hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

空と縁起

問い「空(くう)」

問い「空(くう)」

【ご質問内容】

感情が無い、肉体、つまりただの「物質」になれという事とはまた違うのでしょうか?

【拙回答】

「空と縁起」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「空」は、【感情が無い、肉体、つまりただの「物質」になれという事とは】、もちろん違います。

「空」とは・・

深遠なる真実義、勝義、了義へと向かうための智慧の真髄。

無明の闇を払う智慧の光。

「空」とは、「無実体・無自性・無自相」という事態を示す概念となりますが、簡単には、モノ・コトが、それ自体の側において、永久永遠に変わらずに存在し続けているような独立自存なる何かによって成り立っているのかどうかと言えば、そういった独立自存なるものは、何らとして見当たらないということになります。

もう少し述べるならば、他に(例えば、原因や条件等に)依存せずに独立自存として成り立っているものが何らとして見当たらないということであり、他に依存して成り立っているということを「縁起」(えんぎ)と申します。

ここで注意しなければならないのは、「空」は、「何も無い」という「絶無・虚無」ではない、ということもしっかりと理解しておかなければいけません。

貴女も私も、現に今、このように存在しています。

感情も肉体も物質も、確かにそれらも、現に、今、そのように存在しています。ただ、存在はしていますが、そのありようは、あくまでも「縁起」によって成り立っている「空」なるもの、ということになります。

是非、この「空」の理解につきましては、できれば、これからしっかりと仏教を学んで頂きまして、特に、龍樹(ナーガールジュナ)大師がご教示なされておられますような『「縁起」の見解に基づいた「空」の理解について』の学びも深めていかれますことをお勧め申し上げたいと存じます。

※「縁起」の理解では、主に三つの階層が考えられ、第一に、「原因と条件と結果のそれぞれとの依存関係」、第二に「部分と全体との依存関係」、第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによっての依存関係」がございます。

川口英俊 合掌

問い「変化」

問い「変化」

【ご質問内容】

世の中は諸行無常とわかっていても変わりたくない、失いたくない、と変化をおそれ手放したくないとおもってしまいます。 
私はもともと心配性で人見知りなので特に環境の変化の大きい春や新学期はいつも気が重くなります。今年から大学生になり、また大きな変化があることに不安が抑えられません。考えたってなるようになる、と頭ではわかっているのですが漠然とした様々な不安が堂々巡りしてしまいます。 

私は弱くてさみしがり屋な人間なので1人でもいいや、って思えるほど強くありません。

あとはじめ会った時は緊張しすぎて借りてきた猫のように静かなので真面目で地味な人だと思われるのですが、仲良くなるとはじめと全然違うねと、たくさんの人にいわれます。 
私的には精一杯明るくいつも通りしてるつもりなのですがたぶん無愛想で声も小さくなかなか普段通りに話せません。 
どうしたらはじめからいつものように素を出して話せるのでしょうか。

【拙回答】

良きご縁を大切に

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「変化」・「無常」を受け入れられないお気持ち、誠にお察し致します。おそらく誰もが変化・無常に少なからず恐れや不安を抱いているのではないかと存じます。

この世のあらゆるモノ・コトというものは、全て、因縁(原因と条件)により、変化して無常であると、仏教では説明致します。

また、独立自存なるものというものはあり得ず、そのモノ・コト、それ自体で永久永遠に成り立っているものがないということを、「空」と仏教的には申します。

もちろん、「空」とは言っても、何もない「無」ではありません。

現に、私もあなたも確かに存在しています。目の前のモノ・コトもそうです。

但し、それらは、「縁起」によって成り立っているものとして、特には色々なモノ・コトに依存して、また、原因や条件によって成り立っている次第となります。

「不安」の原因というものは、何よりも、モノ・コトの正しい捉え方ができていないことから生じてしまっているため、難しいことですが、上記のように「空と縁起」を理解することにより、「不安」を取り除くために何をなすべきであるのか、ということも分かることとなります。

簡単には、変化する無常なるのはその通りではあるが、できるだけ良い変化へと向けるための良い因縁をしっかりと調えていけるようにしていく、ということになります。

それこそ、人は独りで生きていけるような存在ではなく、色々なモノ・コトに依存しなければなりません。助け合い、支え合い、分かち合いが大切となります。

そのためにも支え合う人、助け合う人との良いご縁も大切にしていくことが必要になります。

最初から素を出すことは、性格や状況にもよりますので、無理にまで出す必要はないかと思いますが、良いご縁を大切にしていくという気持ちにて接していくことで、あとは自然の流れに任せられると良いのではないかと存じます。

