hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

執着

問い「お金は空  とは…」

問い「お金は空  とは…」

【ご質問内容】

 何気なく立ち読った本屋で帯に<お金は空>と衝撃的?!なタイトルに思わず手に取り拝読しました。昔から金の切れ目は縁の切れ目と離婚や相続などでお金は人を狂わせるのかなぁ、でも生きてくためのツールだし今は分相応?身の丈にあった生活をしてると思っていました。だけれど ふ と親の医療費、子どもの学費と、お金があればもっと余裕を持って(セカンドオピニオンや奨学金に頼らなく)してあげられる事もあるし悩み事も減るんじゃないかと思ってみたり。お金もまた煩悩の一つなのかなと。宝くじは楽しみに購入してます。年末、師走は何かとお金に振り回され生活しています お金は空とは…腑に落ちなく質問となりました。 hasunohaでお金のことを問うのは失礼になるかと思いますが…


【拙回答】

お金も縁起し空である。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「お金は空」と本の帯に書いてあったとのこと・・

本の中身の詳しい内容は分かりませんが、おそらくは、「お金へのとらわれ、執着を捨てるように」という意味合いがあるのかなと想像できます。

お金はもちろん大切です。生きていくために、生活するために、社会活動を営むために必要なものです。

お金というものも、色々な「因縁」(原因や条件)によって、その「価値」・「信用」が与えられているものであり、因縁次第によって、その「価値」・「信用」も変化していくものとなります。

つまり、実体として、変わらない、固定したものではなく、因縁次第で刻々と変動していくものであり、それに対して、あたかも変動しないものであるかのように、価値や信用を与えて、とらわれ、執着を起こすのは、よろしくないことですよ、という内容になるのではないだろうかと存じます。

もちろん、「空」だからといっても、何も無い、虚無というわけではなくて、あくまでも「固定的な、独立自存としての実体が無い」ということであって、実体は無くても、因縁により、お金に価値や信用があって、有効に社会で流通・使用されている以上は、当然に、私たちにおいても、必要で大切なものには変わりありません。

お金も、生きていくために、生活するために、社会活動を営むために、しっかりと有効に活用して参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

問い「善悪に囚われなくなるにはどうしたらいいでしょう?」

問い「善悪に囚われなくなるにはどうしたらいいでしょう?」

【ご質問内容】

何事につけ善悪をはっきりさせ、それにこだわってしまいます。

このこだわりを手放すにはどうしたらいいでしょう?

【拙回答】

善悪について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

まず、善悪というものは、それぞれの主観的なもの、あるいは、恣意的なもの、また、一般的なものなど様々な基準や価値判断があり、更には、世間で言うところの善悪のレベルと、世間を超えた仏教の考える究極的な真理のレベルにおけるものとでも、異なるものとなって参ります。

究極的な真理のレベルにおけることは、非常に理解が難しいものとなりますが、世間一般の考えているような善悪のレベルにおけることであるならば、道徳・倫理・法律の世間的な常識の範囲において、自分だけではなく、他にも利するように、それぞれを分別して思慮して行動していくというのは、大切なことであるかと存じます。

それが、もっぱら自分の自己中心的なもの、自己都合や自己満足的なものとなれば、やはりただの迷惑である可能性も高くなってしまいます。

善悪をしっかりと分別しながら、悪を退けて、善を勧めるということは、世の中を過ごす上での基本的なことでもあるため、多少囚われてしまってはいても、さほど問題はないことではありますが、自分の保身のためや自己満足、独り善がり的なものが強くあるであるならば、問題が多々出ることになるため、そこは修正していかなければならないように存じます。

まあ、善悪の分別に囚われていたとしても、私益と公益のバランスをどう良好に保つのかということが大切になるのではないかと存じます。

もう一方の、仏教の考える究極的真理のレベルにおける善悪というものは、「不善不悪」「非善非悪」などといった表現で表すことになりますが、これはある程度、理解の段階を踏まないと、誤解を生じさせてしまうリスクも大でございますため、もし、この先において、仏教を修習される中で、少しだけ頭の片隅に置いておいて頂けましたら幸いに存じます。

