hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

縁起

問い「霊魂の存在を否定されるお坊さまへのご質問」

問い「霊魂の存在を否定されるお坊さまへのご質問」

【ご質問内容】

 こんにちは。先日は私の拙い質問にご回答頂き、誠にありがとうございました。また、こちらで何度もご質問させて頂いておりますが、その度毎に丁寧なご回答を頂いておりまして、大変感謝しております。本日は、多少突っ込んだ質問になってしまいますが、自分の中でどうしても整理がつかない点があり、それを質問できるような場が他にありませんでしたので、この場を借りて質問させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

 こちらのサイトを拝見しておりますと、「霊は存在しない」と回答しておられるお坊さまが何人かいらっしゃいます。お坊さまの中でも意見が分かれる問題なのだと思いますが、私は霊魂の存在を信じており、また輪廻転生もあるのではないかと考えております。霊魂の存在を否定されるお坊さまは、霊感商法やカルト教団への対応など、現実的な対策の観点から、またお坊さま個人の世界認識から、そのような発言をされているのだと思います。しかし、素人の私から見ると「悟り」や「阿弥陀仏の救い」を前提としてお話をされているお坊さまが、「霊魂」の存在を否定されることが、どうしても理解できないのです。

 素人の私から見ると、「悟り」も「阿弥陀仏の救い」も、それが一体何であるのか分かりません。そのため、お坊さまが「悟り」や「阿弥陀仏の救い」をお話されることは、「霊魂」や「輪廻転生」のお話をされることと同じくらい荒唐無稽なもののように感じてしまうのです。唯物論者の方が霊魂の存在を否定されるのは理解できるのですが、お坊さまが否定されることは、私にはどうしても理解できません。霊魂の存在については、「分からない」とおっしゃることが最も妥当なのではないでしょうか。

 実際に、現代には様々な宗教がありますが「霊魂」や「輪廻転生」の存在などを説いている宗教も数多くあります。もし、お坊さまが霊魂は存在しないと考えておられるのであれば、それらの宗教についてはどう理解されているのでしょうか。

 このような突っ込んだ質問をして、誠に申し訳ありませんが、霊魂を否定されるお坊さまのお考えをどうしても伺いたいと思いました。ご回答頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。


【拙回答】

心相続

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

霊魂のことはこれまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いております。


問題は、霊魂というものも、何か実体的な、独立自存的な、永久永遠の不変的な何かを想像してしまうと、それは誤りとなります。つまり、霊魂も「空」なるものということになります。

「空」なるものといっても、じゃあ、何も無いのかと言うと、そうではないと拙生は考えております。

前世から今世へ、そして死後の来世へと続いていく、我々の普段あるような粗いレベルの意識ではない、心相続(心の連続体)、微細心というものが「縁起」的にあり得ていると考えております。

その心相続のありようを、できる限りより善いものとして、善い赴き、もちろん、悟りへと向かっていけるように仏様とのご縁、仏教とのご縁を大切に日々紡いで、悪い行いをなさずに、善い行いに努め励みて、心を浄らかに調えて参りたいものであると存じております。

共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「これが空病なんでしょうか?」

問い「これが空病なんでしょうか?」

【ご質問内容】

気付けば真昼間に歯磨きしてました。意識してない。 
ボーっとして、坐禅に身が入らない。 
目が浮いて、足元がふらついています。

只管を練るとはどうすればいいのか? 
感覚に生きるのが正解という事は分かったのです。 
悟りすら余計事という事が分かりました。空も思えば荷物です。 
何を思っても重しになる。悟りを捨てて木阿弥に戻ったと思っても、既に重し。

真理が空であろうとも、一時的に現生している縁起の世において、 
日常の悩み苦しみは、ついて回り、いかに空を日常に生かしていくかが大事で、勝義諦を日常である世俗に活かしていくかが大事と知りました。 
服、ご飯、PCも縁があってのもの、息吸うのも酸素が無いと、生きられません。 生活をホッポリ出せば観念遊戯に終わると思いました。

機縁が整ったのか、天狗になった私の前に、ネット上ですが川上雪担老師の、弟子という人物に会うことが出来て、話を数回交わしたら、スッカリ楽になったんですけど、ここから先が分からないのです。

一体何をしたらいいのでしょうか?


