hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

涅槃

問い「仏教における勉学」

問い「仏教における勉学」

【ご質問内容】

ご閲覧頂きありがとうございます。

仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 
中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。

誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。

ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。

仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。

【拙回答】

向こう岸(悟り・涅槃)に渡れば、捨て去る筏のようなもの

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教から見た「学問を勉強すること」について、でございますが、もちろん、例え仏教であっても、この世俗世間で生きていくためには、学問の勉強も当然に必要で大切なことになります。

ある程度、モノ・コトの分別、世俗的常識、生きていくための知識、仕事のための知識なども付けていかなければ、社会生活はとても営めるものでありません。その点は、仏教であろうがなかろうが、この世界で実際に生きて生活している以上は当たり前のことになり、疎かにできないものとなります。

しかし、仏教の最高真理としての「勝義諦」としては、学問も、学識も、知識も、分別も、これら全ては実体としては成り立っていない「空」なるものであって、そこにとらわれて、執着することはできないものとなります。

もちろん、それらにとらわれて、執着することはできないにしても、世俗世間で生きていくためには、完全に捨て去ることはやはりできません。しかしながら、あくまでも、それらは依存関係、縁起によって成り立っているものに過ぎないということを理解していくことが求められるものとなります。

仏教の目的とする悟り・涅槃へと向けて、学問も、学識も、知識も、分別も、もちろん必要で、悟り・涅槃という向こう岸へ渡るためにも必要ですが、渡り終われば捨て去る筏のようなものであるという感じでございます。

そのあたりのことの理解へ向けては、是非、興味がございましたら、龍樹大師の「中論」も学び進められて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「死後の世界」

問い「死後の世界」
http://hasunoha.jp/questions/11603
【ご質問内容】

人は死んだらどうなるのでしょうか? 
私の周りの一部の''人は死んだら無になる''と言います。でも私はどうしてもそうは思えません。たしかに死んだら形がなくなってしまいますが、魂は無くならないと思います。きっと見えない姿になって生き続けるのだと思います。そんなのはただの願望ですか?たしかに証拠がないので断定はできません。でももし死後の世界が存在するのなら死を目の前にする(私がそういう状況というわけではありませんが)人々にとってとても心強い支えとなるでしょう。まだまだずっと先のことだとわかっていますが、やはり死ぬのが怖いです。人間は死んだら自然の一部になるという考えが一番現実的だと思いますが、それは科学的なことです。今生きている自分の魂(心)はどこへ行ってしまうのか。死んだら全ての記憶や体験がなくなってしまうのか。もしそうならやはり「死」は人間にとってとてもとても怖いものだと思います。生きるということ自体が死によって無駄(リセット)されてしまう。形がなくても魂が永遠に生き続けるということは本当なのでしょうか??


【拙回答】

死後について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

死後については、拙生も昔は虚無的、悲観的に考えておりましたが、仏教を修習していく中で、存続していくありようについての確信を少しくにも得ることができてきております。

それは、微細なる意識として死後も存続していく心相続(心の連続体)に関するありようについてでございます。

私たちの存在は、「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)なるものと申しまして、五蘊とは、それぞれ、色(物質・肉体)、受(感覚・感受作用)、想(表象・概念作用)、行(意思・意志作用)、識(意識・認識作用)が、色々な因縁(原因と条件)によって、それらの要素が互いに依存し合って集まり成り立っているものとなりますが、死後において、この肉体が滅び、今あるような身体的な機能・作用が停止したとしても、実は、肉体的な機能に左右されない微細なる意識としての心相続(心の連続体)が、更に色々な因縁(原因と条件)によって存続していくものであると考えることになります。

そして、その微細なる意識としての心相続、心の連続体においては、過去世、現世ももちろん含めて、全てのこれまでの数々の行いの業・カルマというものが、これから先へ向けても引き継がれていくことになります。

