hasunoha 川口英俊

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス http://hasunoha.jp/ 川口英俊回答のまとめ集

龍樹

問い「仏教徒に対する疑問パート8」

問い「仏教徒に対する疑問パート8」

【ご質問内容】

前にウィトゲンシュタインの形而上学の話をしたお坊様がいて 
その人が形而上学の世界を考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってるといってましたが 
そのウィトゲンシュタインの形而上学の話でさえ形而上学から来た考えじゃないですよね? 
だからその考えが必ずしも正しいとは思わないんですがもしもそれが正しいなら 
悟りは考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってる・・・ 
それなら菩提樹で瞑想して悟りへ行けるのも間違ってるんじゃないですか 
お釈迦様が怪しくないですか? 
自殺大国日本を救うような奇跡を見せたりすればなんとなく信じれるんですが 
都合よく無記って言葉で片付けて良いなら どんなカルト宗教も成立しますよね 
わざわざアビダンマや大乗や密教やらが一貫性のない色んな経典使って 
色んな山の麓からアプローチして悟り目指す必要もない 
最終的には無記なんですもん わかんないですもん  
ウィトゲンシュタインの話しが正しいなら 
形而上学の世界は考えるのも言葉にするのも探すのも色んな経典で計るのも悟りが存在することも間違ってませんか?そもそもそんなもの無いのでは・・・ 
有るんだったら誰が作ったんですか?人間から神様になったお釈迦様ですか?それともこの世の最初から有った原因のわからない結果ですか?それとも過去仏ですか?やはり無記ですか・・・ 
本当に悟りを開いてる人がいたら今のこの戦争や犯罪や自殺が蔓延する 
ナイトメアストリートダンジョンな世界を救ってると思うんですけどね


【拙回答】

お勧め本「ウィトゲンシュタインから龍樹へ―私説『中論』」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

これまでお勧めさせて頂いております龍樹大師の「根本中頌」(中論)の読解を、改めてお勧め致しますが、ウィトゲンシュタインの話題も出ておりますので、丁度良いお勧めの本がございます。

10年以上前に刊行されている著書となりますが、

「ウィトゲンシュタインから龍樹へ―私説『中論』」黒崎宏氏著・哲学書房がございます。

龍樹大師「根本中頌」の読解に本格的に取り組む導入としても誠に良いかと存じますので、是非にも。

そして、最終的には、ツォンカパ大師によります中論註釈書である「正理の海」(正理大海)の読解へと繋げて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

問い「仏教徒に対する疑問パート6」

問い「仏教徒に対する疑問パート6」

【ご質問内容】

では回答率99.9パーセントのお坊様に質問です 
前回の質問の答えに大慈様が言われた内容ですが 
仏教では世界の始まりは「わからない」、「無始」、「無記」であると 
これって原因である始まりを無視して結果であるこの世界だけを見てる 
因を無視した果の法則ですよね 
そして「蕎麦のレシピばかり論じる(原因)蕎麦がのびる(結果)とっとと食え(対策)」 
「頭の中でこねくりまわすから(原因)迷いが続く(結果)頭の中でこねくりまわすのを止めましょう(対策)」 
この対策こそが瞑想で悟りを開くことですよね 
お釈迦様は生まれた時から瞑想すれば悟りを開けるなんて知らないですよね 
ではお釈迦様に瞑想を教えた人は誰ですか?そしてその人にも教えたのは?そしてその人にも教えたのは? 
仏教→バラモン→ヒンドゥー→ゾロアスターと土着信仰の融合→メソポタミア 
こうやってどんどんどん突き止めると悟りを開く瞑想を教えたのは因を無視した果の法則ですよ 
因を無視した果の法則が悟りの瞑想法を作り因果関係のシルクロードを渡って我々に瞑想を教えたというのに 
瞑想で悟りを開けばこの因果関係や因を無視した果の法則からも解脱できるってぶっ飛びすぎてないですか 
悟りの境地の空間ですら先に因を無視した果の法則が始まる前から終わった状態での結果として作られたと思うんです 
そうすると煩悩と悟りは最初から二つの性質が同時に存在する量子力学みたいに共存してると思うんですが? 
あと諸行無常の教えで全てのものは変化するなら 
善業も悟りも幸せも形を変えただけの煩悩ではないんですか? 
涅槃の境地で夜に眠り煩悩で朝に起きて  
涅槃の境地で瞑想してて煩悩で仕事行かなきゃいけなくて 
涅槃の境地のお釈迦様は煩悩の梵天に娑婆の世界行かされた様に 
悟りと煩悩は共存してると思うんです もしくは形を変えただけか 
良文様が言われたヴィトゲンシュタイン様の形而上学的な疑問は言葉で説明できないという話 
最初から量子力学としてある言葉に出来る世界と言葉に出来ない世界 
その言葉に出来ない世界のような概念のないような形而上学の世界に神ならまだしも人間がいけると思いますか? 
たった6年の修行で・・・この6と言う数字・・・666 
お釈迦様が実はフリーメーソンのメンバーで仏教をある理由で作ったとか思ったことないですか? 
物事を理屈で考えさせない政治的プロパガンダのためとか