川口英俊 合掌

問い「写経について(文字を間違えてしまいました)、そして煩悩」

問い「写経について(文字を間違えてしまいました)、そして煩悩」

【ご質問内容】

こんにちは。初めまして。よろしくお願いします。

私は人から「いつも笑顔が絶えない、穏やかでおおらかな人」と思われることが多いのですが、本当は凄く寂しがり屋で、孤独感でいっぱいになるときがあります。けれど、本当の自分を人に見せることができないので、寂しいとき、孤独感でいっぱいになったときはよく写経に行きます。一文字、一文字書きながら、仏様とお話しさせていだいている気持ちになります。

今年もバレンタインデーを一人で過ごすことになってしまい、寂しくて仕方なかく、チョコレート代わりに仏様に恋文を渡す気持ちでお写経に行きました。結果、とても有意義な時間を過ごすことができたのですが、最後の最後で日付(年)を書き間違えてしまいました。係りの人に「日付を間違えたのですがどうすればよいですか」と聞いたら、「斜めの線を引いて正しい文字を横に書いてください」と言われたので、そのとおりにして納経させていただきました。

帰宅後、気になったので調べてみたら、写経の間違いの訂正は斜線ではないようで、誤った方法で提出したことが気になってしまって仕方ありません。

多分、今日はいつも以上に「良縁祈願」の気持ちが強かったからだと思います。確認せずに書いてしまったことに対する後悔、願い事が叶わないかもしれないという不安、こんなことばかりを気にしてしまう自分への怒りが大きく、お写経で得た幸福感がなくなってしまうのが悲しいです。

写経の間違えを斜線で訂正しても大丈夫なのでしょうか。小さなことを気にする自分も嫌でたまりません。

【拙回答】

写経の本来の功徳とは・・

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

写経は、本来、大切な仏法を広めるという役割を担うということにおける功徳という意味合いがあったのではないだろうかと存じます。

現代では、印刷技術も発達し、紙資源も豊富であり、教典を誰もが手にすることができる時代、ましてやインターネットでも、ほとんどのお経が閲覧できるようになってきており、本来の意味における写経の功徳は、少し意義も薄まってきてしまっているのではないだろうかと存じます。

それに、写経もただ写経するだけならば、写メを撮っているようなことと変わらず、それだけではやはり功徳は望めないのではないかと存じます。

写経し、その教典の書いてある内容をしっかりと実践することによる功徳、これが最も大切なことになるのではないだろうかと存じます。

もし写経が般若心経であるならば、尚更となります。

ましてや、写経して、執着や煩悩を生じさせてしまっていては本末転倒でございます。

写経し、般若心経の説く「空」の教えを理解し、そして、執着や煩悩を対治することによっての行いの功徳こそが、まさに大切となります。

その功徳によって、善き因縁(原因と条件)が調ってこそ、願い事や幸せ事についても、善き結果をもたらしめさせることができていくということになるというものであります。

もちろん、写経を機縁として、善き心の変容、優しさや安心感、幸福感を得られることまでは否定致しませんし、そのような効能も当然にあるかとは存じます。

でも、本当にして頂きたいのは、仏教の実践ということになります。

少し上記のことにつきましてもお考えを賜れましたら、有り難くに存じます。

来年は本命チョコを渡せるお相手がおりますと良いですね。

良縁、お幸せを祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「心の引っかかり」

問い「心の引っかかり」

【ご質問内容】

10年ほど前に親戚の紹介で出会った男性が今でも忘れられません。 
一目惚れに近いぐらいの衝撃だったことを覚えています。 
その人とは残念ながらお付き合いまではいかず、そういう運命だったんだなとその時自分に言い聞かせました。 
その方はもう今や3人の子供の父親で幸せな家庭を築いています。

私はというと、まだ心のどこかにその人がずっといる状態です。 
相手の家庭をどうこうしてまでなんて思ってもいないので、このことは誰にも言ったことがなく、心の奥に閉まっています。

それが逆に切なく苦しい状態で.. 
ここまでくると執着だなと思い、私は私で大切な相手を探そうと頑張っているのですが、心の奥にその人がいるからなのか、なかなかうまくいかず..