永遠永久に変わらない実体的な自分という何かがあるわけではありませんが、様々な因縁に依りて存続していくものはあり得ているというところとなります。

ですので、何もかもが消えて無くなるというわけではないと考えています。

ただ、その死後における心相続、心の連続体の赴きにおいては、様々な因縁と共に、実は、己自身の行い(業・カルマ)の影響が強く反映され、おおよそその行き先が 決まっていくことになります。

ですので、できる限り、この今、現在、そしてこれからも、善き業・カルマをしっかりと調えることで、より善い行き先へと向かえるように調えて参りたいものとなります。

できれば、仏道を歩み、悟り・涅槃へと向かうための善き業・カルマをしっかりと調えることで、この迷い苦しみの輪廻を解脱して、悟り・涅槃へと至ることを目指すことが、仏教においての要諦となって参ります。

できましたらこれを機会に、より一層、仏教に興味を持って頂きまして、是非、学びを進めていって頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「仏教の心髄はなんでしょうか」

問い「仏教の心髄はなんでしょうか」

【ご質問内容】

各宗派の違いはあれど 
仏教は釈迦の教えから発していると思いますが 
端的にいってその教えの心髄、核心、エッセンスとは何でしょうか? 
多くの宗派のお坊さんからご回答を頂けるとありがたく存じます。

なお恐れ入りますが、 
仏教学的な、学べば分かるようなものは期待しません。


【拙回答】

智慧と方便、空と縁起

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教の心髄。

光禪さんのおっしゃられていますように、七仏通誡偈が、まさに端的にはその通りとなりますが、更にその中身における実践として大切になるのが、智慧と方便であると言えるのではないだろうかと存じます。

智慧と方便が、悟り・涅槃へと至れるためには必ず必要となるからでございます。

智慧は、空を悟る智慧のこと。方便は、福徳行、善徳行、慈悲行のことになります。智慧と方便により自利利他を円満に成就することが、悟り・涅槃へと向けて大切となります。

あとは、「縁起をみるものは、法をみる。法をみるものは、仏をみる」、「縁起をみるものは、法をみる。法をみるものは、縁起をみる」と申しますように、空と共に縁起も仏教の大切な要諦であると言えるでしょう。

特に空の理解においては、縁起もセットで理解することが望まれます。

ご参考までにて。

川口英俊 合掌

問い「魂は何になりたいのですか?」

問い「魂は何になりたいのですか?」

【ご質問内容】

人は何か自分が理想とするものになるために修行することが多いと思います。 
例えば、美容師になるため、寿司職人になるため、プロレスラーになるため、何年もの間、上の人について厳しい修行をすると思います。 
大したことしてなくても結婚するための花嫁修行というものもあります。

現世、人間の世界が苦しいのは魂の修行の場だと聞いたことがあります。 
しかもそれが輪廻転生で何回も続くなんて、魂は一体何になりたいのですか? 
しかも、何かになれたとしても人間として生きてる時にはそれを全く感じない。 
ダイエットですらきつい思いをした後には自分の理想とする体型を手に入れた喜びがあるだろうに。

ある企業のCMで「目的を知らずにレンガを積むのと、橋を作る目的でレンガを積むのとでは出来栄えが違う」というセリフを言ってます。 
目的がわからないのに現世で修行って無駄じゃないですか?


【拙回答】

目的は、悟り・涅槃

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

世間における人生や魂の目的というものは、幸せや豊かさ、楽というものになるでしょうか。

仏教での目的は、悟り・涅槃となりますでしょうかね。

そのために、智慧の開発と福徳(慈悲行・方便行・善徳行)の集積に励むのが仏道修行となります。

ただ、魂とは言っても、何か実体としてあるものではなく、「空」であって、他に依存して成り立っている「縁起」なるものとなります。

他に依存してとは、簡単には、因縁(原因と条件)に依って成り立っているというものとなります。

良い因縁に依れば、良い結果に、悪い因縁に依れば、悪い結果に、良くも悪くもない因縁に依れば、良くも悪くもない結果に、といった感じであります。もちろん、現実においては、その三要素を持った無数の因縁が複雑に絡んでくることにはなりますが。

