中村彰彦『保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主』(中公新書)は会津藩祖の保科正之を論評した書籍である。保科正之は会津藩の初代藩主である。二代将軍・徳川秀忠の息子で、三代将軍・家光の異母弟である。家光と四代将軍・家綱を補佐した。武断政治から文治政治に転換し、江戸幕府の安泰に貢献した。人質の廃止、殉死の禁、末期養子の禁の緩和の三大美事が有名である。

江戸時代後半の名君は藩を豊かにしたが、正之は幕政への貢献が大きい。名知事であり、名宰相といったところである。ところが、戊辰戦争で会津藩が逆賊・朝敵となり、会津を貶めたい薩長藩閥史観によって、その業績は無視されてきた。

名君と言えば謹厳実直な人物という印象があるが、正之は実利思考であった。正之は明暦の大火で消失した江戸城天守閣を再建しなかった。太平の時代に無用の長物と考えるが、戦国の世でも天守閣が戦に活用されたことはないとも指摘する(70頁)。戦争のリアルも見据えている。

正之は市場原理を重視している。明暦の大火後に米の値段が上がった。これに対して幕府は江戸参勤中の大名を帰国させ、これから参勤する大名には参勤を延期させた(65頁)。需要を減らすことで米価を下げる政策である。ナイーブな心情的には明暦の大火という非常事態の後には多くの人を集めたいものであるが、それで江戸の人口が増えたら、米不足に拍車がかかる。現代の自然災害でもボランティアが集まり過ぎ、逆に被災地の負担が増え、逆効果になることがある。

正之は家臣を召抱える際に、千石の家臣を一人召抱えるよりも、二百石の家臣を五人召抱えることを好んだ。これは「藩というピラミッド組織を風通しのよいものにする利点があった」(94頁)。これは有力家臣の専横や離反・自立化を防ぐ上で効果的である。

但し、戦国時代は、ある程度は家臣団を有力家臣に束ねさせる意味があった。戦争は部隊単位で行うものであり、大名一人で全軍を指揮することはできない。独立的に動く部隊長が必要である。実際、徳川家康は旧武田家家臣を井伊直政に付けた。

これに対して平和な時代は大名が優秀な家臣を直接多く採用した方が良い。これは有力家臣から見れば中央集権的な大名権力の強化になるが、個々の家臣から見れば分散化という分権的傾向になる。