hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

不生不滅

問い「悟りを開いても倫理観を持てるのは何故でしょうか?」

問い「悟りを開いても倫理観を持てるのは何故でしょうか?」

【ご質問内容】

中論では「四不生」として物事のあらゆる原因が否定されています。 
この部分を読んでいつも不安に思うのは、一歩読み違えるとトンでもない意味になるかもしれないという事です。

人が他人に優しくしたり善行を積もうとするのは、自分が既に他人によって恩をを受けているとして感謝し、その恩を返そうとする恩義の心によって成り立っているからだと思います。 
まず自分という肉体は両親によって与えられ、知識や教養は先生によって叩き込まれます。当たり前の事ですが、自分という存在は他者によって成り立つものですよね。

しかし中論では 
「もろもろの「存在」は、どこにおいても、どのようなものでも、自身から、また他者から、また〔自身と他者との〕両者から、また無因から、生じたものとして存在することは、決してない。」 
とします。 
要するに他人から恩を受けたとしても、「これは貴方が原因で生じた訳ではない」とか、 
自分が他人を殺したとしても、「その人の死は私が原因によって生じた訳ではない」と詭弁を弄する事も可能ではないのでしょうか? 
(私はそうは思いません)

自分が明らかに中論のこの説を読み違えている事は分かっているのですが、どこを読み間違えているのかが未だに分かりません・・・。 
何卒よろしく御願い致します。


【拙回答】

「実体(自性)による成立の否定」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「四不生」の理解は、要は「実体(自性)による成立の否定」というものとなります。

もう8年前の拙論となりますが(修正したいところがありますが、あえて原文のままで)・・

『・・私自身という実体があるとして、「自生」とは、事物が、自体から生じる、そのもの自体からそのもの自体が生じる、つまり原因と結果が同一ということで、例えば、私自身は私自身から生じるとなれば、既に存在しつつある私自身から更にいくらでも私自身が生じることとなりますが、そのようなことはありえません。「他生」とは、事物が、他から生じる、原因と結果が別異ということで、私自身が他人という実体から生じるということになりますが、それならば、いくらでも私が生じることになる、更には、一切のものから一切のものが生じることにもなりますが、そのようなことはありえません。「共生」とは、自と他の両者から生じる、つまり、私自身が、私自身と他人との両者から生じるということで、原因と結果が同一なることと、原因と結果が別異であることとのどちら共から私が生じるということは、先に示した「自生」も「他生」も成り立たないことからも当然に「自と他」共から生じることもありえません。「無因生」とは、事物が、原因がないのに生じる、自でもなく、他でもないようなものからでも生じる、つまり私自身が私自身でもない、他人でもない、何ら原因がなくても生じるということになり、それならば常に私自身が生じるということになり、更には一切のものから一切のものが生じるということにもなりますが、そのようなことはありえません。このようにして、自性としての因果関係の成立を全て否定し、無自性としての「不生」を示したのであります。「四不生」については、もちろん「不滅」も同様であり、「不生不滅」について説明したものであります。「不生」をもう少し簡単に述べますと、もしも、あるものに実体が有るとするならば、その実体有るものが更に生じるということはありえない、また、もしも無いとするならば、無いものが生じるということもありえない。更には有るとして無いとするものも生じることはない、ということでもあります。・・以上』

簡単には、実体・自性としての原因・結果というものは成立し得ないということになります。

川口英俊 合掌

問い「死ぬのが怖くて何も手につきません、克服することは可能ですか?」

問い「死ぬのが怖くて何も手につきません、克服することは可能ですか?」

【ご質問内容】

タイトルの通り、自分がいつか死ぬことを考えると恐ろしくて、パニック状態になってしまいます。朝起きた瞬間から寝るときまで、常に「死」の恐ろしさ、得体の知れなさが頭から離れず、最近は趣味も楽しいと思えません。

