hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

善巧方便

問い「ブッダの一番言いたかったこと」

問い「ブッダの一番言いたかったこと」

【ご質問内容】

知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・

ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)?

大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある)

菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。

【拙回答】

「不放逸なれ」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

釈尊は、最期の教えとして、「もろもろの事象は過ぎ去るもの(無常)である。怠ることなく修行を完成なさい。」とおっしゃられました。

「不放逸(ふほういつ)なれ」。

これが最期のお言葉であり、大切な釈尊のお言葉の一つと考えられます。

釈尊は、悟り・涅槃へと向けて、「善き巧みなる方便」により仏教を説示なさられました。

「対機説法」、「応病与薬」です。

もちろん、大乗仏教もその内に包摂されるものでございます。

しかし、大乗や他の分類云々は、あまり分けて考えられても意味のないことであると考えております。

とにかく、釈尊の教えの全てには、聖なる四つの真理、「四聖諦」が原理的に控えているとお考え下さい。

「・・仏教における教えの中でも、その要諦となるのが、何よりもお釈迦様が最初に教えを説かれた「初転法輪」の中での「四聖諦」であり、それは、例えば、私たちは、代表的に八苦する中にありますが、それらの苦しみには、その苦しみという結果へと至らしめている因縁(原因と条件)が必ずあって、苦しんでしまっているのであって、その苦しみをもたらしてしまっている因縁を何とか解決して、より良い結果へと向かわしめるための因縁へと変えていくことができれば、やがて、苦しみを滅することができ、更に、仏道の実践によって、悟り・涅槃へと至るための因縁もしっかりと調えていくことで、いずれ、悟り・涅槃へと至れることになるものであるとして、そのための方法論を、お釈迦様が、対機説法、善巧方便を駆使なさられてお説きになられたのであります。・・』

そのお教えを、それぞれに合った「カタチ(合うカタチも因縁(原因と条件)によって様々に変化していく)」にて、怠ることなく学び修することにより、しっかりと悟り・涅槃へと向かって参りたいものでございます。

菩薩は、智慧と福徳(功徳)の修行実践者のことであり、その中でも、特に、福徳を修習するのに重きをおいている者のような印象がありますが、皆、悟り・涅槃へと向けては、智慧と福徳(功徳)の修習に取り組むべきことになります。修行実践者の一つの「カタチ」として、それもあまり分けて考える必要もないかとは存じます。

「不放逸」にて仏道に取り組んで参りたいものでございます。共に頑張りましょう。

川口英俊 合掌

問い「日本仏教とは何なのか?」

問い「日本仏教とは何なのか?」

【ご質問内容】

 初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。

 私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。

 現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。

 この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。

 まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。)

 第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。

 これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。

 結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。

【拙回答】

仏教を一通り概観しての感想※補足追記あり

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙生も、一時、すけのじ様と同じような認識に至り、初期・根本仏教から、一から仏教を学び直して、今に至っています。現在の学びの中心は、チベット仏教となっております。

ある程度、仏教を一通り概観致しまして思いましたのは、仏教の根底に控えている釈尊の真意を理解することの必要性でございます。

それを理解せずにして、ある特定の宗派の教義や、ある一面の教義にとらわれてしまっては、それこそがセクト化による独善・排他性に繋がり、カルト化しての弊害があるのではないかと存じております。

とにかく、盲目的に信仰するのではなくて、批判的に、合理的に検証を繰り返しながら、納得できるものは納得して受け入れて、実践に役立てていければ良いのではないだろうかと存じます。

※お礼を読んでの補足・・下記問いの拙回答もご参照下さいませ。

問い「偽経と信心について」 
http://goo.gl/O0iXly

・・

以下は、以前の拙回答の引用となりますが、ご参考にして下さいませ。

仏説は八万四千の法門と言われますように、多くの教えがございます。どうしてそんなに多くの教えが説かれたのかと申しますと、釈尊は、相手の機根(悟りへと向かうための能力・資質)に応じて、巧みに悟りへと導くために説かれた(善巧方便)からでございます。

