hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

智慧

問い「悟りを開いたら」

問い「悟りを開いたら」

【ご質問内容】

こんにちは。四海と申します。質問を見ていただいてありがとうございます。

私は最近仏教の魅力を知り、ネットなどを使って仏教について調べて瞑想などにも挑戦しました。そしてあるとき突然猛烈な衝撃に襲われました。自分と周囲が共に呼吸して境目がなくなった感じがしたのです。それ以来痛みや空腹などを感じてもそれらに惑わされることがなく、心がつねに穏やかで喜びと感謝で満ち溢れています。(言語化すると非常に分かりにくい感覚なので拙い表現なのはご容赦ください。)ひょっとして悟ったのかなと思いましたが実際周囲に変化を指摘されたのでやはりそうみたいです。

ここでひとつ伺いたいことがあります。 
悟りを開いたら何をすればよいのでしょう。苦しむ人々を助けたいという気持ちこそありますが16歳の小娘に出来ることなどあるのでしょうか。

母や父にはとても相談出来なかったのでここで質問させていただきました。お知恵を拝借したいです。


【拙回答】

二障の断滅

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

最近は、「アドヴァイタ」(非二元性)、「ノンデュアリティ」(非二元)などの体験を「悟り」として誤解されている方が多くなってきてしまっているように存じます。

仏教における、「無分別」をめぐる議論にも関わって参りますが、それも悟りへ向けて必要となる二つの資糧、「智慧」と「福徳」のうちの、「智慧」の中における「空性」の理解の一つのことであって、その「空性」の体験的理解の一つを「悟り」と勘違いしてしまっている場合がほとんどでございます。

仏教の禅定における「三昧」や「等引」も勘違いされやすいのですが、拙見解では、確かに悟りを開く前の段階においては、そのような「空性」体験も大切なことであると認識していますが、しかし、まだそれは悟ってはいない段階のものであって、そのような体験から元の世界に戻ったとしても、結局は、無明・煩悩により、迷い苦しむままであるのが恐らく現実でありますでしょう。

悟りへと至るためには、煩悩障と所知障という悟りの障りとなっているものを、智慧と福徳という二資糧によって、しっかりと断滅させない限りは、真なる悟りへと至れることはあり得ないとして、是非、これも機縁として、これからも仏教の修習に取り組んで頂けましたら有り難いことであると存じております。

共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「仏教徒に対する疑問パート9」

問い「仏教徒に対する疑問パート9」

【ご質問内容】

僕が昔瞑想してた時に雑念を払い無になろうと心がけ瞑想してました 
でも雑念を払い無になろうとする意識自体が雑念であることに気づき 
無になろうと意識することも意識しないいことも野放しにしました 
そしたら目の前で色んな色をした小さな粒が不規則な動きをしてる光景が見えました 
その小さな粒の不規則な動きを目で追ってるときはまだ自分の中に意識がある状態で 
その小さな粒の不規則な動きを目で追ってないときは自分の中に意識が無いような状態でした 
そしてその小さな粒の不規則な動きを目で追ってない意識が無い状態になると 
神妙な気持ちでボーっとしてるんです 色即是空のような無であると同時に無でないような 
そしてずっとその状態でいると白昼夢みたいなのを見るんです 
白昼夢を見てるときは意識がないのでそれを見てるという意識がなく見てるんです 
でも後で意識がある状態にもどると自分がさっき変な夢を見てたなと気がつくんです 
白昼夢には良いものもありましたが悪いものもありました 
一番悪いものは白昼夢の夢の中でもう一人の自分が無差別に人を殺してました 
でも僕はそれをボーっと見てるんです 
意識があるのかないのかもわからず 
善悪の価値観があるのかないのかもわからず 
自分であるのかないのかもわからず 
ただただボーっと見てるんです 凄く怖い夢だったのでそのことを親に話しました 
そしたら親は「え!おまえ上の階で瞑想してたのか?おまえ下の階でテレビ見てたじゃん・・・」って言われました 
それを聞いて僕は瞑想して意識が有るのか無いのかわからない状態になると悪霊に憑依されるんじゃないかと思いました 
そして瞑想やヨガのルーツを探ると 
ヒンドゥー教の破壊神シェバからで人間の切り落とした頭部を持って踊ってる神様からだというのを知りました 
インド人はカニバリズムや麻薬や変態的性癖を儀式的に行いこのシェバを崇めてることも知りました 
瞑想やヨガのルーツって危ないんじゃないんですか? 
瞑想やヨガの危険性は全く無く健康に良いだけなんですか? 
瞑想のしすぎて悪霊に取り付かれることとかないんですか? 
僕が見たのは単なる幻想で何も考えず瞑想し続けて悟りを開いた方がいいですかね? 
というか瞑想し続けた結果として自殺大国日本や僕のこの悪夢すら救える悟りの力は得られるのですか?