【拙回答】

龍樹大師「根本中頌」(中論)読解の勧め

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

因縁果、因果の法というものにおいて、本来、因にも縁にも果にも、実体・自性・自相としての成立はありません。

もしかすると、因や縁や果というものが、それぞれあたかも実体としてあるかのようなとらわれを起こされてしまわれている可能性がございます。

そこで、是非、お勧め致したいのが、龍樹大師の「根本中頌」(中論)となります。

第一章から、因縁をどのように観ていくべきであるのかについても説かれております。

是非、学ばれて理解を進められてみて下さいませ。

川口英俊 合掌

問い「固定と流動について」

問い「固定と流動について」

【ご質問内容】

自性として「固定」や「流動」が存在しないと、龍樹風に説明するとどうなるのでしょうか?

【拙回答】

「空と縁起」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

全てのモノ・コトというものは、「空」を了解できていない我々凡夫においては、まるであたかも自性があるかの如くに顕れているものの、その本質は、自性・実体・自相としての成立では無い、「空」であります。

「固定」や「流動」として表されるようなモノ・コトにおいても、当然に、その本質は、自性・実体・自相としての成立では無い、「空」であるということになります。

但し、もちろん、「空」だからと言っても、何も無いのではなくて、一応は「縁起」的には成立しているというものとなります。

言葉・概念でさえも、もちろん、「空」であり、「縁起」的なものとなります。

川口英俊 合掌

問い「諸行無常について」

問い「諸行無常について」

【ご質問内容】

よく仏教の教えとして「全ては諸行無常であり、変化しない物はない」と言いますが、これについて少し疑問に思う所があります。 
 
たとえば仏教の中道では相対概念の一方に囚われる考えを執着として否定しますが、 「変化する」という概念も「変化しない」の相対概念ですから、 変化しないものを全面的に否定する「全ては変化する」という考えも執着とは言えないでしょうか?

また、これらの言葉を「固定・流動」と置き換えて、龍樹の論理に当て嵌めて解説して頂いても構いませんでしょうか?

【拙回答】

二諦の理解が必要

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「諸行無常」については、世俗諦的な教えであると理解してます。

「全てのモノ・コトは、因縁によりて変化していく」という意味合いとなります。

しかし、本来は因縁(原因と条件)にも実体はなく、「空」なるものであって、どの因も縁も、あるいは果も、固定して言及しようのないものであるため、一応は、言語慣習に依拠して、措定して方便的に述べられている教えであると「諸行無常」も理解するのが妥当であるものだと考えています。

ですから、当然に、「変化する」、「変化しない」、「流動」、「固定」とも、それらが仏教において言われていることも、それぞれ方便的な意味合いで用いられている場合があるため、その概念に対してとらわれて、執着することも、本来はできないもので、また、「諸行無常」のみならず、仏教の教えにおいては、便宜的、方便的な教えに留まらざるを得ないという限界が、どうしても付き回ることにはなってしまいます。

その限界の先を何とかして言葉、論理によって指向しよう、超えていこうとして論究なさられていったのが、龍樹大師をはじめとした中観派の論師たちとなります。

特には、「二諦」(世俗諦と勝義諦)の理解が大切となります。

川口英俊 合掌

問い「仏教における勉学」

問い「仏教における勉学」

【ご質問内容】

ご閲覧頂きありがとうございます。

仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 
中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。

誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。

ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。

仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。

【拙回答】

向こう岸(悟り・涅槃)に渡れば、捨て去る筏のようなもの

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教から見た「学問を勉強すること」について、でございますが、もちろん、例え仏教であっても、この世俗世間で生きていくためには、学問の勉強も当然に必要で大切なことになります。

ある程度、モノ・コトの分別、世俗的常識、生きていくための知識、仕事のための知識なども付けていかなければ、社会生活はとても営めるものでありません。その点は、仏教であろうがなかろうが、この世界で実際に生きて生活している以上は当たり前のことになり、疎かにできないものとなります。

しかし、仏教の最高真理としての「勝義諦」としては、学問も、学識も、知識も、分別も、これら全ては実体としては成り立っていない「空」なるものであって、そこにとらわれて、執着することはできないものとなります。

もちろん、それらにとらわれて、執着することはできないにしても、世俗世間で生きていくためには、完全に捨て去ることはやはりできません。しかしながら、あくまでも、それらは依存関係、縁起によって成り立っているものに過ぎないということを理解していくことが求められるものとなります。

仏教の目的とする悟り・涅槃へと向けて、学問も、学識も、知識も、分別も、もちろん必要で、悟り・涅槃という向こう岸へ渡るためにも必要ですが、渡り終われば捨て去る筏のようなものであるという感じでございます。

そのあたりのことの理解へ向けては、是非、興味がございましたら、龍樹大師の「中論」も学び進められて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

問い「世俗諦と僧侶の立場について」

問い「世俗諦と僧侶の立場について」

【ご質問内容】

死刑制度に関し、瀬戸内さんは反対の立場で、 
「殺したがるバカどもと戦って下さい」と発言し 
ていました。 
後に被害者感情を鑑み、謝罪はしていますが。

僧侶という立場を前提で、違和感を感じました。 
・世俗的なことについて、どちらか一方の立場に 
 たつことは僧侶として、普通なことなのでしょうか。 
・上記発言自体が、怒り(瞋)ではないのですか

世俗のことは、民主的な手続きで決まったことです 
から、世俗に任せればと感じました。

確かに、仏教でも「不殺生戒」はあり、その意味では 
理解できます。 
また、これまでも冤罪もありましたので、その意味 
でも、死刑反対は理解できます。

世俗的なものごとは、ある立場、ある目線を前提に 
議論されることですから、普遍性もないし真理でも 
ないと思います。

僧侶という立場、仏教の教えとは、衆生の悩み・苦しみ 
などの煩悩をなくす為のものと考えていました。 
その意味で、世俗諦と僧侶の立場についての見解を 
お聞かせください。


【拙回答】

世俗諦は、勝義諦へ至るためには当然に依拠すべきもの

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

過日の日弁連のシンポジウムにおける瀬戸内寂聴さんの発言におけることでは、下記のご質問においても拙回答させて頂きました。

問い「死刑制度で質問です。」 http://hasunoha.jp/questions/12483

最後のところで、「仏教の場合では、「業」(カルマ)の問題を考えて、死刑制度を容認している場合は、それが悪業となるものであると悪意有過失(知りつつ不注意にて是正せずに放置している)であれば、自らの悪業となる恐れも否めないというところがございます。」と述べさせて頂いたものの、回答字数制限の関係上、中途半端になってしまっておりました・・

正直なところ、上記の意図が瀬戸内寂聴さんの発言の中においてあったのかどうかは分かりませんが、あの発言では、説明不足過ぎると共に、言い回しの悪さ、軽々さがあったのではないだろうかと存じます。謝罪をなされましたので、非はお認めになられておられるようですが・・

・世俗的なことについて、どちらか一方の立場にたつことは僧侶として、普通なことなのでしょうか。

確かに勝義諦としては、「空」であり、何らとして実体の無いところに依り立つことはできないのですが、かといって、世俗世界で生きている以上は、当然に縁起的に成り立っている世俗のモノ・コトには従わざるを得ないところがごさいます。

例えば、赤信号、青信号も「空」であり、何も実体として成り立っていない、依り立つことができないとして、赤信号の交差点に突っ込んでいけば、最悪、事故で死んでしまいます。世俗で生きている以上は、世俗のモノ・コトの分別にも従わないといけないところがあるのは仕方のないものとなります。

