hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

カルマ

問い「人間の男に生まれることは、前世の悪行の報いでしょうか。」

問い「人間の男に生まれることは、前世の悪行の報いでしょうか。」

【ご質問内容】

人間の男に生まれたことが、前世での報いでしょうか。 
こんな辛い生は無いと思っております。

独身なら独身で「何で世帯が持てないのか、何か精神的障壁があるのか」とか、「仕事だけが人生なのか」とか

世帯を持てば持てば持ったで「出世もできずに、どうやって妻子を楽にさせるのか」、「お前に男子の本懐はあるのか」、「そんな状況で親孝行できるのか」とか。

果ては「ヒモ」なったらったで、「男の誇りは無いのか」と責め立てられる。

前世でどんな酷いことをしたからと言って、何の記憶もないのこの私に、この報いは余りにも空しすきると思います。

どうしたら「人間の男」に生まれ変わらないようにできますでしょうか。


【拙回答】

「盲亀浮木」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

確かに私たちは迷い苦しみの世界である人間の世界に生まれてしまっております。

しかし、この人に生まれることの難しさたるや・・

仏教では、「盲亀浮木」という譬えがございまして、大海に住む目の見えない老亀が、百年に一度海面に浮き上がってくる時に、たまたまそこに流れてきた穴の空いた浮き木の穴に首を突っ込むというぐらいに、人として生まれるのは難しいとされています。更に仏様の教えのある世界に生まれて、仏様の教えを学び修せられることも、尚もって難しいことであると言われています。

また、人は天・修羅と共に、六道輪廻の中でも「三善趣」と言われるだけに、迷い苦しみの中にあるのは変わりませんが、畜生・餓鬼・地獄(三悪趣)に比べれば、はるかにましな存在であると言えます。

その上、三善趣であっても、天と修羅では、「有暇具足」(悟り・涅槃へと向かうための八つの有暇と十の具足を備えている)を円満には得難いため、実際は人のみが、仏様の教えを修せられるための絶好の機会となるだけに、できる限り無駄に過ごしたくないものとなります。

人して生まれたのは、ある程度、過去世における善き業・カルマの因縁(原因と条件)があってのことであるとも考えられます。私たちは、何とかこの機会を逃さずに、心の資質の向上のためにも、仏教の修習にしっかりと取り組んで参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

問い「輪廻転生」

問い「輪廻転生」

【ご質問内容】

お坊様に質問です 
なぜ人は輪廻転生をするのですか? 
人が生まれる理由はなんですか?


【拙回答】

有暇具足

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

輪廻する原因・・「無明」(根本的な無知)による業・カルマの結果として、その業・カルマに応じて、私たちは迷い苦しみに輪廻することになります。

しっかりと仏教を修習することで、「無明」を対治すると共に、善き業・カルマを積みて、輪廻から解脱するための悟り・涅槃へと向けた流れに乗って参りたいものでございます。

人は天・修羅と共に、六道輪廻の中でも「三善趣」と言われるだけに、迷い苦しみの中にあるのは変わりませんが、畜生・餓鬼・地獄に比べると、ある程度ましな存在であると言えます。

更に、天と修羅では、「有暇具足」(悟り・涅槃へと向かうための八つの有暇と十の具足を備えている)を円満には得難いため、実際は人のみが、仏道を修せられるための絶好の機会となるだけに、できる限り無駄に過ごしたくないものとなります。

人して生まれたのは、ある程度、過去世における善き業・カルマの因縁(原因と条件)があってのこと。この機会を逃さずに仏教の修習にしっかりと取り組んで参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

問い「生きるのが嫌になりました」

問い「生きるのが嫌になりました」

【ご質問内容】

もう4年ぐらい無職の状態ですし、生きる意味が分かりません。12月〇日で40歳になります。40年というきりの良い所で自分の最後に仕様と考えてます。 
こんな自分ですから、家族でも孤立してて話もほとんどしませんし、引きこもり状態です、ほぼ毎日死ぬ事ばかり考えてます。死ぬのは怖くありませんが、お坊さんにお聞きしたい事がありますが、人は死んだらどうなるのでしょうか?


