クラシックおっかけ日記

指揮者アダム・フィッシャーのおっかけ記録、音楽の話、海外生活など

ニンバス ハイドン・シリーズ 1987-2001の物語(7)

ハイドン交響曲全集のプロデューサーの手記、今日は第6章の後半と短い第7章。今日で全文を掲載。
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ハイドンの初期の交響曲の録音では、フィッシャーはオーケストラのスタイルと音色により繊細で室内楽的な質感を求めるようになった。1990年6月、交響曲第1番から第5番、第9番から第12番が予定されていた時、私たちはもう一人のライナーを起用した。1984年9月にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任したライナー・ホーネックは、かなり若いメンバーである。兄のマンフレートが現在著名な指揮者である彼は、その後交響曲第13番から第20番、第40番、第42番、第43番「マーキュリー」、第44番「哀しみ」と、パリ交響曲のうち最後に録音された84番、87番の録音でコンサートマスターを務めた。

音楽的にも技術的にも、これらの録音はこのシリーズの最高峰だ。一方では、ハイドンザールのベストを引き出す方法をついに見つけることができたし、他方では、ホーネックがエーリッヒ・シャガール、エクハルトとギュンター・ザイフェルト兄弟、1965年からV POの第2ヴァイオリンを率いているペーター・ヴェヒターといったウィーンフィルの仲間たちをセッションに引き入れ、比類ない質の弦楽器の演奏を楽しむことができた。この94年のセッションで頭角を現したもう一人のヴァイオリニストがヴォルフガング・レディックである。彼は80年代末に最初の録音に参加したが、その後ウィーン・ピアノ・トリオでの活動に専念していた。ハイドンフィルとの再会を喜び、フィッシャーは彼を1995年からハイドンフィルの常任コンサートマスターに迎えた。VPOのコンサートマスターの中にはこのような献身的な姿勢を示せる人はなかったし、プロジェクトが半ばに差し掛かったオーケストラにはこの安定性が必要だった。レディクはフィッシャーにとって貴重な存在となった。彼はレコーディングに先立ちすべてのパートのボウイングを決定し、過去のウィーン古典派にモダンな感覚を吹き込むことに成功した。アイゼンシュタット以外でオリジナルの楽器を使い、時代考証に基づいたオーケストラと活動し始めていたフィッシャーにとって、レディクはビブラートのバリエーションや、より親密で協奏的なスタイルを試してくれる理想的な音楽仲間だった。ニンバスもその恩恵を受けることになった。1994年のセッションの後、私はレディックと彼のウィーン・ピアノ・トリオの同僚で、この年のレコーディングのチェロ・セクションにゲスト参加したチェリスト、マルクス・トレフニーと食事をした。当時ニンバスのアーティストとレパートリーの責任者になった私は室内楽の拡充に積極的で、ピアノトリオは最も良い選択だった。彼らは若くキャリアの初めだったが、多くの批評家からボザール・トリオの後継者と賞賛されていた。1995年から2001年にかけて私が彼らと行った一連の録音は、ニンバス社の歴史の中で芸術的に最も成功したもののひとつだ。

現代楽器とピリオド楽器の論争は、オーストリア=ハンガリー・ハイドン・オーケストラ、特にその木管楽器と金管楽器セクションにとって、特別な意味をもっていた。ウィーンのオーボエとウィーンのFホルンはどちらも独特の音色を持つ楽器で、音楽的にも歴史的にもヨーロッパの他の地域の楽器製造の発展とは無縁だった。実際どちらの楽器もほとんど原始的な外観を持ち、技術的に洗練されていない分奏者には最高の技量が要求される。ハイドン自身は幸運だったようで、エステルハージ・オーケストラのホルン奏者フランツ・ライナーとカール・フランツは伝説的な存在で、第 1 番などの交響曲の要求に応えることができた。 5番、13番、31番、51番、および 72番では、今日でも同等の技術が必要になる。