今後この心のつっかかりとどう向き合っていけばいいのかアドバイスをいただきたいです。

【拙回答】

「諦める」ということについて

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

一目惚れされた方のことが忘れられないご様子・・誠におつらいことでございます。

そしていつまでも心のつっかかりとして離れない・・

拙生にもそんな切ない経験がございますので、よく理解できます・・七年間、そんな感じで過ごしたことがございました・・

思い切れるための「きっかけ」があれば、また心機一転もできるのでしょうが・・

とにかく、拙生の場合では、執着と言えば誠にそうなのですが、相手の実状や思いなどを無視しての、ほとんどが自分の妄想による杞憂や勝手な思いこみ、全く叶わないような期待であったのではないかと振り返ります。

それがますます想いの積み重ねと時間の経過と共に妄想も増大化してしまって、正直に申せば、「迷惑」に近い形にまでなってしまう場合もあるかと存じます。

もしか致しますと、今のかな様も、そんな感じであるのかもしれません。

今、その方に強く溜まってしまっている想いをお伝えになられたとしても、相手も混乱して、迷惑になってしまうかもしれません。

少し厳しい言い方になってしまいますが、その方のことは「諦めなさい」ということになります。

実は、この「諦める」というのは、「事実・真理・真実を受け入れる」という意味が元々の語原となります。

今の現状の事実・道理では、相手に迷惑になってしまうという現実を受け入れて、これからの新しい出逢い、新しい恋愛へ向けたご縁を大切にして頂けましたらと存じます。

かな様のお幸せを祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「私は何をしたいのでしょうか」

問い「私は何をしたいのでしょうか」

【ご質問内容】

欲がありすぎて、すべて等しく欲しくて、決めかねた結果どれも要らなくなってしまいます。 
煩悩を捨てたくもないしすべてが面倒です。死ぬことすら面倒です。

考えることも放棄したいです。 
でも行動は放棄すると収入が得られなかったり生きることに必要な手続きが進まなかったりするので放棄できません。惰性でやっています。

諦められません。 
執着を捨てられません。

私は何をしたいのでしょうか。どうやったら答えが出ますか。

【拙回答】

リスト化による管理から

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

とにかく、やるべきこと、やらなければならないことを、まずしっかりと取り組み、時間やお金に余裕ができれば、優先順位でしたいことを一つ一つしていかれる、というのはどうでしょうか。

そのため、基本的に絶対決まっているルーティン(起床・通勤等)は別に、前の日に、翌日にやるべきこと、やらなければならないことのリストを、メモして書き出しておいて、一日の終わりに充足、充実のチェック、あるいは、見直しや反省のチェックもしつつ、次の日のメモを書き出す・・

それとは別に、余裕ができた時にしたいことの優先順位のリストを書き出しておいて、余裕ができた都度にそれを参考にして行動していく、というのもどうでしょうか。

頑張った自分へのご褒美リストなどもあると良いでしょう。

更には、中期的、長期的なことに分けての夢や目標のリストも良いかと存じます。

マンネリにならないように、何か趣味や旅行などのしたいリストもあると良いでしょう。

次に、煩悩・執着というものは、捨てよう、捨てようと思って捨てられるようなものでは、実はありません。

そもそも捨てる何かがあるというわけではなく、煩悩・執着も実体としては無いものですので・・

少し難しいことですが、煩悩・執着というものは、「因縁」(原因と条件)によって成り立っているだけであり、因縁次第で、増えたり、減ったりするものとなります。もちろん、ニュートラルな時もあり得ます。