【拙回答】

タメ(同い)です。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙生も来月で40歳になります。タメです。

「40年というきりの良い所で自分の最後に仕様と考えてます。 」・・

それはダメです。

確かに、生きるということは、誠に皆、一様につらくしんどいことでございます。

もちろん、四苦八苦と申しますように、生きることだけではなく、老、病、死、そして、愛するモノ・コトとも別れなければならないという苦しみの「愛別離苦」(あいべつりく)、憎しみ怨むモノ・コトとも出会っていかなければならないという苦しみの「怨憎会苦」(おんぞうえく)、(実体的にモノ・コトを)求めても得られず満足できないという苦しみの「求不得苦」(ぐふとっく)、心身共の作用が盛んに働いていることによる苦しみの「五蘊盛苦」(ごおんじょうく)とございます。

これらの苦しみを滅するための教えをお釈迦様はお説きになられておられます。

「人は死んだらどうなるのでしょうか?」・・

死後の赴き・流れに影響を大きく与えるのは自分自身の行い、業・カルマとなります。

できる限り、より善き赴き、流れへと向けて、良い行いの因縁(原因と条件、動機と行動)を調えて参りたいものでございます。そのためのヒントも仏教にございます。

是非、仏教に興味を持って頂きまして、少しなりにも修習に努めていって頂けました有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「死は本人にとっても辛いですか」

問い「死は本人にとっても辛いですか」

【ご質問内容】

なぜ死ぬことが悪いのか未だに理解できません。

周りの人たちが悲しむのはわかります。私は一般的に幸せな子だから。 
でも、本人にとって生きることが死ぬことより辛いとはどうしても思えません。

楽になりたいとは、どうして思ってはいけないのでしょうか。

10年以上考えています。 
お坊さんの考えを教えてほしいです。


【拙回答】

迷い苦しみの輪廻

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

この迷い苦しみの輪廻にある限り生死はいずれにしてもつらいものとなります・・

代表的には、八苦としての「生・老・病・死の他に、愛するモノ・コトとも別れなければならないという苦しみの愛別離苦(あいべつりく)、憎しみ怨むモノ・コトとも出会っていかなければならないという苦しみの怨憎会苦(おんぞうえく)、(実体的にモノ・コトを)求めても得られず満足できないという苦しみの求不得苦(ぐふとっく)、心身共の作用が盛んに働いていることによる苦しみの五蘊盛苦(ごおんじょうく)」とございます。

輪廻の問題は、無明(根本的な無知)・煩悩による行い、悪い業・カルマのありようになります。

この業・カルマをできるだけ善い清らかな流れに調えていくことが大切となります。善い清らかな流れに調えていくための教えが仏教となります。

本当の「楽」となる悟り・涅槃へと向けて、是非、これを機会に少しずつでも構いませんので、仏教の修習に努めて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「なぜ人は人を殺してはいけないのか。餓死による自殺について。」

問い「なぜ人は人を殺してはいけないのか。餓死による自殺について。」

【ご質問内容】

 社会や宗教はよく、「人は人を殺してはならない」と説きます。しかし、僕はこの問いに対して自らの内に納得できる答えを出すことが未だできていません。 
 決して僕自身は人を殺したいとは思いませんが、僕は別に人を殺したいなら殺してもいいと思うし、殺してしまったらならそれは仕方がないと思っております。 
 よく、自分が殺されたくないなら人を殺すな、だから人を殺してはならない、という回答を散見します。しかし僕はこれに納得していません。その相手が憎くて「殺されてもいいから、殺してやる」と思う場合、人を殺してもいい、ということになってしまうからです。 
 僕は度々報道される殺人事件のニュースを見ると悲しくなってしまうのです。「なぜ人は人を殺してはならないのか。」この問いに対する真実の答えがこの世のすべての人に知れ渡れば、殺人事件や戦争などという悲しい出来事がなくなると思うし、自殺もなくなると思うのです。 
 僕は決して殺人を犯した人がいなくなればいいなどとは思いません。殺人を犯してしまった人も、この地球に生まれ落ちた我らが同胞であり、兄弟であり、愛すべき存在だと僕は信じているからです。 
 そして、僕は生きる苦しみから逃れたい、自殺したいと思っていた時期がありました。自殺も、つまるところ「人(自分)が人(自分)を殺す」という事象に当たると思っています。自殺もいけないことだと真っ向から否定してほしいのです。 
 僕は生きる悦びを手にし、その生きる悦びを愛しているので自殺することはないと思います。しかし、この地球上に生まれ落ちた愛すべき存在を、殺人や自殺などといった形で失うことを、僕はただただ悲しいと思うことしかできないのです。

 また、自殺の方法として餓死を選んだ場合、人は生きる苦しみから解放されるのでしょうか?一般的に自殺は生きる苦しみからの逃げ、だと僕は思っています。自殺の方法として餓死を選んだ場合、それは生きる苦しみと真っ向から向き合うことだと考えています。 
 近い将来、自分が餓死による自殺をしてしまうのではないか、と不安になる時があります。


