hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

慈悲

問い「純粋な心で親切にできない」

問い「純粋な心で親切にできない」

【ご質問内容】

20代女性。

私は困っている人がいたらすぐにお手伝いをするタイプの人間です。 
道を聞かれたりすると時間が許す限り目的地までご一緒しますし、明らかに困っているような人を見かけたら「何かお手伝いできることはありますか?」と自分から話しかけたりもします。(もちろん、必要ないと言われればそれ以上のことはしません。)

今まで、「こんな親切なお嬢さんがいるなんて仏様に感謝したい」とか、「あなたみたいな心の優しい人はぜひうちの会社で働いてほしい」とか、たくさんの褒め言葉をいただきました。

しかし、最近ふと思ったのです。 
私は心が優しいのではなくて、「親切にしている私」に陶酔しているだけではないか? 
純粋に困っている人を助けたいのではなくて、「困っている人を助けてあげる私ってステキ」と思いたいだけなのではないか? 
と思ったのです。 
助けてあげるという言い方からも分かるように、これって、ものすごく上から目線で傲慢な考え方ですよね。

周りの人は「面倒くさいし時間がもったいないから絶対に道案内なんてしない」「困っている人がいたら見ないフリをして通り過ぎる」という人が多いのです。 
もちろん困っている人をほうっておくのは良くないことだとは思いますが、この方たちのほうが心は純粋なのではないかと思えます。 
だって、面倒→助けない→イヤな人間と思われようが構わない、と、態度が一貫しているからです。

その点私は、親切に見えるだけ余計にたちが悪いと思います。 
邪な動機で人助けをして、お礼を言われて調子に乗っています。 
周りを欺いていると思うのです。

くだらない自己顕示欲から手助けをするのはもうイヤです。 
でも、困っている人を見捨ててはおけません。 
道だって聞かれたら答えてあげたいです。 
でも、どこかで「ありがとう」の言葉を期待している醜い自分がいます。

どうしたらこの傲慢な態度を改めて純粋に「人を助けたい」と思えますか?


【拙回答】

偽善上等

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙生も昔は、自己陶酔型の傲慢な、なんちゃってミスターボランティアでした。

でも、無駄にならず、色々と学ぶことは大きかったように存じます。このhasunohaにも活かせていることもたくさんあります。

大乗様もおっしゃられていますが、慢心を諫めるためにも、人の為と書いて「偽」とあるように、実は「人の為」、「他の為」にすることなど、所詮は「偽善だ」とぐらいに思っておくのが必要であるかと今は思っています。

そして、例え偽善で行った善い行いでも、それで実際に助かった方、救われた方、癒された方がいるのであれば、動機はどうであれ、善い行いによる結果は結果として、良かったと思うべきであるとは存じます。

「何もやらないよりかは、やる偽善」です。

偽善でも、何もやらないよりかははるかに良いと思います。

まあ、「情けは人の為ならず」と言うように、「偽善」でも、その善い結果は、回り回ってきっといずれ自分の為にもなるぐらいで考えておくのも良いでしょう。

「困っている人を見捨ててはおけません」・・ありがとうございます。この慈悲の御心はこれからもどうか大切になさられて下さいませ。

川口英俊 合掌

問い「今の私を変えたいです。」

問い「今の私を変えたいです。」

【ご質問内容】

こんにちは。 
先日は質問にご回答ありがとうございました。

いきなりですが、私は今20代前半なのですが、その分人生経験は少ないですが今まで生きて自分の性格がひねくれいるなと思います。 損得で動いてしまう所、自己中な考えを持っていること、考えれば考えるほど自分のいい所、自分が分からなくなってきます。

会社でも年配の人が多く自分が何も出来ないことに毎日痛感してとても苦しいです。

どうしても自分を変えたいです。自分でも気づかない内にこのような性格になってしまいました。

少し話の意図がずれてしまいますが、そのせいか、人に嫌われたり当たられやすいです。

助けてください。

【拙回答】

慈悲の瞑想

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

しかるべき因縁(原因と条件、動機と行動)を調えることにより、変わることはできるでしょうし、本来、全てのモノ・コトは無常なるものにて、変わっていくものでもあります。

