2009年10月01日

78ae4312.jpg日米和親条約締結を指揮した
鳩ケ谷藩主・阿部正次の12代の後裔
幕閣の老中首座・阿部正弘


 弘化2年(1845)水野忠邦の後を受けて、最年少の27歳で幕閣の老中首座(現在の総理大臣)となる。

 この頃、徳川幕府の国法として鎖国の時代であったが、世界の強豪国家は清国を侵略し、その勢いをかって日本に開国を迫っていた騒擾の時代で、嘉永6年(1853)アメリカのペリーは東インド艦隊を率いて浦賀に来航し、大統領の親書を幕府に提出、同年7月にはロシア海軍のプチャーチン提督が長崎に来航し、強硬に開国を迫ったが、正弘はこれらを拒絶する。
 だが翌年の安政2年(1854)3月3日には米国との和親条約を締結する。

 そして翌安政2年(1855)には、条約成立を快く思わない井伊家を筆頭とする諸大名との融和を図って、佐倉藩主・堀田備中守正篤を老中に復して老中首座に推挙して、正弘は老中をそのまま続けたが、安政四年(1857)6月17日過激な心労がたたったのか満39歳の若さで帰らぬ人となった。


長い間紙面を汚してきました「儀右衛門のむかし話」は、今回で終了となりました。ご拝読有難うございました。


hatomame04 at 08:11 

2009年09月01日

a02e274e.jpgいまは昔になりますが、太平洋戦争の終わりごろには、わが田舎町にもアメリカのB29と言う大型の爆撃機が編隊を組んでゆうゆうと飛んで来て、空襲警報の最初の一回目には近所の飛行場から二枚羽の練習機(赤とんぼとも云う)1機が編隊に向かっていったが、自機の機関銃の射程圏に入る前にきりもみ状に落ちたり、高射砲も抵抗し何発かは撃ったが届かなかったりで、抵抗したのはそれ一度だけでした。まるで巨象に向かう蟻のようで実に無念でもあった。

その頃は、勤労奉仕の明け暮れでしたが、8月15日を境にして学校に戻るが先生も何を教えていいのか?分からないのか、アルファベットを「エー」「ビー」・・・・と、大きな声で読ませる日々が続いた。

そのころ近村で青年団主催の演芸会が大はやりとなり、即席の舞台を作り「♪影か柳か勘太郎さんか…」や当時流行りの歌に合わせてその村の若い衆が舞台で歌ったり、踊ったりの熱演も、見物席では「ちょうちん持ち」(男女の仲を取り持つ人)が大忙し、終演の前にコンビを作りあげて、帰途には家まで送るのが決まりであった。月夜の晩はいいが、当時のこととて街灯もない夜道を腹を空かせた即席コンビに何ができたのだろうか?。あの頃の可愛い娘さんは今ではもう腰も曲がっているかもしれないね。
画像は「おわら風の盆」


hatomame04 at 11:22 

2009年08月01日

8195c507.jpg大坂夏の陣の戦いに阿部家の家臣団が自らの命を風塵にたとえて攻めまくり、嫡男の正澄(時に17歳)を亡くし、味方の手負い、討ち死にも数多くあったが、正次の家臣の打ち取る首は35級。組下の坪内五郎佐衛門他が取る首は雑兵分も含めて45級。のち秀忠公御帰陣以後この戦いの軍功の御穿鑿があり、徳川家の旗本の面々は正次の隊が一番と証した。

(写真は徳川家の大阪城)

さて、大坂城内は戦う人もなくなり、徳川の面々は井伊直孝、阿部正次、高木正成を再前線に配し秀頼公の籠居する糒蔵(ほしいぐら)を取り囲む。この時、秀頼公の御使として京極備前、今木源佐衛門、別所孫兵衛が参りて、前将軍の伝として秀頼公の助命を願い出る。だが、家康公からは秀頼公を早々に生害あるべきとの談も伝えてくる。直孝、正次、正成が密談して「秀頼の助命は、後日のためにならず」と決断し、四方より鉄砲を撃ち掛けると、昨夜より四方に焼き草を多く積んで焔硝を撒いて置いたので、即時に火の手が上がる。



こうなると、秀頼公は太閤殿下お譲りの薬研藤四郎の刀を持ってお切腹になり、氏家正次が骨ばみの御太刀にて御介錯仕る。この時23歳。

御母堂の淀殿も御自害なされ、速水甲斐守介錯す。従う家臣28人が同所で自害する。



そのあと、土蔵に火を掛け自殺したのは唯一人の殉死者・七蔵なり。と記されていた。

『阿部家御家伝記』(「鶴寶文庫」)藤田家資料より


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2009年07月01日

0c41a3ef.jpg 正勝の遺言を聞き届けて呉れた家康が、次男忠吉に6000石を分与し分家を許された。その子正秋は寛永三年(1626)徳川秀忠の一字を拝領して忠秋とし、徳川家光の御側に本家・阿部重次と共にいた。
     (写真は復元した忍城)
 先代の松平信綱の後を受けて1639年壬生藩から忍藩に転封し、徳川家の誕生の地・新田庄をも守り、いつも知恵伊豆と言われた松平信綱と比べられる賢人で、四聖人の一人でもあった。そんな忠秋のエピソードを拾ってみた。