因縁次第では、起こさないようにする、完全に無くすことだってできます。

その方法については、仏教を学び修することによって可能になりますので、是非、これを機会に仏教にも少しずつでも興味を持って頂けましたら幸いに存じます。

とにかく、当面は、減らせるような、ニュートラルとなるような、そんな因縁を作ってあげればよいのであります。

そのために、まずは、色々とリスト化による管理により、「惰性」を直していくということから始められると良いのではないかと存じます。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。

問い「悟りを開こうとする事自体、煩悩ではありませんか?」

問い「悟りを開こうとする事自体、煩悩ではありませんか?」
http://hasunoha.jp/questions/1289

【ご質問内容】

座禅は無限の功徳であるとか、それ自体が仏であるとか、色んなお坊さんから十人十色のお言葉を頂きました。悟りを開く手段の一つに座禅があるときき始めたはいいのですが、ふと、タイトルにあるような疑問が浮かびました。悟りへの執着は煩悩だとしたら、修行とは何なのでしょう?

自分で考えでも頭の中がグルグルして答えが見つかりません。仏教の極道であるお坊さんからのお言葉を頂戴したく、投稿させて頂きました。沢山のお坊さんからの回答お待ちしております。宜しくお願いします。

【拙回答】

「世俗諦」と「勝義諦」の二諦

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

悟りや涅槃、真如など仏教の示そうとするところの最高真理に関しての表現においては、時に、理解がなかなか及ばない難しい表現やビックリするような表現、誤解をもたらしかねないような表現などがありますよね。

誤解をしないためにも、しっかりと一から仏教を学び修していく中で、理解に誤りのないように調えていくことが大切になるかと存じております。

拙見解ではございますが、現時点において一つ言えますのは、仏教の説く真理というものには、二通りあり、「世俗諦」と「勝義諦」がございます。

そのため、その示そうとしている表現というものが、一体どちらになるのかを慎重に吟味しながら理解していくのが一つの参考になるのではないかと存じております。

「世俗諦」とは、一応、仏教哲学的に深く吟味しないところにおいて、世俗的・一般的に正しいと認められている真理というものとなります。簡単には、学校の教科書に書いてあるようなことでございます。

一方、「勝義諦」というものは、簡単には、仏教の哲学的な見解としてある「空」(あらゆるモノ・コトというものは、自性・自相[そのもの自体の側における実体]としては成立していないということ)を指向するところの究極の真理となります。

そして、「勝義諦」というものは、本来、言語表現、戯論を超えたところの言語道断、戯論寂滅の真理であるため、表現しようとすると、どうしても無理があり、仏教の基本がある程度理解できていない段階においては、誤解を生じやすいため、誠に注意が必要であるかと存じます。

典型的なものとしては、例えば般若心経において、釈尊の根本教説である四聖諦でさえもが無として否定されており、得る智慧も、つまりは得る悟りさえもが無として否定されています。しかし、それをそのまま素直に理解してしまうと、やはり間違った見解に陥ってしまうこととなります。(否定されているのはあくまでも実体としてのあり方のことでございます。)

また、悟りへの「執着」に関しましては、下記の拙回答もご参照下さいませ。

問い「「執着」の解釈について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1010494816.html

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16

問い「お金への執着を無くしたい」

問い「お金への執着を無くしたい」
http://hasunoha.jp/questions/1124

【ご質問内容】

もともと安月給ですが、特にお金に対して不安はありませんでした。
家にお金を入れたり、携帯や保険などの生活に必要な支払いをしても残金はある。貯金もできてます。
好きな旅行に行ったり、買い物もしていました。

ただ…昨年祖父が亡くなり家のお金事情に深く関わるようになってから不安が芽生えてきました。

あれ?もう給料がない…
これを買ったら残金が少なくなっちゃう…
など、何かとお金を気にして生活するようになってしまったんです。

正直、こんな生活楽しくありません。
心が狭くなったような気がします。
お金に執着しないように生活するには、どうしたらいいのでしょうか?