【拙回答】

智慧と福徳

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

空と縁起の理解は、仏教における智慧の要諦。

しかし、悟りへと至るためには、もう一つの資糧である福徳も欠かせないものとなります。

そして、正しい福徳の資糧は、正しい智慧に支えられてこそ、真なる資糧ともなり得ます。

智慧の正しさの確からしさが向上していけばいくほどに、その智慧に支えれた福徳の資糧の正しい確からしさも向上していくことになります。

是非、智慧の資糧と共に、福徳の資糧も向上、集積に努めて参りたいものとなります。

共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

問い「また一つ歳を取りました。」

問い「また一つ歳を取りました。」

【ご質問内容】

私ごとではありますが、先日誕生日を迎えました。

私はこのサイトを利用して、様々な質問をし、時にはお坊さんに対して、酷い態度を示してしまったりと、後悔もありますが、本当に救われました。 
回答してくださったすべてのお坊さんに感謝致します。

今は落ち着きを取り戻し、新たな恋人と一緒に暮らしていて、前の恋人とは友人関係として、なんとかやっています。

明日はアルバイトの面接に行き、また新たに新しい土地で、一から頑張ろうと思っています。

そこで、こんなあたしに一言お坊さんらしい教えといいますか、お言葉がほしいです。 
また、誕生日にふさわしいお言葉などもあれば、教えてください。

回答お願い致します。


【拙回答】

「あなたのことをお祝いしましょう」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

誕生日おめでとうございます。

前回のご質問にご回答させて頂きましてから、少し気にしておりましたよ。。

「あなたのことをお祝いしましょう。あなたである今日と明日のために。」

熊木杏里さん「誕生日」 

「誕生日」の歌詞に出て参ります「生きてきたようで、生かされている。そんな私であって、あなたである」は、まさに仏教の「縁起」の考え方そのもの。誕生日にふさわしい言葉でもございます。

「ありがとう。理由は何もないんだよ、あなたという人がここにいることでいいんだよ」

お幸せを祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「仏教徒に対する疑問パート7」

問い「仏教徒に対する疑問パート7」

【ご質問内容】

前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 
実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 
瞑想やってて気づいたんです 
瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて 
そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 
我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです 
その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 
瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです 
この繰り返し 
まるで息を吸って吐くように 
煩悩と悟りが交互でくるように 
蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら 
なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 
誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? 
そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ 
でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? 
こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 
因のわからない果の法則じゃないですか 
そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです 
この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? 
それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? 
とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです 
この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 
実という原因あっての結果の空なんですから 
その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね 
それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 
因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです 
だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと 
お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら 
そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して 
ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?


【拙回答】

ツォンカパ大師・中論註「正理の海」(正理大海)

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

因果の法は、どちらかと申しましたら、便宜的・方便的な教えとなり、「縁起」を考える一つの方法論に過ぎないところがございます。

しかし、正理知により考察するならば、因、縁、果というものも実体・自性・自相としては成り立っていない「空」なるものということになります。

一切は「空」であるものの、顕現を認識する主体の側における煩悩障・所知障により、色々と迷乱が生じてしまうところとなっております。

仏教を修習し、煩悩障・所知障を完全に対治、断滅することによって、やがて悟り・涅槃へと至れることとなります。

もし、ご興味がありましたらとなりますが、前回も述べさせて頂きました龍樹大師「根本中頌」(中論)の内容を読解されていかれましたら、色々とご疑問のことについても、有為に学び得られるところがあるのではないだろうかと存じます。

