hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

方便

問い「仏教徒に対する疑問パート9」

問い「仏教徒に対する疑問パート9」

【ご質問内容】

僕が昔瞑想してた時に雑念を払い無になろうと心がけ瞑想してました 
でも雑念を払い無になろうとする意識自体が雑念であることに気づき 
無になろうと意識することも意識しないいことも野放しにしました 
そしたら目の前で色んな色をした小さな粒が不規則な動きをしてる光景が見えました 
その小さな粒の不規則な動きを目で追ってるときはまだ自分の中に意識がある状態で 
その小さな粒の不規則な動きを目で追ってないときは自分の中に意識が無いような状態でした 
そしてその小さな粒の不規則な動きを目で追ってない意識が無い状態になると 
神妙な気持ちでボーっとしてるんです 色即是空のような無であると同時に無でないような 
そしてずっとその状態でいると白昼夢みたいなのを見るんです 
白昼夢を見てるときは意識がないのでそれを見てるという意識がなく見てるんです 
でも後で意識がある状態にもどると自分がさっき変な夢を見てたなと気がつくんです 
白昼夢には良いものもありましたが悪いものもありました 
一番悪いものは白昼夢の夢の中でもう一人の自分が無差別に人を殺してました 
でも僕はそれをボーっと見てるんです 
意識があるのかないのかもわからず 
善悪の価値観があるのかないのかもわからず 
自分であるのかないのかもわからず 
ただただボーっと見てるんです 凄く怖い夢だったのでそのことを親に話しました 
そしたら親は「え!おまえ上の階で瞑想してたのか?おまえ下の階でテレビ見てたじゃん・・・」って言われました 
それを聞いて僕は瞑想して意識が有るのか無いのかわからない状態になると悪霊に憑依されるんじゃないかと思いました 
そして瞑想やヨガのルーツを探ると 
ヒンドゥー教の破壊神シェバからで人間の切り落とした頭部を持って踊ってる神様からだというのを知りました 
インド人はカニバリズムや麻薬や変態的性癖を儀式的に行いこのシェバを崇めてることも知りました 
瞑想やヨガのルーツって危ないんじゃないんですか? 
瞑想やヨガの危険性は全く無く健康に良いだけなんですか? 
瞑想のしすぎて悪霊に取り付かれることとかないんですか? 
僕が見たのは単なる幻想で何も考えず瞑想し続けて悟りを開いた方がいいですかね? 
というか瞑想し続けた結果として自殺大国日本や僕のこの悪夢すら救える悟りの力は得られるのですか?


【拙回答】

智慧と福徳

川口英俊でございます。問い拙生のお答えでございます。

あまり瞑想における神秘体験に対して、とらわれたり、こだわったり、実体視したりしてしまってはいけません。

円満なる悟りへ向けて大切となるのは、智慧と福徳の二資糧の集積となります。

智慧は、主に「空性」の理解。

福徳は、功徳・方便行の実践。

両輪をバランス良くに修めていくことが必要となります。

この中で瞑想・禅定は、あくまでも「空性」の理解のための一つの実践にしか過ぎません。

瞑想・禅定において重要となるのは、「空性」の理解になります。

それも止と観により、正しく調えていくことが望まれます。

比量と現量で「空性」を正しく捉えていけるようにしっかりと頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「諸行無常について」

問い「諸行無常について」

【ご質問内容】

よく仏教の教えとして「全ては諸行無常であり、変化しない物はない」と言いますが、これについて少し疑問に思う所があります。 
 
たとえば仏教の中道では相対概念の一方に囚われる考えを執着として否定しますが、 「変化する」という概念も「変化しない」の相対概念ですから、 変化しないものを全面的に否定する「全ては変化する」という考えも執着とは言えないでしょうか?

また、これらの言葉を「固定・流動」と置き換えて、龍樹の論理に当て嵌めて解説して頂いても構いませんでしょうか?

