hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

問い「・」

問い「・」

【ご質問内容】

死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい

何度もhasunohaで 相談して お坊様達から お言葉をいただいても 死にたい気持ちは変わりません。本当に死にたい。


【拙回答】

ハチドリのひとしずく

しずく様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

お名前の「しずく」から、「ハチドリのひとしずく」を連想致しました。

森の山火事を消そうと、くちばしに一滴一滴水を含んで運び、火の上にかけるハチドリのお話です・・

火事からわれ先にと逃げ出した動物たちは、それを見て、「そんなことをして、いったい何になるんだ」と嘲笑します。

それに対して、ハチドリは答えます。

「私は、私にできることをしているだけ」

・・

生きることは確かにしんどく、つらく、苦しいことです。

ある意味では、皆、苦しみの業火に焼かれ悶えてしまっています。

そんな中で、少々何をどうしたところで、何の役に立つのかと思われるかもしれません。

それでも、「因縁(原因と条件)無くして結果無し」です。

少しずつでも心に善い種をまき、水をやり、育てないと、幸せの花は咲きません。

70億人の人間のそれぞれの迷い苦しみに、hasunohaは、所詮、無力です。無いに等しいのかもしれません・・

でも、ほんの少し、例え一人でも、幸せの花を咲かせて頂くためのお手伝いができればと思って取り組ませて頂いております。

まさに、「私は、私なりにできるだけのことを、何とかできるだけ」の思いですが、今や多くの法友の同志の皆様の参加により、世間で大きく注目される取り組みにまで成りつつあります。

何でもそうですが、やっても無駄だ、一滴で何になるのだと思われず、やれるだけ、やれることから是非、やって、生きていってみましょう。もしかすると、その一滴一滴の力が、やがては皆の力も得て、大海にまで大きくなるかもしれません。

どうか、はやまらないでほしいです。やるべきこと、なすべきこともまだまだございます。

できれば、仏教を少しずつでも学び修して頂きまして、善き種を心にまいて、しっかりとそれを育てていってほしいと存じます。

しずくさんの心に、少しでもこの拙い私の思いが届きましたら幸いです。

共に仏様の教えを養って参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「死は本人にとっても辛いですか」

問い「死は本人にとっても辛いですか」

【ご質問内容】

なぜ死ぬことが悪いのか未だに理解できません。

周りの人たちが悲しむのはわかります。私は一般的に幸せな子だから。 
でも、本人にとって生きることが死ぬことより辛いとはどうしても思えません。

楽になりたいとは、どうして思ってはいけないのでしょうか。

10年以上考えています。 
お坊さんの考えを教えてほしいです。


【拙回答】

迷い苦しみの輪廻

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

この迷い苦しみの輪廻にある限り生死はいずれにしてもつらいものとなります・・

代表的には、八苦としての「生・老・病・死の他に、愛するモノ・コトとも別れなければならないという苦しみの愛別離苦(あいべつりく)、憎しみ怨むモノ・コトとも出会っていかなければならないという苦しみの怨憎会苦(おんぞうえく)、(実体的にモノ・コトを)求めても得られず満足できないという苦しみの求不得苦(ぐふとっく)、心身共の作用が盛んに働いていることによる苦しみの五蘊盛苦(ごおんじょうく)」とございます。

輪廻の問題は、無明(根本的な無知)・煩悩による行い、悪い業・カルマのありようになります。

この業・カルマをできるだけ善い清らかな流れに調えていくことが大切となります。善い清らかな流れに調えていくための教えが仏教となります。

本当の「楽」となる悟り・涅槃へと向けて、是非、これを機会に少しずつでも構いませんので、仏教の修習に努めて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「自分が自殺をしそうで怖いです。」