とにかく、仏教の場合では、最終的な目標としての結果を悟り・涅槃であると考えて、そこへと向けて良い因縁をしっかりと調えて参りたいということになります。その良き因縁を調えるための教えが仏教となります。

是非、少しずつでも興味を持って仏教の修習に努めていって頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「人間は何のために、どこに向かうんですか?」

問い「人間は何のために、どこに向かうんですか?」

【ご質問内容】

人間は、生まれて死にます。それが子孫を残すことでずーっと何年も続いています。この先もいつまでかは分からないけど、続くんだろうなと思います。 
でも人間って、何のためにそれを繰り返してるんですか?みんな当たり前のようにそうやって、生まれて生きて、子孫を残して死んで、をただ繰り返してるけど、これって何のためにやってるんですか?

私が知りたいのは、ひとりの人が何のために生きるかということではなくて、人類全体として、何のために、どこに向かうのかということです。 
ずっとこのサイクルを繰り返して、いろんなものが発展して進化する、何か目的があるんですか?目的があるとしたら、何でしょうか。 無いとしたら、何のために存在するんですか。ゴールはなんですか?あるんですか? お坊さんの考えを教えてください。

生きることが嫌になったとかそういうのではなくて、単純に知りたいんです。あと、いま私は19歳なんですが、小学生の頃からずっと考えてます。人にこの話をすると、考えたこと無いし興味無い。言ってる意味がわからない、別に知りたいと思わない、とか言われます。なんで人はみんな、自分もこのサイクルに参加してるのに、このことを疑問に思わないんですか?不思議です。私がおかしいんですか…


【拙回答】

無始無終の輪廻を打ち破る時が来たのです。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

私たちは、この無始無終の輪廻において、無明の闇路を長い間にわたり、漂い続けて参りました。

その疑問に気づかれたのであれば、いよいよ、無明(根本的な無知)を晴らすために仏道に出発する時が来たのです。有り難し。

人間だけでなく、全ての衆生(地球の有情たちだけでなく、この宇宙、全ての宇宙の有情たち、地獄や餓鬼の有情たちなど、全ての有情たち)の輪廻(迷い苦しみの繰り返し)を終わらすために、悟りを目指すのだという尊い菩提心を起こして、是非、仏教を修習して参りましょう。

仏教の目的・ゴールは、全ての衆生の悟り・涅槃です。

共に頑張って仏道を歩んで参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「仏教の理解と学び方」

問い「仏教の理解と学び方」

【ご質問内容】

初めて、お便りさせて頂きます。

最近、仏教の教えを知り教えを学ぼうと考えています。 
現状の仏教の理解や考え方の方向性が正しいのか確認をさせて 
下さい。

現在、深刻な悩みはなく本件のご相談は、急ぎではありません 
ので悩みごとのご相談の皆様を優先させて下さい。

■現状の理解内容(超要約して記載します) 
1)仏教の目的:涅槃(解脱)に至ること。幸せを説くこと。 
2)涅槃(解脱)への到達の方法として「四聖諦」があり、日々の 
 実践として「八正道」がある。 
3)最初に苦諦の理解の為に、無常・無我、因縁を理解することが必要 
 以下は、私の解釈した定義です。 
 無常:この世の全ては移り変わるもの 
 無我:全ては繋がりの中で変化している現象である 
 因縁:原因+条件(環境等)があって結果がある

4)今後の方向性(考え方や実践内容)について 
・目的: 
  日々の生活や仕事で、怒りなく、平穏で周りの役立つ人生を送る 
・行動や思考の指針 
 日常生活では、八正道、慈悲喜捨、五戒などを意識し、正しい判断 
 基準で行動する。 
・貪瞋痴に支配されない為の手段として、ヴィパッサナー冥想があり 
 今の瞬間に気付けるようにする。これにより、無常・無我、因縁が 
 頭でなく、身体で理解(体験・体感)できるようになる。 
 常に、今の瞬間の自分に気付くようにし、正見・正念・正定の向上 
 を図ることにより、煩悩が湧いてこないようにする。