ウィーンのホルン演奏には豊かな伝統があり、ゴットフィード・フォン・フライブルク、ヨゼフ・ヴェレバ、ローランド・ベルガーなどの音楽的教育的遺産は、今日の世代にも受け継がれている。フォン・フライブルクは1943年にリヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第2番を初演し、ベルガーはショルティ・リングでの演奏で永遠に人々の記憶に残るだろう。1970年代と80年代の傑出した奏者はギュンター・ヘグナーで、1971年からウィーン・フィルハーモニーの首席ホルン奏者を務め、オーストリア・ハンガリー・ハイドン・オーケストラの最初のメンバーの一人でもあった。最初の4年間の録音では、彼はほとんど常にVPOの同僚であるヴィリバルト・ヤネジッチと一緒に演奏していた。数え切れないほどのハイライトの中でも、ハイドンの交響曲第5番の第1楽章はホルンの演奏の並外れた正確さと質の高さが際立ってる。ヘグナーの後は1992年からシリーズ終了までマルティン・ブラムベックが担当した。彼は交響曲第51番で要求される成層圏並み高さに到達する『ホルン信号』のような名人芸で、ホルンのためのあらゆる曲の中でも特に記憶に残る、特徴的な流動性と素晴らしいまろやかな音色を実現している。交響曲第39番のフィナーレはハイドンの中で最も激しい「疾風怒濤」の例で、ブランベックと彼の第2番ロベルト・ロレンツィのホルン演奏は、スピーカーに火がつくほどの威力を持つ。

多分ウィーン式オーボエの音はホルンよりも意見の相違を引き起こすだろう - 刺激的なアイラモルト・ウィスキーのように好き嫌いが大きく分かれる - しかしながらオーストリア・ハンガリー・ハイドン・オーケストラの録音で聴くことのできる演奏家の質の高さについては議論の余地はないだろう。初期の録音では、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とウィーン交響楽団のゲルハルト・トゥレチェクとクラウス・リーンバッハーが演奏した。特にトゥレチェクはベーム(モーツァルト協奏曲を録音)、バーンスタイン、カラヤン、ジュリーニらの指揮した無数のVPOディスクでの演奏で、名前はともかく音では多くのレコードコレクターに馴染みがあるだろう。彼の全く個性的なスタイルは、第9交響曲のメヌエットのトリオで最もよく聴くことができるし、88番の緩徐楽章や90番のフィナーレなど、他の箇所でも彼の個性が現れている。それだけに、自国の音楽文化の大使ともいうべき音楽家の一人が、近年、病気で早々とそのキャリアを閉じたことは嘆かわしい限りである。

このサイクルの後半では、第一オーボエの人選にまたまた恵まれた。Nimbus レーベル (現在ではアイゼンシュタットでの仕事から家系図を形成しているが) の拡大するウィーンのアンサンブルのリストには吹奏楽グループ、クインテット・ウィーンが含まれている。そのメンバーにはハイドンフィルのホルン奏者マルティン・ブラムベックとフルート奏者ハンスゲオルク・シュマイザーが含まれていた。オーボエ奏者はまだ若いウィーン交響楽団の首席奏者ハラルド・ヘルトだった。私はグラーツでのコンサートで初めて彼を聴いたが、そこで彼は、私が聴いた中で最も魅惑的なブリテンのオヴィッド以降の6つのメタモルフォーゼを演奏した。最初のクインテット・ウィーンの録音セッションでヘルトはハイドンの交響曲の録音でに必要だと確信し、1997年からはすべてのセッションで演奏してる。彼の技術はほとんどの作品で聴くことができるが、特に交響曲第38番のフィナーレでは華麗な演奏の中に2つの小粋なカデンツァがあり、同曲のメヌエットとトリオではヘルトの明るい魅力が発揮されている。交響曲第26番「ラメンタチオーネ」と第67番の2つの緩徐楽章では、長いアーチ状のフレーズで弦楽器の美しさに対照的な色を与える彼の能力が発揮さている。

7. コーダ: アダム・フィッシャー

「ピリオド楽器の過激な支持者でさえ、どの楽器を演奏するかという問題よりも、演奏者の個性が重要であることに同意する。私はハイドンの音楽に個人的に親しみを感じ、それを演奏に表現でき、他の奏者のルバートにも即座に直感的に反応できる奏者を選ぶように心がけている。重要なのは演奏がエキサイティングで説得力があることだ。たとえ歴史的に正しい演奏であっても、つまらない演奏は犯罪である。」