問い「自分が自殺をしそうで怖いです。」

【ご質問内容】

半年前に不安神経症を発症してから、自分とは、生きるとは何なのかについて悩むようになりました。

自分には意思があって、自分がしたいと思えば体が動きます。 
そうしたら、自分の心次第で人殺しや自殺もできてしまうんだなと気づきました。 
今も、身体が勝手に台所から包丁をとってきそうで怖いです。 
死ぬのが辛くなるんだったら、なんで生まれてきたんだろうとも思います。

怖いと思うのは、死にたくないという思いが魂胆にあるからなのでしょうが、その気持ちさえなくなってしまうんじゃないかと思ってしまいます。

自分の進路も見えてきて、やりたいこともたくさんあるのに、辛いです。 
考え方をどう変えたらよいでしょうか。


【拙回答】

不安の原因は・・

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

不安を色々とお抱えになられておられて、特に死に対する不安にお悩みのご様子・・

不安というものは、人間であれば誰もが何らかしか持っているものですが、ある意味では、自己防衛を図るための本能的なものであるとも言えます。

不安があるからこそ、慎重になって、安全に物事を進められているということもありますし、一方では、身動きがとれなくなり、何も手に着かなくなってしまうという弊害ももちろんあり得るものでございます。

不安というものも、有りすぎず、かといって、無いというのでもないというところのバランスが必要となります。

さて、「死」についてでございますが、とにかく、「死」とは何かが分からないことによる不安が一番大きな原因としてあるのではないだろうかと存じます。

そうであれば、「死」についてもっと知ってみるのも、その一つとなります。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の如くに、案外、知ってみると、なんだ・・となって、不安も和らぐことになるのではないだろうかと存じます。

仏教的に考えるのであれば、「死」は、虚無や絶無ではなく、肉体としての「死」という面が強くあり、肉体は滅んだとしても、存続していく微細な意識(微細心・心相続)のありようについて考えていくことになります。

その存続していく心のありようをしっかりと善きものに調えていくための教えが仏教でもあります。

もちろん、死後のことは今は考えずとも、いずれその時は否が応でもやってくるのですから、その時までは、とにかく仏教を修習し、善き因縁を調えていくことに取り組むのも一つ。

いや、やっぱり死についてもっと知りたいとなれば、仏教における死についての教えについて学ばれてみられることもお勧め致します。但し、学べる文献は幾つかに限られています。間違いのないように慎重に学んで参りたいものとなります。

ご興味がおありでしたら、いくつかのお勧めをお教えさせて頂きます。

とにかく、それもまだまだ焦らずで構いません。でも、ある程度知っていけば、納得していけることもあるという感じにて。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「苦しいです」

問い「苦しいです」

【ご質問内容】

周りにこんなことを相談できる相手がいません。 
今日、18の誕生日を迎えました。 
私の家庭は、父と母が離婚しており、私と姉は父、弟は母に引き取られました。離婚自体は私が小学生の頃の話です。周りに離婚した家庭が多かったこともあり、今は特になんとも思っていません。 
父は、子供のような人です。作業療法士で、大学で教えているのですが、家族よりも生徒や自分の趣味が大事なようで、機嫌を損ねると毎回「勝手にすれば?もう面倒見ないから」などといいます。また、最近父宛てに債権回収?などの葉書がきて、怖いです。専門学校に進みたいですが、不安です。 
姉は離婚からずっと家事をしていて、今看護師として社会人1年目です。毎日とても大変そうですが、充実しているようです。一番苦労していると思います。 
父方の祖母は、経済的な面でも私達を支えてくれています。でも、私が苦労せずのうのうと生きているからか、当たり前ですが私よりも姉が好きなようです。 
私自身は、友達もそこそこ居り、姉とも仲が良く、虐待も受けていません。バイト代で本や服も買えるので、恵まれていると自覚しています。 
母ともたまに会っています。優しくて大好きです。弟もかわいいです。姉も好きです。父も嫌いではありません。祖母も苦手ですが好きです。自分のことも嫌いではありません。成績も悪くなく、好きなものもあります。 
しかし、誕生日を迎えてみて、「死にたい」と思ってしまいました。 
これまでも、何度か、そう思って、死に方を調べて、それで満足して、馬鹿みたいなことをしていました。 
でも、父は私の誕生日を覚えていません。姉も父も仕事ですし、1人です。友達も、きっとおめでとうと言ってくれるはずです。それは素直に嬉しいのに、全部どうでもよくなってしまいました。 
精神科に通ったことも、通おうと思ったこともありません。家族や友達の中では誰かが機嫌を損ねないよう明るく盛り上げています。 
自分が誰かに好かれる性格でないことはわかっています。外面はうるさくて調子が良くて、中身は根暗で卑怯者です。 
誰かに一番だと思われたいです。優先されたい、かえりみられたいです。ごちゃごちゃ考えて、面倒くさくなって死にたくなります。 
いっそ誕生日に死ねたらいいのかな?と考えます。これは一時的な感情なのかもしれません。 
支離滅裂で申し訳ありません。何を相談したいか分かりません。苦しいです。