 『寛明日記』にはこんな事が記されていた。正保二年十月、三代将軍家光が鎌倉河岸へ鴨狩に出かけた。家光は鴨を飛び立たせるために、小石を投げるように命じたが、手ごろな石が見つからず、魚屋から蛤を取り寄せ、小石の代わりにした。
 翌日、この顛末を聞いた松平信綱は「上様のお役に立った魚屋は、幸せ者で、蛤の代金を取らせることはあるまい」と言った。
 しかし、同席していた忠秋は、「上様のお役に立ったのは名誉には違いないが、商人はわずかな稼ぎで家族を養っている。上様のなさったことで町人に損失を与えたのでは御政道の名折れでもある」と反論し、代金を支払わせたという。

 また、ある寺の住職が他国への寺替えを命じられたが,頑として受け入れないために、松平信綱と二人で説得に出かけた。最初に信綱が理路整然と理由を述べ説得したが、住職はますます反発して「他の方のほうが適任で」と断るので、「どうしても行きたくないのか?」と言うと、「お咎めを受けても行きません」と答えるだけ、「では、咎めとして寺替えを命ずる」と忠秋が言うと、住職は「知恵伊豆様より豊後様(阿部忠秋)のほうが上手ですね(知恵がある)」と笑いながら寺替えを受け入れたという。

 鳩ケ谷から大多喜・小田原・岩槻〜福山の阿部本家と、壬生藩から忍藩・白河藩の阿部分家が譜代の家臣として、江戸幕府の終焉まで続く基礎を作り上げたのが、正次、忠秋の伯父甥だったと言っても言い過ぎにはならないと思う。


hatomame04 at 17:06 

2009年05月30日

0152bbbf.jpg 前号までの、鳩ケ谷領主・阿部正勝は小田原の後北条攻めに、豊臣傘下の家康軍団の執事(家老格)を務め、天正18年(1590)家康江戸入府のおりお供して鳩ヶ谷5000石の領地を得る。その後、従五位下を叙せられる。

 が、この頃の家康は豊臣秀吉の家臣で、秀吉の朝鮮討伐(文禄の役)から、慶長の役などの戦いに参加し、秀吉の病気、慶長三年(1598)には死と続いて、その天下取りの渦中に徳川家の執権としての重職は、正勝を鳩ケ谷に留まることを許さなかったのか?、其の足跡は鳩ケ谷には残っていない。

 その後、慶長三年(1598)、大坂西御丸の御留守居となり、執権(家臣では最高の位置の人)の列に加わり、慶長四年三月家康の供で前田利家邸に行く。
 その後正勝病気となり、家康公は上使として御側衆の村越義助を遣わし「末期の望みは」と問いかけに、「ほかに望みはございません」と答える。

慶長五年(1600)四月七日、大阪城内において亡くなる。享年60歳。京都法恩寺に葬る。その後、明和二年(1765)四月七日※丸山中屋敷山内に御宮・勇鷹神社を造営し、御神号を「武耀聖権現」と称、毎年御神事を行う。(※は上図)

 そして、正次・鳩ケ谷一万石の藩主へ

 阿部氏は後代には徳川家の五大名の一つに数えられる名家となったが、その土台を築いたのが鳩ケ谷藩一万石の藩主となった阿部正次で、戦いにも民生にも秀でた才覚の持ち主だったことが知れる。
(来月号は鳩ケ谷藩主時代のお話です)。


hatomame04 at 16:28 

2009年05月01日

457c4057.jpg 徳千代が、弘治2年(1556)に15歳になり、竹千代君より先に御前(竹千代・家康)の前で元服をして善九郎正勝と変わるも、家康とともに駿府(静岡)にて人質時代を共にしていました。※元服(げんぷく)=男子の成人の祝い
(写真は駿府城)
 この頃、竹千代 (家康)、徳千代 (正勝)の主従は、家康の父・広忠の約束を守って、今川義元の駿府城近くの人質屋敷にて人質時代を送って居た。この時代の正勝は昼夜をとわず竹千代君の御側近くに仕えていた。
 そんなある日、今川義元は、竹千代が約束を守って駿河へ来たのを大いに喜び、饗宴を催す。その時義元が「竹千代の舞が見たい」と仰せられ、善九郎正勝「竹千代殿はいまだ成人にはならず、代わりに私めが務めますが宜しいでしょうか?」と願いでて、許されて舞い踊る。


 またある時に、梅の実を突きし天下の名槍を持ち出した義元は、「この槍で梅の実を突いたなら、正勝お前にこの槍を授ける」と仰せられ、見事に梅の実を突いて見せた正勝は、ご褒美として天下の名槍を戴く。家康これを聞いて大いに喜びこの名槍を「梅穂」と名付けられた。

 のち、今川義元の仰せにより、義元の家臣・江原三右衛門の娘を嫁とした。

 正勝は、家康の尾張の織田氏、駿河の今川氏と合わせると12年半にも及ぶ人質時代を、常に身を呈して御側近くに仕え、艱難辛苦をともにしていた時代が、永禄三年(1560)の5月19日に義元が織田信長との桶狭間の戦いで没するまで続いたのであった。

 その間、永禄元年(1558)家康初陣の寺部城攻めに参加し、その後の数々の戦いに旗下として参加し、天正18年(1590)の小田原の戦いまで、家康と正勝主従の長い長い戦いの歴史が続くのであったが、家康江戸入府の折り鳩ケ谷五千石の領地を賜ったが、その評価が余りにも低いのは、家康の身近に居たせいかもしれない。その間の正勝の戦史


hatomame04 at 11:58 
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