いつか死ぬからこそ今を一生懸命生きることが大切だとか、いまのわたしにはきれいごとにしか思えないのです。

べつに、近しい人の死がトラウマになってるとか、そういう事実もありません。ただ、死が途方もなく恐ろしいことに思えて仕方ないのです。

これほどまでに重度の死の恐怖を克服すること、あるいは克服せずとも上手く折り合いをつけて生きていくことは可能なのですか? 
また、仏教に帰依することは、死の恐怖を克服する手助けになりますか? 
お忙しいところ恐縮ですが、ほんとうに、どなたか助けてください。このままでは発狂しそうです。


【拙回答】

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

恐怖や不安というものは、おおよそ「無知」から来てしまうものでございます。

幽霊も、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と知れば、恐怖・不安が無くなるように、「死」とは何かについても、しっかりと知ることができれば、きっと恐怖・不安を退けることができるようになっていくのではないかと存じます。

では、「死」についての真理を仏教ではどう知っていくべきであるのか。

例えば、「不死の境地」というものや、般若心経にも出て参ります「不生不滅」など、それはいったい何を意味しているのかを考えていくこともヒントの一つとなります。

是非、これから少しずつでも仏教を学ばれて修習をなされて頂ければと存じております。良き気付きのございますことを。

川口英俊 合掌

問い「死にたいと思いながら25年」

問い「死にたいと思いながら25年」

【ご質問内容】

初めて質問させていただきます。 
私は死にたいと思いながら25年経ってしまいました。 
毎日目が覚める度に『死にたい』と思い、幸せな時期は『幸せなうちに死にたい』、辛い時期は『辛い。もうヤダ死にたい』と考えてしまいます。 
子供の頃からのことなので最早これが当たり前ですし、子供の頃や二十代前半の頃は何度か行動に起こした事もありましたが、いつも失敗してしまいます。

そうこうしているうちに無気力な大人になってしまったので、惰性で様々なものに依存しながらただ時間を過ごしています。 
こんな事を言うのは不謹慎極まりないのは自覚してるので言葉にするのは初めてですが、自分で死ぬより、事故や事件、病気で死を迎えるのを待つ毎日です。

最近、死にたいと毎日思うことは異常だと認識しました。 
僧侶の皆さんは死にたいと思うことはありますか?また、もし思うような時にはどうやってその思いを断ち切りますか?


【拙回答】

死ぬ自分とはいったい何か

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

どうでしょう。それほどに「死」について考えられておられるのでしたら、もう一歩前へと進んで、仏教を学びながら、「自分とは何か」、「死とは何か」ということと共にモノ・コトの真理、真実のあり方について考えてみませんか。

仏教で説明される「無我」、「空」、「縁起」などの考えがヒントとなりますが、結局のところ、「自分」も「死」も、実体としてはあり得ないものとなります。

「自分が死ぬ」とは言っても、その「自分」も「死」も実体としてはあり得ていないのであります。

ただ、実体としてはあり得てはいませんが、「縁起」としてはあり得ていると考えることにはなります。

ですので、何もないという「絶無」・「虚無」ではありません。

そして、仏教の説く「不生不滅」や「不死」の境地とはいったい何か。

おそらく、今、現在、愛梨様が考えておられるような「死」ということも、「生」ということも、真なるあり方としてはとらえられてはいらっしゃらないのではないかと存じます。

転倒したモノの見方でとらわれを起こされてしまわれている可能性もございます。

是非、まず転倒したモノの見方を仏教を学び進めることで、少しずつ正しいモノの見方ができるようにと調えて参りましょう。

「死にたい」と更に思われるのも、それからでも構わないのではないかと存じます。

是非、共に正しいモノの見方ができていけるように、仏教の修習に頑張って取り組んで参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「生きるのが怖い」

問い「生きるのが怖い」

【ご質問内容】

先日、愛がわからないでご相談させていただきました。 
その際は暖かいお返事ありがとうございます。

もう1つ長年心にあることについて、ご相談させてください。 
タイトルに載せた通り、生きるのが怖いです。

自ら命を絶とうとは思いません。生きるのが怖くて、逃げたくて、消えたくなります。

両親も元気、仕事もある、友達もいる… 環境的には恵まれています。 
ただ、パートナーがいない不安、お金に関しての不安…仕事を、今後どうするのかということ…様々な不安感がどうしても消えません。