【拙回答】

素敵なご縁、出逢いもまだまだこれから。。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

お誕生日おめでとうございます。

お若いですので、色々と多感なことがおありなのではないかと存じます。

あまりご自身を卑下なさられず、自己嫌悪に陥られずに、ご自身をもっと大切にご自愛なさって下さいませ。

どうしても皆、おおよそ自分への評価は低く見積もってしまうものです。変わろうと思ったら、いくらでも変われる方法はありますのに。。それを邪魔しているのは、自分自身による低い自己評価で、自分でハードル・壁を高くして制限を掛けてしまっているところがあります。

人生これからですよ。。

素敵なご縁、出逢いもまだまだこれから。。

あぁ、18歳に戻りたい。。

拙生も若い頃はよく不安や恐怖から死についても考えていました。そして、また、35歳を過ぎたあたりから、誕生日が来るたびに、今度は不安や恐怖ではなく、死は当然にいずれ受け入れるものとして、現実的な死を意識するようになりました。

そして、死を迎えるにあたり、死のことを詳しく知っておきたいとして、仏教において死後のことについて甚深なる瞑想における疑似臨死のことについて、詳しく解説されている文献にも興味を持ち、できるだけ臨むにあたり準備しておくべき仏教的な修習も進めている途上でございます。

まあ、誕生日は、この世に生まれ出でた生の日、生を意識すればするほどに、その逆の死も意識してしまうのは、あながちあり得ないことではありません。生死は表裏一体です。

とにかく、いずれにせよ、死に臨むにあたっては、できるだけのより善き心の変容、滋養が欠かせないものであるというところとなります。仏教的には、智慧と福徳の二資糧の集積が大切になるということになりますが、難しいことは別としても、とにかくいずれその時は否が応でもやってきます。何も焦る必要はありません。それまでは、とにかくやれるだけは努めてやろうという感じでも構わないのではないだろうかと存じます。

できるだけ、善き因縁(原因と条件、動機と行動)を調えていくことで、より善き結果、より善き後生も目指して。。

川口英俊 合掌

問い「「死にたくない」と思わないのは、おかしいことですか」

問い「「死にたくない」と思わないのは、おかしいことですか」

【ご質問内容】

こんにちは。 
今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 
だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。

生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 
それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 
親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。

でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 
一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。

もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 
私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 
こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。