そして、その「根本中頌」に関しましては、色々な注釈書がございますが、その中でも特にお勧めは、ツォンカパ大師・中論註「正理の海」(正理大海)でございます。

また、可能でしたら、チャンドラキールティ大師「入中論」も併せて読解されるのも良いかもしれません。

川口英俊 合掌

問い「空間的縁起と論理的縁起の違いとは?」

問い「空間的縁起と論理的縁起の違いとは?」

【ご質問内容】

どちらも相依相関を示す縁起の筈ですが、私には両者を区別する根拠が理解出来ません。 
空間的な因果関係を示すのが空間的縁起であり、論理的な相依相関の関係を示すのが論理的縁起ということでしょうか?

また、龍樹の論理的縁起と華厳の法界縁起の最たる違いは何なのでしょうか?


【拙回答】

「縁起」について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

もう7年前の論考になってしまいますが、下記拙考におきまして、「空間的縁起と論理的縁起」につきまして述べさせて頂いております。


また、「法界縁起」に関することにつきましては、下記の中にて扱わせて頂いております。


その中で、「法界縁起」に関しましては、「・・改めまして世俗諦と勝義諦の二諦からまとめますと、時間的縁起・空間的縁起・論理的縁起が世俗諦としての扱いの縁起として、如来・悟りの勝義諦的なところから観た縁起が、華厳思想の「重重無尽の縁起」と言えるのではないかと考えます。・・」と述べさせて頂いております。

上記それぞれは、もうかなり古い内容ですので、色々と修正したいところもありますが、現在における正直な拙見解と致しまして、時間的・空間的・論理的縁起のいずれにせよ、「縁起」については、「実体・自性・自相」による成立の否定についての意義、「空」の理解へと向けてと共に、もう一つは、世俗世界における存在のありようの理解についての意義、つまり、存在の顕現についての私たちの認識のありようについての理解へと向けたものとして把捉していくのが妥当になるのではないかと存じます。

華厳経の説いている「法界縁起」については、上記のように、如来・悟りによる勝義諦的なところから顕現をみた場合における(表現できない世界についてのできる限りの表現的な)表現による世界観であると考えております。つまり、我々の考えている「縁起」とは次元の異なるものになるのではないだろうかと存じております。

川口英俊 合掌

問い「生きる意義」

問い「生きる意義」

【ご質問内容】

私は生きる意義が分かりません。 
生きる事はただ同じことの繰り返しで、ゆっくり朽ちていくように感じます。 
生きている心地がありません。この状態が続くのであれば、早く死んだ方がマシです。 
ですから教えて下さい。 
生きる意義とは何ですか? 
宜しくお願いします。


【拙回答】

全ては縁起し空である。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

生きる意義、意味、理由、価値・・

これらは、因縁(原因と条件)により成り立っているものです。

良い因縁によれば、良いものに、悪い因縁によれば、悪いものに、更に言えば、つまるところ、その意義・意味・理由・価値を判断する思考・概念作用によって成り立つものとなります。

様々なモノ、コトは、他に依って成り立っているだけで、実体・自性として、そのもの自体の側で独立自存としては成り立っているものではなく、色々な依存しているものによって変化していくものとなります。

全てのモノ・コトがそうなります。

生きることもそうです。同じ繰り返しなど全くなく、色々な因縁によって皆、刻々と変化しているはずです。

上記のことを仏教的にまとめると、「全ては、縁起し空である」ということになります。

とにかく、今よりも生きる良い意義を見い出したいのであれば、良い因縁に努めて、良い結果を出して、良い認識判断をすることが必要となります。

「因縁無くして結果無し」です。良き因縁に努めて参りましょう。

また、仏教にはそのヒントが多くございますので、これを機会に仏教の修習も少しずつ進めていって頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「お金は空  とは…」

