hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

勝義諦

問い「般若心経読んでみました。」

問い「般若心経読んでみました。」

【ご質問内容】

教えてください。 
般若心経読んでみました。

つまり般若心経は。

リラックスしようよ。 
あなたが思っているようなことは 
何も起こらないよ。 
感情は浮かんでは消え川のように流れ、 
大海に流れていく。 
そして、 
あなたは大海そのものだから、 
決して溺れることも沈むこともない。 
だから身を委ねてマントラ?を唱えましょう。 
みたいなことですよね?

全てはひとつ。(ワンネス) 
と言っていても、

色と空は一つにできない 
って書いてありますよね。 
そこらへんがわからない。

色と空がさっぱりなんですが、 
そんなに深く考えなくてもいいところでしょうか?


【拙回答】

焦らずに

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

早速に、どなたかの般若心経の解説の本を読まれたのですね。。

ただ、どうもやや抽象的で捉えにくいところがあるような感じにも見受けられます。

とにかく焦らずに、少しずつ字義の真意について納得されていかれると良いのではないだろうかと存じます。

これからの理解へと向けたヒントとしては、「縁起と空」、そして「世俗諦と勝義諦」ということにて、その理解も必要となって参ります。

「色と空」は、「顕れの世界と世界の本質」というものについての考察となりますが、まだ全く何のことかは分からなくて構いません。

般若心経に関する解説本はたくさんありますから、できる限り、色々と、それぞれを学ばれる中で、検討吟味しつつ、また、仏教の基本的なことも学びながら、是非、今後ともに仏教に興味を持って取り組んで頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「空間的縁起と論理的縁起の違いとは?」

問い「空間的縁起と論理的縁起の違いとは?」

【ご質問内容】

どちらも相依相関を示す縁起の筈ですが、私には両者を区別する根拠が理解出来ません。 
空間的な因果関係を示すのが空間的縁起であり、論理的な相依相関の関係を示すのが論理的縁起ということでしょうか?

また、龍樹の論理的縁起と華厳の法界縁起の最たる違いは何なのでしょうか?


【拙回答】

「縁起」について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

もう7年前の論考になってしまいますが、下記拙考におきまして、「空間的縁起と論理的縁起」につきまして述べさせて頂いております。


また、「法界縁起」に関することにつきましては、下記の中にて扱わせて頂いております。


その中で、「法界縁起」に関しましては、「・・改めまして世俗諦と勝義諦の二諦からまとめますと、時間的縁起・空間的縁起・論理的縁起が世俗諦としての扱いの縁起として、如来・悟りの勝義諦的なところから観た縁起が、華厳思想の「重重無尽の縁起」と言えるのではないかと考えます。・・」と述べさせて頂いております。

上記それぞれは、もうかなり古い内容ですので、色々と修正したいところもありますが、現在における正直な拙見解と致しまして、時間的・空間的・論理的縁起のいずれにせよ、「縁起」については、「実体・自性・自相」による成立の否定についての意義、「空」の理解へと向けてと共に、もう一つは、世俗世界における存在のありようの理解についての意義、つまり、存在の顕現についての私たちの認識のありようについての理解へと向けたものとして把捉していくのが妥当になるのではないかと存じます。

華厳経の説いている「法界縁起」については、上記のように、如来・悟りによる勝義諦的なところから顕現をみた場合における(表現できない世界についてのできる限りの表現的な)表現による世界観であると考えております。つまり、我々の考えている「縁起」とは次元の異なるものになるのではないだろうかと存じております。

川口英俊 合掌

問い「仏教における勉学」

問い「仏教における勉学」

【ご質問内容】

ご閲覧頂きありがとうございます。

仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 
中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。

誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。

ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。

仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。

【拙回答】

向こう岸(悟り・涅槃)に渡れば、捨て去る筏のようなもの

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教から見た「学問を勉強すること」について、でございますが、もちろん、例え仏教であっても、この世俗世間で生きていくためには、学問の勉強も当然に必要で大切なことになります。