しかし、自分で自分を縛り付けてしまっていては、変われるものも、なかなか変われないこともございます。思い込み、偏見、バイアスというものであります。

そのために、本来、自分というものは、「これだ」と決めれて言えるような実体的なものは何も無いのだということと共に、実体的なものは無いとしても、何も無いわけではなく、色々な因縁、依存関係で成り立っているものであるということを理解することで、その因縁、依存関係のあり方を、良い方向へ向けていくための努力をしかるべくにすることにより、良い変化へと向かって参りたいものでございます。

まず、自分は変えられるのだということを強く思うことで、思い込みや偏見、バイアスを取り除いてみて下さい。

そして、次に例えば、自己中心的なモノの考え方を是正していくために、仏教における慈悲の瞑想を実践することにより、自分と他を同じように大切にしていけるようにするための訓練をしていくことが、一つ良い方法なのではないだろうかと存じます。

「慈悲の瞑想」におきましては、日本テーラワーダ仏教協会さんの「慈悲の瞑想」が有名ですので、下記にご紹介させて頂いておきたいと存じます。

「慈悲の冥想 Metta Bhavana」 

「慈経 Metta Suttam/※注意・パーリ語読み自動再生あり」 

参考となされてみて下さいませ。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「生きて行く上で充足感が得られません」

問い「生きて行く上で充足感が得られません」

【ご質問内容】

先日ある方の講演会で、人生には縦軸に充足感と孤独感不満で横軸に病気貧困と成功名声。 
いくら成功名声を手に入れても、本人には孤独感や不満感が顔の表情に出て、何故か満たされない雰囲気がある人になるくらいなら、たとえ貧しくても病気を抱えていても人生に充足感が出ている人になりたいとおっしゃいました。

おっしゃった意味はよくわかります。 
私には勿論、地位や名誉も有りませんし、今迄生きて来て人に話せる事も何も無く、人生に充足感が全くありません。 
そして今は仕事も辞め、親の介護を担っています。 
人様には介護をしてると言いながらも、私の心の中は心配を掛けた親だから介護をしなくてはいけないと言う気持ちと、もういい加減にして欲しい、今すぐに親から距離を置きたいと言う気持ちがいつも交錯しています。

知り合いからご両親が介護する事無く亡くなられたと聞くと、「羨ましい」「どうして私ばっかり」などと思ってしまいます。

何事にも一生懸命やれば充足感は得られるものでしょうか? 
それはその人間性によって違うものでは無いでしょうか。

すみません文章がまとまっていませんが、よろしくお願いします。

【拙回答】

死後に持っていけるものは・・

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教では、死後に持っていけるものは、自分の行いの集積(業・カルマ)だけであるとされます。

「世間の八法」(利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)と言われているものに惑わされず、真なる心の平安としての悟りへと向けて、より善き行いに努め励んで参りたいところでございます。

孝行もその一つであり、誠に感謝申し上げます。

仏教では幾重も輪廻を経る中において、もしかするとあの人もこの人も、いや、あの虫もこの動物も、過去世における母(父)であったのかもしれないとして、慈悲を滋養することがございます。

もしか致しますと、とらのこ様の親御様も、過去世では私の母・父であったのかもしれません。過去世での母・父であったのであれば、その恩に報いる行いをして頂いているとらのこ様に対して、深く感謝致さなければなりません。

とにかく、皆、支え合い、助け合い、分かち合い、補い合いが必要であるのが、この世のありようでございます。しっかりと慈悲を滋養しての善行に努めて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

問い「タトゥーのせいで」

問い「タトゥーのせいで」

【ご質問内容】

私には消えないほど広範囲に渡るタトゥー(刺青)が入っております。

元々タトゥーが好きで、タトゥーを入れたのは自分の意思ですが、そのデザインはお世辞にも自分が望んでいたような綺麗なものではありませんでした。彫師さんの圧力に負け、そのままのデザインを入れてしまいました。 
死にたいくらいとても後悔しています。

なにか嫌な出来事がある度にタトゥーのせいにしてしまいます。

元々美意識が高く、お洒落をすることが好きでしたが、今となっては自己評価が下がり、綺麗にしたところでこの汚いタトゥーが…と卑屈になってしまい、自分のことがどうでもよくなりました。