最初は、誰でも、何でも緊張するものだと思います。あまりお気になさられずに。

川口英俊 合掌

問い「「チベット仏教哲学」について」

問い「「チベット仏教哲学」について」
http://hasunoha.jp/questions/2520

【ご質問内容】

松本史朗氏は『チベット仏教哲学』に於いてツォンカパを称賛される一方で、
「縁起説を擁護するツォンカパでも、縁起よりも無自性を重視し過ぎてしまった事により、
論理的矛盾から逃れられなかった。」(意訳)
と仰っておられますが、果たしてツォンカパの論理的矛盾とはどういう物でしょうか?

【拙回答】

ツォンカパ大師「縁起賛」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

ツォンカパ大師には「縁起賛」という著作もございますが、「縁起賛」はツォンカパ大師の「縁起」に関する見解について、最も理解できる著作であり、そこから鑑みても、「縁起よりも無自性を重視し過ぎてしまった」と果たして言えるのかどうかというところが実はございます・・

「縁起賛」につきましては、下記の内容をご参照下さいませ。

「縁起賛」他
http://goo.gl/Fk8Hje

もちろん、ご質問の内容は、『チベット仏教哲学』松本史朗先生の第9章「ツォンカパ哲学の根本的立場」p287-320、第10章「ツォンカパと離辺中観説」p321-401の内容を指事されてのことであるかと存じます。

松本史朗先生が、「縁起説を擁護するツォンカパでも、縁起よりも無自性を重視し過ぎてしまった事により、論理的矛盾から逃れられなかった。」(ご質問者の意訳) と述べられておられますのは、『「空」(無実体・無自性・無自相)を指示するための空思想・中観思想が、実体論・実在論的なもの、あるいは如来蔵思想的なものへと転落してしまった』ということの論理的矛盾についておっしゃられようとされているのではないかと存じます。

この点は、色々と危惧すべきところがあり、あまりにも「空」を重視しすぎれば、「虚無・絶無」論へと転落してしまう可能性があり、「縁起」を重視しすぎれば、「実体・実在」論へと転落してしまう可能性があり、または、その逆も言えることで、「空」を重視しすぎて、「空」が「実体・実在」論へと転落してしまう、「縁起」を重視し過ぎて、「縁起」が「虚無・絶無」論へと転落してしまうこともあり得るだけに、気を付けなければならないものとなります。

とにかく比量における理解においては、「空」は「縁起」と同等のレベルにて捉えて理解すべきものとして、「空」→「縁起」と「縁起」→「空」と、互いに理解を相互補完すべきものであると存じております。

ツォンカパ大師が、「縁起よりも無自性を重視し過ぎてしまった」のかどうかにつきましては、まだまだツォンカパ大師の中観思想について拙学びの課題として意識して、安易に結論は出さずにおきたいと存じております。ご容赦の程を宜しくお願い申し上げます。

川口英俊 合掌

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問い「縁起とは」

問い「縁起とは」
http://hasunoha.jp/questions/2515

【ご質問内容】

あらゆる物は縁によって生起させられる故に「無自性」・「空」であり、
その縁起すらも恒久的に存在するのではなく「不生」「無自性」であると喝破し、
最終的には「空」の否定により戯論が寂静した境地こそが、涅槃・勝義諦であると云う事でしょうか?

ところで龍樹は「釈尊は不生不滅にして戯論寂静なる縁起をお説きになった。」と仰られておりますが、
「戯論寂静なる勝義こそが縁起」と云う事はあまり耳にしません。

これらの事について解説して頂いても宜しいでしょうか?

