東野圭吾『同級生』(講談社文庫、1996年)は学園推理小説である。最初は探偵役が実は犯人という掟破りの可能性を想像させる。その後は、いかにも悪そうなキャラクターが犯人ではないかと推測させながら、真相は意外であった。以下にも悪そうなキャラクターは真犯人になるほどの価値もなかった。
『金田一の少年の事件簿』などでは真犯人が明らかになった後に真犯人による壮絶な過去と復讐の動機が語られる。そのような重みすら持っていない。汚い手を使う卑怯者に過ぎなかった。本書では別の文脈で「卑怯者を相手にするのは不愉快なものだ」という台詞が出てくる(89頁)。これは悪そうなキャラクターにも当てはまる。
物語の舞台となった高校は管理教育が徹底している。ここに描かれた教師は卑小である。自分達の体面を守ることに汲々としている。ここには昭和のステレオタイプを感じた。私の頃は管理教育の弊害が叫ばれ、少なくとも建前としては生徒の自主性を尊重しなければならないという雰囲気があった。
対立も生徒対学校・教師ではなく、普通の生徒対ヤンキーという形もある。腐ったリンゴの排除が管理教育推進の教師からではなく、普通の学園生活を求める普通の生徒から主張されることもあった。著者が教師を嫌悪していることは理解できるが、世代ギャップを感じた。
生徒対学校・教師よりも、普通の生徒対ヤンキーという対立軸を持っていた立場からすると、喫煙写真を捏造して他の生徒を陥れようとした不良生徒へのペナルティーがないことに不満が残る。それによって野球部が出場停止に追い込まれかねない重大なものであるが、何ら罰せられていない。
一枚の写真が回収されたから問題なしとはならない。他にも写真が出回るかもしれない。実際に喫煙していたのは不良生徒であり、他の生徒が喫煙しているような捏造写真を作ったことを報告しないと、濡れ衣を着せられようとた生徒は完全に安全とは言えないのではないか。管理教育に問題意識を持つ人はヤンキーに甘くなると感じることがある。やはり世代ギャップはある。
それでも本書に共感できる点は環境問題という背景を持っている点である。この点に関する主人公の怒りは共感するところ大である。主人公に対しては以下のように本気で怒っていると評された。「本気になるってのは大変なことだぜ。本気で怒り続けるっていうのはな。自分を捨てなきゃならない時だってある」(181頁)。この台詞が投げられた文脈では主人公は、この台詞の評価に当てはまる人間ではなかった。しかし、環境問題に対する主人公の怒りは本物である。