女としての価値も下がったように感じ、"こんな汚い私でも"好きになってくれる人なら…とすぐに身体を許してしまったり、しがみついたりしてしまいます。

忌々しいタトゥーが入っているせいで幸せにはなれないのだと、将来に悲観ばかりしています。

タトゥーが入っていても幸せな人がいることもわかっています。でも、その方々は自分のタトゥーを気に入っているからだと思います。

内面を磨くことも努力していますが、タトゥーを見る度に悲しみと後悔と不安でいっぱいになります。汚い自分で一生過ごすことに絶望してしまいます。

汚いタトゥーを受け入れるためにできること 
昔のように自分を好きになるためにできること 
アドバイス頂けたらと思います。


【拙回答】

心の善き変容へと向けて

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

タトゥー自体には、本来、罪はありません。タトゥーを見る人、それぞれの心における捉え方により、そのタトゥーに対しての評価や価値、意味なども変わってしまうものとなります。綺麗や汚いもそうです。実体として、タトゥーに最初から何らかしかの意味や価値、評価があるわけでもありません。

「忌々しいタトゥー」・・「忌」という字をよく見て下さい。心に己が乗っかっています。忌々しいと思っているのは、自分の心からによることで、それもタトゥーだけではなく、自分の心自体もますます悪く追い込んでいるのも、実は自分自身の心なのであります・・

心に優しさや愛や慈悲を育ててあげれば、行動もやがてそのように伴うようになっていきます。もちろん、その逆もしかりにて。大切なのは何よりまずは心になります。

やがて身体は衰え腐りゆき捨て去るようなもの、そんなものにおけることを後生大事に思って、心の状態を悪くしてしまうのももったいないこと。大切なのは後生も続いていく「心」のありようです。

どうぞ心の善き変容へと向けて、是非、仏教からも色々とヒントを得られて、実践されてなさられていって下さいませ。

川口英俊 合掌

問い「復讐心が芽生えぬ方法」

問い「復讐心が芽生えぬ方法」

【ご質問内容】

悩みがとても膨大なのですが、その中でも急速に解決したい問題のひとつである「復讐心」について相談させてください。

複雑かつ長くなるので、経緯は省かせて頂きますが、元彼(今も連絡は取り合うけれど向こうに気持ちはなさそう)への復讐心が止められなくなりそうなときがあります。彼は悪い人ではありません。

その復讐心はふとしたきっかけで起こります。 
例えば、スーツ姿の人を見かけたり、街中でカップルを見かけたり、1人でご飯を食べていて寂しさを感じたとき、幸せだった頃にふたりで行った場所へ行ったときなど、日常に転がっている小さな小さなきっかけが、大きな炎を燃やすんです。

なんとかこの復讐心を抑えようと、臨床心理の本を読んだり、カウンセリングに通ったり、仕事以外のほぼすべての時間を費やして、努力しています。 
復讐心は他者に責任がある考えからくるものだということも学びました。

これは紛れもなく自分自身の為の努力にも関わらず、怒りのスイッチが入ると、なぜわたしだけがこんなに苦しい思いをしているんだ!あいつは今頃のほほんと楽しんでいるのに…と湧き上がる怒りに心は汚染され、どうやって相手を苦しめようかばかり考えてしまいます。

ささいなことから、犯罪に至ることまで頭の中は相手を苦めるアイデア、でいっぱいになります。

この、「復讐心」が浮かばないようにすることは可能なのでしょうか?それとも、この復讐心とこの先ずっと付き合っていかなければならないのでしょうか? 
復讐心をありのまま受け入れて、流す。なども考えたのですが、自分がとても嫌な人間に思えて仕方ありません。わたしはよりよい人間でありたいです。 
どうか、『復讐心が一生芽生えぬ方法』を教えてください。

下記実践済み 
・忙しくする 
・とにかく寝まくる 
・相手の幸せを考える 
・自己責任自己責任…と唱える


【拙回答】

忍辱の実践と無知を憎んで人を憎まず

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

元彼に悪い罪、非が特にあるというわけではないような感じなのかもしれませんが・・

「復讐心」を無くすには、耐え忍ぶという忍辱の実践が、仏教的な対治の基本にはなります。

「感興の言葉・ウダーナヴァルガ」(中村元氏訳)・岩波文庫・第14章・「憎しみ」から・・

「実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みを以てせば、ついに怨みの息むことがない。堪え忍ぶことによって、怨みは息(や)む。これは永遠の真理である。」