【拙回答】

「空」と「縁起」について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

悟り・涅槃・勝義諦というものは、確かに戯論寂静、離戯論の境地となりますが、『「空」の否定により戯論が寂静した境地こそが、涅槃・勝義諦である』では なくて、「空」という言葉が示すところ、意味するところにすらも、何らとして実体・自性・自相が無いということにおいて、要は『「空」すらも、もちろん 「空」である』ということとして、戯論寂静を目指していかなければならないということになるかと存じております。

『「戯論寂静なる勝義こそが縁起」と云う事はあまり耳にしません。』・・

「縁起」は、モノ・コトのありようを理解する上で大切な概念ではありますが、あくまでも世俗のモノ・コトのありようを措定的に示すために説かれるもの、「空」を理解するために説かれるものとして、「縁起」が「勝義」ということにはならないかと存じております。

また、「縁起」には、主に三つの理解として、第一に、「原因と条件と結果における依存関係」、第二に「部分と全体とにおける依存関係」、第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによるという依存関係」がございます。

「空」と「縁起」について、正しく理解することで、しっかりと悟り・涅槃・勝義を志向して参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

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問い「幸せになることと、真実を知るということ」

問い「幸せになることと、真実を知るということ」
http://hasunoha.jp/questions/2366

【ご質問内容】

真実を知る!ということと、幸せになれる!は必ずしも一致しないと思います。

何故なら幸せとは不幸せと裏表のような関係であり、どちらか一方のみでは成り立たないからです。毎日が幸せだとしたら、それは幸せではなく当たり前に。^_^

真実とはなにか、と言ったときに、それはあまりにも平凡で何も高尚なことはない、そのままの剥き出しのままのこと。。幸せとか不幸とかの判断もそこには介入しません。介入したとしても、それもまたよしですが。

真実を知ること=幸せになることだったら素晴らしいとは思いますが、イコールではないと私は思います。

これを綺麗すぎる言葉であたかもイコールしているかのように言ってしまうとスピリチュアルな探求へ陥ります。
(真実を知ることが愛であり究極の幸せだ、、みたいな)

そして別に衆生はそれ(真理)を求めていないと思います。
もっと、単純に、幸せになりたい。ただこれ一点かと。

そこのところ皆様はどのような視点をお持ちですか?

楽になりたいのなら沢山の手段があります。セラピーでもカウンセリングでもヒーリングでも。
思い込みを外すワークや、思考を客観視するワークなどなど。。
仏教はそういったアプローチも含んでいるように感じているのですが違いますか?

癒しと真理探求は逆のベクトルを指しているように感じたので疑問が湧きました。
どうぞよろしくお願いいたします(*^_^*)

【拙回答】

「最高真理=涅槃到達=最高の幸せ」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「幸せ」につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますが、基本的には、仏教の目指す「幸せ」と、世間世俗一般における「幸せ」とは、やはり異なるものであると考えております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/幸せ

「・・世間の八法(利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)に本当の幸せを見いだすことはできない、本当の幸せ、つまり、仏教における悟り・涅槃へと至ることが、真に幸せとなるために必要であるとして、そのための道を釈尊はお説きになられた次第でございます。・・」

究極の幸せとは、何かということを、世間の幸せ、不幸せと相対して考えてしまうと、確かに答えは難しいものになってしまうかと存じます。

では、仏教の考えている究極の幸せとは何かと申しますと、「ニルヴァーナ」の状態、つまり、「涅槃」となります。

「ニルヴァーナ」の原意が、「吹き消す」、「吹き消した状態」として、「寂静」、「寂滅」と訳されることもありますが、迷い苦しみ、あるいは、煩悩、無明(根本的無知)が完全に滅した状態のことを言います。

その涅槃へと到達するためには、やはり、真実、真理を悟ることが必要条件になると考えております。

そのため、「(最高の)真実を知ること=(究極の)幸せになること」という「幸せ」は、仏教の場合、「涅槃に至ったこと」として、やはり、イコールと考えられるのではないかと存じます。

もう少し「真実、真理を悟る」ということについて説明するならば、仏教の場合、「空」を十全に悟るということになるのではないかと存じております。また、「空」の正しい理解へと向けては、「縁起」の理解も必要となります。「空と縁起」の正しい理解へと向けた智慧と共に、福徳(功徳)をも円満に集積することで、真なる幸せとなる、涅槃へと向けて、是非、共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

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問い「アドヴァイタと仏教の相違点について」

問い「アドヴァイタと仏教の相違点について」
http://hasunoha.jp/questions/2297

【ご質問内容】

最近になってアドヴァイタという言葉を知りました。不二一元論とも言われるそうですが、「論」として語られることに違和感を感じました。
何故なら、アドヴァイタで語られることは言葉を超えており、さらには教えでもないし、思想などでもなく、シンプルな事実の描写だと認識しているからです。アドヴァイタとは思想の分野なのですか?
よく知りもしないで言っていますので間違っているところがありましたらご指摘お願い致します。