【拙回答】

自殺のカルマについて

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

自殺につきましては、大きく三つの業(カルマ)の結果について考えることができるのではないかと存じます。

一つは、善き動機としての善き行為による善き結果として。

一つは、悪い動機としての悪い行為による悪い結果として。

もう一つは、善いでもなく悪いでもない中性なる動機としての善いでもなく悪いでもない中性なる行為による善いでもなく悪いでもない中性なる結果として。

その内実においてまず重要となるのは、「無明(根本的無知)・煩悩」によるものであるのかどうかというところとなります。

無明・煩悩によるものであれば、当然に迷い苦しみの原因となっていく「悪業」となってしまう可能性は高くなります。

その無明・煩悩によらないものであれば、中性に。

では、善業となる場合・・これは非常に判断が難しいのですが、例えば、大いなる慈悲の心や菩提心(悟りへ向けた心)を動機としての、無明や煩悩によらない、純粋な利他心により他を助けるような善行為となる場合などが考えられます。

中性の場合も、その内実の動機を実際に推し量るのも難しいところがありますが、例えば、どうにもやむを得ない事情による安楽死、尊厳死などが考えられますかね・・

とにかく、大きく分かれる一つの判断基準として、「無明(根本的無知)・煩悩」によるものか、そうでないのか、ここを少しご検討を頂けましたらと存じます。

仏教の基本として、この迷い苦しみ(輪廻)から解放されるためには、しっかりと悪い行いを慎み、善い行いに努め励みて、心を浄らかにしていくことが求められるものとなって参ります。

是非、その方法論がたくさん説かれております仏教の修習を、これからも進めていって頂けましたらと存じます。

川口英俊 合掌

問い「死後の世界」

問い「死後の世界」
http://hasunoha.jp/questions/11603
【ご質問内容】

人は死んだらどうなるのでしょうか? 
私の周りの一部の''人は死んだら無になる''と言います。でも私はどうしてもそうは思えません。たしかに死んだら形がなくなってしまいますが、魂は無くならないと思います。きっと見えない姿になって生き続けるのだと思います。そんなのはただの願望ですか?たしかに証拠がないので断定はできません。でももし死後の世界が存在するのなら死を目の前にする(私がそういう状況というわけではありませんが)人々にとってとても心強い支えとなるでしょう。まだまだずっと先のことだとわかっていますが、やはり死ぬのが怖いです。人間は死んだら自然の一部になるという考えが一番現実的だと思いますが、それは科学的なことです。今生きている自分の魂(心)はどこへ行ってしまうのか。死んだら全ての記憶や体験がなくなってしまうのか。もしそうならやはり「死」は人間にとってとてもとても怖いものだと思います。生きるということ自体が死によって無駄(リセット)されてしまう。形がなくても魂が永遠に生き続けるということは本当なのでしょうか??


【拙回答】

死後について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

死後については、拙生も昔は虚無的、悲観的に考えておりましたが、仏教を修習していく中で、存続していくありようについての確信を少しくにも得ることができてきております。

それは、微細なる意識として死後も存続していく心相続(心の連続体)に関するありようについてでございます。

私たちの存在は、「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)なるものと申しまして、五蘊とは、それぞれ、色(物質・肉体)、受(感覚・感受作用)、想(表象・概念作用)、行(意思・意志作用)、識(意識・認識作用)が、色々な因縁(原因と条件)によって、それらの要素が互いに依存し合って集まり成り立っているものとなりますが、死後において、この肉体が滅び、今あるような身体的な機能・作用が停止したとしても、実は、肉体的な機能に左右されない微細なる意識としての心相続(心の連続体)が、更に色々な因縁(原因と条件)によって存続していくものであると考えることになります。

そして、その微細なる意識としての心相続、心の連続体においては、過去世、現世ももちろん含めて、全てのこれまでの数々の行いの業・カルマというものが、これから先へ向けても引き継がれていくことになります。

永遠永久に変わらない実体的な自分という何かがあるわけではありませんが、様々な因縁に依りて存続していくものはあり得ているというところとなります。

ですので、何もかもが消えて無くなるというわけではないと考えています。

ただ、その死後における心相続、心の連続体の赴きにおいては、様々な因縁と共に、実は、己自身の行い(業・カルマ)の影響が強く反映され、おおよそその行き先が 決まっていくことになります。