【拙回答】

二諦の理解が必要

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「諸行無常」については、世俗諦的な教えであると理解してます。

「全てのモノ・コトは、因縁によりて変化していく」という意味合いとなります。

しかし、本来は因縁(原因と条件)にも実体はなく、「空」なるものであって、どの因も縁も、あるいは果も、固定して言及しようのないものであるため、一応は、言語慣習に依拠して、措定して方便的に述べられている教えであると「諸行無常」も理解するのが妥当であるものだと考えています。

ですから、当然に、「変化する」、「変化しない」、「流動」、「固定」とも、それらが仏教において言われていることも、それぞれ方便的な意味合いで用いられている場合があるため、その概念に対してとらわれて、執着することも、本来はできないもので、また、「諸行無常」のみならず、仏教の教えにおいては、便宜的、方便的な教えに留まらざるを得ないという限界が、どうしても付き回ることにはなってしまいます。

その限界の先を何とかして言葉、論理によって指向しよう、超えていこうとして論究なさられていったのが、龍樹大師をはじめとした中観派の論師たちとなります。

特には、「二諦」(世俗諦と勝義諦)の理解が大切となります。

川口英俊 合掌

問い「台湾の友人の質問に答えられませんでした」

問い「台湾の友人の質問に答えられませんでした」

【ご質問内容】

先日、台湾の友人にこのような質問をされました。

「台湾の僧侶は肉は食べない、酒も飲まない、女性との関係も持たない、そうやって厳しい修行をしているから尊敬されている。 
日本の僧侶は肉も食べ酒も飲み女性との関係も持つ、どうしてそれで尊敬されるのか?一般人と同じじゃないか?」

わたしは仏教に詳しくなく、戸惑ってしまい、彼の質問にうまく答えることができませんでした。 
「日本のお坊さんも修行はしていると思うし……それにお酒と肉と女性をやってなければ偉いっていうのも違うと思うし……うーん……」 
というような曖昧な返答になってしまいました。

もし、お坊さん自身がこのような質問をされた場合、どのようにお答えになるでしょうか。

ご不快な思いをさせてしまっているかもしれませんが、どうかお答えいただければ幸いです。


【拙回答】

何をもって尊敬する人と判断するのか

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙生自身のことを申せば、還俗もせずに妻帯していることが、「波羅夷罪」(僧団永久追放の重罪)の一つにあたることは、重々にも承知を致しております。

日本仏教の伝統・文化・歴史の変遷を鑑みますと、許容されるべき戒律、時代・社会に適合しないような戒律もあり、一概に、釈尊の時代の戒律を守らなければならないというわけではない面もございますが、どうにも「波羅夷罪」だけは、やや性格が異なるものであるとは思っています。

ですので、自分は、日本では便宜的に「僧侶」ではあっても、日本外部の仏教(特に戒律の厳格なテーラワーダ仏教やチベット仏教ゲルク派など)からでは、「僧侶」ではなく、「在家信者」であると言われても仕方がないとの自覚は致しております。

でも、だからといって、仏教を修習できないわけではなく、しっかりと一在家信者としてでも、できるだけ仏道の歩みを前へと進めていけるように、日々変わらずに修習に頑張って努めて参りたいと存じております。

また、ただ戒律を守っているから尊敬するというわけではなく、僧侶であろうが、在家であろうが、仏教の智慧と慈悲や方便を兼ね備えていきつつ、仏道を確かに歩んでいる者であるのかどうか、尊敬に値する良き人格者であるのかどうかということも併せて、総合的に見ていくことも必要ではないだろうかとも存じます。

どうかご賢察を賜りたくに。

川口英俊 合掌

問い「お坊様方、改めて教えに向き合ってみませんか?」

問い「お坊様方、改めて教えに向き合ってみませんか?」

【ご質問内容】

報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。

大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど)

このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。

なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? 
そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 
宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 
煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 
命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 
一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 
与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。

青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 
崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか?

本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 
頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 
「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか?

砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 
雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 
求むる者に注ぐべきである。 
真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。

例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 
飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 
お坊様の恩に報いきれるものではない。

未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。

hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 
意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 
正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 
心配するばかりです。

門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 
碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。

偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 
ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 
私も道の途中ですので、頑張ります!合掌


【拙回答】

「努力にこそ価値がある」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙生は、南伝仏教(初期・根本仏教)からチベット仏教までの一通りを、15年ほど掛けて、やっとさらっとある程度学ばせて頂きました浅学の未熟者に過ぎませんが、南伝仏教(初期・根本仏教)もチベット密教にも、確かに釈尊(仏)の教えがあり、そこに本来、上下優劣はつけられないものであると考えております。

あとは、悟りへと向けて、数々の方便としてある教えを、どう各々が仏道修行に実践的に活かしていくべきかになるのではないかと存じております。

真に、その方のことを鑑みて、その方の機根のためにおいても、南伝仏教(初期・根本仏教)の教えが必要であれば、その方便をお示しすることも必要なことがあるのではないかと存じております。

とにかく、まだまだの浅学菲才の未熟者ではございますが、できる限りに薬効ある薬(方便)を幅広く調えていくことにより、僭越ながらにでも、対機説法・応病与薬に資して参れますように日々、研鑽し、精進努力致して参りたいと存じております。そうです。「努力にこそ価値がある」です。努力致します。

ご賢察を賜りたくに存じます。

川口英俊 合掌

問い「癒しと悟りは別物?」

問い「癒しと悟りは別物?」

【ご質問内容】

癒しと 
悟りは別物ですよね?

癒しは『私』がいるけど、

悟りには『私』がいないから

自分を癒してから 
悟りについて向かっていったらいいでしょうか。


【拙回答】

「自利利他」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教では、「自利利他」という言葉がございます。

自分の事だけでもいけないし、かといって、他の事だけでもいけない。

自分の事も他の事もバランス良く進めていくことが大切となります。

詳しくには、自利が智慧、利他が福徳(方便)として、両方の円満な成就を進めていくことで、悟りへと至れるものとなって参ります。

自分のへの癒しと共に、他への癒しもバランス良くに進めて参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「南無阿弥陀仏をおとなえする意味について」

問い「南無阿弥陀仏をおとなえする意味について」

【ご質問内容】

私の家は浄土宗の檀家です。 
浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。

しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。

といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。

「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。

おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。

つまり

「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか?

「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか?

という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。

これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。


【拙回答】

聖道門も浄土門も要諦は二諦の了解

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

浄土門(他力)からのお答えが多くございますので、あえて聖道門(自力)から・・と偉そうに言えるほどではありませんが・・

とにかく、聖道門も浄土門も、その教えの中には、既に如来によって悟られた世界、顕現としての勝義諦の側から説かれている教えがあり、世俗的な考え方において、勝義諦の教えを理解するのは、かなり難しいところがございます。(つまり、誤解も生じやすいというところがあります。)

実は、如来の教え(仏教)には、仏法の究極的な最高真理としての勝義諦の教えと、悟りへと導いていくための方便(対機説法・応病与薬)として説かれた教えの二通り(二諦)があり、その教えがどちらのものであるのかを、仏典や先師たちによる論書、注釈書を頼りに慎重に吟味して理解していくことが必要であると考えます。

つまり、勝義諦の教えを勝義諦の教えと理解して、方便の教えは方便の教えと理解した上で、それらを正確に修習において使い分けることができて、自らの気質・機根に応じての確かな仏道の歩みとなっているのかどうかが、大切なこととなって参ります。

とにかく、仏教には、大きく分けて二通りの説き方(二諦)があり、その教えはどちら側の教えで、それを自分の修習にどう活かしていくべきか、このことを少し意識しながら、これからも仏教を学ばれていって頂けましたらと存じます。

お礼を拝見しての追記・・

まさに、そのことを龍樹大師が、「中論」(根本中頌)において「観四諦品」(第二十四・第八偈~第十偈)『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』、『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』、『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』と述べられておられます。