さて、質問なのですが、そのアドヴァイタと仏教には、根本的に異なるところがあるのでしょうか?
私が思うに、アドヴァイタはどこの宗教にも属さない、スピリチュアルとも違う、全ての存在に共通して開かれた秘密だと思っています。

「秘密」と述べたのは、「自我」には見つけられない性質を持っているからです。
けれども明らかすぎる秘密なので、隠れていません。あまりに近いので見えない、という意味です。
的はずれな質問でしたら申し訳ございません。
よろしくお願いいたします。

【拙回答】

「空と縁起」について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「アドヴァイタで語られることは言葉を超えており・・」・・

確かに不二、非二、アドヴァイタというものは、分別(二元)を超えているところのこと(無分別)になるため、分別(当然に分別を伴う言語表現)で語られることは難しいものとなります。

「アドヴァイタと仏教には、根本的に異なるところ・・」・・

上記の続きから、その言語表現を超えたところを志向する言葉・表現が、実は仏典、あるいはその論書などには多くございます。しかし、その志向する先が、ヒンドゥー教ヴェーダーンタ学派のような不二一元論、あるいは、梵我一如思想、真我思想となると、やはり異なるものとなります。

その決定的な違いとしては、仏教では「空と縁起」の考え方があるところになるのではないかと存じます。

「「秘密」と述べたのは、「自我」には見つけられない性質を持っている・・/・・けれども明らかすぎる秘密なので、隠れていません。あまりに近いので見えない・・」・・

このことは、まさに仏教に「空」の理解のことにも通じるところがございます。

「空と縁起」につきましては、これまでにも下記の各問いにて少しく扱わせて頂いておりますが、とにかく、文字や文章だけでの理解ではどうしても及ばないところもございます。真に了解していくためには、できる限り実践となる修行・修養も並行して進めてみることが必要となります。

例えば、富士山に登ったことのない者に、富士(不二)山は、こうだ、ああだと説明しても、イメージで理解するにも限界があり、やはり、本物の富士(不二)山に登ってみて、実地に体感してみないと、本当のその真なる姿形は分かり得ないというところでございます。実際に、有未様の体験なされた不二の境地も、まあそのようなものでありますでしょう。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/空と縁起

とにかく焦らずに共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

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問い「夢だったことを諦めること」

問い「夢だったことを諦めること」
http://hasunoha.jp/questions/1600

【ご質問内容】

今やっている仕事を、やめようと思っています。

いくつかお訊ねしたいです。

まず、夢を諦めることは、負けや逃げなのでしょうか。
後悔するかどうかを見極める基準は、どこかにあるのでしょうか。あるとしたら、何でしょうか。

次に、私は、夢だったはずの今の業界に、夢だったポジションに身を起きながら(3年契約ですが)、今や完全に興味とやりがいを失ってしまっています。この道における自分の将来性も。
追い求めていたはずの夢が、急に姿を消してしまったような感じです。
こんなことがあるのでしょうか?
ただの逃げでしょうか。
やる気ややりがいがなくなることは人間ありますから、一時の気の迷いだと思って今まで奮い立たせてきましたが、ここ1年だけみても、1週間以上そんな気持ちが続くことがもう何度もあります。
自分のプライドが、今やっていることを「夢」だと信じ込ませている感じがしています。

また、自分の本当の願いを知る方法はありますか。

漠然として曖昧な質問で申し訳ありません。
よろしくお願いします。

【拙回答】

一切は「如幻」・「如夢」である

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「夢」や「理想」にしても、「実際」や「現実」にしても、「実現」という「結果」のためには、因縁(原因と条件)が必ず必要となります。

何事においても「結果」へと向けた「因縁」というものがあって、その中で、自分の思い通りの結果となっていれば、それはそれで自分の「夢」として叶うこと、叶ったとなり、満足できるのでしょうが、しかし、いつまでも思い通りの因縁を調えられて、思い通りの結果を継続し続けることは、実はかなり難しいものがございます。

特に、欲や渇愛、執着などによる煩悩、あるいは無明(根本的な無知)により、「現実」という結果が受け入れられなくなればなるほどに、不満やストレスを抱えて苦しむことになってしまいかねなくなります。

