商用アニメーションを制作するには、膨大な費用と人員を必要とする。脚本、絵コンテ、原動画、背景、トレス、彩色、撮影、録音、声優、エトセトラ…。各部門それぞれに人手が必要だし、それを召抱えるには支払われるべき賃金が必要だ。「家内制手工業」として始まった日本のアニメスタジオが大きく成長するには、それを支える「スポンサー」の存在が不可欠であった。戦前、大正時代においては文部省が「大口」のスポンサーであった。アニメーションで教育映画を制作したのである。大正時代のアニメーション産業についての詳細は、以下のリンクを参照されたし。迂闊なことを俺がここに書いたらすんげー怒られるので。

アニゲノム〜日本動画興亡史〜

 戦中には海軍省がスポンサーとなり、「桃太郎の海鷲」、「桃太郎 海の神兵」などが制作される。これらの作品に影絵担当として参加した政岡憲三は後に「日本動画株式会社」を設立し、それを東映が会社ごと買収し「東映動画」が生まれることになる。

 時代をまた日本のアニメーション黎明期まで戻す。一言で「アニメーション」といっても、それによって表現されるものは様々あり、すべてが「漫画映画」の体裁を採っているとは限らない。タイトルテロップが画面奥から手前に迫ってくる、といった表現もまた「アニメーション」である。「日本初のアニメーション作家」北山清太郎も、こうしたタイトルテロップを手掛けていた。
アニゲノム〜日本動画興亡史〜
往時を振り返った文章が残されている。

 東映動画の設立からほどない、昭和33年(1958年)1月のキネマ旬報新春特大号に寄せた一文である。

「……大正四年か五年、僕が十九歳の頃だったと思う。北山清太郎氏が漫画映画とタイトルを日活から引き受けたので、助手に来てほしいと云って来た。その頃僕は朝夕新聞を配って、月に六円位の給料で川端画学校へ行っていたので、この話は非常に良いアルバイトだと思い、麹町平河町の北山氏を訪ねた所、月に二十円位はあげられると云う事で、喜んで仕事を始めた」



 こうした「テロップ」の技術とコマーシャルの親和性を説明する必要は無いだろう。商品名、メーカー名を表示する技法は、そのまま「テロップアニメーション」のそれであった。
 そして戦後、民間企業によるTV放映開始と、それに伴う「テレビコマーシャル」の登場によって「国産アニメーション」の需要は飛躍的に増大する。
 現在では、そうした最初期のテレビコマーシャルをYoutubeで視聴することが出来る。テロップの文字が「アニメート」しているのが判るだろう。そして、CM本編もまた、「アニメーション」であった。

http://www.youtube.com/v/il0E4x0SGOo
 日本のテレビコマーシャルは、アニメーションでスタートしたのである。

 その一方で、海外から輸入されたアニメーションがお茶の間の人気を得ていた。「ポパイ」や「ベティ・ブープ」は戦前からのキャラクターであったが、いまだ根強い人気があった。だが、まだ日本国の経済力は脆弱であった。企業には外貨規制が敷かれ、購入できる海外コンテンツの総量には上限があった。資料を引けば、1956年の日本テレビの外貨割り当て額は4万ドル。(「日本広告発達史・下巻(電通)」より)コンテンツの値段は、既にアメリカで放映済みのものを購入していたため一本単価が数百ドルと比較的安価であったが、TV局はこの限られた外貨予算で、まだ国内生産が出来なかった高価なスタジオ用の放映機材なども購入せねばならないのである。
 ここでもまた、「国産アニメーション」が強く求められていた。