いかに、「最高の意義」としての勝義諦を理解していくべきであるのか、是非、色々と学ばれていって下さいませ。

川口英俊 合掌

問い「仏教の心髄はなんでしょうか」

問い「仏教の心髄はなんでしょうか」

【ご質問内容】

各宗派の違いはあれど 
仏教は釈迦の教えから発していると思いますが 
端的にいってその教えの心髄、核心、エッセンスとは何でしょうか? 
多くの宗派のお坊さんからご回答を頂けるとありがたく存じます。

なお恐れ入りますが、 
仏教学的な、学べば分かるようなものは期待しません。


【拙回答】

智慧と方便、空と縁起

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教の心髄。

光禪さんのおっしゃられていますように、七仏通誡偈が、まさに端的にはその通りとなりますが、更にその中身における実践として大切になるのが、智慧と方便であると言えるのではないだろうかと存じます。

智慧と方便が、悟り・涅槃へと至れるためには必ず必要となるからでございます。

智慧は、空を悟る智慧のこと。方便は、福徳行、善徳行、慈悲行のことになります。智慧と方便により自利利他を円満に成就することが、悟り・涅槃へと向けて大切となります。

あとは、「縁起をみるものは、法をみる。法をみるものは、仏をみる」、「縁起をみるものは、法をみる。法をみるものは、縁起をみる」と申しますように、空と共に縁起も仏教の大切な要諦であると言えるでしょう。

特に空の理解においては、縁起もセットで理解することが望まれます。

ご参考までにて。

川口英俊 合掌

問い「死後について」

問い「死後について」

【ご質問内容】

人は死んだ後、その人生において大切であった人達に再会できるのでしょうか。

数年前に祖父を亡くしました。 
身近な人の死は初めてで、すぐには現実味がなく何も感じず、今更になって悲しいです。

うちは浄土真宗らしいので、仏様になっている筈なんですが…。 
後からいった人は会えるのでしょうか。 
仏様になる、というのがいまいちピンときません。

また、宗派が違うと(例えばキリスト教など)、別々の世界?に行ってしまい会えなくなるのでしょうか。。 
実際はどうあれ、意見を聞いてみたいです。


【拙回答】

死後について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

死後に関しましては、現在の仏教各派においても色々と解釈がございますが、お釈迦様におかれましては、議論してもあまり意味のないことであるとして、さほど重視はなさられずに、それよりも現実、今の迷い苦しみにどう対処していくべきであるのかの方が大切であるとして、様々に善き教えをお説きになられておられました。

もちろん、死後についてのことが、今の迷い苦しみへの対処となり、より良い生き方へと直接に繋がるのであれば、それを方便的に扱うことも否定はなさられないのではないだろうかとは存じます。

さて、浄土真宗さんでは、極楽往生にて倶会一処という考え方があり、また共に極楽にてお会いできると言われております。

ただ、往生してもすぐに成仏というわけではないのではないかとは存じます。阿弥陀様のもとにて、しっかりと成仏へ向けての何らかの成仏の因縁(原因と条件)となる修行は、必ず必要になるのではないかと考えます。

次に、宗派によっての浄土について、確かに色々と説かれてはいますが、では、それぞれ赴く先が違うのかと言われると・・うーん、違うのでもないし、かと言って同じでもないとして、一応、「不一不異」とだけ、苦しいところですが、今はお答えさせて頂いておきたいと存じます。

まあ、世間世俗の考え方、認識においては、なかなかそのあたりのところの理解が及びきれないものもあるのだとして、どうか今のところはお許し下さいませ。

とにかく、しっかりとまず、この現実においては、浄土へと赴くための因縁を、仏教を学び実践する中で調えて参りたいものとなります。

是非、これを機会に更に仏教を学ばれて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「明日死ぬかもしれないのに、努力できるのはなぜですか?」

問い「明日死ぬかもしれないのに、努力できるのはなぜですか?」

【ご質問内容】

「明日死んでも悔いのないように生きる」 
という考え方と

「目標にむかってコツコツ努力する」 
という行動が、どうしても矛盾してしまうように思います。

1日で達成できない目標がある場合、その過程で死んでしまったら悔いが残るように思えて、コツコツ努力できない自分がいます。

もし本当に明日死んでしまうのであれば、1日でやりきれる楽しいことを選んでしまうのが普通ではないでしょうか?