人生における目的もわかりません。 
なぜ貯金をするのか、なぜ働くのか、なぜ生きるのか。

ないものにフォーカスしすぎているだけなのでしょうか。

情熱的に生きていきたいのに、一丁前にああしたい、こうしたいという気持ちがあってと、パワー不足になってしまうのです。 
そこから自己嫌悪の始まりです。

生きるのが怖い気持ち、少しでも軽くすることはできるのでしょうか。


【拙回答】

「不生不滅」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「生きる」ことや「死ぬ」ことについての色々な不安や恐怖というものは、おおよそ「無知」からきてしまうものであると考えることができます。

仏教的には、「無明」(むみょう)と申しまして、真理を知らない愚かな心の状態のことを申します。

では、その不安や恐怖を無くすためには、どうすれば良いのかと申しますと、「生死」の真理をしっかりと理解して見極めることが必要となります。

その真理の見極めへと向けたヒントの一つとしては、「般若心経」の中にも出て参ります「不生不滅」という言葉の示めそうとしているような内容の理解となります。それは、簡単に申せば、「空と縁起」についての正しい理解となります。

では、その内容は・・と、ここで説明を始めさせて頂いたとしても、まだまだ理解されていくのは難しいのではないかと存じます。

そこで、是非、これから、その不安や恐怖を無くすために、「不生不滅」の内容の理解へと向けて、仏教にもっと興味を持って頂きまして、一から学ばれていって頂けましたら有り難くに存じます。もちろん、その中で分からないことがございましたら、hasunohaもどうぞ頼りになされて下さいませ。

川口英俊 合掌

問い「死について考えすぎて何も手につきません」

問い「死について考えすぎて何も手につきません」

【ご質問内容】

初めまして。悩みすぎておかしくなりそうな私に母が教えてくれました。 
今、私はすごく死が怖いです。 
家族、親戚、友達がいなくなると考えるといてもたってもいられません。 
自分もいつか無になると、死んでいなくなってしまうと思うと言いようのない不安にかられます。 
今を生きなくてはいけないことも分かっていますが、考えだすと生きている意味までわからなくなり、仕事も何も手につかないのです。

【拙回答】

「死=絶無・虚無」ではありません

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

この度は、「死」についてお考え過ぎになられて、少し悲観的、虚無的なところに陥られてしまわれているのではないかとお察し申し上げます・・

実は、「死」というものが、何か実体としてあるわけではありません。また、「死」する何かも実体としてあるわけではありません。

ですので、恐れることも、悲観することもありません。・・と述べさせて頂いたところで、何のことか、全くわからないかとは思います。

仏教では、悟りの境地を表す際に、「不死」の境地とか、「不生」の境地、「不生不滅」の境地などという表現が出て参ります。

これらの境地は、まさに死への恐怖や不安、あるいは生への恐怖や不安を超えたところを目指すものとなります。

これから仏教の学びを少しずつでも進めていって頂けましたら、やがて理解して頂けることもあるかとは思いますので、少しだけご参考にされて下さい。

さて、死後のことについてですが、「死=絶無・虚無」ではありません。

私たちの存在は、身体や心、色々な機能や作用などの要素(五蘊/色・受・想・行・識)の因縁(原因や条件)の和合により成り立っているものですが、もしも、この肉体が滅び、身体的な機能・作用が停止したとしても、微細な意識としての心相続(心の連続体)が、更に色々な因縁によって死後も存続していくものであると考えられています。

その死後における心相続の赴きにおいて、最も影響する因縁の一番は、やはりその者自身の行い(業・カルマ)、また、それまでの様々なご縁(善き人縁、仏縁、法縁など)というものになります。

ですので、できるだけ善き行いに努め励んで、善き因縁を調えておくということが何よりも賢明なことになります。

できれば、死後のことをあれこれと思い悩むのではなく、生きている今をどうより良くに行いを調えて、より良い幸せな人生としていくべきであるのか、また、そのためには何をしなければならないのかを考えて、実行していくことが大切となります。

より良い人生とすべくに、共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「死を考え、今の生き方に疑問を感じるようになったハタチです。」