【拙回答】

智慧と福徳

川口英俊でございます。問い拙生のお答えでございます。

あまり瞑想における神秘体験に対して、とらわれたり、こだわったり、実体視したりしてしまってはいけません。

円満なる悟りへ向けて大切となるのは、智慧と福徳の二資糧の集積となります。

智慧は、主に「空性」の理解。

福徳は、功徳・方便行の実践。

両輪をバランス良くに修めていくことが必要となります。

この中で瞑想・禅定は、あくまでも「空性」の理解のための一つの実践にしか過ぎません。

瞑想・禅定において重要となるのは、「空性」の理解になります。

それも止と観により、正しく調えていくことが望まれます。

比量と現量で「空性」を正しく捉えていけるようにしっかりと頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「般若心経を知りたい。」

問い「般若心経を知りたい。」

【ご質問内容】

こんにちは、 
般若心経について詳しく知りたいです。 
オススメのわかりやすい書籍などを教えてください。 
いろいろと自分で読んで見たのですが、 
基礎知識?がないとわからないことばかりで 
正しくきちんと理解したいです。

一体どこから踏み入れれば、般若心経を 
正しく理解を深められるのでしょうか。

私のいまの知識は

般若心経とは、 
御釈迦様?の優秀な弟子が作ったもので 
その弟子の後輩に対して渡した、 
「悟りっていうのはこんなことだよ。」的な要約レポートだと思っていて、

(これすら間違ってたらすみません。)

ほんと、へんな知識しかないです。

中身が難しい。 
この優秀なお弟子さん?もなんだか正体つかめないし、

般若心経は仏教上級者向けですか?

ご回答よろしくお願いします


【拙回答】

般若心経

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「般若心経」について詳しくお知りになられたいとのこと、誠に尊く有り難いことでごさいます。

般若心経は、仏教における智慧としての深遠なる空の教えの要諦が簡潔にまとめられているお経であり、しっかりと間違いなく理解して、実践して参りたいものとなります。

下記では、拙生が般若心経につきまして、誠にお恥ずかしいことでございますが、少しくに述べさせて頂いておりますものでございます。

『般若心経における「空」について』 

拙生からのお勧めと致しましては、

「ダライ・ラマ 般若心経入門」(春秋社) 
「ダライ・ラマの般若心経」(三和書籍)

そして、更に「空」の思想を確かに理解して頂くために、少し難しい内容ではありますが、

「ダライ・ラマ 菩提心の解説」(大蔵出版)も、先においてできればにて。

ご参考まで。

また、内容について分からないことがございましたら、hasunohaへもご質問頂きまして、ご活用を賜れましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「即身成仏について」

問い「即身成仏について」

【ご質問内容】

密教の在家信者でも悟りに至ることができるのか、質問したものです。出家者にお布施をして悟りに至るとのことですが、即身成仏の問題があります。

在家信者でもご真言を唱えれば即身成仏できるんですか?(出家者にお布施なしで)


【拙回答】

無上瑜伽タントラの「幻身」と「光明」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「即身成仏」につきましては、拙生も長い間、考えてきたところがありましたが、最近になり、成仏する身体も心も、いま私たちに普段あるような粗い身体、粗い心(意識)によるものではないということがようやくに分かりました。