・発言自体が、怒り(瞋)ではないのですか

正直、あの発言は政治的思想背景もあってのことでしょう・・真なる智慧・慈悲による救いへ向けた怒りであれば、不動明王様の怒りにも通じるところとなりますが・・あれでは感情的な煩悩による怒りと捉えられても仕方がないものであるかと存じます・・

「世俗諦と僧侶の立場」・・龍樹大師が根本中頌でも述べられておられますように、世俗諦は、勝義諦へ至るためには当然に依拠すべきものとなります。「月を指す指」として、しっかりと理解をしていく必要があると存じております。

川口英俊 合掌

問い「過去に執着したくない」

問い「過去に執着したくない」

【ご質問内容】

ネットで宗教の議論をしました。 
議論の相手は、頭を丸めていて、仏教系の大学にいたと自称し、自分が僧侶であることをほのめかしていたのですが、本当は違うらしくよくわかりません。

最初は、その人は別の方と白熱した議論をしていて、その僧侶風の人が間違った情報を述べていたので、責めるつもりもなく単純に指摘しました。

その後僕とその人で議論になりましたが、最終的に罵倒合戦になってしまいました。その人には「馬鹿しか生まれてこないと分かっているのにお前を産んだ親は間違っている」とまで言われました。しかし僕も相手の挑発に乗り無礼な言葉を使ってしまったので反省しております。

僕以外にもその人に暴言を吐かれた人が複数いて、その中の一人にこの人間と話していてもいいことはないからやめよう、そしてあなたの考えを僕は支持する、ということを述べお互い意気投合しもう議論を放り出しました。

しかし、後日その僧侶風の人との議論を読み返すと、相手の発言が事実と違うものでした。個人の見解を述べるものではなく、情報、知識レベルの議論だったので相手が間違っていると確信しました。しかもその人間の発言自体が矛盾しており、故意にデタラメを言っているとすら思いました。相手は議論より勝ち負けにこだわっていると発言しており、自分としては嘘までつかれて悲しいです。

議論は全く納得に値せず、無力感や自己嫌悪を覚えました。

宗教的立場を自称する人間にかなり厳しい発言をされたことは僕にとって衝撃的な体験となりました。

それ以来この出来事を忘れようとしているのに度々フラッシュバックしてしまいます。その原因はきっと、自尊心を傷つけられたことにあると思います。

また宗教にたいして、怖いという印象をもつようになってしまいました。これはどうしてなのかわかりません。きっと自分はかなり混乱しているんだと思います。

とても苦しいです。どうしたら宗教に対する嫌悪感を払拭し、フラッシュバックしないようになるでしょうか。

トラウマのようなものに対して、これ以外にも困惑するようなことがあります。 
どうしたら精神的な安定が得られるでしょうか。

よろしくお願いします。


【拙回答】

「宗論はどちら負けても釈迦の恥」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「宗論はどちら負けても釈迦の恥」と昔から申しますように、仏教は論争の勝ち負けを争うようなそんなものではなく、いかに各々自身が悟りへと向けて、お釈迦様の説き示された教えを自分の確かなる仏道に活かし、取り組んでいくべきかが大切となります。

もちろん、仏教において「論理学」は重視されてはいます。正しい認識による正しい判断ができなければ、正しい仏道を歩むことができないからであります。

でも、その論理学の問答においても、相手のことを思い遣っての慈悲の心が伴ったものになるべきであるのが、お互いに仏教を修習していく者同士のあり方でなければならないものであるかと存じております。

ただ、知識や弁論に長けているだけでは、決して悟りへは至れません。智慧だけでは悟りへと至れないのと同じで、必ず方便、福徳の実践が必要となります。

知識、弁論に通じた者であれば、それを活かして慈悲の心により、思い遣り、配慮を持って、相手のことを考えて、間違いを諭してこその方便・福徳の実践となるものであり、勝ち負け云々と言って、高慢、傲慢になっているようでは、とても仏教を修習している者とは言えないところでございます。