ある程度、モノ・コトの分別、世俗的常識、生きていくための知識、仕事のための知識なども付けていかなければ、社会生活はとても営めるものでありません。その点は、仏教であろうがなかろうが、この世界で実際に生きて生活している以上は当たり前のことになり、疎かにできないものとなります。

しかし、仏教の最高真理としての「勝義諦」としては、学問も、学識も、知識も、分別も、これら全ては実体としては成り立っていない「空」なるものであって、そこにとらわれて、執着することはできないものとなります。

もちろん、それらにとらわれて、執着することはできないにしても、世俗世間で生きていくためには、完全に捨て去ることはやはりできません。しかしながら、あくまでも、それらは依存関係、縁起によって成り立っているものに過ぎないということを理解していくことが求められるものとなります。

仏教の目的とする悟り・涅槃へと向けて、学問も、学識も、知識も、分別も、もちろん必要で、悟り・涅槃という向こう岸へ渡るためにも必要ですが、渡り終われば捨て去る筏のようなものであるという感じでございます。

そのあたりのことの理解へ向けては、是非、興味がございましたら、龍樹大師の「中論」も学び進められて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「南無阿弥陀仏をおとなえする意味について」

問い「南無阿弥陀仏をおとなえする意味について」

【ご質問内容】

私の家は浄土宗の檀家です。 
浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。

しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。

といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。

「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。

おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。

つまり

「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか?

「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか?

という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。

これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。


【拙回答】

聖道門も浄土門も要諦は二諦の了解

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

浄土門(他力)からのお答えが多くございますので、あえて聖道門(自力)から・・と偉そうに言えるほどではありませんが・・

とにかく、聖道門も浄土門も、その教えの中には、既に如来によって悟られた世界、顕現としての勝義諦の側から説かれている教えがあり、世俗的な考え方において、勝義諦の教えを理解するのは、かなり難しいところがございます。(つまり、誤解も生じやすいというところがあります。)

実は、如来の教え(仏教)には、仏法の究極的な最高真理としての勝義諦の教えと、悟りへと導いていくための方便(対機説法・応病与薬)として説かれた教えの二通り(二諦)があり、その教えがどちらのものであるのかを、仏典や先師たちによる論書、注釈書を頼りに慎重に吟味して理解していくことが必要であると考えます。

つまり、勝義諦の教えを勝義諦の教えと理解して、方便の教えは方便の教えと理解した上で、それらを正確に修習において使い分けることができて、自らの気質・機根に応じての確かな仏道の歩みとなっているのかどうかが、大切なこととなって参ります。

とにかく、仏教には、大きく分けて二通りの説き方(二諦)があり、その教えはどちら側の教えで、それを自分の修習にどう活かしていくべきか、このことを少し意識しながら、これからも仏教を学ばれていって頂けましたらと存じます。

お礼を拝見しての追記・・

まさに、そのことを龍樹大師が、「中論」(根本中頌)において「観四諦品」(第二十四・第八偈~第十偈)『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』、『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』、『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』と述べられておられます。

いかに、「最高の意義」としての勝義諦を理解していくべきであるのか、是非、色々と学ばれていって下さいませ。

川口英俊 合掌

問い「無分別智」

問い「無分別智」

【ご質問内容】

無分別智をわかりやすく教えて頂けませんでしょうか? 
特に蹴落とし社会における無分別智の実践をお坊様はどのようにお考えなのでしょうか? 
お忙しい中、恐れ入りますが、ご回答を宜しくお願い申し上げます。


【拙回答】

無分別智について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「無分別知(智)」についてでございますが、まず、「分別知(智)」と共にそれぞれ二段階で考える必要があるのではないかと存じております。

分別知について・・

無明・煩悩による影響のある分別知(真実執着・真実把握・迷乱知・顛倒知など)

無明・煩悩による影響のない分別知(後得知・正理知・比量了解に近い分別知など)

無分別知について・・

顕現しているものに対する無分別知(後得知・正理知・比量了解など) 
(幻の如き空性)

無顕現に対する無分別知(三昧・等引知・現量了解など) 
(虚空の如き空性)