【拙回答】

善き因縁を調えるために

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

ある意味では、生にも死にも、とらわれない、こだわらない、かたよらないということは、まさに「中道」的な考え方として、仏教の理想ではございます。

とにかく、生も死も、因縁(原因と条件)によるものでございます。

まだまだ生きる因縁があるのであれば、善き心と善き行いへと向けて、できるだけ善き因縁をしっかりと調えて参りたいものでございます。

その善き因縁を調えていくための教えが仏教となります。

是非、これも一つの機縁として、更に仏教に興味を持って頂きまして、学び修されて頂けましたら有り難くに存じます。

ピコ様のお幸せを祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「これから自殺するつもりの者です」

問い「これから自殺するつもりの者です」

【ご質問内容】

自殺した後の死後の世界のことが気になっています。また、お釈迦様は死んだ者の死に方、死にぎわを問わないとは本当でしょうか?仏教の法典?について色々と調べてみて、お釈迦様が自殺したら地獄に落ちると言っていないことや、自殺を否定していないこと、それら全ては人間の善悪の価値感であることがわかったのですが、サイトや書籍によって若干のバラツキがあったので本職であるお坊様にお聞きしました。じゃないと何か未練のようなものが残りそうで…

また、人間は死んだらどうしても輪廻転生をしなければならないのでしょうか?私は今まで生きてきて、もう生まれ変わるのはこりごりだ、無になるか世界をただ傍観するだけの存在になりたいと思いました。そういうものになる方法はあるのでしょうか?

あとこれは個人的なことなのですが、人間は肉体を離れて霊や魂だけになったら性別や年を超えて姿を変えられるのでしょうか?

以上、よろしくお願いします。


【拙回答】

仏教で死後のことが語られるのは何のためであるのか

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

誠に自殺をお考えになられておられる切実なお悩み・・

仏教で死後のことが語られることがあれば、それはいったい何のためであるのか・・

それは、いずれにせよ、仏教の基本となる、悪いことをなさずに、善い行いに努め励みて、心を浄らかにするためであると考えております。

「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」でございます。

しっかりと仏法を修習し、悟りへと向かう資糧(智慧と福徳)を確実に積めるように、今生においても、できる限り怠ることなく努めて参りたいものでございます。

どうしても死後のことについて、もっとお知りになりたいと思われるのでしたら、下記を是非お読みになられて下さいませ。

「チベットの生と死の書」講談社/ソギャル・リンポチェ著/訳・大迫正弘氏・三浦順子氏

既に絶版のため、古書しかございませんが、お勧め申し上げたいと存じます。


もし、お読みになられて分からないことがございましたら、どんどん遠慮なくに、hasunohaへとまたご質問下さいませ。できる限りお答えさせて頂きます。お待ち申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「死後の世界」

問い「死後の世界」
http://hasunoha.jp/questions/11603
【ご質問内容】

人は死んだらどうなるのでしょうか? 
私の周りの一部の''人は死んだら無になる''と言います。でも私はどうしてもそうは思えません。たしかに死んだら形がなくなってしまいますが、魂は無くならないと思います。きっと見えない姿になって生き続けるのだと思います。そんなのはただの願望ですか?たしかに証拠がないので断定はできません。でももし死後の世界が存在するのなら死を目の前にする(私がそういう状況というわけではありませんが)人々にとってとても心強い支えとなるでしょう。まだまだずっと先のことだとわかっていますが、やはり死ぬのが怖いです。人間は死んだら自然の一部になるという考えが一番現実的だと思いますが、それは科学的なことです。今生きている自分の魂(心)はどこへ行ってしまうのか。死んだら全ての記憶や体験がなくなってしまうのか。もしそうならやはり「死」は人間にとってとてもとても怖いものだと思います。生きるということ自体が死によって無駄(リセット)されてしまう。形がなくても魂が永遠に生き続けるということは本当なのでしょうか??