ですので、できる限り、この今、現在、そしてこれからも、善き業・カルマをしっかりと調えることで、より善い行き先へと向かえるように調えて参りたいものとなります。

できれば、仏道を歩み、悟り・涅槃へと向かうための善き業・カルマをしっかりと調えることで、この迷い苦しみの輪廻を解脱して、悟り・涅槃へと至ることを目指すことが、仏教においての要諦となって参ります。

できましたらこれを機会に、より一層、仏教に興味を持って頂きまして、是非、学びを進めていって頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「恨みと嫉妬」

問い「恨みと嫉妬」
【ご質問内容】

以前こちらで相談させて頂きました。 
回答頂きありがとうございます。 
今回は違う件で相談させて頂きます。 
私は幸せな人が羨ましいです。 
私は昔から色々と大変な思いをしてきました。 
学生時代はいじめにあったり、人から利用されたり、ストーカーにあってお金を騙し取られたりしました。 
会社ではパワハラにあったり会社をクビになったりしました。 
ナンパされて連れて行かれそうになったこともあります。他にも色々な辛い思いをしました。 
何で私ばっかりと思うことがあります。 
私の従姉妹は人間関係に恵まれ、頭も良く、お嬢様大学に行けて、大手の会社にも入社出来き何も揉め事もなく、安定した生活を送れているのです。 
羨ましいです。 
人と比べるなとか、その人達も知らないところで大変なこともあるかもしれないとか言う人もいますが生きていれば少なくとも嫌なことはありますし、いいことばかりではないと思います。 
ただ、明らかに差があると思うんです。 
今までは今苦労した分、いつか恵まれると思い信じてきましたがそうとは限らないみたいですね。 
何も信じられません。 
親も嫌だしもっと優しい親に生まれていれば人生変わっていたかもしれません。 
親は一回スイッチが入ると感情的になるのでいきなり怒られたりします。 
で、急に絡んできたり。 
もうもっとまともな人生になりたかったです。 
あまりにも嫌で空想してもっとあーだったらなとかこーだったらなとか昔から考えていました。 
でも現実は違いますね。 
学校卒業して出会った人とかで出会わなければよかったと思う人もいます。 
既婚者の人からは性的なことで色々言ってくるしもう恨みや嫉妬でいっぱいなのです。 
私は数年前から強迫観念にとらわれ、頭の中で悪く思ってないことが浮かんできてその事柄を消す為に打ち消し行為をしています。 
気にしないようにしようとか考えないようにしても浮かんできたりします。 
後、数字に関してもこだわったりします。 
頭の中で浮かんできても考えない方がいいのでしょうか?私からすれば他人は呑気に気楽に生きてるように見え、どうしたらあんなに罪悪感もなく、気楽に生きていられんだろうと羨ましいです。 
とにかく私は怖くてたまらないんです。 
私はこれからどうしたらいいのでしょうか? 
私は自分の人生を受け入れるしかないんですかね?


【拙回答】

随喜

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

境遇、環境への恨みと嫉妬・・人間誰もが少なからず持ってしまうものでしょう・・

拙生も・・

しかし、恨みや嫉妬などの悪い煩悩による行いは、悪い業(ごう)・カルマとなるため、やはり避けて参りたいものとなります。

それよりも、「随喜」(ずいき)と言いまして、一緒にその幸せや成功を素直に喜んであげることで、自分にもその「福徳」の分け前を頂くようにしていく方が、よほど先々へと向けた良い因縁(原因と条件)にすることができるようになります。

例えば、FacebookやTwitterでの他人の善い行いに「いいね」するというのも、仏教的には一つの「随喜」と言えます。

あるいは、他人の善い行いをシェア、リツイートするというのは、周りにもその「福徳」をお裾分けすることになり、仏教的には「回向」(えこう)と申しまして、尚、良い因縁とすることができます。

とにかく、良い結果へと向けては、良い因縁が必ずや必要となります。

原因の無いところに結果は生じませんし、原因があっても、条件が調わなければ結果は出ません。

自ら進んで悪い因縁を作るのはやはり愚かなこと。それよりも、お金も労力もある意味で全く掛からない「随喜」というものであれば、簡単に良い因縁としていくことができます。ここだけの話、実はかなりお得なのです。

