2007年01月
2007年01月01日 18:00
吉例(めでたい)の道・御成り道の由来(ことの起こり)
吉例の道と言われる「御成り道」とは、
この道「鎌倉街道」が「御成り道」と名が変えられたのは、慶長5年徳川家康・秀忠の親子が、奥州御陣の時この道を通られたことにより、ついに天下をとったことから、のちに日光東照宮を作ったとき、「家康が将軍になられたおめでたい道・御成り道」として、また鳩ヶ谷を宿に定められたと言う。『新編武蔵風土記稿』より。
奥州御陣とは
秀吉が慶長3年に死去し、慶長5年9月15日、諸大名は石田三成・小西行長らの文治派と加藤清正・福島正則らの武断派の対立・抗争が顕著となった。
家康は諸大名中最大の実力者としてこの対立を利用、武断派を味方につけた。石田三成らは会津の上杉景勝と呼応し1600年挙兵し、石田三成と呼応する会津の上杉景勝が挙動が怪しいと、家康は将兵2万、その子秀忠の2万を先に進ませる行動に出ると、石田三成が動き出した。「してやったりと」家康は引き返して江戸から大坂に向かい、秀忠は中山道を大坂に向かい関ヶ原で天下分け目の戦いとなる。
関ヶ原で、家康の東軍と石田勢の西軍と戦ったが、西軍小早川秀秋の裏切りによって敗れ、東軍が大勝し、その後、家康は天下の実権を握り、同8年、征夷大将軍に任命された。以来、一般に重大な勝敗を決する戦いを「天下分け目の関ヶ原」という。その後、天下の実権を握った家康は、西軍に参加した大名をきつく処分し、東軍にあって戦功をあげた将士には厚く領土を与え、その後の大坂冬、夏の陣の勝利で徳川幕府が成立し、江戸時代末期まで国内に戦いはなくなった。
この時代の鳩ヶ谷に、徳川家譜代の直臣・阿部正勝の遺領5千石を継いだ正次がここ鳩ヶ谷を居所に定めたと『寛政重修諸家譜』や、船津家の古文書(慶長5年・竹木文書)に記された花押が阿部正次の花押とした『埼玉地方史研究』(田部井一郎)にあり、また、家臣が住んでいた舎人(現足立区内)から大坂冬、夏の陣に出陣していったと『阿部家譜』にもあるるが、その陣屋跡は知られていない。
吉例の道と言われる「御成り道」とは、
この道「鎌倉街道」が「御成り道」と名が変えられたのは、慶長5年徳川家康・秀忠の親子が、奥州御陣の時この道を通られたことにより、ついに天下をとったことから、のちに日光東照宮を作ったとき、「家康が将軍になられたおめでたい道・御成り道」として、また鳩ヶ谷を宿に定められたと言う。『新編武蔵風土記稿』より。
奥州御陣とは
秀吉が慶長3年に死去し、慶長5年9月15日、諸大名は石田三成・小西行長らの文治派と加藤清正・福島正則らの武断派の対立・抗争が顕著となった。
家康は諸大名中最大の実力者としてこの対立を利用、武断派を味方につけた。石田三成らは会津の上杉景勝と呼応し1600年挙兵し、石田三成と呼応する会津の上杉景勝が挙動が怪しいと、家康は将兵2万、その子秀忠の2万を先に進ませる行動に出ると、石田三成が動き出した。「してやったりと」家康は引き返して江戸から大坂に向かい、秀忠は中山道を大坂に向かい関ヶ原で天下分け目の戦いとなる。
関ヶ原で、家康の東軍と石田勢の西軍と戦ったが、西軍小早川秀秋の裏切りによって敗れ、東軍が大勝し、その後、家康は天下の実権を握り、同8年、征夷大将軍に任命された。以来、一般に重大な勝敗を決する戦いを「天下分け目の関ヶ原」という。その後、天下の実権を握った家康は、西軍に参加した大名をきつく処分し、東軍にあって戦功をあげた将士には厚く領土を与え、その後の大坂冬、夏の陣の勝利で徳川幕府が成立し、江戸時代末期まで国内に戦いはなくなった。
この時代の鳩ヶ谷に、徳川家譜代の直臣・阿部正勝の遺領5千石を継いだ正次がここ鳩ヶ谷を居所に定めたと『寛政重修諸家譜』や、船津家の古文書(慶長5年・竹木文書)に記された花押が阿部正次の花押とした『埼玉地方史研究』(田部井一郎)にあり、また、家臣が住んでいた舎人(現足立区内)から大坂冬、夏の陣に出陣していったと『阿部家譜』にもあるるが、その陣屋跡は知られていない。