問い「死を考え、今の生き方に疑問を感じるようになったハタチです。」

【ご質問内容】

初めて質問します。 
私はハタチの大学3年生です。

最近、「死とは何か」について深く考えるようなきっかけがいくつかありました。 
もとより昔から「死にたい」と気軽に考えてしまう性格で、リストカットをよくしていました。 
しかし、最近「死とは何か」を深く考えるようになり、私の中の結論は、「死とは、私が私でなくなること」というところにたどりつきました。 
そうすると、どうでしょう。これまで生きてきた私の道のりは、あまりに普通すぎて、生きることの意味が見いだせなくなりました。 
つまり、私が私でなくなるその瞬間が来るのなら、大学も、勉強も、恋愛や結婚も、必要ないのではと考えるようになりました。

今私は大学三年生で、半年後にはアメリカ留学も控えています、そのまた1年後には就職活動も控え、そのまた先の40年は働いて働いての毎日が待っています。その先にある死と、今この場で自ら迎える死は、どのように違うのでしょうか。

【拙回答】

死生観を二つの真理から更に理解を進める

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

是非、死生観を更に仏教的にも深くお考えになられていかれましたら、もっと理解が進まれることがあるのではないかとは存じます。

般若心経には、「不生不滅」という言葉が出て参ります。ここで申しますならば、つまり、「不生不死」ということでもあります。

私たちの本来的なあり方としては、実は「生も無ければ、滅(死)も無い」というものとなります。

簡単には、空なる実体の無いものに、これが「生」だ、これが「死」だと言えるような何かを探して見つけられるわけではないということであります。

一体、何が生きて、何が死ぬというのかということですが、仏教では二つの真理を扱うため、理解するところに色々と難しいものがあるかとは存じます。

最高の究極的な真理としての勝義諦。

世間世俗における真理としての世俗諦。

勝義諦としては、「不生不死」ながら、一方で、世俗諦としては、やはり「有生有死」となります。

死生観について、勝義諦と世俗諦の両方からの理解をしっかりと進められれば、よりリベラ様の死生観の理解も、今はまだ断見、常見のいずれかに偏ってしまわれてはいても、いずれ、中道としてのバランスの取れた理解になるのではないかと存じます。

是非、これを機縁に仏教によりご興味を持って、学んで頂けましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌

問い「自ら命を絶つことはいけないことですか?」

問い「自ら命を絶つことはいけないことですか?」

【ご質問内容】

乱文失礼いたします。

高校生の女子です。

最近、死にたいというわけではないのですが、このまま生きることをやめてすっとこの世界から消えて楽になりたいと思うことがよくあります。

今現在私の複雑な家族関係や、学校、受験、のことなど生活の中が問題で溢れかえっていて、普段はなんとかそれらの問題に向き合っていますが、一人になったときやふとした瞬間にとてつもなく苦しくなって、涙が溢れてきます。

また、テレビなどで、生きることがどれだけ恵まれているか、ということを教えるため(?)の感動ドラマや、かわいそう、という共感を目的とした番組などを見て、どうして人間はそこまで生きることにこだわるのだろう?という素朴な疑問を抱いてしまいます。

世の中の大人の方々ってすごいなって思います。みんないろいろなものを背負いながらも頑張って生きてきていて…私は、今のような苦しい思いをしながらこの先何十年も生きていける自信がありません…。

人はどうして生きることを必死に求めるのですか?本能ですか?死にたくないから生きるのですか?自ら生きることを絶つのはいけないことですか?