簡単には、一人一人それぞれに対して説かれた、または八万四千の煩悩の一つ一つの対処法を説かれたと考えることもできるでしょう。まあ、それらの教えのある程度の公約数が、各宗派的なものとしてまとまっていると考えることもできますが、ではいったいどの教えが自分に合うのかと申しますと、やはり、ある程度それぞれあたりを付けていく必要があるのではないかと存じます。

かといって、全ての仏典や論書等を読むには膨大な時間と労力がかかってしまいますから、とにかく仏教思想の全体を概観できるような入門書、参考書からまずは学ばれていかれると良いのではないだろうかと存じます。

中略

仏道を歩む上で大切となるのが「菩提心」でございます。まずは、しっかりと「菩提心」を起こして、そして、悟りへと向けての「智慧(空の理解)と福徳(方便・功徳の実践)」の二資糧を確かに積んでいくことが必要となって参ります。

川口英俊 合掌

問い「御経の事について。」

問い「御経の事について。」

【ご質問内容】

おはようございます??

何回か質問や相談をさせて頂いている者です。

仏教が好きで御経に興味がありまして、法華経や般若心経や真言の意味を知りたいと思っていてSNSとかで調べてみたりはしてますが、hasunohaというコミュニティ-で御住職様達と交流する機会を作って頂きましたので、御経の意味を知りたいと思って書き込みさせて頂きました。

普段からお付き合いがある菩提寺の御住職様に前々からお経の意味を知りたいから質問してみたいとは思ってましたが、法事でしかお会いする機会がなくてタイミングが合わないので、hasunohaの存在を知ったのでここに参加されている御住職様達に御経の意味を教えて頂きたく質問させて頂きましたので、お忙しいとは思いますが、よろしくお願いします。

【拙回答】

「四聖諦」から各お経の内容を理解していくことについて

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

お経の内容は、お釈迦様の膨大な教えが表されたものとなりますが、それらの教えの数が、「八万四千(の法門)」と言われますように、「対機説法」・「方便」(その人それぞれの苦しみ、迷いに対して的確に応じて説かれた)によって、それだけお説きになられているものとなります。

その趣旨・目的は、もちろん、「悟り」・「涅槃」へと至らしめていくためとなります。

その対機説法・方便を理解する上で、最も大切となる基本的な教えが、何よりまず初転法輪の中においてお説きになられました、「四聖諦」という「苦諦・集諦・滅諦・道諦」の四つの聖なる真理になるのではないかと存じます。

「四聖諦」とは、私たちには、代表的に四苦八苦(生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦)する中にありますが、それらの苦しみには、その苦しみの結果へと至らしめている因縁(原因と条件)が必ずあって、苦しんでしまっているのであって、その苦しみをもたらしてしまっている因縁を何とか解決して、より良い結果へと向かわしめるための因縁へと変えていくことができれば、やがて、苦しみを無くすことができ、更に悟り・涅槃へと至るための因縁をしっかりと調えていくことで、いずれ、悟り・涅槃へと至れることになるものであるとして、そのための方法(仏道)を、お釈迦様は、「善巧方便」を駆使なさられて仏教をお説きになられた次第でございます。

ですので、全てのお経の内容も、それはまず、「四聖諦」ということを基本的な原理として説かれているものであるとして、ご理解を頂けましたらと存じます。

また、各個別のお経の内容、その一部等の内容につきまして、お聞きになられたいことがございましたら、どうぞお気軽にご質問下さいませ。

仏教の修習のための少しなりにもお役に立てれましたらと存じます。

川口英俊 合掌

問い「説き上手は、いかに戒められますか」

問い「説き上手は、いかに戒められますか」

【ご質問内容】

問5366 を拝見して、思い出したのです。 

既にいったん行き詰まった、混乱した者には、何かちょっと、持たせてやらねばと思ってしまうのです。 
その上つい説き【すぎて】しまうのは、全く己の弱さのなせるところなのですが。