以上の認識や方向性で、大きな誤りや重大な認識漏れがないか、 
ご指導を頂けましたら幸いです。


【拙回答】

少しでも今後の参照として

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教を真摯に学ばれておられますこと、誠に尊く有り難いことでございます。

少しでも今後の参照として、お役に立てて頂けましたら幸いに存じます。

1)仏教の目的:涅槃(解脱)に至ること。幸せを説くこと。

涅槃にはいくつか種類がごさいますが、ただ自分だけが「解脱」することには留まらず、全ての迷い苦しみにある衆生を救うまでは涅槃に住さないという「無住処涅槃」もございます。できましたら、そのような境地としての涅槃を目指して精進致して参りたいものでございます。

仏教の説く幸せは、世間世俗における幸せとは全く異なっていますので、その点は注意が必要です。あえて申すならば涅槃・悟りという「勝義の幸せ」と言えますでしょうか。ですので、世間での幸せ、例えば、お金や地位や名誉、権力など、そのようなものを求める教えではないということになります。

2)涅槃への到達の方法として「四聖諦」があり、日々の実践として「八正道」がある。

「四聖諦」は、まさに仏教の要諦。この四聖諦を基として釈尊の「八万四千の法門」、「対機説法」、「善巧方便」もあるのだとお考え頂けましたらと存じます。

八正道(中道)は、三十七道品における一つの指標的な行いとなります。但し、この「正しい」には、非常に世間的、抽象的な意味合いもあり、実際に進めて行く際には、何が真に勝義的に「正しい」のかを、慎重に吟味しながら進めていく必要がございます。その見極めのためにも「智慧」の開発による「中道」の確立が絶対に欠かせないものになります。

3)最初に苦諦の理解の為に、無常・無我、因縁を理解することが必要 
 以下は、私の解釈した定義です。 
 無常:この世の全ては移り変わるもの 
 無我:全ては繋がりの中で変化している現象である 
 因縁:原因+条件(環境等)があって結果がある

「無我」については、「空」と「縁起」も併せて理解することも必要となるでしょう。般若心経における「色即是空 空即是色」の内容など。

「因縁」については、厳密に分析していけば、では、どれが原因で、どれが条件であるのかを特定させることが実はできないため(原因にも条件にも実体が無い)、その点は注意が必要となります。

制限字数の関係上、ここまでにて失礼致します。

川口英俊 合掌

問い「どうすれば楽になれますか」

問い「どうすれば楽になれますか」

【ご質問内容】

2回目の質問になります…。ジ病にかかり治るという事はないようです。 
ですが、死ぬ事もない。 
このしんどい身体で生きていくしかない…地獄です。 
幼少期に親に捨てられ、自分一人でも食べていけるようにと資格をとり、やりがいのある仕事につきました。その後、心臓♿🏥で3回の手術。障害をかかえても向き合って生きてきました。そして今度は治る事のない難病。 
私は刑事事件の被害者になった事もあります。 
犯人は「証拠不十分で不起訴」になりました。 
その人間が幸せに家庭を持ち何事もなかったかのように平和に暮らしている。 
何故、そんな人間がのうのうと暮らしていて、私がこんなにも重い岩を背負わなければいけないのでしょうか。嘘をついて力の強い人間が笑って生きている。 
岩が重すぎて…楽になる方法ばかり考えてしまいます。人はいずれ亡くなります。ならば、この先何十年も苦しんで生きていく必要はないのでは…と。 
頑張っても報われない、治らないものなら。 
気力体力限界です。 
死にたくないのに亡くなる人がいる。しんどいだけで、ただ生きている。 
どちらも地獄です。 
💊😷🏥この病気は治らないそうです。ならば楽になるにはどうしたらよいのでしょう…。

【拙回答】

楽は楽でも究極的な涅槃という楽を目指しましょう。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「楽になるには・・」・・