特に、無上瑜伽タントラに説かれる「幻身」と「光明」というものが、成仏のための質料因として必要になるというところでございます。

その「幻身」と「光明」の双入の次第によっては、確かに「即身成仏」も可能であると理解することができました。

しかし、そのためにも、やはり、悟りのための智慧と福徳の資糧集積の修行が必要となります。特に密教では、智慧と福徳の資糧集積を迅速に調えていくための教えにもなっておりますものの、一歩間違えれば、とんでもないことになってしまうため、誤りなく、慎重に修習していくべきことになりますので、気を付けなければならないと存じております。

川口英俊 合掌

問い「理趣経の十七清浄句について」

問い「理趣経の十七清浄句について」

【ご質問内容】

理趣経の教えですが、私は「人間の欲望は本来清らかだが、使い方を誤れば汚れたものになる」と理解しています。このような理解で問題ないでしょうか。


【拙回答】

清浄な心と不浄な心

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

私たちの心には、大まかには、清浄な心と不浄な心があり、我々凡夫は、大よそ無明・煩悩により、不浄な心の状態にて、迷い苦しんでしまっておりますが、仏道修習、智慧と福徳の二資糧によって、しっかりと無明・煩悩を対治することで、清浄な心(空にして縁起なる真なる勝義の光明の心)を顕わにして参りたいものでございます。

密教もその清浄な心を顕わにしていくための教えとして、理趣経の教えにつきましても、誤りなく正しく学び実践して参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

問い「これが空病なんでしょうか?」

問い「これが空病なんでしょうか?」

【ご質問内容】

気付けば真昼間に歯磨きしてました。意識してない。 
ボーっとして、坐禅に身が入らない。 
目が浮いて、足元がふらついています。

只管を練るとはどうすればいいのか? 
感覚に生きるのが正解という事は分かったのです。 
悟りすら余計事という事が分かりました。空も思えば荷物です。 
何を思っても重しになる。悟りを捨てて木阿弥に戻ったと思っても、既に重し。

真理が空であろうとも、一時的に現生している縁起の世において、 
日常の悩み苦しみは、ついて回り、いかに空を日常に生かしていくかが大事で、勝義諦を日常である世俗に活かしていくかが大事と知りました。 
服、ご飯、PCも縁があってのもの、息吸うのも酸素が無いと、生きられません。 生活をホッポリ出せば観念遊戯に終わると思いました。

機縁が整ったのか、天狗になった私の前に、ネット上ですが川上雪担老師の、弟子という人物に会うことが出来て、話を数回交わしたら、スッカリ楽になったんですけど、ここから先が分からないのです。

一体何をしたらいいのでしょうか?


【拙回答】

智慧と福徳

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

空と縁起の理解は、仏教における智慧の要諦。

しかし、悟りへと至るためには、もう一つの資糧である福徳も欠かせないものとなります。

そして、正しい福徳の資糧は、正しい智慧に支えられてこそ、真なる資糧ともなり得ます。

智慧の正しさの確からしさが向上していけばいくほどに、その智慧に支えれた福徳の資糧の正しい確からしさも向上していくことになります。

是非、智慧の資糧と共に、福徳の資糧も向上、集積に努めて参りたいものとなります。

共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「過去に執着したくない」

問い「過去に執着したくない」

【ご質問内容】

ネットで宗教の議論をしました。 
議論の相手は、頭を丸めていて、仏教系の大学にいたと自称し、自分が僧侶であることをほのめかしていたのですが、本当は違うらしくよくわかりません。

最初は、その人は別の方と白熱した議論をしていて、その僧侶風の人が間違った情報を述べていたので、責めるつもりもなく単純に指摘しました。

その後僕とその人で議論になりましたが、最終的に罵倒合戦になってしまいました。その人には「馬鹿しか生まれてこないと分かっているのにお前を産んだ親は間違っている」とまで言われました。しかし僕も相手の挑発に乗り無礼な言葉を使ってしまったので反省しております。

僕以外にもその人に暴言を吐かれた人が複数いて、その中の一人にこの人間と話していてもいいことはないからやめよう、そしてあなたの考えを僕は支持する、ということを述べお互い意気投合しもう議論を放り出しました。