是非、身近なことからでも、お試しになって下さいませ。

川口英俊 合掌

問い「どうすれば楽になれますか」

問い「どうすれば楽になれますか」

【ご質問内容】

2回目の質問になります…。ジ病にかかり治るという事はないようです。 
ですが、死ぬ事もない。 
このしんどい身体で生きていくしかない…地獄です。 
幼少期に親に捨てられ、自分一人でも食べていけるようにと資格をとり、やりがいのある仕事につきました。その後、心臓♿🏥で3回の手術。障害をかかえても向き合って生きてきました。そして今度は治る事のない難病。 
私は刑事事件の被害者になった事もあります。 
犯人は「証拠不十分で不起訴」になりました。 
その人間が幸せに家庭を持ち何事もなかったかのように平和に暮らしている。 
何故、そんな人間がのうのうと暮らしていて、私がこんなにも重い岩を背負わなければいけないのでしょうか。嘘をついて力の強い人間が笑って生きている。 
岩が重すぎて…楽になる方法ばかり考えてしまいます。人はいずれ亡くなります。ならば、この先何十年も苦しんで生きていく必要はないのでは…と。 
頑張っても報われない、治らないものなら。 
気力体力限界です。 
死にたくないのに亡くなる人がいる。しんどいだけで、ただ生きている。 
どちらも地獄です。 
💊😷🏥この病気は治らないそうです。ならば楽になるにはどうしたらよいのでしょう…。

【拙回答】

楽は楽でも究極的な涅槃という楽を目指しましょう。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「楽になるには・・」・・

残念ながら、「一切行苦」のこの世界、八苦(生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、 求不得苦、五蘊盛苦)することからは容易に逃れられない以上、楽になることは正直、厳しいと言わざるを得ません・・

かといって、死後において、楽になるのかと言えば・・

死後における赴きにおいて、最も重要となる因縁(原因と条件)は、やはりその者自身の行い(業・カルマ)次第となるため、悪い行いを慎んで、より善き行いをしっかり積んでおかないと、その赴きは厳しいものとなってしまいます・・

しかし、仏教の目指す「楽」となれば、「悟り・涅槃」として、一切の迷い苦しみが滅された境地となります。

その境地へと向けた歩みが進めていけるようにとして、仏道修行がございます。

是非、これを機会に仏教を学び進めて頂けましたら有り難くに存じます。

もちろん、世俗世界的にも楽になっていくための教えもたくさんございますので、是非にも。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「魂の行く場所」

問い「魂の行く場所」

【ご質問内容】

助けてください。

一年半前に、突然、夫が仕事中に事故で死んでしまいました。その時私は妊婦でした。

結婚一周年を間近に迎えていたのですが…一緒に迎えられず、幸せな結婚生活が一年もせずに壊されてしまった。即死だったので死に目にも会えなかった。

本当に愛していたし、愛されていました。真面目に思いやりを持って過ごしてきたのに、こんな事が起こるなんて…神様、仏様さえ呪いました。

夫が死んでから、毎日が灰色で地獄のような日々を過ごし、後追いしようとしたり…泣いてばかりの日々でした。

毎日、あの日仕事に行かせた事を後悔して、死ぬまで後悔するのだと思います。

そんな中、無事に出産し、子供を産んでからは涙も封印しました。子供は愛しいし、責任をもって幸せにするつもりです。

もう、自殺しようなんて思いません。夫の分まで愛情も注ぎます。

その気持ちに偽りはないのに、早く夫のもとに行きたいと思ってしまう気持ちもあるのです。それから、轢いた犯人や夫の会社も憎くてどうしようもなくて。苦しいです。

夫の魂はどこにいるのでしょうか、死んだら又会えるのでしょうか?

【拙回答】

「供養」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

つらすぎます・・呪い恨んであたりまえでしょうし、後悔もされることでしょう・・時が戻せればと・・私だって同じ立場ならば考えることでしょう・・

魂の行く場所・・

以前に、「業・カルマが行き先を決める」と業論・輪廻論を端的に述べたことに関して、説明不足から誤解を受けて、hasunohaでは無いのですが、少し別にご批判を頂いたことがございます・・

「魂」ではなく、「微細な意識の連続体」と拙生は表現しますが、その行き先がより善きものとなるようにと調えて参りますのが、「葬儀」や「供養」となります。

「供養」は、「供(とも)に養う」ということになりますが、亡くなられた方と一緒に、悟りへと向かうための行い(智慧の修習と功徳の集積)を養って共有していくということになります。

もちろん、一番に行き先へと向けて影響があるのは、やはり、「業・カルマ」であると考えます。

ここで少したとえ話をしましょう。葬儀のことを「津送儀」(しんそうぎ)という表現がありますが、それは、まさに「津=港」で航海の無事を見送るという意味合いとなります。