残念ながら、「一切行苦」のこの世界、八苦(生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、 求不得苦、五蘊盛苦)することからは容易に逃れられない以上、楽になることは正直、厳しいと言わざるを得ません・・

かといって、死後において、楽になるのかと言えば・・

死後における赴きにおいて、最も重要となる因縁(原因と条件)は、やはりその者自身の行い(業・カルマ)次第となるため、悪い行いを慎んで、より善き行いをしっかり積んでおかないと、その赴きは厳しいものとなってしまいます・・

しかし、仏教の目指す「楽」となれば、「悟り・涅槃」として、一切の迷い苦しみが滅された境地となります。

その境地へと向けた歩みが進めていけるようにとして、仏道修行がございます。

是非、これを機会に仏教を学び進めて頂けましたら有り難くに存じます。

もちろん、世俗世界的にも楽になっていくための教えもたくさんございますので、是非にも。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「ブッダの一番言いたかったこと」

問い「ブッダの一番言いたかったこと」

【ご質問内容】

知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・

ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)?

大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある)

菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。

【拙回答】

「不放逸なれ」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

釈尊は、最期の教えとして、「もろもろの事象は過ぎ去るもの(無常)である。怠ることなく修行を完成なさい。」とおっしゃられました。

「不放逸(ふほういつ)なれ」。

これが最期のお言葉であり、大切な釈尊のお言葉の一つと考えられます。

釈尊は、悟り・涅槃へと向けて、「善き巧みなる方便」により仏教を説示なさられました。

「対機説法」、「応病与薬」です。

もちろん、大乗仏教もその内に包摂されるものでございます。

しかし、大乗や他の分類云々は、あまり分けて考えられても意味のないことであると考えております。

とにかく、釈尊の教えの全てには、聖なる四つの真理、「四聖諦」が原理的に控えているとお考え下さい。

「・・仏教における教えの中でも、その要諦となるのが、何よりもお釈迦様が最初に教えを説かれた「初転法輪」の中での「四聖諦」であり、それは、例えば、私たちは、代表的に八苦する中にありますが、それらの苦しみには、その苦しみという結果へと至らしめている因縁(原因と条件)が必ずあって、苦しんでしまっているのであって、その苦しみをもたらしてしまっている因縁を何とか解決して、より良い結果へと向かわしめるための因縁へと変えていくことができれば、やがて、苦しみを滅することができ、更に、仏道の実践によって、悟り・涅槃へと至るための因縁もしっかりと調えていくことで、いずれ、悟り・涅槃へと至れることになるものであるとして、そのための方法論を、お釈迦様が、対機説法、善巧方便を駆使なさられてお説きになられたのであります。・・』

そのお教えを、それぞれに合った「カタチ(合うカタチも因縁(原因と条件)によって様々に変化していく)」にて、怠ることなく学び修することにより、しっかりと悟り・涅槃へと向かって参りたいものでございます。

菩薩は、智慧と福徳(功徳)の修行実践者のことであり、その中でも、特に、福徳を修習するのに重きをおいている者のような印象がありますが、皆、悟り・涅槃へと向けては、智慧と福徳(功徳)の修習に取り組むべきことになります。修行実践者の一つの「カタチ」として、それもあまり分けて考える必要もないかとは存じます。

「不放逸」にて仏道に取り組んで参りたいものでございます。共に頑張りましょう。

川口英俊 合掌

問い「生きたいと思うには?」

問い「生きたいと思うには?」

【ご質問内容】

はじめまして。お忙しいところ申し訳ありませんが、宜しくお願いします。

私は今まで生き急ぐ(死に急ぐ?)生き方をしてきました。

元々「生きたい」と思わず、 
「人生は思い通りにならないのが普通だ」とか、「みんな同じ、みんな大変」という言葉を耳にしてから、尚更生きたくなくなりました。

もしも人生というものが、細々とした幸せと大半の苦労でできているのならば、もうこれ以上、僅かな幸せの為だけに生きていたくありません。

何十年生きて、心からの幸せを感じたことがないことも拍車をかけています。 
「幸せは自分の心の中にある」と心の持ちようを変えても見ますが、幸せを感じる為に毎日あれこれ考えて、少し気力が出てきた頃に就寝時間がやってきて、朝起きると…また気持ちが沈んでいます。 
無理やり作った幸せは、心が納得していないようです。

