問い「人間の男に生まれることは、前世の悪行の報いでしょうか。」
【ご質問内容】
人間の男に生まれたことが、前世での報いでしょうか。
こんな辛い生は無いと思っております。
独身なら独身で「何で世帯が持てないのか、何か精神的障壁があるのか」とか、「仕事だけが人生なのか」とか
世帯を持てば持てば持ったで「出世もできずに、どうやって妻子を楽にさせるのか」、「お前に男子の本懐はあるのか」、「そんな状況で親孝行できるのか」とか。
果ては「ヒモ」なったらったで、「男の誇りは無いのか」と責め立てられる。
前世でどんな酷いことをしたからと言って、何の記憶もないのこの私に、この報いは余りにも空しすきると思います。
どうしたら「人間の男」に生まれ変わらないようにできますでしょうか。
【拙回答】
「盲亀浮木」
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
確かに私たちは迷い苦しみの世界である人間の世界に生まれてしまっております。
しかし、この人に生まれることの難しさたるや・・
仏教では、「盲亀浮木」という譬えがございまして、大海に住む目の見えない老亀が、百年に一度海面に浮き上がってくる時に、たまたまそこに流れてきた穴の空いた浮き木の穴に首を突っ込むというぐらいに、人として生まれるのは難しいとされています。更に仏様の教えのある世界に生まれて、仏様の教えを学び修せられることも、尚もって難しいことであると言われています。
また、人は天・修羅と共に、六道輪廻の中でも「三善趣」と言われるだけに、迷い苦しみの中にあるのは変わりませんが、畜生・餓鬼・地獄(三悪趣)に比べれば、はるかにましな存在であると言えます。
その上、三善趣であっても、天と修羅では、「有暇具足」(悟り・涅槃へと向かうための八つの有暇と十の具足を備えている)を円満には得難いため、実際は人のみが、仏様の教えを修せられるための絶好の機会となるだけに、できる限り無駄に過ごしたくないものとなります。
人して生まれたのは、ある程度、過去世における善き業・カルマの因縁(原因と条件)があってのことであるとも考えられます。私たちは、何とかこの機会を逃さずに、心の資質の向上のためにも、仏教の修習にしっかりと取り組んで参りたいものでございます。
川口英俊 合掌