いずれにしても、仏教でなくても、宗教的立場を自認するのであれば、愛や慈悲がなければ、その資格はありません。

気にせずに、というのも難しいかもしれませんが、愛や慈悲の無いような議論には、もちろん納得される必要もありませんし、今後乗らないようになさられて下さいませ。

そして、少しずつでもトラウマも払拭していけるように、仏教の修習の中において、無駄な論争、戯論の扱いについての優れた方策を示されておられます龍樹大師の著書の内容(中論、廻じょう論「じょうは、言べんに争い」、空七十論など)についても是非、学ばれてみて下さいませ。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

問い「仏教の教えと座禅」

問い「仏教の教えと座禅」

【ご質問内容】

心が強くなれそうと言う単純な理由で、座禅を始めました。

始めて見たら、座禅より、仏教の教えを勉強する方が、心のささえになるのではと思うようになり、座禅の意味が良く判らなくなりました。

座禅は、仏教の教えのひとつなのか?

仏教の教えと、座禅は、同列でどちらも仏教の修行なのか?

座禅で悟りを開いたものが、仏教の教えも理解出来るようになるのか?

仏教の教えを理解したものが、座禅で悟りを開けるのか?

初歩的な質問で凝縮ですが、教えて頂けますでしょうか?


【拙回答】

禅定も全体のバランスの中での一つの修行

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

龍樹(ナーガールジュナ)大師が、そのご著書「宝行王正論」にて、六波羅蜜の、布施・持戒を「利他」、忍辱・精進を「自利」として、そして、禅定・智慧を「解脱」に分類されておられ、このうち、坐禅(瞑想)は、禅定のカテゴリーに入り、坐禅(瞑想)も悟りへと向けた一つの修習として大切なものとなりますが、悟りへ向けては、それだけでは不十分であり、自利と利他の円満な修習、そして最終的な悟りへの智慧も必要なものとなります。

どうしても釈尊がお悟りを開かれた際における菩提樹下における最後の禅定・坐禅(瞑想)のイメージが強いため、禅定・坐禅(瞑想)をことさらに重視してしまうところがありますが、それまでの自利・利他の下地があってというところも、しっかりと理解しておきたいところとなります。

また、禅定・坐禅(瞑想)の中では、何も思わない、何も考えない、という「無想無念」、「無思無観」の「無分別知」こそが悟りだとする極端、偏見となる誤った主張も散見されることがありますので、それは注意が必要となります。

とにかく、智慧と福徳(方便)の円満な成就へと向けて、禅定もしっかりと全体のバランスの中での一つとして修習致して参りたいという感じでございます。

川口英俊 合掌

問い「大乗仏教と般若心経の空」

問い「大乗仏教と般若心経の空」

【ご質問内容】

大乗仏教の在り方と般若心経の空の境地は矛盾していませんか? 
救済される信仰(救うものとしての菩薩・仏などの存在)と、一元の世界との矛盾で混乱しています。

【拙回答】

「二諦」について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教では、確かにあらゆる全てのモノ・コトは「空」であると説かれますが、但し、「空」ではあるものの、「縁起」として、「救済する側(如来)」も「救済される側(衆生)」も正しく成立するということになります。

仏教では「二つの真理」について扱うことになります。

この「二つの真理」について、しっかりと理解していないと、仏教を学び進めていく中において、色々と誤解や偏見を生じさせてしまいかねないため、誠に注意が必要となります。

それは、「二諦(たい)」としての「勝義諦」と「世俗諦」のことで、前者は「空」という最高真理についてのことを扱い、後者は、世俗真理として成立している事態についてのことを扱います。

「二諦」を理解する上では、「空」と共に「縁起」※についても学ぶ必要がございます。

また、「縁起」の理解に基づいた「空」の見解について、特に、龍樹(ナーガールジュナ)大師における「中論」や「六十頌如理論」、または、「宝行王正論」からの学びもお勧めさせて頂きたいと存じます。

「般若心経」のことにつきましては、これまでにも下記の各問いの拙回答にて少しく扱わせて頂いておりますので、ご参考下さいませ。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/般若心経

「空と縁起」については、下記の各拙回答の内容をご参照下さいませ。


※縁起については、いくつかのレベルがあり、例えば、「原因と条件と結果のそれぞれとの依存関係」、あるいは、「部分と全体との依存関係」、更には、私たちの「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによっての依存関係」として、大きく三つに分類されることになります。