かつて行き詰まった己を動かしたのは、偶然手に取った本でした。 
支持以上の、なにか実践的きっかけのようなものが、必要だったのです。

そういえば、対機説法というそうですが(問1099ほか)、釈迦はいかに聞き、いかに応えたのでしょうか。

思索の深まる答を欲します。

【拙回答】

拙失敗談・・

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

聖章様も既におっしゃられていますように、釈尊は、お悟りを開かれました全知者・一切知者でございまして、全てをご存知であるため、適切な対機説法が可能であり、善巧方便により衆生をお導きになられました。

私たち凡夫におきましては、釈尊のようには無理だとしても、相手のためを思って、アドバイスをすることは誠に親切であり、有り難いことでございますが、加減が分からずに、それがかえって逆効果になってしまったり、迷惑になってしまったりということも、もちろんあり得ます。それがゆえにも、できるだけ「慎重」にと心掛ける必要があるかとは存じます。

しかし、慎重さを心掛けていても、実は拙生も一度hasunohaの回答で失敗してしまったことがございました・・下記のように謝罪文も出して、しばらく回答を自粛していた時期がございました・・

「Hasunoha」拙回答に関する謝罪につきまして(2013年06月14日) 

誠に苦い失敗でございましたが、大事にはならずにて、誠に良かったと存じております。

聖章様もおっしゃられていますが、やはり経験からでしか分からないこともございます。良い塩梅、中道とはどのあたりになるのかを見極めつつに、慢心せずに、日々研鑽、精進努力していくことが必要であるかと存じます。

川口英俊 合掌

問い「仏様は作り話ですか?」

問い「仏様は作り話ですか?」

【ご質問内容】

はじめまして。とうこといいます。 
お寺で参拝するととても落ち着くので、よく行っています。

知識も得ようと本を読んだりしたのですが、そこには「様々な仏は架空の存在である」と書かれていました。 
お釈迦様はおられましたが、阿弥陀さまとか薬師如来さまはフィクションだと初めて知りました。 
私は深く考えたことがなく、てっきり実在されているのだと思っていたのでその時はショックを受けました。

お坊さんはこのことを知っておられるのだと思いますが、どう受け止められましたか? 
仏はいないと思いながら学問としてされているのか、存在されて人々を助けて下さると信じているのか、お坊さんのとらえ方を教えて下さい。

【拙回答】

方便について

嘘も方便という諺がありますが、本当に嘘であるならば、経典類もこんなに長らくは残らなかったことでしょう。是非、根底に控えてある真理へのアプローチを目指されて、これからも仏教を学び修して頂けましたら幸いでございます。

以下は、少しご参考までにて。

正直なところ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったため、後世に文字にて表されて伝えられている経典というものは、誤解を恐れずに申せば、釈尊のそのままの真意なる教えとして捉えて良いものかどうかは、非常に疑わしく、また、文字で表されたものは、釈尊の教えでないとするならば、全て「作り話」と言ってしまっても、ある意味において過言ではありません。

なぜ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったのか・・

拙私見ですが、「文字化→概念の固定化→実体視→執着→迷い苦しみ」ということがあるからではないかと存じております。

また、文字化の否定のことを「言語道断」、「戯論寂滅」、「離戯論」、「離言真如」などと概念化してしまっても同様なことになりかねず、やはり、宜しくないものとなってしまいます。

しかし、それでは、一体どのようにして釈尊の教え、仏教を修学・修習していくべきであるのか、となりますと、如来が不在である以上、やはり、私たちは経典を頼りにしていく他に、その教えを学び修していく術はないのであります。

もちろん、経典は、何も根拠のない教えというわけではありません。八万四千とも言われる釈尊の善巧方便による無数の教えにおける、ある一面であったり、要約や公約されたものであったりと、それぞれの経典における方便的な立場があると考えることができます。

