本能寺の変は日本史最大のミステリーである。本能寺の変は、織田信長のパワハラに対する怨恨を動機とすると説明されることが多い。これは主君への謀反は余程のことであるという江戸時代の封建的価値観にマッチしていたために普及した。

現代でも社会問題になっているブラック企業と重ね合わせて共感を呼んでいる。NHK大河ドラマもパワハラ怨恨説で描かれることが多い(林田力『「江 姫たちの戦国」レビュー』「『江〜姫たちの戦国〜』第5回、本能寺の変はパワハラの悲劇 」)。パワハラ怨恨説は物語として面白い。

明智光秀は丹波国と近江国志賀郡を領地としていた。織田政権では近畿管領とも称すべき政権中枢にいた(小和田哲男著『明智光秀と本能寺の変』PHP文庫、2014年)。ところが、中国地方の毛利攻めに際しては、丹波国と近江国志賀郡の領地を召し上げ、まだ敵国である出雲国と石見国を切り取り次第とされた(『明智軍記』)。

これを不満に思ったことが謀反の動機とされることが多い。中国地方への国替えや羽柴秀吉が総司令官の毛利攻め担当を左遷と感じたのではないかと主張される(小和田哲男著『明智光秀と本能寺の変』PHP文庫、2014年)。確かに本能寺の変後の朝廷工作以外の動きの鈍さを考えると都と鄙の感覚が強そうである。

一方で光秀は惟任日向守の名乗りを与えられており、中国地方どころか九州攻めも担当することは認識していたのではないだろうか。また、現代では中国地方と一まとめになるが、当時は山陽道と山陰道は別の地方であった。出雲国と石見国の攻略を担当することが山陽道から毛利を攻略していた羽柴秀吉の管轄下になることを意味しない。

山陰道を過疎地と見ることも現代の視点である。山陰道は出雲大社があり、石見銀山もあり、貿易の拠点にもなる。文化的にも経済的にも重要な地方である。それ故に現代人的な感覚で左遷とすることは疑問である。