ご理解のお役に少しでもなりましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌

問い「目の前の出来事に集中できるようになりたい」

問い「目の前の出来事に集中できるようになりたい」

【ご質問内容】

こちらで何度もご相談させていただいております。 
いつも、私の我儘な話を聞いてくださって心から感謝しております。

こちらで色々なご意見や仏教のお話を聞きながら、自分と向き合おうと思い、自分なりにですが、色々と考えてきました。

その中で、ふと「自分の人生って、もしかしたら片道切符しかない列車に乗っている状態で、もう過去にも戻れず、ただ終着駅(死)に向かって、走り続けているだけなのかな?」と思うようになりました。

現実的なお話ではないので、少々恥ずかしい話なのですが・・・。良いことも嫌なことも、列車から見える景色としてみれば、すーっと過ぎ去ってしまう。 
そして、その窓から見える景色も、実はもう見ることができない景色なのではないかと思ったとき、自分の中で心が、何故かとても落ち着き(人生を諦めたとか、死にたいとかいう思い出はなく)自分の中でずっと引っかかっていた、大きい何かがゴロンと取れたような、スッキリした気持ちになり、涙が出そうなぐらい気持ちが軽くなりました。 
また同時に「自分は今まで、どれだけ勿体ない生き方をしてきたのだろう」とも思うようになりました。

自分があまりにも過去の景色を「もう一度、見たい」と囚われてしまい「今、自分の目の前のことに全然向けていなかったこと」に気付いたのですが、それでも「過去の景色をもう一度見たい」と過去にとらわれてしまいそうで、とても不安な気持ちになってしまいます。

忘れないようにメモ帳や、携帯のメモ機能に書いて 
いつでも見られるようにはしているのですが、どうにも不安でたまりません。

私はもう、過去にとらわれずに「いま、ここ」に集中できるようになりたいです。「いま、ここ」に集中できるようにするためには、日々の生活の中で、どのような事をすれば宜しいでしょうか?

また、このような考え方をしてしまう私は、少々おかしいのでしょうか?

とても支離滅裂で分かりにくいご相談をしてしまい、大変申し訳ございませんでした。どうぞ宜しくお願いいたします。

【拙回答】

時間論について

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

実は、未来も、過去も、そして現在も、実体としては存在しえていないものであると、仏教では考えることになります。

龍樹大師「中論」・第19章「時間の考察」(『龍樹』中村元先生訳参照) 
「もしも現在と未来とが過去に依存しているのであれば、現在と未来とは過去の時のうちに存するであろう。もしもまた現在と未来とがそこ(過去)のうちに存しないならば、現在と未来とはどうしてそれ(過去)に依存して存するであろうか。さらに過去に依存しなければ、両者(現在と未来)の成立することはありえない。それ故に現在の時と未来の時とは存在しない。これによって順次に、残りの二つの時間(現在と未来)、さらに上・下・中など、多数性などを解すべきである。・・以下略」

過去があるとして囚われている自分も、あるいは、未来があるとして囚われている自分も、また、現在があるとして囚われている自分も、本来はあり得ないということなのですが、ただ、確かに貴女も私も存在はしています。しかし、存在はしていても、難しいことになりますが、「縁起的(因縁)なる一瞬一瞬の連続体」として、ということになります。

もちろん、過去がなければ、今の自分はあり得ません。更に今の自分が無ければ、未来の自分も可能性としては有り得ないことになります。過去と現在の自分は明らかに繋がっている、また、現在の自分は未来の自分とも繋がっていくものと言えるので、異なってはいないのだけれども、もちろん同じとも言えません。このことを「不一不異」と申しますが、これも理解は難しいかもしれません・・

ただ、仏教的に言えるのは、より良い因縁を調えていくことで、より良い結果としての連続体をつむいでいきたいということになります。もう既に過ぎ去ったどうにもならないことは、どうにもできませんが、過去におけることを活かすことによって、一瞬一瞬の連続体へと良い影響を与えて、良い因縁を調えるための材料にしていくことはできるということであります。

過去を活かせるようにと心掛けてみることと共に、時間論の本質についての理解を深めて頂くことで、時間を実体視してしまう囚われから離れることができるのではないだろうかと存じます。

川口英俊 合掌

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