アサンガ大師は「摂大乗論」にて、「最清浄法界等流」というお言葉を使われておりますが、まさに、清浄なる真理の世界から流れ出ている教えであるとして、経典の内容について、慎重に吟味して扱う必要があると存じております。

問題は、では、どの経典やその中の教えが、(自分やそれぞれの衆生に対して)頼りになり、あるいは頼りとすべきかということについては、それも慎重に判断していくことが必要となります。

問い「お経の種類」 

問い「龍樹と唯識」 

川口英俊 合掌

問い「生き方」

問い「生き方」

【ご質問内容】

子供の頃から生きるということに対してよく考えてた。辛いことがあるたびに死にたいと考える頻度が多くなり、、自分自身、親に対する嫌悪感を持ち続け、過去の悲しみを拭えていない、子供のままの大人になってる気がする。 
社会人として働く先々、嫌いな人がいて仕事に行く事が嫌でたまらない。自分の性格上、弱さ、責任感からすぐに逃げれず、嫌なのに平気なふりして残業残業の日々。ストレスを溜めてしまって、心が壊れるくらいまでいき、大切な人にやつあたりしたり、家で泣き叫んだり、死にたいと考えてしまう。こんな自分を情けなく思う。どう生きていったらよいのかアドバイスをいただきたいです。。

【拙回答】

怨憎会苦

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

嫌な事や嫌な人に会う苦しみは、私たちの代表的な苦しみの八苦の一つ「怨憎会苦」と申しまして、誠に避けられない苦しみでございます。

他にも色々な苦しみがございますが、釈尊は、それらの苦しみを滅していくための方法を善巧方便により様々にお説きになられておられます。

是非、仏教に興味を強くお持ち頂きまして、学び修めていかれますことを、まず、お勧め申し上げたいと存じます。

「生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり・・」と道元禅師も仰せられておられますように、生死の問題は、まさに仏教の取り組むべき要諦となります。

私たちは、生も、死も、自分が自分で生きている、自分が自分で死んでいく・・と考えがちですが、自己完結するものではなくて、生きるのも死ぬのも、そのための無数の因縁が関わっているものとなります。

簡単には、無数の因縁(原因と条件)があり、色々な依存関係の中において、生かされて生きていることができており、また死のありようも、そのようなものであると考えます。

いずれにしても、私たちは何かに依存して成り立っているだけの「縁起」なる存在であり、皆、そのような中で、支え合い、助け合い、分かち合いで過ごしていかないと成り立っていけない世界でもあります。

苦しいとき、つらいとき、しんどいときは、遠慮なさらずに周りを頼って下さい。そして、また誰かに頼られることがあったり、苦しんでいるもの、助けが必要とされているものがあれば、できうることにて、できるだけ助けてあげて下さい。

お互い様で有り難うという感謝の気持ちで、日々の行いを調えていけることが、少しずつにでもできるようになれば、その善行の一つ一つが、貴女様をより良い先へと向かわしめるための因縁となっていくことでしょう。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「偽経と信心について」

問い「偽経と信心について」

【ご質問内容】

大学で仏教の事を学んでいる真宗の信徒です。先生には質問しづらい内容ですのでここで質問させてください。 
大学で四諦の教えや空の思想を知り、苦しみの生まれるプロセスを理解しました。 
ただ私は意思が弱い凡夫ですので、渇愛煩悩を絶つために修行し自力で悟りを得られるような人間ではありません。 
やはり阿弥陀仏の本願に縋るしかないと考えております。

しかしながら、偽経について学び、同時に観経が偽経である事を知ると疑いの心が生じてきました。 
信じたいと思っているのですが、釈尊が説かれた教えではないものと知ってしまうと、阿弥陀仏は本当に自分を救ってくださるのかどうしても心配になってきます。 
この心にどう折り合いをつければ良いでしょうか?