【拙回答】

お金

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

貨幣経済で成り立っているこの社会においては、お金は良くも悪くも人と密接に関わってくるものとなります。

極端には、お金にまつわるトラブルによって、あるいはお金が無くて命を落とすこともあれば、お金があって命が救われること、トラブルが解決することもあります。

お金自体には善悪はございませんが、それを扱う人の心が常に問題になるのですよね・・その心のありようをどうすべきかが、やはり大切なことになります。

また、よく「足るを知る」ことが必要だとも言われますが、じゃあ、一体、その足るとはどれぐらいだと言われても、人それぞれによって結構難しいものになりますよね・・お金は特に人間の煩悩の三毒の一つである「貪り」にも関係してくるところになりますが、まずはお金の扱いに失敗しないためにも、収支のバランスを調えることと、一定のルールを作って自制を設けることが必要になるのではないかと存じます。

とにかく、お金が使えるのも社会、経済・金融が正常に機能していて、お金を使う人と関われている間だけのことであります。お金は天下の回りもの、できるだけ生きている間に有意義に使っていきたいものでございます。

仏教的にはどう考えるべきかとなりますと、「・・お金の問題は、執着や煩悩の対象となりやすい最たるものであるため、特に気をつけることが必要となります。むしろ、有るならば必要最低限以上のものは、喜捨布施致すことでの善い行いに使って、善業を積むことを推奨することとなります。・・」と以前に述べさせて頂いております。

お金に関することにつきましては、下記の各問いにてもお答えさせて頂いておりますので、またご参照下さいませ。

問い「お金への不安や執着から解放されたい」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1007329735.html

問い「自分より稼いでいる友人との付き合い方が分かりません」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002992854.html

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/お金

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16

問い「「執着」の解釈について」

問い「「執着」の解釈について」
http://hasunoha.jp/questions/797

【ご質問内容】

初めまして。
先日、人生初の写経(般若心経)を体験させていただきました。
そのとき、「執着」からの解放について法話をいただきました。

加減が大事、だとは思うのですが執着しないことで得られる自由な心・発想・幸福感に納得すると同時に、たとえば学生のときなど、100点満点や資格合格にひたすら執着し諦められずに必死に向き合って努力し、手にした達成感や自信などもあることを思い出し、そこで「執着」についてうまい解釈が自分のなかでできずにいます。

実際今恋愛に関しても、気になっている方に粘り強く振り向いてもらえるように頑張ってみようかな?という思いと、もう、5回ほど会って相手と何も進展がないならば、執着しないで次へ向かうぞ!と思うべきか?と葛藤中でもあり、「執着」についての解釈についてもう少し、お坊さん的アドバイスをいただけると有難く存じます。

よろしくお願いいたします!

【拙回答】

「空と縁起」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

般若心経は「空」を考える上での重要な内容となってございますが、「無無無・・」と続くことから、誤って「何も無い」という意味の「虚無」や「絶無」と勘違いしてしまうと、「むむむ・・」となってしまいます。

もちろん、私たちの目の前には様々な存在があって、事象が展開されています。しかし、それらのあらゆるモノ・コト、存在・事象は、実体的に、独立自存として成り立ってはいないということを理解した上にて、ではどのようなありようで成り立っているのかにつきましては、最近の下記拙論をご参照下さいませ。

「 死後について 」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1008841241.html

『・・この世における全ての存在・事象は、必ずや因や縁に依存して(依りて、「縁」りて)、「起」こっているという「縁起」の法を理解することと共に、依存して成立しているということは、つまり、独立自存・実体として成立していないという「空」であることの理解も求められるものとなります。・・』

問い「『とらわれない心』について教えてください。」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1010408264.html

