むこともできるかと存じます。僧侶になるのであれば、ある程度専門的なところでの修行は必要となりますが、そうでなければ、在家のままでも修行できないことはありませんので、その点はどうかご安心下さいませ。

とにかく、在家であろうが出家であろうが、仏道を歩む上で大切となるのが「菩提心」(全てのものたちを救うための悟りを求めたいとする心)でございます。まずは、しっかりと「菩提心」を起こして、そして、悟りへと向けての「智慧(空の理解)と福徳(方便・功徳の実践)」の二資糧を確かに積んでいくことが必要となって参ります。

また、無理に出家の修行の形式にこだわる必要もありません。日常の行住坐臥の中でも、心身共に無理のない範囲でバランス良く(中道)に進めることが大切となります。

頑張って共に仏道の歩みに励んで参りましょう。

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16
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