【拙回答】

「最清浄法界等流」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

正直なところ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったため、後世に文字にて表されて伝えられている経典というものは、誤解を恐れずに申せば、釈尊のそのままの真意なる教えとして捉えて良いものかどうかは、非常に疑わしく、また、文字で表されたものは、釈尊の教えでないとするならば、全て「偽経」と言ってしまっても、ある意味において過言ではありません。

なぜ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったのか・・

拙私見ですが、「文字化→概念の固定化→実体視→執着→迷い苦しみ」ということがあるからではないかと存じております。

また、文字化の否定のことを「言語道断」、「戯論寂滅」、「離戯論」、「離言真如」などと概念化してしまっても同様なことになりかねず、やはり、宜しくないものとなってしまいます。

しかし、それでは、一体どのようにして釈尊の教え、仏教を修学・修習していくべきであるのか、となりますと、如来が不在である以上、やはり、私たちは経典を頼りにしていく他に、その教えを学び修していく術はないのであります。

もちろん、経典は、何も根拠のない教えというわけではありません。八万四千とも言われる釈尊の善巧方便による無数の教えにおける、ある一面であったり、要約や公約されたものであったりと、それぞれの経典における方便的な立場があると考えることができます。

アサンガ大師は「摂大乗論」にて、「最清浄法界等流」というお言葉を使われておりますが、まさに、清浄なる真理の世界から流れ出ている教えであるとして、経典の内容について、慎重に吟味して扱う必要があると存じております。

問題は、では、どの経典やその中の教えが、(自分やそれぞれの衆生に対して)頼りになり、あるいは頼りとすべきかということについては、それも慎重に判断していくことが必要となります。このことにつきましては、下記の拙回答もご参照を頂けましたらと存じます。

問い「お経の種類」 

問い「龍樹と唯識」 
http://goo.gl/GnWUpc

川口英俊 合掌


「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。

問い「三性説と唯識と中観 六十頌如理論について」

問い「三性説と唯識と中観 六十頌如理論について」
http://hasunoha.jp/questions/2482

【ご質問内容】

龍樹の著作とされるこの本の中には、龍樹が「識」の作用を認めている様な節があり、唯識に類似した考えがあります。(34頌)
しかし、世俗に於いて自相を認めざるを得ない唯識思想と、
世俗に於いても自相を認めない龍樹の正統な中観思想(ゲルク派)は相容れない物だと認識しております。

ここの龍樹の記述は一体どういう事なのでしょうか?

それとも本来「三性説」と「唯識」は独立していた、と云う事と関係が有るのでしょうか?

【拙回答】

如来・覚者の善巧方便の目的について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「元素など説かれているものは(すべて)意識に集約される。それを知ることによってなくなるから、誤って考えられているものでないのか。」(六十頌如理論・三十四頌)

本頌では、本章十一『「すべては存在する」と説くのはなぜか』の全体の意図するところから、本頌についても如来・覚者の善巧方便の目的として説かれているものの一つの例として考えると良いのではないかと存じます。

如来・覚者は、必要に応じて、つまり、その者の機根に応じて、中観も説けば、唯識も説くということでございます。但し、目指すべきところは勝義・涅槃・悟りへのいざないとなります。

この章の理解と致しましては、中論の「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』、あるいは、「観法品」(第十八・第八偈)『一切は真実(そのようにある)である」、「一切は真実ではない」、「一切は真実であって且つ真実ではない」、「一切は真実であるのではなく且つ真実ではないのでもない」。これが、もろもろの仏の教説である。』というところにおける龍樹大師が意図されていることの理解が大切になるのではないかと存じております。

勝義・涅槃・悟りへのいざないというものは、何も中観帰謬論証派の教えだけとか、あるいは密教だけとかというものではないということでごさいます。どうしても私たちは優劣上下で物事を考えてしまい、最高最上のものを求めてしまいがちになりますが、その教えが合うか合わないかは、悟りへと向けてのそれぞれの機根次第となります。唯識の教えで悟れないということではなく、唯識の教えでも機根次第(悟りへ向けての因縁次第)では、それを機縁としてやがて悟れる者も当然にいるかもしれないということでございます。