『・・例えば、人生における幸せや夢を追いかけて頑張ることや、仏教における悟りを目指すことや、修行に励むこと、智慧を育むこと、善徳・利他・慈悲行を実践することまでも、「とらわれるな」、「執着するな」というのは、誠に愚かなことであると存じております。それらを否定してしまって、じゃあ一体何をするのだということになります。下手に幸せや夢、悟り・涅槃へと向けた善き因縁を集めていくことまでをも否定してしまっては、人生も、仏教も、そのものを根底から否定してしまうことになりかねませんし、何もかも否定してしまい虚無に陥りかねません。このことは十分に気を付けて注意する必要があるかと存じております。・・』

要は「執着」についても、いかにして善き結果へと向けての善き因縁を集めていけることになるかどうかにて、その度合を判断するべきではないかと考えております。

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16

問い「『とらわれない心』について教えてください。」

問い「『とらわれない心』について教えてください。」
http://hasunoha.jp/questions/772

【ご質問内容】

3年位前に、お坊様がTVで『とらわれない心が大事』と話されてるのを観てから、ずっと気になっていることがあります。

『とらわれない心』というのは、自分の欲や我を手放して、人と争わずおだやかに生きること、ではないかと私なりに受け止めました。

でもそれで、『私はこうしたい、こうなりたい』という目標があって、人と意見がちがったら、『私はこうしたい』と言うのは『とらわれている』のでしょうか?
意見がちがうときは自分か相手が譲るか、全く別の案を見つけるかだと思うのですが、いつも自分が譲るスタンスなら私はその人のいいなりになってしまいそうです。

自分の欲というのは望みであり、自分のあかしでもあると思います。
その欲=望みがなるべく汚いものではなく、きれいなものであるように願っていますが、他人から見たら『我』でしかないのでしょうか?

とらわれない=思い通りになるようコントロールしない、ということだとしたら、将来に期待はしないでただのぬけがらになってしまわないか疑問です。

私も未熟ながら、人にやさしくありたいと願っています。相手にとって安らげる存在になりたいです。自分と相手をともに大切にして、なおかつ『とらわれない』境地って私にはまだわかりません。

どうか、私に道を説いてくださいますよう、お願い申し上げます。

【拙回答】

「空と縁起」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「とらわれない境地」・・誠に難しいですよね。

「とらわれない、かたよらない、こだわらない」は、誠に私たちにおいての常套句ながら、真にその内実を理解しきれている者がどれだけいるのかと申しますと・・相当に怪しいと言わざるを得ません・・

はっきり申しますと、「とらわれない、かたよらない、こだわらない」と言われて、じゃあどうするのだとなっても、かなり難しいところがございます。

実は・・このhasunohaの拙回答内でも初期の頃で使ってしまっておりまして・・誠に猛省致しております。

そこで最近では、その代わりに仏教における「空と縁起」という考え方を基として回答をさせて頂くことが多くなっております。その中で最近では下記における拙論をご参照下さいませ。

「 死後について 」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1008841241.html

確かに永久永遠に捉え続けられる、とらわれられる、かたよれる、こだわれるような何か実体的なものがあるわけではないものの、因・縁によりて成り立っているモノ・コト、存在や事象は確かにあるのであります。

その因縁によっての存在や事象のありようの中で、善き因縁には善き結果があり、悪い因縁には、悪い結果があるという因果の理をしっかりと理解することで、しかるべくに善き因縁を集めていくことに努め励むことが大切なことになります。

例えば、人生における幸せや夢を追いかけて頑張ることや、仏教における悟りを目指すことや、修行に励むこと、智慧を育むこと、善徳・利他・慈悲行を実践することまでも、「とらわれるな」、「執着するな」というのは、誠に愚かなことであると存じております。

それらを否定してしまって、じゃあ一体何をするのだということになります。下手に幸せや夢、悟り・涅槃へと向けた善き因縁を集めていくことまでをも否定してしまっては、人生も、仏教も、そのものを根底から否定してしまうことになりかねませんし、何もかも否定してしまい虚無に陥りかねません。このことは十分に気を付けて注意する必要があるかと存じております。