問い「お金は空  とは…」

【ご質問内容】

 何気なく立ち読った本屋で帯に<お金は空>と衝撃的?!なタイトルに思わず手に取り拝読しました。昔から金の切れ目は縁の切れ目と離婚や相続などでお金は人を狂わせるのかなぁ、でも生きてくためのツールだし今は分相応?身の丈にあった生活をしてると思っていました。だけれど ふ と親の医療費、子どもの学費と、お金があればもっと余裕を持って(セカンドオピニオンや奨学金に頼らなく)してあげられる事もあるし悩み事も減るんじゃないかと思ってみたり。お金もまた煩悩の一つなのかなと。宝くじは楽しみに購入してます。年末、師走は何かとお金に振り回され生活しています お金は空とは…腑に落ちなく質問となりました。 hasunohaでお金のことを問うのは失礼になるかと思いますが…


【拙回答】

お金も縁起し空である。

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「お金は空」と本の帯に書いてあったとのこと・・

本の中身の詳しい内容は分かりませんが、おそらくは、「お金へのとらわれ、執着を捨てるように」という意味合いがあるのかなと想像できます。

お金はもちろん大切です。生きていくために、生活するために、社会活動を営むために必要なものです。

お金というものも、色々な「因縁」(原因や条件)によって、その「価値」・「信用」が与えられているものであり、因縁次第によって、その「価値」・「信用」も変化していくものとなります。

つまり、実体として、変わらない、固定したものではなく、因縁次第で刻々と変動していくものであり、それに対して、あたかも変動しないものであるかのように、価値や信用を与えて、とらわれ、執着を起こすのは、よろしくないことですよ、という内容になるのではないだろうかと存じます。

もちろん、「空」だからといっても、何も無い、虚無というわけではなくて、あくまでも「固定的な、独立自存としての実体が無い」ということであって、実体は無くても、因縁により、お金に価値や信用があって、有効に社会で流通・使用されている以上は、当然に、私たちにおいても、必要で大切なものには変わりありません。

お金も、生きていくために、生活するために、社会活動を営むために、しっかりと有効に活用して参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

問い「固定と流動について」

問い「固定と流動について」

【ご質問内容】

自性として「固定」や「流動」が存在しないと、龍樹風に説明するとどうなるのでしょうか?

【拙回答】

「空と縁起」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

全てのモノ・コトというものは、「空」を了解できていない我々凡夫においては、まるであたかも自性があるかの如くに顕れているものの、その本質は、自性・実体・自相としての成立では無い、「空」であります。

「固定」や「流動」として表されるようなモノ・コトにおいても、当然に、その本質は、自性・実体・自相としての成立では無い、「空」であるということになります。

但し、もちろん、「空」だからと言っても、何も無いのではなくて、一応は「縁起」的には成立しているというものとなります。

言葉・概念でさえも、もちろん、「空」であり、「縁起」的なものとなります。

川口英俊 合掌

問い「一時的な常住とは?」

問い「一時的な常住とは?」

【ご質問内容】

チベット仏教について調べておりますが、「一時的な常住」という言葉のがどうしてもよくわかりません。 
ツオンカパによると常住とは「それ自体が消滅しないこと」だそうですが、これは一体どういう意味でしょうか? 
一見永遠の実体を肯定しているようにも見えますが・・・。

また、「常住な物には未来(未だ生起していない状態)も現在(現に生起している状態)も過去(既に消滅した状態)もない、非時間的(dus bral)な存在である」、というのはどういう意味でしょうか?