補足として、龍樹大師は、識の働きや作用など、縁起的なあり方まで否定されているわけではなく、あくまでも対象も識の側も実体、自性、自相としての成立を否定されている次第でございます。

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16

問い「自分に合う仏教の宗派」

問い「自分に合う仏教の宗派」
http://hasunoha.jp/questions/2378

【ご質問内容】

 生きていく指針を探しているうちに仏教が合うのではないかと思うようになりました。

 大学がキリスト教という事もあり、キリスト教の宗派だけでなく、イスラム教や神道も調べてみましたが、自分の考え方とは異なる印象があります。

 キリスト教の一宗派であるプロテスタントの勤勉さやキリスト教全体が持つ他者との共存や無償の奉仕には同意するのですが、自然に対して人間優位的な部分も見られるので、研究対象にはできるのですが、生きていく指針として合いません。

 そういった経路もあり、仏教に重きを置くようになりました。そこで、仏教の宗派を調べています。私が持つそれぞれの宗派についてですが、法相宗の色々な修行がある事には同意するのですが、『この世の物は自分が作り出したものである』という暴力的な印象を受け、日蓮宗や密教、浄土真宗、浄土宗はただ念仏を唱えているだけ、そして禅系は座っているだけという印象を持っています。

 私自身は、自分の心身を持って他者に貢献しながらも、修行をする事で悟りは開けるものだと考えています。また寺などのいわゆる(適切ではないですが)宗教施設にいるのではなく、浮世に属しながら伝えていくのが伝道だと考えており生き方にしたいです。

 伝えられていないとは思いますが、教えを下さい。

【拙回答】

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

以前にも似たようなご質問がございましたので、そちらから編集して引用させて頂きますので、少しくご参照下さいませ。

仏説は八万四千の法門と言われますように、多くの教えがございます。どうしてそんなに多くの教えが説かれたのかと申しますと、釈尊は、相手の機根(悟りへと向かうための能力・資質)に応じて、巧みに悟りへと導くために説かれた(善巧方便)からでございます。

簡単には、一人一人それぞれに対して説かれた、または八万四千の煩悩の一つ一つの対処法を説かれたと考えることもできるでしょう。まあ、それらの教えのある程度の公約数が、各宗派的なものとしてまとまっていると考えることもできますが、ではいったいどの教えが自分に合うのかと申しますと、やはり、ある程度それぞれあたりを付けていく必要があるのではないかと存じます。

かといって、全ての仏典や論書等を読むには膨大な時間と労力がかかってしまいますから、とにかく仏教思想の全体を概観できるような入門書、参考書からまずは学ばれていかれると良いのではないだろうかと存じます。

そして、やがて本格的に学び修していきたいものに出逢えましたら、その師を求められて、そして指導を仰ぐようになさられると良いのではないかと存じます。

在家のままでも授戒を受けるなどして正式な仏弟子となって、仏道を歩むこともできるかと存じます。僧侶になるのであれば、ある程度専門的なところでの修行は必要となりますが、そうでなければ、在家のままでも修行できないことはありませんので、その点はどうかご安心下さいませ。

とにかく、在家であろうが出家であろうが、仏道を歩む上で大切となるのが「菩提心」(全てのものたちを救うための悟りを求めたいとする心)でございます。まずは、しっかりと「菩提心」を起こして、そして、悟りへと向けての「智慧(空の理解)と福徳(方便・功徳の実践)」の二資糧を確かに積んでいくことが必要となって参ります。