また、因縁に関して、自分だけで調えられることには、かなりの限界がございます。そのため、周りの多くの皆様による支えや助け、励まし等、周りの環境・状況も相当に必要となり、また左右されることになります。

何事も多くの支えや助けがなければ成り立たないことを仏教的には「縁起」と言いますが、それは端的に述べますと、全てのモノ・コトは、他に依存することによって成り立っているということになります。

仕事を辞めるにせよ、夢を諦めるにせよ、後悔するかどうかにせよ、独り善がりとならず、自己満足に陥らず、一度、ご自身の周りの現状を冷静になって見られて、周りによるこれまでの支えや助け、そして、それらへの配慮、感謝や報恩の思い等も勘案した上で、ご自身の思われる結果へと向けた因縁が、ご自身の状態と周りの状態からもそれなりに調えられそうであるとなれば、継続されてみられる、もし調えられそうでないならば、少し周りとの関係を再構築されてみられる、その中で辞める、諦める、勇退するというのも選択肢としてはあり得て良いのではないだろうかと存じます。

最後に、「追い求めていたはずの夢が、急に姿を消してしまったような感じです」・・このことは、ある意味で真実です。一切は「如幻」・「如夢」であると仏教において表現することがございます。

この理解のためには、仏教における「空」と「縁起」の教えをある程度学ぶことが必要となります。また是非ご興味がございましたら仏教を学び進めて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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問い「無分別をどう生かしたらいいのか」

問い「無分別をどう生かしたらいいのか」
http://hasunoha.jp/questions/1262

【ご質問内容】

分別をしない無分別で見た世界こそがあるべきままの世界の姿だと教わりました。

ああその通りだなと思うのですが。

分別をはさまずに無分別だと生活すらできません。
この無分別の知恵を生活に生かすにはどうしたらよいでしょうか?

【拙回答】

「無分別(空)と分別(縁起)」を活かす中道が大切

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「分別をしない無分別で見た世界こそがあるべきままの世界の姿」・・ということですが、確かにこの世界におけるあらゆるモノ・コトというものは、本来的には何ら分別ができないものでございます。

なぜかと申しますと、それらモノ・コトというものには、本来的に、本質的に、実体の無い、つまり、「空」なるものであるからでございます。

実体が無いため、分別するすべがないという方が、正解なのかもしれません。

但し、間違ってはいけないのが、実体が無い、空だからと言っても、何もないという虚無、絶無では決してありません。

現実に拙生やzensyu様も、あるいは目の前にあるモノ・コトたちも、現に存在して、成立しています。

ただ、確かに存在し、成立していても、その有り様の本質は、無実体、無自性、無自相であり、空であるということになります。

更には、一切のモノ・コトは「縁起」※によって成立していると仏教では説明することになります。

この「空と縁起」なる理解を進めることを実際の現実生活、修行、仏道に活かしていくことが求められるものとなります。

「分別をはさまずに無分別だと生活すらできません」・・これは当たり前のことです。何でもかんでも無分別であるとして、正誤も善悪も無いと間違って理解し て、例えば、願誉浄史様も既に出しておられる例でございますが、赤信号も青信号も関係ない、無分別だとして、目の前の信号が赤信号であっても関係ないとし て交差点に突っ込んで見てください。どうでしょうか。最悪車にぶつかって死にますでしょう。これではタダの愚か者です。くれぐれも試さないで下さいね (笑)

「無分別(空)と分別(縁起)」を活かすというのは、一つは迷い苦しみの原因となる、とらわれやかたより、こだわりを無くしながら生きていく、つまり、「中道」のためであるとお考えを頂けましたら良いのではないだろうかと存じております。

※「縁起」の理解では、主に三つの階層が考えられ、第一に、「原因・条件と結果との依存関係」、第二に「部分と全体との依存関係」、第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによるという依存関係」がございます。

川口英俊 合掌

hasunohaのご質問で、このzensyu様のご質問はこれまでにも結構本質を突いてこられる内容であるだけに、拙生もご回答させて頂けること、誠に有り難しでございます。