分別知は、特に言説知・言説量によって把捉されたるモノ・コトとなり、「無明・煩悩に犯された言説知・言説量と無明・煩悩に犯されていない言説知・言説量」による二通り、無分別知は、「顕現しているものと、顕現していないもの」の二通りを対象にしていると考えることができます。

かなり以前における拙図式となりますが・・

拙理解仏教図式No.7(2014.6.14) 

上記拙図においては、空性へと向かう知(智)が正しい無分別知の理解において大切になるのではないかと考えております。

しかし、ここで注意しなければならないのは、「無分別知」=「悟り」という勘違いでございます。

これは、よく一般的な仏教理解においても間違われてしまいますが、仏陀・如来となるまでは、「善い分別と悪い分別」、「善い無分別(空性了解)と悪い無分別(悪取空など)」(更に厳密に言えば、中性の分別と無分別もあります)があり、仏道においては、善い分別・善い無分別を慎重に選択して修行を進めていかなければならないのではないかというのが現時点における拙見解でございます。

そして、更に、上述における善い分別・善い無分別(つまり、善業や無明、所知障を対治することになる分別、無分別)をしっかりと見極めていくためには、「勝義諦」と「世俗諦」の二諦の意義を理解していくことも求められるものとなります。

是非、二諦につきましても併せて学ばれて頂けましたらと存じます。

川口英俊 合掌

問い「宗派の違い」

問い「宗派の違い」

【ご質問内容】

何度も質問させていただいております。 
毎回丁寧な回答をいただいて感謝しております。

さて、私は今までキリスト教の学校を卒業し、イスラム教の国に住み、特に宗教は持たずに全ての宗教は知識として学んできた程度でした。 
元々追求すること、考えること、科学的にものを見る質なので現実的にに世の中を見てきました。 
そして最近行き着いた答えは、科学と神秘、宇宙と人間は皆同じなのだということです。 
バレエに人生のほとんどを費やしていますが、これはほぼ稽古、修行、メディテーションです。これを通していろいろなことを学んでいます。 
そこでたまたま仏教について読んだところ、正に宗教という概念もなく実践してきたことそのものだったのです。 
どんな贈り物よりも嬉しい発見でした。 
それから毎日、宗派や教えを調べましたが、困ったことに『そう言われればそうかもしれない』という教えの違いばかりなのです。結局のところ、一つの目的をもって正しく生きることを遂行すれば宗派など問題ないのでは?と思うのですが、現実問題いかがなものでしょうか。 
今後真剣に仏教を学びたいと思ったときに、どのようにして適切な宗派を選ぶべきなのでしょうか。


【拙回答】

他宗教と仏教、仏教の宗派について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

他宗教と仏教との違いは何かと申しますと、端的には、仏教には他の宗教には見られない「空」の精緻な思想哲学があるということ、では、同じものは何かとなれば、人格の向上、幸せを目指して、愛や慈悲、利他の思想哲学があるということになるのではないかと存じております。

「科学と神秘、宇宙と人間は皆同じ」というのも、仏教的には、「空にして縁起なるもの」としては同じであると言えるものと考えて良いのではないかと存じます。

仏教の宗派に関しては、色々と分かれてはいますが、最終的に目指すところは、悟り・涅槃であり、そのために釈尊がお説きになられた八万四千にも及ぶ法門の真意をしっかりと理解して、修習に取り組んでいく必要があると考えております。

それも、全ての教えは初転法輪の中にてお説きになられました苦・集・滅・道の四つの聖なる真理、「四聖諦」を原理として説かれているとして、これから幅広く仏教を学ばれていかれます中においても、その教えの原理には、「四聖諦」を意識して理解されていかれれば、さほど間違ったことにはならないのではないかと存じます。

あとは、釈尊の教えには、最高真理への誘いを意図して説かれている「勝義諦」の教えと、便宜的、一時的な理解へと向けた方便の教えとして説かれている「世俗諦」の「二諦」があるため、その教えがどちらの教えであるのかも、慎重に留意しながら学ぶ必要もございます。