【拙回答】

死後について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

死後については、拙生も昔は虚無的、悲観的に考えておりましたが、仏教を修習していく中で、存続していくありようについての確信を少しくにも得ることができてきております。

それは、微細なる意識として死後も存続していく心相続(心の連続体)に関するありようについてでございます。

私たちの存在は、「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)なるものと申しまして、五蘊とは、それぞれ、色(物質・肉体)、受(感覚・感受作用)、想(表象・概念作用)、行(意思・意志作用)、識(意識・認識作用)が、色々な因縁(原因と条件)によって、それらの要素が互いに依存し合って集まり成り立っているものとなりますが、死後において、この肉体が滅び、今あるような身体的な機能・作用が停止したとしても、実は、肉体的な機能に左右されない微細なる意識としての心相続(心の連続体)が、更に色々な因縁(原因と条件)によって存続していくものであると考えることになります。

そして、その微細なる意識としての心相続、心の連続体においては、過去世、現世ももちろん含めて、全てのこれまでの数々の行いの業・カルマというものが、これから先へ向けても引き継がれていくことになります。

永遠永久に変わらない実体的な自分という何かがあるわけではありませんが、様々な因縁に依りて存続していくものはあり得ているというところとなります。

ですので、何もかもが消えて無くなるというわけではないと考えています。

ただ、その死後における心相続、心の連続体の赴きにおいては、様々な因縁と共に、実は、己自身の行い(業・カルマ)の影響が強く反映され、おおよそその行き先が 決まっていくことになります。

ですので、できる限り、この今、現在、そしてこれからも、善き業・カルマをしっかりと調えることで、より善い行き先へと向かえるように調えて参りたいものとなります。

できれば、仏道を歩み、悟り・涅槃へと向かうための善き業・カルマをしっかりと調えることで、この迷い苦しみの輪廻を解脱して、悟り・涅槃へと至ることを目指すことが、仏教においての要諦となって参ります。

できましたらこれを機会に、より一層、仏教に興味を持って頂きまして、是非、学びを進めていって頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「死ぬのが怖くて何も手につきません、克服することは可能ですか?」

問い「死ぬのが怖くて何も手につきません、克服することは可能ですか?」

【ご質問内容】

タイトルの通り、自分がいつか死ぬことを考えると恐ろしくて、パニック状態になってしまいます。朝起きた瞬間から寝るときまで、常に「死」の恐ろしさ、得体の知れなさが頭から離れず、最近は趣味も楽しいと思えません。

いつか死ぬからこそ今を一生懸命生きることが大切だとか、いまのわたしにはきれいごとにしか思えないのです。

べつに、近しい人の死がトラウマになってるとか、そういう事実もありません。ただ、死が途方もなく恐ろしいことに思えて仕方ないのです。

これほどまでに重度の死の恐怖を克服すること、あるいは克服せずとも上手く折り合いをつけて生きていくことは可能なのですか? 
また、仏教に帰依することは、死の恐怖を克服する手助けになりますか? 
お忙しいところ恐縮ですが、ほんとうに、どなたか助けてください。このままでは発狂しそうです。


【拙回答】

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

恐怖や不安というものは、おおよそ「無知」から来てしまうものでございます。

幽霊も、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と知れば、恐怖・不安が無くなるように、「死」とは何かについても、しっかりと知ることができれば、きっと恐怖・不安を退けることができるようになっていくのではないかと存じます。

では、「死」についての真理を仏教ではどう知っていくべきであるのか。

例えば、「不死の境地」というものや、般若心経にも出て参ります「不生不滅」など、それはいったい何を意味しているのかを考えていくこともヒントの一つとなります。

是非、これから少しずつでも仏教を学ばれて修習をなされて頂ければと存じております。良き気付きのございますことを。

川口英俊 合掌

問い「死にたいと思いながら25年」

問い「死にたいと思いながら25年」

【ご質問内容】

初めて質問させていただきます。 
私は死にたいと思いながら25年経ってしまいました。 
毎日目が覚める度に『死にたい』と思い、幸せな時期は『幸せなうちに死にたい』、辛い時期は『辛い。もうヤダ死にたい』と考えてしまいます。 
子供の頃からのことなので最早これが当たり前ですし、子供の頃や二十代前半の頃は何度か行動に起こした事もありましたが、いつも失敗してしまいます。

そうこうしているうちに無気力な大人になってしまったので、惰性で様々なものに依存しながらただ時間を過ごしています。 
こんな事を言うのは不謹慎極まりないのは自覚してるので言葉にするのは初めてですが、自分で死ぬより、事故や事件、病気で死を迎えるのを待つ毎日です。

最近、死にたいと毎日思うことは異常だと認識しました。 
僧侶の皆さんは死にたいと思うことはありますか?また、もし思うような時にはどうやってその思いを断ち切りますか?