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問い「死について、考え過ぎて毎日が暗いです」

問い「死について、考え過ぎて毎日が暗いです」
http://hasunoha.jp/questions/1204

【ご質問内容】

はじめまして。私は、先日高校生になったばかりの者です
最近、ISやシリア内紛の残酷な話を見たりしていて、ふと親が居なくなってしまったら、とか考えてしまうようになりました。
そうすると、どうにも毎日いろいろしてもらっていることとか全てが虚しく、悲しいように思えてしまうようになりました。
子どもでいられなくなることが怖いし、いつまで一緒に旅行とかに行けるのかとかこわくてたまらなくなります
また、家を空けることが多いため、寂しくなるね、とか言われると申し訳なくなります。
最近、エスカレートしてきて友達などを見ても、いつかは皆居なくなってしまう時が来るし、自分もそうなる時が来るなどつらつら考えがいってしまうのです。
考えること自体が失礼なことなんだなと思ったりして、最近明るくなれないです

【拙回答】

「不死」の境地を目指して

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

いずれ誰もが避けられない「死」ということについて、お考えになられておられまして、少し悲観的、虚無的なところに陥られてしまわれているのではないかとお察し申し上げます・・

「死」については、誰もが生きている中で、必ずどこかで考えることでございます。もちろん、拙生もそうでございます。

ただ、日常の喧騒、忙しさ、目の前のことやあるいは享楽事などにて紛らわしながら、騙し騙しに避けつつ、または隠そうとして過ごしてしまっているのではないかと存じております。

しかし、それが戦争や災害による多数の死、また身内の死など、少し身近に死が感じられた時、自ずとまた自分の死について意識して考えることとなります。実は今年に入って拙生の身内が二人亡くなりました・・その際に、改めて拙生も死について真摯に真剣に考える機会を持たせて頂きました・・

「死」につきましては、これまでにも下記の各問いでもお答えさせて頂いております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_319030.html

『・・死への恐怖の乗り越え方につきましては、仏教における「空と縁起」ということの理解が大きな要諦になるのではないかとは存じております・・』

仏教ではよく悟りの境地を表す際に、「不死」の境地とか、「不生」の境地、「不生不滅」の境地などという言葉が出て参ります。

これらの境地は、まさに死への恐怖や不安、あるいは生への恐怖や不安を超えたところを意味しており、私たちもしっかりと仏教を学び修して、その境地へと至ることで、乗り越えることが求められるものとなります。

誠に難しいことではございますが、是非、これを機会に仏教につきまして学びを進めていって頂ける機縁となりましたら有り難くに存じております。

また、最近の下記問いの拙回答も是非ご参照下さいませ。

問い「寿命は自分で選べないのですか?」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1026358792.html

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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http://hasunoha.jp/users/16

問い「縁起について教えて下さい」

問い「縁起について教えて下さい」
http://hasunoha.jp/questions/1193

【ご質問内容】

仏教の縁起について教えて下さい。

【拙回答】

「縁起」をお説きになられましたお釈迦様に最敬礼申し上げます。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「縁起」という言葉を聞くだけで、誠に身の引き締まる思い、ある種の緊張感が走ります。

「縁起を見るものは法を見る。法をみるものは縁起を見る」「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る」と申しますように「縁起」の教えは「空」の教えと共に、まさに仏法の真髄の一つであり、しっかりと理解することが大切となります。

浅学の拙い未熟なる理解ではございますが、これまでにも「縁起」に関しまして、下記の各問いにて扱わせて頂いて参りました。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/縁起

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/空と縁起

最近では下記問いにても扱わせて頂いております。

問い「「空」とはどういう意味でしょうか?」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1020870815.html

「縁起」とは、この世における全てのモノ・コトの成り立っているありようを説明する上において、誠に欠かせない考え方となります。

また、「縁起」は「空」と表裏一体・不可分の理解が求められるものであり、「縁起」=「空」、「空」=「縁起」、つまり、「色即是空 空即是色」の理解が必要となります。

「縁起」には、主に三段階の理解として、第一に、「原因・条件・結果における依存関係」、第二に「部分と全体とにおける依存関係」、第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによるという依存関係」がございます。

そして、最終的には、あらゆるモノ・コトというものは、それ自体の側において、他に依存せずに独立自存として存在していない「無実体・無自性・無自相」という「空」の理解と共に、では、どのようなありようとして実際、現実に存在しているのかということにおける「縁起」を理解することが大切となります。

何とかしっかりと誤謬なく理解していけるように調えて参りたいものでございます。

改めまして深遠なる縁起の真実義をお説きになられましたお釈迦様に最敬礼申し上げます。

平成27年4月8日・釈尊降誕会によせて

川口英俊 合掌

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