この記事を書くことで、音符の背後にいる人々や演奏者を紹介し、彼らの功績を認識してもらうことができたと思う。録音は19世紀末から始まり、ハイドンの107曲の交響曲はそれ以前から存在したが、エステルハージ・レコーディングは録音史上2番目の全曲録音となった。オーケストラが最後に去った後誰もいないホールに立つと、長い年月を思い出して複雑な心境になる。レコーディングセッションの終わりにホールに不自然な静寂に包まれることはよくあるが、しかしここはハイドンザール、ハイドンのホールだ。彼は15年前に我々が目指したことを少しは面白がってくれたかもしれないし、むしろ誇りに思ってくれたかもしれないと感じた。


(c) Dominic Fyfe, 2001年12月

ニンバス ハイドン・シリーズ 1987-2001の物語(6)

ハイドン・シリーズのプロデューサーの手記、第6章は少し長いので複数回に分ける。この章はハイドンフィルに関わった名手たちが紹介されているので、1990年代のウィーンフィル・ファンには懐かしい名前も多い。

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6. 「ラ・パッシオーネ」-プロジェクトを支えた人々

まず、このシリーズが完結する前に残念ながら亡くなってしまったが、その存在と貢献は忘れられない人たちを偲ぼう。1997年に亡くなったヴィルヘルム・ヒューブナーについては、すでに「序奏」で述べた。その一年後、彼の友人であり同僚であったグスタフ・スヴォボダが亡くなった。スヴォボダは1917年生まれの生粋のウィーン人で、1952年から30年後に引退するまでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリニストとして活躍した。もちろん引退は半公式なもので、彼は定期的に国立オペラ座で演奏を続け、フィルハーモニー管弦楽団の1年のハイライト、元旦のコンサートでも演奏していた。私は彼がいつもセッションに一番乗りし、ハイドンザールの片隅でウォームアップをしていたのを覚えてる。彼は皆の友人で、フィルハーモニー精神の生き写しだった。オーケストラでの彼の長いキャリアや、別の時代の指揮者や人物について話すのがとても好きだった。アダムの話では、スヴォボタは今でもフルトヴェングラーの下で演奏した録音から印税をもらっているという事だ。最後にハンガリーのヴァイオリニストの一人が1999年に亡くなった。それは初期からオーケストラに在籍していたヤーノシュ・パップだった。幸福な面では団員同士、ヴィオラ奏者のハイナーとヴァイオリニストのグドゥラ・マードルの結婚もあった。(オーストリア人とハンガリー人のカップルではない。)

この15年間の制作シリーズで全てのセッションに参加したのは3人だけだ。アダム・フィッシャーはもちろんだが、オーケストラのメンバーではハンガリーのヴァイオリニスト、カタリン・シュナイダーが一人、制作面ではエンジニアのジョン・グラッドウィンだ。彼はニンバス社が毎年アイゼンシュタットに到着するだけでなく、すべての音を録音し記録することを確実行った。ジョンはモンマスのニンバス本社からヨーロッパ全土に機材を運ぶ責任を負っており、その旅は15年間で地球を二周したことになる。彼の技術と忍耐力、ユーモアのセンスはセッションの円滑な運営に不可欠であり、彼の果たした役割は計り知れないものであった。このプロジェクトに関与したプロデューサーは三人。1987年から1991年にかけて、ニンバスの当時の音楽監督エイドリアン・ファーマーと副監督のアラン・ウィルトシャーが、交響曲1番から20番、22番、24番、25番、27番、40番、45番、83番、85番、88番から104番、シンフォニア・コンチェルトの録音を担当した。1989年末にウィルシャーが去った後、私は1990年1月にニンバスに入社し、同年6月と9月にファーマーのアシスタントとしてアイゼンシュタットに赴き、1991年のレコーディングに参加した。1992年にはこのシリーズのプロデュースを一手に引き受け、全曲の57%に当たる61曲の交響曲を完成させた。またリリースの編集も担当し、これで89曲(全曲の84%)を完成させた。実はある交響曲のメヌエットのトリオで、後半部分のリピートが不足している。この編集ミスは1990年にフランスの評論家が取材に来たときに発見したと自慢していた。それを見つけても報酬は無いが、不足しているリピートを探してみてほしい。