【拙回答】

死ぬ自分とはいったい何か

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

どうでしょう。それほどに「死」について考えられておられるのでしたら、もう一歩前へと進んで、仏教を学びながら、「自分とは何か」、「死とは何か」ということと共にモノ・コトの真理、真実のあり方について考えてみませんか。

仏教で説明される「無我」、「空」、「縁起」などの考えがヒントとなりますが、結局のところ、「自分」も「死」も、実体としてはあり得ないものとなります。

「自分が死ぬ」とは言っても、その「自分」も「死」も実体としてはあり得ていないのであります。

ただ、実体としてはあり得てはいませんが、「縁起」としてはあり得ていると考えることにはなります。

ですので、何もないという「絶無」・「虚無」ではありません。

そして、仏教の説く「不生不滅」や「不死」の境地とはいったい何か。

おそらく、今、現在、愛梨様が考えておられるような「死」ということも、「生」ということも、真なるあり方としてはとらえられてはいらっしゃらないのではないかと存じます。

転倒したモノの見方でとらわれを起こされてしまわれている可能性もございます。

是非、まず転倒したモノの見方を仏教を学び進めることで、少しずつ正しいモノの見方ができるようにと調えて参りましょう。

「死にたい」と更に思われるのも、それからでも構わないのではないかと存じます。

是非、共に正しいモノの見方ができていけるように、仏教の修習に頑張って取り組んで参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「明日死ぬかもしれないのに、努力できるのはなぜですか?」

問い「明日死ぬかもしれないのに、努力できるのはなぜですか?」

【ご質問内容】

「明日死んでも悔いのないように生きる」 
という考え方と

「目標にむかってコツコツ努力する」 
という行動が、どうしても矛盾してしまうように思います。

1日で達成できない目標がある場合、その過程で死んでしまったら悔いが残るように思えて、コツコツ努力できない自分がいます。

もし本当に明日死んでしまうのであれば、1日でやりきれる楽しいことを選んでしまうのが普通ではないでしょうか?

目標に向かって進んでいれば、道半ばで死んでしまっても救われるのですか?

教えて下さい。


【拙回答】

「目標」をどこに設定するのか

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

人生の「目標」をどこに設定するのかによって変わってくるかとは存じますが、今生における世間世俗的な幸せ(お金や地位や名誉や権力など死ねば消えてしまうような幸せ)を目標とするのであれば、死んでしまえばそれで終わりとなってしまいます。

一方、仏教では、今生だけではなく、来世、来来世も引き続いていく心(心の連続体・心相続)の向上に取り組むことで、やがて「悟り」へと至ることが目標となります。

今生だけの世俗的な幸せを目標とするのか、それとも仏教の目指す究極的な悟りという幸せを目標とするのか・・後者を目標とするならば、仏教を修習し、智慧の開発と福徳行(善徳行・方便行)に精進努力していくことが必要となって参ります。

何よりも、これからの心相続、心の連続体の赴きにおいては、己自身の行い(業・カルマ)によって、その赴く先、境涯が決まっていくこととなります。

ですので、できる限り、この今、現在、そしてこれからも、確かなる仏道を歩みて、善き業・カルマをしっかりと調えることで、より善い赴き先、境涯へと向かえるように調えて参りたいものでございます。

できましたらこれを機会に、少しなりにも仏教に興味を持って頂きまして、是非、学びを進めていって頂けましたら有り難くに存じます。

共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌
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