また、無理に出家の修行の形式にこだわる必要もありません。日常の行住坐臥の中でも、心身共に無理のない範囲でバランス良く(中道)に進めることが大切となります。

頑張って共に仏道の歩みに励んで参りましょう。

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16

問い「私は修行できるのでしょうか。宗派を決めるのが難しいです。」

問い「私は修行できるのでしょうか。宗派を決めるのが難しいです。」
http://hasunoha.jp/questions/1395

【ご質問内容】

こんにちは。 初めて質問します。
私は、いろんなことがよく頭の中で渦巻いて、ごちゃごちゃしています。
”空”にすることはとても難しいです。

6、7年前に自律神経系を著しく崩して、死がそこまで来るほどに患いました。 いろんな人たちの援助やさまざまな治療方法で、細かい不調はありながらも何とか今、生活できています。

生きていることの毎日が修行のようですが、頭(心や魂でしょうか)の部分で、改善はしていますがどうしても”何か”を越えられません。

現在、私にはもう仏教修行の道しかないのか、或いはその道が最適、ぐらいの考えにあります。

インターネットでいろいろ調べましたが、そのうちに宗派や修行内容など、考えると訳がわからなくなってきました。
(修行体験として出てくるのは限られている気もします。)

身体面で、厳しい修行(横になってはいけない、断食、極寒でひたすら立ち尽くす、1000日歩き続ける、など...)に耐えられるのかどうか不安です。また、死ぬような思いをするのかな、と。
わたしにとっては、その部分の修行は1度やった、ぐらいの感覚であるほど苦しかったんです。(修行を軽く捉えてるわけではありません)

無理ならば、健康でなければ出家はできないということになってしまうのでしょうか。

このような状況や、修行の内容と宗旨のバランスを、自分に当てはめてみたとき、何を選べばいいかわからないです。

このような私に、ご教授よろしくお願いします。

長文、お読みくださり、ありがとうございました。

【拙回答】

「菩提心」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏説は八万四千の法門と言われますように、多くの教えがございます。どうしてそんなに多くの教えが説かれたのかと申しますと、釈尊は、相手の機根(悟りへと向かうための能力・資質)に応じて、巧みに悟りへと導くために説かれた(善巧方便)からでございます。

簡単には、一人一人それぞれに対して説かれた、または八万四千の煩悩の一つ一つの対処法を説かれたと考えることもできるでしょう。

まあ、それらの教えのある程度の公約数が、各宗派的なものとしてまとまっていると考えることもできますが、ではいったいどの教えが自分に合うのかと申しますと、やはり、ある程度それぞれあたりを付けていく必要があるのではないかと存じます。

かといって、全ての仏典や論書等を読むには膨大な時間と労力がかかってしまいますから、とにかく仏教思想の全体を概観できるような入門書、参考書からまずは学ばれていかれると良いのではないだろうかと存じます。

そして、やがて本格的に学び修していきたいものに出逢えましたら、その師を求められて、そして指導を仰ぐようになさられると良いのではないかと存じます。

在家のままでも授戒を受けるなどして正式な弟子となって、仏道を歩むこともできるかと存じます。僧侶になるのであれば、ある程度専門的なところでの修行は必要となりますが、そうでなければ、在家のままでも修行はできないことはありませんので、その点はどうかご安心下さいませ。

とにかく、在家であろうが出家であろうが、仏道を歩む上で大切となるのが「菩提心」(全てのものたちを救うための悟りを求めたいとする心)でございます。まずは、しっかりと「菩提心」を起こして、三宝に帰依して、そして、「智慧(空の理解)と福徳(方便・功徳の実践)」の二資糧を積んでいくことが必要となって参ります。

また、無理に修行の形式(坐禅、瞑想、水行、護摩行、念仏行、三昧行・・)にこだわる必要もありません。日常の行住坐臥の中でも、心身共に無理のない範囲でバランス良く(中道)に進めることが大切となります。

是非、共にこれからも頑張って仏道の歩みに励んで参りましょう。

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16
カテゴリ別アーカイブ
カテゴリー
QRコード
QRコード
記事検索
  • ライブドアブログ