しかし、後日その僧侶風の人との議論を読み返すと、相手の発言が事実と違うものでした。個人の見解を述べるものではなく、情報、知識レベルの議論だったので相手が間違っていると確信しました。しかもその人間の発言自体が矛盾しており、故意にデタラメを言っているとすら思いました。相手は議論より勝ち負けにこだわっていると発言しており、自分としては嘘までつかれて悲しいです。

議論は全く納得に値せず、無力感や自己嫌悪を覚えました。

宗教的立場を自称する人間にかなり厳しい発言をされたことは僕にとって衝撃的な体験となりました。

それ以来この出来事を忘れようとしているのに度々フラッシュバックしてしまいます。その原因はきっと、自尊心を傷つけられたことにあると思います。

また宗教にたいして、怖いという印象をもつようになってしまいました。これはどうしてなのかわかりません。きっと自分はかなり混乱しているんだと思います。

とても苦しいです。どうしたら宗教に対する嫌悪感を払拭し、フラッシュバックしないようになるでしょうか。

トラウマのようなものに対して、これ以外にも困惑するようなことがあります。 
どうしたら精神的な安定が得られるでしょうか。

よろしくお願いします。


【拙回答】

「宗論はどちら負けても釈迦の恥」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「宗論はどちら負けても釈迦の恥」と昔から申しますように、仏教は論争の勝ち負けを争うようなそんなものではなく、いかに各々自身が悟りへと向けて、お釈迦様の説き示された教えを自分の確かなる仏道に活かし、取り組んでいくべきかが大切となります。

もちろん、仏教において「論理学」は重視されてはいます。正しい認識による正しい判断ができなければ、正しい仏道を歩むことができないからであります。

でも、その論理学の問答においても、相手のことを思い遣っての慈悲の心が伴ったものになるべきであるのが、お互いに仏教を修習していく者同士のあり方でなければならないものであるかと存じております。

ただ、知識や弁論に長けているだけでは、決して悟りへは至れません。智慧だけでは悟りへと至れないのと同じで、必ず方便、福徳の実践が必要となります。

知識、弁論に通じた者であれば、それを活かして慈悲の心により、思い遣り、配慮を持って、相手のことを考えて、間違いを諭してこその方便・福徳の実践となるものであり、勝ち負け云々と言って、高慢、傲慢になっているようでは、とても仏教を修習している者とは言えないところでございます。

いずれにしても、仏教でなくても、宗教的立場を自認するのであれば、愛や慈悲がなければ、その資格はありません。

気にせずに、というのも難しいかもしれませんが、愛や慈悲の無いような議論には、もちろん納得される必要もありませんし、今後乗らないようになさられて下さいませ。

そして、少しずつでもトラウマも払拭していけるように、仏教の修習の中において、無駄な論争、戯論の扱いについての優れた方策を示されておられます龍樹大師の著書の内容(中論、廻じょう論「じょうは、言べんに争い」、空七十論など)についても是非、学ばれてみて下さいませ。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「仏教の教えと座禅」

問い「仏教の教えと座禅」

【ご質問内容】

心が強くなれそうと言う単純な理由で、座禅を始めました。

始めて見たら、座禅より、仏教の教えを勉強する方が、心のささえになるのではと思うようになり、座禅の意味が良く判らなくなりました。

座禅は、仏教の教えのひとつなのか?

仏教の教えと、座禅は、同列でどちらも仏教の修行なのか?

座禅で悟りを開いたものが、仏教の教えも理解出来るようになるのか?

仏教の教えを理解したものが、座禅で悟りを開けるのか?

初歩的な質問で凝縮ですが、教えて頂けますでしょうか?