もちろん、拙生もまだまだではございますが、是非、共に頑張って仏道を歩んで参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「善悪について」

問い「善悪について」

【ご質問内容】

寝ているときは、不安や心配がありません。 
すなわち、起きているときに存在する私という感覚(自我)は、不安や心配そのものであると言えるでしょう。

また、自我は問題の生じるところにしか存在せず、問題は善悪を裁く部分にのみ存在すると感じます。 
言い換えれば、善悪を裁くことがなくなれば、自我による不安、心配から開放されそうです。

そこで、善悪とは何なのか、何によって生じるのか、仏教においての善悪の解釈を教えて頂けませんでしょうか?

今まで善悪についてあまり考えず、周りに流されてきた気がしています。

よろしくお願い致します。


【拙回答】

「二諦」について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

誠にモノ・コトの本質的なことにつきましてのご質問であるのではないかと存じます。

まず、自我も善悪も、実体としては無い「空」なるものがその本質となります。

もちろん、それらは、何も無いという虚無・絶無ではなく、他に依存すること、つまり、「縁って起こっているもの」として「縁起」にて成り立っているものであると説明することにはなります。

ですので、自我も善悪も一応、「縁起」的には成立しているものと考えることができます。

しかし、問題は、では、「縁起」的には成立しているものであるとしても、正しくそのモノ・コトのありようを措定するにあたっては、「無明」(根本的な無知)の対治において、「ある」ものを「ない」としてしまっている錯誤、「ない」ものを「ある」としてしまっている錯誤について、いったい、何を否定して、何を肯定するべきであるのか、あるいは、何を否定するにしてもどこまでとなるのか、何を肯定するにしてもどこまでになるのか、そのことを論理的、合理的に明確にしていかなければならないのでございます。

では、その正しいモノ・コトのありようを措定するために必要となる仏教の基準が何であるかと申しますと、「二諦」という考え方となります。

それは、最高の究極的な真理を示す教えとしての「勝義諦」(しょうぎたい)と、世間世俗の真理に留めて説かれている教え、方便としてお説きになられている教えとしての「世俗諦」(せぞくたい)という、二つの真理のありようを正しく理解することによって、一切のモノ・コトについても、正しく設定することが可能になるというものでございます。

その「二諦」の基準についての詳細をここで述べるには制限字数の関係や煩雑な説明に陥る恐れがあるため、避けさせて頂きますが、是非、これから仏教を学び修されていかれるに際しては、この「二諦」についても意識して修習なされて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「悟りって本当にあるのですか?」

問い「悟りって本当にあるのですか?」

【ご質問内容】

悟りって本当にあるのですか?悟っているお坊さんはどのくらいいますか?

【拙回答】

悟りも空であり縁起なるもの

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「悟り」とは、最高の境地のことになりますが、その境地へと至るための因縁(原因や条件)によって、もちろん至れることになるかと存じます。

ですので、悟りは、あるにはあると思いますが、「実体」として、はじめから「これが悟りだ」というものとしてあるわけではなく、しかるべき因縁によっての結果として、あり得ることになる様相のこととなります。

では、その因縁とは何かとなれば、因は、「菩提心」(悟りを目指すための強い志)、縁は、「智慧」(空性の理解)と「福徳(功徳行・方便行)」を積むこととなります。

悟っているお坊さん・・

悟りを開いた者同士でなければ、分からないのではないかとは思います。

仏教における最高真理としての勝義諦の理解というものは、言語道断、戯論寂滅と申しまして、なかなか言葉などで表現するというのも難しいところがございますし。

私たち凡夫ではなかなか伺えないところとなります。ただ、悟った者同士であれば、お互い自由自在に察せられるのではないかとは思われます。

つまり、自分自身が悟りを開くまでは、誰が悟りを開いているのかは、正直分からないという感じになりますかね。

とにかく、まずは悟りへ向けて、しっかりと仏道を歩んで参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

問い「大乗仏教と般若心経の空」

問い「大乗仏教と般若心経の空」

【ご質問内容】

大乗仏教の在り方と般若心経の空の境地は矛盾していませんか? 
救済される信仰(救うものとしての菩薩・仏などの存在)と、一元の世界との矛盾で混乱しています。

【拙回答】

「二諦」について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教では、確かにあらゆる全てのモノ・コトは「空」であると説かれますが、但し、「空」ではあるものの、「縁起」として、「救済する側(如来)」も「救済される側(衆生)」も正しく成立するということになります。