話がうまくまとめられず、よくわからない文章になってしまい本当にすみません…

【拙回答】

「不生不滅」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

誠に難しいことになりますが、仏教では、二通りの真理を扱います。

一つは世間的な真理としての世俗諦。

もう一つは究極的な真理としての勝義諦。

世間的なモノの見方、考え方では、正直答えの出ない、あるいは答えの出せないことも実はたくさんございます。

「死生観」というものも、世間的なモノの見方・考え方においては、人それぞれにおいての価値観や思想信条等によっても、あれやこれやとあり、「これで正解」というものを正直見いだせるというものではありません。

では、最高の究極的真理としての「勝義諦」からはどうなるのだとなっても、実は・・言葉で表せないことが多々となってございます。あえて表すとなれば「不生不滅」、本問に合わせると「不生不死」となります。

しかし、この「不生不滅」を、世間的なモノの見方・考え方で字義通りに捉えてはいけません。ここには、文字でその内容を表すとなっても、凄まじいもの、そしていずれにしても限界があるとお考え下さい。

では、どう理解していくのかとなりましたら、仏教を修習して己が己で理解していくしかありません。

もし、どうしてもご質問のお答えをお知りになられたいのであれば、是非、これから少しずつでも仏教に興味をお持ち頂きまして、学びを進めていって頂けましたら幸いに存じます。

川口英俊 合掌

問い「どうして生きていかねばならないのですか?」

問い「どうして生きていかねばならないのですか?」

【ご質問内容】

なぜ生きていかねばならないのかわからなくなってしまいました。

仕事はものすごくつらいわけではないけど、楽しくもないしやりがいは特にないです。自分が何かの役に立ってる気はしません。

休日に楽しいことをしたいなと思いますが、うまくいきません。 
何をやってもひまつぶしというか、意味がないなという感じです。くだらないな、と思うこともあります。

家族を持ちたいと思うこともありますが、一人でできることではないので、今のところうまくいかず予定は立っておりません。

この先もどうせ楽しいことよりつらいことのほうがたくさんあるんだろうなと思うと、なんで生きなきゃいけないのかわからないです。

みなさんこんな気持ちを持ちながら生きているのでしょうか。また、それでも生きていかねばならないのでしょうか。それはなぜですか?

【拙回答】

「不生不滅」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

かよ様と同様に、拙生も、10年ほど前において、人生に対して虚無的、悲観的になった時期がございましたが、仏教を学び修するうちに、般若心経にも出て参ります「不生不滅」という言葉の意味を考えるようになり、その内容の理解が進むにつれて、そのような虚無的、悲観的な気持ちが、少しずつ無くなって参りました。

この世の真理に出逢っていく、というと大げさになりますが・・それまで、これもまた般若心経に出て参りますが「顛倒夢想」として、間違って逆さまにモノ・コトを捉えてしまっていたことに気付いていったのであります。

世間的なモノ・コトをいくら頑張って何とか世間的な物差しで理解しようとしても、根本のところにおいて、まず捉え方が間違っていては、とても、理解できるものにはなりません。答えの出ないループに陥ることも、もちろんしばしばとなります。

「生きる意味」・「生きる理由」というものも、根本のところにおける捉え方、考え方が間違っていては、答えの出ない無限ループ(仏教的には輪廻)に陥ることになってしまうものとなります。

どうでしょう。これを機縁に、是非、「不生不滅って何?」というところから、仏教を始めてみませんか?

川口英俊 合掌

問い「死という概念について」

問い「死という概念について」

【ご質問内容】

こんにちわ。 
以前個人的な質問をさせていただき、2度目の質問になります。 
以前は大変貴重な回答を頂き非常に感謝しています。

さて、表題の質問になりますが、 
小学生の頃「死」について考えたことがあり、その時は・・・ 
死んだら考えることすらできなくなってしまう。 
死んだらこうやって「死」について考えることもできない。 
自分という存在はどこへ行くのか。 
と、怖くなって夜寝られなくなってしまった思い出があります。

葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉の意味を調べたり、 
100歳を越えてもなお現役の医師を続けていらっしゃる日野原重明さんのコラムなどを読んでから、私は「死」という概念は、 
抗うものではなく受け入れるもの。 
そしていずれ来る死をどのように受け入れるか。 
が大事なのではと思うようになりました。

私は仏教には詳しくありませんが、仏教にも輪廻転生や極楽浄土など死後の魂の行方や考えがあると思います。

よろしければ、仏教的観点でも宗派的観点でもご回答くださる方の個人的な観点でもよいので、「死」についての考えをお聞かせ願えないでしょうか。 
宜しくお願いいたします。