目標に向かって進んでいれば、道半ばで死んでしまっても救われるのですか?

教えて下さい。


【拙回答】

「目標」をどこに設定するのか

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

人生の「目標」をどこに設定するのかによって変わってくるかとは存じますが、今生における世間世俗的な幸せ(お金や地位や名誉や権力など死ねば消えてしまうような幸せ)を目標とするのであれば、死んでしまえばそれで終わりとなってしまいます。

一方、仏教では、今生だけではなく、来世、来来世も引き続いていく心(心の連続体・心相続)の向上に取り組むことで、やがて「悟り」へと至ることが目標となります。

今生だけの世俗的な幸せを目標とするのか、それとも仏教の目指す究極的な悟りという幸せを目標とするのか・・後者を目標とするならば、仏教を修習し、智慧の開発と福徳行(善徳行・方便行)に精進努力していくことが必要となって参ります。

何よりも、これからの心相続、心の連続体の赴きにおいては、己自身の行い(業・カルマ)によって、その赴く先、境涯が決まっていくこととなります。

ですので、できる限り、この今、現在、そしてこれからも、確かなる仏道を歩みて、善き業・カルマをしっかりと調えることで、より善い赴き先、境涯へと向かえるように調えて参りたいものでございます。

できましたらこれを機会に、少しなりにも仏教に興味を持って頂きまして、是非、学びを進めていって頂けましたら有り難くに存じます。

共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「善悪について」

問い「善悪について」

【ご質問内容】

寝ているときは、不安や心配がありません。 
すなわち、起きているときに存在する私という感覚(自我)は、不安や心配そのものであると言えるでしょう。

また、自我は問題の生じるところにしか存在せず、問題は善悪を裁く部分にのみ存在すると感じます。 
言い換えれば、善悪を裁くことがなくなれば、自我による不安、心配から開放されそうです。

そこで、善悪とは何なのか、何によって生じるのか、仏教においての善悪の解釈を教えて頂けませんでしょうか?

今まで善悪についてあまり考えず、周りに流されてきた気がしています。

よろしくお願い致します。


【拙回答】

「二諦」について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

誠にモノ・コトの本質的なことにつきましてのご質問であるのではないかと存じます。

まず、自我も善悪も、実体としては無い「空」なるものがその本質となります。

もちろん、それらは、何も無いという虚無・絶無ではなく、他に依存すること、つまり、「縁って起こっているもの」として「縁起」にて成り立っているものであると説明することにはなります。

ですので、自我も善悪も一応、「縁起」的には成立しているものと考えることができます。

しかし、問題は、では、「縁起」的には成立しているものであるとしても、正しくそのモノ・コトのありようを措定するにあたっては、「無明」(根本的な無知)の対治において、「ある」ものを「ない」としてしまっている錯誤、「ない」ものを「ある」としてしまっている錯誤について、いったい、何を否定して、何を肯定するべきであるのか、あるいは、何を否定するにしてもどこまでとなるのか、何を肯定するにしてもどこまでになるのか、そのことを論理的、合理的に明確にしていかなければならないのでございます。

では、その正しいモノ・コトのありようを措定するために必要となる仏教の基準が何であるかと申しますと、「二諦」という考え方となります。

それは、最高の究極的な真理を示す教えとしての「勝義諦」(しょうぎたい)と、世間世俗の真理に留めて説かれている教え、方便としてお説きになられている教えとしての「世俗諦」(せぞくたい)という、二つの真理のありようを正しく理解することによって、一切のモノ・コトについても、正しく設定することが可能になるというものでございます。

その「二諦」の基準についての詳細をここで述べるには制限字数の関係や煩雑な説明に陥る恐れがあるため、避けさせて頂きますが、是非、これから仏教を学び修されていかれるに際しては、この「二諦」についても意識して修習なされて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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