制限字数の関係上ここまでにて失礼致します。

川口英俊 合掌

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http://hasunoha.jp/

これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16

問い「お金への不安や執着から解放されたい」

問い「お金への不安や執着から解放されたい」
http://hasunoha.jp/questions/661

【ご質問内容】

わたしは、特別裕福なわけではありませんが、堅実な両親のもとで、何不自由なく育ちました。
しかしわたしの母は、常に「お金がない」と言い続け、「何よりもお金が大事、お金がなければ何もできない」という母の価値観が、わたしにもすっかり刷り込まれてしまいました。

わたしは今、自分の夢や自己実現や、また社会への貢献のためではなく、お金がなくなることへの不安を解消するためだけに働いている気がします。
時々そんな自分を、とても虚しく感じます。
本当はやりたいことや挑戦したいこともありますし、子どもとしっかり向き合うために、少し働き方をセーブしたいと思うこともあります。
しかし、不安のために今の仕事を離れることができません。

また、夫の仕事や収入に対しても不満や不安を抱きがちです。
毎日元気に一生懸命働いてくれるだけで充分満足で、尊敬できることだと思っている一方で、もっとたくさんお給料があれば……もっと大きくて安定した会社で働いてくれたら……という思いも捨てきれません。
夫のことが大好きなので、そんな風に思ってしまうことが申し訳なくて苦しいです。

もうすぐ子どもが生まれます。
こんな親の背中を見て育った子どもは、同じように不安に駆られて生きるようになるのでは…と心配です。
子どもには夢を持って生きてほしいのに、わたし自身がこんな感じでは、とても「夢を大切に」などという言葉に説得力はありません。

少しでもお金への執着や、不安を軽減させる方法はあるのでしょうか?
もう少し穏やかに、心静かに生きたいです。

【拙回答】

過不足のないバランス感覚が大切

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

お子様、誠におめでとうございます。どうか安産を祈念申し上げます。

お金・・欲や希望を言い出すとキリがなくなりますよね・・

夢を見てジャンボ宝くじを買っては全く当たらずで、拙妻に見つかってかなり怒られていても、公共のことに使ってもらう寄付になっているのだからとか言い訳している拙生自身、誠に反省です・・

さて、当然に先立つものがなければ、この貨幣経済社会では何もできないのも現実。ただ、無さ過ぎても、有り過ぎてもいけないもので、誠に過不足のないバランス感覚が大切となります。

お金に対する執着のことにつきましては、以前に下記問いでもお答えさせて頂いており、拙生自身も実践しておりますが、無理でない分を一定継続して慈善的なことに喜捨布施すること(宝くじは別としてですよ(笑))が、一つの対処法になるのではないかと存じております。

不安については、収支のバランスや貯蓄計画をしっかりと中長期的に立てることで解消されると良いのではないかと存じます。

問い「自分より稼いでいる友人との付き合い方が分かりません」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002992854.html

「・・お金は確かに大切です。しかし、お金が全てではありません。また、お金と幸せが比例しないことは世間の様々な例が示す如しでもございます。それでも無いよりか有る方がというのも否定はしませんし、とにかく、何をするにしても当然に先立つものがなければ、正直、何もできないのも現実です。・・」

「・・さて、仏教的には収入についてどのように考えるべきか・・もちろん、お金の問題は、執着や煩悩の対象となりやすい最たるものであるため、特に気をつけることが必要となります。むしろ、有るならば必要最低限以上のものは、喜捨布施致すことでの善い行いに使って、善業を積むことを推奨することとなります。・・」

「・・とにかく、収入云々よりも、どれだけ善徳の行いに対して、お金も上手に使っていくことができるかどうかについて、この度は少しお考えを賜われましたら幸いに存じております。・・」

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
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これまで拙生が回答させて頂きました内容は下記にてまとめて閲覧して頂くことができます。
http://hasunoha.jp/users/16
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