そこで、悟りヘの船旅ということで、「業・カルマ」は、悟りへと向かうための大海を渡る「船」と考えてみて下さい。

「船」はそれぞれにおいて、大きさや機能も異なります。それは、それぞれのそれまでに積みたる「カルマ・業」の現れとなります。

例えば、清らかな善きカルマを積みたる者の船であれば、まさに、それは安全性能、高速性能、アンテナ性能等、非常に優れた機能が調っており、多少の嵐や氷河、流氷があっても、速やかに悟りへと向かうことができることになります。

一方、あまり善いカルマの無い者の船は、もしかするとひどい場合、手漕ぎカヌー程度でしかなく、悟りへと向かう方角も分からず、彷徨い、嵐で敢え無く沈んでしまうかもしれません。

しかし、少しでも悟りへと向かえるための「供養」を及ぼすことにより、その船にエンジンやレーダーを装備させてあげたり、地図を示してあげたり、悟りへの船旅のお手伝いとすることができるというイメージでございます。

一緒に、悟りへと向けて取り組んでいるのだという「供養」を通じて、是非、より善い行いに努め励みて、お幸せにお過ごし頂けましたらと存じます。

川口英俊 合掌

問い「この世は因果応報なのでしょうか?」

問い「この世は因果応報なのでしょうか?」

【ご質問内容】

うつ病で会社を退職しました。 
職場では嫌がらせを受けて本当に苦しかったです。 
なんでこんな目にあったのか、私が悪かったからなのかと今でも悩みます。 
自分が悪かったとしても、どこを直せば良いのか分かりません。 
自分はこの世に適合しない存在、生まれてきてはいけない存在なのではないかと絶望的な気持ちになります。 
運が悪かったと思いたい一方、何故、その様な災難が私に降りかかったのかと辛くなります。 
どちらに転んでも自分は辛い人生しか待っていない気がします。

この世は因果応報なのでしょうか? 
幼児虐待でなくなる子供がいますが、彼らが何か悪いことをしたのでしょうか?

それともこの世はただただ無情なのでしょうか? 
幼児の内に虐待で亡くなるのも、戦争に巻き込まれて死ぬのも運命の一言で片付けられることなのでしょうか?

どのような心構えで私はこれから生きていけば良いのでしょうか?

【拙回答】

因縁果の理

会社で嫌がらせを受けられて苦しまれ、うつ病となり、退職せざるをえなくなるまでに追い込まれてしまわれましたこと・・本当におつらいことでございます・・

あまりご自身を責めることはなさられずに、うつ病の克服へと向けて、周りの理解とサポートを得られながら、心の傷を癒して頂けましたらと存じます。

「因果応報」とは、世間の使い方では悪いイメージが先行してしまっている感が否めませんが、正しくには、善いことも悪いことも含めて、全てのこの世のモノ・コトというものは、因縁(原因と条件)によって結果が成り立っているという、「因縁果の理」のこととなります。

何も原因が無く、また、何も条件も調わないのに、結果が生じることはあり得ません。

例えば、種も撒いていないのに、花は咲きませんし、種を撒いたとしても、土や養分や水や光などの条件の無いところに撒いても、花は咲きません。

あるいは、土や養分や水や光と条件は調っていても、種がなければ花は咲きません。

もちろん、色々な複雑な因縁が無数に絡み合って成り立っている世界であり、単純にこれとこれで、こうなったとは言えないこともございます。

過去世、前世から引き継がれている私たちの個々で抱えている業・カルマというものも、それが様々に複雑な因縁の中でどのように作用するのかというものも、なかなか予測ができないところもございます。

業・カルマによる結果としての報いを受けるのにも、大きく分けて「三時業」として、今の生きているうちに出るものもあれば、次の輪廻において出るもの、また次の次の輪廻において出るものといったように、ございますし、更に幾つもの輪廻の後に出るという場合も当然にあり得るものでございます。

いずれにしても、悪業を慎み、善き行いにしっかりと努め励み、善き業をしっかりと積んでおく因縁を調えておければ、必ず悟り・涅槃へと向かうことが、できていけるということになります。

とにかく、迷い苦しみの世界ではございますが、人として生まれることができる善き因縁がありて、今、人として生まれることができております。更には有り難い仏法とも出逢えるご縁にも恵まれております。是非、この恵まれた機縁を活かし、仏教を修習することで、悟りへと向けた善き因縁を更に調えて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌
カテゴリ別アーカイブ
カテゴリー
QRコード
QRコード
記事検索
  • ライブドアブログ