仏教では「二つの真理」について扱うことになります。

この「二つの真理」について、しっかりと理解していないと、仏教を学び進めていく中において、色々と誤解や偏見を生じさせてしまいかねないため、誠に注意が必要となります。

それは、「二諦(たい)」としての「勝義諦」と「世俗諦」のことで、前者は「空」という最高真理についてのことを扱い、後者は、世俗真理として成立している事態についてのことを扱います。

「二諦」を理解する上では、「空」と共に「縁起」※についても学ぶ必要がございます。

また、「縁起」の理解に基づいた「空」の見解について、特に、龍樹(ナーガールジュナ)大師における「中論」や「六十頌如理論」、または、「宝行王正論」からの学びもお勧めさせて頂きたいと存じます。

「般若心経」のことにつきましては、これまでにも下記の各問いの拙回答にて少しく扱わせて頂いておりますので、ご参考下さいませ。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/般若心経

「空と縁起」については、下記の各拙回答の内容をご参照下さいませ。


※縁起については、いくつかのレベルがあり、例えば、「原因と条件と結果のそれぞれとの依存関係」、あるいは、「部分と全体との依存関係」、更には、私たちの「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによっての依存関係」として、大きく三つに分類されることになります。

ご理解のお役に少しでもなりましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌

問い「死を考え、今の生き方に疑問を感じるようになったハタチです。」

問い「死を考え、今の生き方に疑問を感じるようになったハタチです。」

【ご質問内容】

初めて質問します。 
私はハタチの大学3年生です。

最近、「死とは何か」について深く考えるようなきっかけがいくつかありました。 
もとより昔から「死にたい」と気軽に考えてしまう性格で、リストカットをよくしていました。 
しかし、最近「死とは何か」を深く考えるようになり、私の中の結論は、「死とは、私が私でなくなること」というところにたどりつきました。 
そうすると、どうでしょう。これまで生きてきた私の道のりは、あまりに普通すぎて、生きることの意味が見いだせなくなりました。 
つまり、私が私でなくなるその瞬間が来るのなら、大学も、勉強も、恋愛や結婚も、必要ないのではと考えるようになりました。

今私は大学三年生で、半年後にはアメリカ留学も控えています、そのまた1年後には就職活動も控え、そのまた先の40年は働いて働いての毎日が待っています。その先にある死と、今この場で自ら迎える死は、どのように違うのでしょうか。

【拙回答】

死生観を二つの真理から更に理解を進める

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

是非、死生観を更に仏教的にも深くお考えになられていかれましたら、もっと理解が進まれることがあるのではないかとは存じます。

般若心経には、「不生不滅」という言葉が出て参ります。ここで申しますならば、つまり、「不生不死」ということでもあります。

私たちの本来的なあり方としては、実は「生も無ければ、滅(死)も無い」というものとなります。

簡単には、空なる実体の無いものに、これが「生」だ、これが「死」だと言えるような何かを探して見つけられるわけではないということであります。

一体、何が生きて、何が死ぬというのかということですが、仏教では二つの真理を扱うため、理解するところに色々と難しいものがあるかとは存じます。

最高の究極的な真理としての勝義諦。

世間世俗における真理としての世俗諦。

勝義諦としては、「不生不死」ながら、一方で、世俗諦としては、やはり「有生有死」となります。

死生観について、勝義諦と世俗諦の両方からの理解をしっかりと進められれば、よりリベラ様の死生観の理解も、今はまだ断見、常見のいずれかに偏ってしまわれてはいても、いずれ、中道としてのバランスの取れた理解になるのではないかと存じます。

是非、これを機縁に仏教によりご興味を持って、学んで頂けましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌
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