【拙回答】

「不生不滅」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「死」への恐怖・不安もそうですが、私たちの恐怖・不安も含めて、様々な煩悩というものは、「真理を知っていない」という「無明」(根本的な無知)から生じてしまうものとなります。そのため、「死」ということとは、いったい何であるかについてしっかりと知り、理解することによって、その恐怖・不安も少しずつなりにも無くなっていくことになるのではないかと存じております。

仏教では、般若心経に出て参りますように、「不生不滅」、つまり、「生じもしないし、滅しもしない」ということも扱いますが、このことを理解するには、「空」や「中道」ということについて、まず理解しなければなりません。

もし興味がございましたら、是非、これからも仏教に関心を持って修習していって頂けましたらと存じます。

さて、少し前のご質問にもお答えさせて頂きました内容と重なりますが、我々の言う普通の「死」とは何かと申しますと、「肉体の死」、つまり、今の持っている肉体が、今あるように機能しなくなるということであります。

全てのモノ・コトは因縁(原因と条件)で成り立っているため、今の肉体も色々な原因や条件によって成り立っている次第ですが、やがて、因縁次第において、機能しなくなる、崩壊してしまうものになります。

ただ、問題はそれで何もかもが無くなって、「虚無」・「絶無」となってしまうのか、と申しますと、仏教ではそのようには考えません。

肉体に左右されない微細なる意識としての心の連続体、心相続を扱うこととなります。

その微細なる意識としての心の連続体、心相続において、過去世、現世ももちろん含めて、全てのこれまでの数々の行いの業・カルマというものが、引き継がれていくことになります。

そのため、その業・カルマによる結果として、輪廻に迷い苦しむことになってしまっているため、できるだけ、仏道を歩み、悟り・涅槃へと向かう善き業・カルマをしっかりと調えることで、輪廻を解脱して、悟り・涅槃へと至ることを目指すことが、仏教においては大切となります。

死、死後の赴きへと向けて、できる限り善き業・カルマを積んで参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

問い「生きるって何ですか」

問い「生きるって何ですか」

【ご質問内容】

生きるって何ですか 
こんなに辛い思いまでして生きるものなのですか 
そうしないと生きていけないんです 
死にたくて自分を傷付けた事もありました、でも怖くて深く出来ませんでした 
生きている事が怖いんです 
どうして人は生きなければならないのでしょうか 
辛い思いをして、醜い心を持って、無気力に生きる事が生きる事なのでしょうか 
私には分かりません

【拙回答】

「不生不滅」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「生きる」・・本当に何でしょうかね・・

ただ、言えますのは、「いのち」が生きているというのではなくて、生かされているということであります。

貴女は貴女だけでは生きれないはずです。色々なモノ・コト、ヒト、イキモノたちにも支えられて、助けられて、それでようやくに生きることができているはずです。

生きているのは、貴女そのものによるのではなく、様々なモノ・コトに依って生かされているということとなります。

本当に自分が自分で生きているのか・・そこを一度、立ち止まってよくよくお考えを頂けましたら、「生きる」ではなくて、「生かされている」自分のありようを思うとき、きっと何か今までと違って得るものがあるのではないかと存じます。

苦しい時、辛い時は、遠慮なく他を頼って下さい。助けてと言って下さい。また、hasunohaでも構いません。何度でも。実績通り、99%、必ず誰かが答えてくれます。

この世界は、お互いがお互い様で成り立っている世界。お互いの支え合い、助け合いが必要です。

今は、貴女は助け、支えを必要としている時です。

でも、またいつか誰かを助けられる、支えられるような余裕がある時が来れば、その時は、できることで、助けて、支えてあげて下さい。それで構いません。

そして、もし、もっと仏教的にお知りになられたいと思われましたら、是非、分からないことがありましたら、hasunohaで遠慮なくご質問下さい。

例えば、難しいことになりますが、般若心経にはこう出て参りますよ。

「不生不滅」と。

「生も滅もない」・・どうゆうこと・・

実は、「生」を理解するためのヒントが仏教にはたくさんございます。

是非、これを機縁に少しでも興味を持って頂けましたら幸いに存じます。

川口英俊 合掌
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