【拙回答】

禅定も全体のバランスの中での一つの修行

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

龍樹(ナーガールジュナ)大師が、そのご著書「宝行王正論」にて、六波羅蜜の、布施・持戒を「利他」、忍辱・精進を「自利」として、そして、禅定・智慧を「解脱」に分類されておられ、このうち、坐禅(瞑想)は、禅定のカテゴリーに入り、坐禅(瞑想)も悟りへと向けた一つの修習として大切なものとなりますが、悟りへ向けては、それだけでは不十分であり、自利と利他の円満な修習、そして最終的な悟りへの智慧も必要なものとなります。

どうしても釈尊がお悟りを開かれた際における菩提樹下における最後の禅定・坐禅(瞑想)のイメージが強いため、禅定・坐禅(瞑想)をことさらに重視してしまうところがありますが、それまでの自利・利他の下地があってというところも、しっかりと理解しておきたいところとなります。

また、禅定・坐禅(瞑想)の中では、何も思わない、何も考えない、という「無想無念」、「無思無観」の「無分別知」こそが悟りだとする極端、偏見となる誤った主張も散見されることがありますので、それは注意が必要となります。

とにかく、智慧と福徳(方便)の円満な成就へと向けて、禅定もしっかりと全体のバランスの中での一つとして修習致して参りたいという感じでございます。

川口英俊 合掌

問い「台湾の友人の質問に答えられませんでした」

問い「台湾の友人の質問に答えられませんでした」

【ご質問内容】

先日、台湾の友人にこのような質問をされました。

「台湾の僧侶は肉は食べない、酒も飲まない、女性との関係も持たない、そうやって厳しい修行をしているから尊敬されている。 
日本の僧侶は肉も食べ酒も飲み女性との関係も持つ、どうしてそれで尊敬されるのか?一般人と同じじゃないか?」

わたしは仏教に詳しくなく、戸惑ってしまい、彼の質問にうまく答えることができませんでした。 
「日本のお坊さんも修行はしていると思うし……それにお酒と肉と女性をやってなければ偉いっていうのも違うと思うし……うーん……」 
というような曖昧な返答になってしまいました。

もし、お坊さん自身がこのような質問をされた場合、どのようにお答えになるでしょうか。

ご不快な思いをさせてしまっているかもしれませんが、どうかお答えいただければ幸いです。


【拙回答】

何をもって尊敬する人と判断するのか

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙生自身のことを申せば、還俗もせずに妻帯していることが、「波羅夷罪」(僧団永久追放の重罪)の一つにあたることは、重々にも承知を致しております。

日本仏教の伝統・文化・歴史の変遷を鑑みますと、許容されるべき戒律、時代・社会に適合しないような戒律もあり、一概に、釈尊の時代の戒律を守らなければならないというわけではない面もございますが、どうにも「波羅夷罪」だけは、やや性格が異なるものであるとは思っています。

ですので、自分は、日本では便宜的に「僧侶」ではあっても、日本外部の仏教(特に戒律の厳格なテーラワーダ仏教やチベット仏教ゲルク派など)からでは、「僧侶」ではなく、「在家信者」であると言われても仕方がないとの自覚は致しております。

でも、だからといって、仏教を修習できないわけではなく、しっかりと一在家信者としてでも、できるだけ仏道の歩みを前へと進めていけるように、日々変わらずに修習に頑張って努めて参りたいと存じております。

また、ただ戒律を守っているから尊敬するというわけではなく、僧侶であろうが、在家であろうが、仏教の智慧と慈悲や方便を兼ね備えていきつつ、仏道を確かに歩んでいる者であるのかどうか、尊敬に値する良き人格者であるのかどうかということも併せて、総合的に見ていくことも必要ではないだろうかとも存じます。

どうかご賢察を賜りたくに。

川口英俊 合掌

問い「癒しと悟りは別物?」

問い「癒しと悟りは別物?」

【ご質問内容】

癒しと 
悟りは別物ですよね?

癒しは『私』がいるけど、

悟りには『私』がいないから

自分を癒してから 
悟りについて向かっていったらいいでしょうか。


【拙回答】

「自利利他」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教では、「自利利他」という言葉がございます。

自分の事だけでもいけないし、かといって、他の事だけでもいけない。

自分の事も他の事もバランス良く進めていくことが大切となります。

詳しくには、自利が智慧、利他が福徳(方便)として、両方の円満な成就を進めていくことで、悟りへと至れるものとなって参ります。

自分のへの癒しと共に、他への癒しもバランス良くに進めて参りましょう。

川口英俊 合掌
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