「怨みは怨みによっては決して静まらないであろう。怨みの状態は、怨みの無いことによって静まるであろう。怨みにつれて次々と現れることは、ためにならぬということが認められる。それ故にことわりを知る人は怨みをつくらない。」

また、更に仏教では、恨みを持ってしまっている、その者に対して、忍耐してその怨みを無くすことだけではなく、煩悩、無知(根本的な無知)によりそんなことをしてしまう者を憐れみ、何とかして助けてあげたいという慈悲も掛けてあげることをお勧め申し上げる次第となります。

とにかく、「罪を憎んで人を憎まず」で、無知がその人に悪さをさせてしまっているのであります。無知は、悪いウイルスのようなものです。無知こそが真なる憎むべき敵なのです。悪いウイルスに負けて熱に苦しみ悶えているようなものです。

どうしても復讐心が芽生えてきてしまうようであれば、何とかして無知による愚かなことへの憐れみと共に、その者を救ってあげたいという慈悲の思いも掛けてあげてみて下さいませ。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「過去に執着したくない」

問い「過去に執着したくない」

【ご質問内容】

ネットで宗教の議論をしました。 
議論の相手は、頭を丸めていて、仏教系の大学にいたと自称し、自分が僧侶であることをほのめかしていたのですが、本当は違うらしくよくわかりません。

最初は、その人は別の方と白熱した議論をしていて、その僧侶風の人が間違った情報を述べていたので、責めるつもりもなく単純に指摘しました。

その後僕とその人で議論になりましたが、最終的に罵倒合戦になってしまいました。その人には「馬鹿しか生まれてこないと分かっているのにお前を産んだ親は間違っている」とまで言われました。しかし僕も相手の挑発に乗り無礼な言葉を使ってしまったので反省しております。

僕以外にもその人に暴言を吐かれた人が複数いて、その中の一人にこの人間と話していてもいいことはないからやめよう、そしてあなたの考えを僕は支持する、ということを述べお互い意気投合しもう議論を放り出しました。

しかし、後日その僧侶風の人との議論を読み返すと、相手の発言が事実と違うものでした。個人の見解を述べるものではなく、情報、知識レベルの議論だったので相手が間違っていると確信しました。しかもその人間の発言自体が矛盾しており、故意にデタラメを言っているとすら思いました。相手は議論より勝ち負けにこだわっていると発言しており、自分としては嘘までつかれて悲しいです。

議論は全く納得に値せず、無力感や自己嫌悪を覚えました。

宗教的立場を自称する人間にかなり厳しい発言をされたことは僕にとって衝撃的な体験となりました。

それ以来この出来事を忘れようとしているのに度々フラッシュバックしてしまいます。その原因はきっと、自尊心を傷つけられたことにあると思います。

また宗教にたいして、怖いという印象をもつようになってしまいました。これはどうしてなのかわかりません。きっと自分はかなり混乱しているんだと思います。

とても苦しいです。どうしたら宗教に対する嫌悪感を払拭し、フラッシュバックしないようになるでしょうか。

トラウマのようなものに対して、これ以外にも困惑するようなことがあります。 
どうしたら精神的な安定が得られるでしょうか。

よろしくお願いします。


【拙回答】

「宗論はどちら負けても釈迦の恥」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「宗論はどちら負けても釈迦の恥」と昔から申しますように、仏教は論争の勝ち負けを争うようなそんなものではなく、いかに各々自身が悟りへと向けて、お釈迦様の説き示された教えを自分の確かなる仏道に活かし、取り組んでいくべきかが大切となります。

もちろん、仏教において「論理学」は重視されてはいます。正しい認識による正しい判断ができなければ、正しい仏道を歩むことができないからであります。

でも、その論理学の問答においても、相手のことを思い遣っての慈悲の心が伴ったものになるべきであるのが、お互いに仏教を修習していく者同士のあり方でなければならないものであるかと存じております。