【拙回答】

「ゲルク派における時間論の研究」(平楽寺書店)の精読のお勧め

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙生は、まだ入手できておらず未読なのですが、根本裕史先生の「ゲルク派における時間論の研究」(平楽寺書店)には、おそらくそのあたりに関する詳しい解説があるのではないだろうかと存じます。

あとは、ツォンカパ大師の高弟・タルマリンチェン大師の「中論の難解だが重要な八つの点についてのツォンカパの講義の備忘録、ジェリンポチェのお言葉の通りに作ったもの」の中に、確か、業の効力に関することについての言及があったのではないかと存じます。
 
ご質問におけるところにおいては、やはり自性の徹底した否定としての「空」と共に、世俗的なありようとして一応は成立している「縁起」の理解が重要になってくるのではないだろうかとは存じます。

拙生も「ゲルク派における時間論の研究」(平楽寺書店)の入手を試みまして、精読することができましたら、また回答補足をさせて頂けることもあるかと存じます。

川口英俊 合掌

問い「世俗諦と僧侶の立場について」

問い「世俗諦と僧侶の立場について」

【ご質問内容】

死刑制度に関し、瀬戸内さんは反対の立場で、 
「殺したがるバカどもと戦って下さい」と発言し 
ていました。 
後に被害者感情を鑑み、謝罪はしていますが。

僧侶という立場を前提で、違和感を感じました。 
・世俗的なことについて、どちらか一方の立場に 
 たつことは僧侶として、普通なことなのでしょうか。 
・上記発言自体が、怒り(瞋)ではないのですか

世俗のことは、民主的な手続きで決まったことです 
から、世俗に任せればと感じました。

確かに、仏教でも「不殺生戒」はあり、その意味では 
理解できます。 
また、これまでも冤罪もありましたので、その意味 
でも、死刑反対は理解できます。

世俗的なものごとは、ある立場、ある目線を前提に 
議論されることですから、普遍性もないし真理でも 
ないと思います。

僧侶という立場、仏教の教えとは、衆生の悩み・苦しみ 
などの煩悩をなくす為のものと考えていました。 
その意味で、世俗諦と僧侶の立場についての見解を 
お聞かせください。


【拙回答】

世俗諦は、勝義諦へ至るためには当然に依拠すべきもの

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

過日の日弁連のシンポジウムにおける瀬戸内寂聴さんの発言におけることでは、下記のご質問においても拙回答させて頂きました。

問い「死刑制度で質問です。」 http://hasunoha.jp/questions/12483

最後のところで、「仏教の場合では、「業」(カルマ)の問題を考えて、死刑制度を容認している場合は、それが悪業となるものであると悪意有過失(知りつつ不注意にて是正せずに放置している)であれば、自らの悪業となる恐れも否めないというところがございます。」と述べさせて頂いたものの、回答字数制限の関係上、中途半端になってしまっておりました・・

正直なところ、上記の意図が瀬戸内寂聴さんの発言の中においてあったのかどうかは分かりませんが、あの発言では、説明不足過ぎると共に、言い回しの悪さ、軽々さがあったのではないだろうかと存じます。謝罪をなされましたので、非はお認めになられておられるようですが・・

・世俗的なことについて、どちらか一方の立場にたつことは僧侶として、普通なことなのでしょうか。

確かに勝義諦としては、「空」であり、何らとして実体の無いところに依り立つことはできないのですが、かといって、世俗世界で生きている以上は、当然に縁起的に成り立っている世俗のモノ・コトには従わざるを得ないところがごさいます。

例えば、赤信号、青信号も「空」であり、何も実体として成り立っていない、依り立つことができないとして、赤信号の交差点に突っ込んでいけば、最悪、事故で死んでしまいます。世俗で生きている以上は、世俗のモノ・コトの分別にも従わないといけないところがあるのは仕方のないものとなります。

・発言自体が、怒り(瞋)ではないのですか

正直、あの発言は政治的思想背景もあってのことでしょう・・真なる智慧・慈悲による救いへ向けた怒りであれば、不動明王様の怒りにも通じるところとなりますが・・あれでは感情的な煩悩による怒りと捉えられても仕方がないものであるかと存じます・・

「世俗諦と僧侶の立場」・・龍樹大師が根本中頌でも述べられておられますように、世俗諦は、勝義諦へ至るためには当然に依拠すべきものとなります。「月を指す指」として、しっかりと理解をしていく必要があると存じております。

川口英俊 合掌
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