頑張っても報われない。あと何十年もこれを繰り返さないといけないのかと思うと途方に暮れます。

「その人の為に生きたい」と思えるような人もいません。

やりたいことは、暇つぶし程度ならありますが、その為に生きたいとは思えません。

心理学の言葉をお借りすると、私の状態は「アダルト・チルドレン」の症状が最も近い気がします。

今回お聞きしたいのは、 
このような人間が心から「生きたい」と思えるようになるには、 
無理ではなく、心からの幸せを感じるにはどうしたらよいか 
ということです。

どうかご教授頂けないでしょうか。 
長文になり申し訳ありません。

【拙回答】

真なる幸せへと向けて

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

世間的な「幸せ」というものは、所詮のところ、儚いもので、無常で変わりゆくものであり、また、「求不得苦(ぐふとっく)」(求めても求めても満足できない、得ることができない)という苦しみに繋がってしまうものでもあります。

仏教では、そのような「世間的な幸せ」ではなく、「真なる幸せ」となる「悟り」・「涅槃」という境地を目指すこととなります。

『心から「生きたい」と思える』ためには、まず、「生きる」とはどういうことであるのかについて、考えてみることも大切となります。

私たちは、自分が自分で「生きている」という感覚を持ってしまいがちですが、そうではなくて、色々なものに助けられて、支えられて、生かされることで、何とか生きることができています。

「生きたい」と思うためには、他との様々な有り難く、尊い関係性についても考えることが必要になるかと存じます。

また、夢や希望や目標も、「生きたい」ということには必要かもしれませんが、世間的なものでは、満足できないことも、もちろん仏教の観点から十分に理解できるところでございます。

この際、世間の八法(利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)には、真なる幸せなどなく、仏教の目指すべき真なる幸せとしての「悟り」・「涅槃」というものへと向けて、仏教に関心をより強く持って頂きまして、仏法を学び修していかれることを、ご一考下さいましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「楽に生きるということ」

問い「楽に生きるということ」

【ご質問内容】

楽に生きると言うのはどういうことなのでしょうか? 
人間どうしても困難に立ち向かわなければなりません。

毎日がそんな状態では、楽に生きたいと思っても「なんて難しいことなんだろう」と思ってしまうのです。

楽に生きる考え方(?)、アドバイスよろしくお願いします。

【拙回答】

究極的な楽へと向けて

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

楽に生きたいと思っても「なんて難しいことなんだろう」・・

確かにその通りにて、なかなか楽に生きるということは難しくあります・・

「一切皆苦」(一切行苦)は、仏法の四法印の一つとしてございますが、「苦」とは、もちろん精神的・肉体的な色々な苦になりますが、その根本には、何も思うようにならないという「不満」(八苦の一つの求不得苦)にあると考えることができます。

その「不満」の原因は何かと申しますと、無明(根本的な無知)や煩悩、執着によるものとなります。

上記に挙げました内の「無明」が、煩悩や執着の親分にもなるのですが、この「無明」を対治していくことにより、モノ・コトの真理を見極めるための智慧(仏教的な賢さ)を付けていくことによって、その「不満」、そして「苦」にも適切に対処していくことができるようになって参ります。

そして、世間的な楽(世間的な満足事や享楽事、世間的な幸せなど)は、究極的な楽と仏教では考えません。仏教における究極的な楽とは、「悟り」・「涅槃」へと至ることと考えます。

ですので、できれば、これを機縁として、真なる楽・幸せと向けて、是非、これからもよりいっそうに仏教に興味を持って頂きまして、仏教を修習していって頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌
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