ただ、知識や弁論に長けているだけでは、決して悟りへは至れません。智慧だけでは悟りへと至れないのと同じで、必ず方便、福徳の実践が必要となります。

知識、弁論に通じた者であれば、それを活かして慈悲の心により、思い遣り、配慮を持って、相手のことを考えて、間違いを諭してこその方便・福徳の実践となるものであり、勝ち負け云々と言って、高慢、傲慢になっているようでは、とても仏教を修習している者とは言えないところでございます。

いずれにしても、仏教でなくても、宗教的立場を自認するのであれば、愛や慈悲がなければ、その資格はありません。

気にせずに、というのも難しいかもしれませんが、愛や慈悲の無いような議論には、もちろん納得される必要もありませんし、今後乗らないようになさられて下さいませ。

そして、少しずつでもトラウマも払拭していけるように、仏教の修習の中において、無駄な論争、戯論の扱いについての優れた方策を示されておられます龍樹大師の著書の内容(中論、廻じょう論「じょうは、言べんに争い」、空七十論など)についても是非、学ばれてみて下さいませ。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「どうやって生きていけば」

問い「どうやって生きていけば」

【ご質問内容】

私は言葉がきつくて、たくさんの人を傷つけます。自分はその人のことが大好きなのに、公共の場でうるさくした友人に黙れといってしまっことがありました。私が友達に言ってしまったことはこれだけではないです。

毎日、夜に布団のなかで反省しては自己嫌悪に陥ります。そこで後悔しても、何度もくりかえしてしまいます。

人を傷つけるだけの私は生きている意味がないんじゃないかと思うことが多々あります。 
私はどう生きていけばいいのか教えてください。死ぬのも一つの手だと思っていますので、そのときは受け入れます。


【拙回答】

相手の事を思い遣る心を育てるために

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

怒りに任せて言葉が出てしまうといった感じでしょうかね・・

相手の事を思い遣る心を育てることで、抑制、配慮もできていけるようになるのではないだろうかと存じます。

相手の事を思い遣る心を育てるための一つとして、仏教的には「慈悲の瞑想」がお勧めとなります。

「慈悲の瞑想」につきましては、日本テーラワーダ仏教協会さんの「慈悲の瞑想」が有名ですので、下記にご紹介させて頂いておきます。

「慈悲の冥想 Metta Bhavana」 

「慈経 Metta Suttam/※注意・パーリ語読み自動再生あり」 

一つ参考として実践なされてみて下さいませ。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「偉い仏教者」

問い「偉い仏教者」

【ご質問内容】

コンニチワ。よろしくお願いします。 
早速ですが、近現代の日本仏教者で、マザー・テレサ以上に菩薩行を積まれた方はいると思われますか? 
お坊様方が、「この人は偉い、偉かった」という人がいらしたら、その方の名前を教えてください。(その人の関連書籍があれば読んでみたいので) 
また、「くらべることではない」といわれるかもしれませんが、そこは、単なる質問ではないことをくみ取っていただきたいです。 
宜しくお願い致します。


【拙回答】

「華厳経十地品」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

マザーテレサさん、最近に正式に聖人として列聖されましたね。

そう言えば、かなり昔の記事になりますが、マザーテレサさんのことで、少しショックだった記事を想い出しました・・ただのゴシップ、やっかみの部類かもしれませんが・・ 

実は捏造?「マザーテレサ神話」 

菩薩も聖者も、もちろん最初から菩薩、聖者ではなく、失敗や反省、応援や叱咤も伴いつつ、慈悲、利他の行いを積まれていくことになります。上記の場合は、その間における失敗や反省だけを捉えて、批判している場合もあり、一概に言えないところもございます・・

さて、仏教では、「三輪清浄」(さんりんしょうじょう)と申しまして、例えば、三輪を、布施する側、布施を頂く側、布施するモノの三方が清らかなものであること、あるいは、三輪を身口意の三業の清らかなことを言う場合もありますが、慈悲、利他の行いとして、真なる善業となるものであることが菩薩行として大切なことになります。

近現代の日本仏教者において、真なる善業となる菩薩行ができている者・・なかなか正直、拙生では、図り得ないところもございます・・

ただ、菩薩行について何か見習いたいとなりましたら・・やはり経典を頼りになさられるのも一つとなるのではないだろうと僭越ながらにも存じております。

例えば、華厳経や法華経も良いのではないだろうかと存じます。特に、華厳経十地品からは、菩薩の十地の境地について具体的に学べる内容となっております。

ご参考までにて。

川口英俊 合掌

問い「障害児の中絶」

問い「障害児の中絶」

【ご質問内容】

宜しくお願いいたします。 
妻がそろそろ高齢出産なのですが、子供の為にも二人目が欲しいと言います。 
ただ、妊娠初期に検査しい異常があれば中絶すると言います。 
理由は育てる自信が無いのと、障害児自身も辛い人生だから。また、親が死んだあと生きて行けないから。だそうです。

私はそれは人殺しなのではと悩むのですが、いかがでしょうか。 
障害児を育てるのに疲れて殺してしまう事件もあります。 
障害児でも育てる覚悟が無ければ妊娠自体、間違った事でしょうか。 
妻の選択にも正当性があるなら、子供に兄弟を作りたいです。


【拙回答】

私たちにおける最大の「障害」とは・・

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

程度の差はあれども、生きていく上での困難さを「障害」と言うのであれば、正直に申せば、皆、「障害」を抱えていることに変わりはないものであると考えております。そして、皆、独りで生きていけるものではなく、弱い存在でもあります。

生・老・病・死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦・・輪廻にある限り、迷い苦しむことは仕方のないものとなります・・

でも、この迷い苦しみの世界にあって、皆、それぞれで障害を抱え、弱い存在であっても、何とか生きていることができているのは、お互いの助け合い、支え合い、分かち合い、補い合いがあってのことによるからでございます。

大切となるのは、他への思い遣りや配慮の心、そして、仏教的に申せば、慈悲の心となります。

是非、お二人目を望まれて、お生れになられたお子様も、周りの御支えと共に、慈悲の心でお育て頂ければ、誠に有り難いことであると存じます。

とにかく、仏教的には、輪廻で迷い苦しむ最大の「障害」というものは、煩悩の親玉である「無明」(根本的な無知)であると考えます。

皆が、仏教の修習によって、「無明」を対治していくことで、この迷い苦しみの世界から脱せられるようにと致して参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

問い「人間と関わらずに生きたい」

問い「人間と関わらずに生きたい」

【ご質問内容】

宜しくお願い致します。 
11年前より、精神障害を患っています。

主治医が「貴女みたいな人は初めてです」と仰るほど、孤独好きで、人間が好きではありません。独りが楽です。 
人間に対して寂しいという感情はありません。

病気の内容にて、家族との思い出などもありません。 
人間は裏切る動物だと、根底にも脳にも刻まれています。

人間と関わらずに生きるには、どのような方法がありますか?

動物たちとだけ、暮らしたい。 
いや、苦しい今、そんなにしてまで生きなくても良いと、心は思っています。

宜しくお願い致します。


【拙回答】

慈悲心の滋養

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

もしか致しますと、人間の心に控えている悪い煩悩や無明(根本的な無知)に、人間嫌い、人間不信となられてしまわれている原因があるのではないだろうかと存じます。

実は、ひかり様も拙生も、人間全般、あるいは、動物たちも含めて、この輪廻において迷い苦しむ衆生の全ては、特に「無明」に侵されてしまっています・・

皆、迷い苦しみに喘いでしまっているのであります・・

何とかして、迷い苦しんでいる私、そして同じように迷い苦しんでいる皆、その原因となっている「無明」を対治したい、してあげたいというように、少しずつでも「慈悲の心」を滋養してことで、人に対しての見方も、慈悲の心を向けていけるように変えていくことができれば、誠に有り難いことであるかと存じます。

慈悲の心を滋養していくためとして、「慈悲の瞑想」がございます。

日本テーラワーダ仏教協会さんの「慈悲の瞑想」や「慈経」が有名ですので、下記にご紹介させて頂いておきたいと存じます。

「慈悲の冥想 Metta Bhavana」 

「慈経 Metta Suttam/※注意・パーリ語読み自動再生あり」 

「慈悲(四無量心) 」 

川口英俊 合掌
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