ハイドンの時代のアイゼンシュタット管弦楽団がその名手で称賛されたように、奏者と彼らが行った注目に値する個々の貢献を最後の言葉としたい。シリーズ第 2 巻 — 交響曲第 21 番から第 39 番まで — のグラモフォンのレビューで、エドワード・グリーンフィールドは次のように書いている。

「オーケストラの様々なソロの名手たちが、しばしば速い速度で限界まで挑戦していることがこれまで以上に感じられる。第31番「ホルン信号」の変奏フィナーレのような楽章では、ハイドン自身がエステルハージ・オーケストラのために書いたような、輝かしいソリストたちの演奏が聞こえる。」

ハイドン自身のオーケストラに揃った名手たちは記録に残っている。例えば首席ヴァイオリン奏者のルイジ・トマシーニのために、ハイドンは3つの協奏曲を作曲した。今日のオーストリア=ハンガリー・ハイドン・オーケストラは、ヨーロッパで最も有名なコンサートマスターを筆頭に迎えている点で同様に恵まれている。プロジェクトの最初の4年間、つまりロンドン交響曲の大部分において、コンサートマスターはライナー・キュッヒルだった。キッヒルは1971年に20歳でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンツェルトマイスターに就任し、1992年にゲアハルト・ヘッツェルの命を奪った悲劇的な事故の後、同フィルハーモニーの首席コンサートマスターとなった。V POがバーンスタインのリハーサルやムーティのレコーディングに参加するときなどには、彼の同僚であるヴェルナー・ヒンクやエーリッヒ・ビンダーが来たり、オーケストラの設立理念の精神に従ってハンガリー人がリーダーを務めたりすることもあった。

しかし1991年に事態は興味深い方向へ進んだ。アイゼンシュタットで第1回ヨアヒム国際コンクールが開催され、国際的なソリストやオーケストラのコンサートマスターからなる審査員が集まったのだ。キュッヒルは審査員で、コンクール直後のハイドンフィルの録音セッションに参加する予定だったが、楽友協会のトラブルにより彼はレコーディングに参加できなくなり、ハイドンフィルはコンサートマスター不在になってしまった。しかしそれも長くは続かない。コンクールの審査委員長は、カラヤン時代に20年以上にわたってベルリン・フィルのコンサートマスターを務め、現在はヨーロッパで最も人気のある教師、室内楽奏者の一人であるトーマス・ブランディスだった。幸いにも彼は数日間フリーであり、交響曲83番、85番、89番、91番の録音でオーケストラのコンサートマスターを務める招待を喜んで引き受けた。そして、この縁でもう一つ嬉しいことがあった。ブランディスはニンバスに彼の弦楽四重奏団を紹介し、私たちはその後10年にわたって多くの録音を行い、2000年にはドイツのシャルプラッテン賞を受賞した。ベルリンとのつながりは当時のニンバスの録音活動の中心となり、ブランディス四重奏団だけでなく、ベルリンフィル八重奏団やローター・コッホ、カール・ライスター、ゲルト・ザイフェルト、ライナー・ツェペリッツ、ウォルフガング・ベッヒャーなど、同楽団の名器奏者をフィーチャーした。

ニンバス ハイドン・シリーズ 1987-2001の物語(5)

ニンバス・レコードのハイドン交響曲全集のプロデューサーの手記も第5章。このこでは具体的な録音の手順などが語られている。
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5. メヌエットとトリオ: 1995-2001

1995年から2001年にかけて交響曲21番から81番の間の大部分が録音され、再発見された交響曲AとB、ホーボーケン番号では106番と108番も収録された。シリーズ開始から7年が経っていて、少なくとも4種類のスリーブデザインと番号順の交響曲、年代順の交響曲、順不同の交響曲など、あらゆるリリース方法が試行された。パリ交響曲の完成はディスクをボックス・セットでリリースするチャンスとなり、82から87番の2枚組に加え88番から92番のボックスと既存のロンドン・セットがリリースされることになった。この時ニンバスはエステルハージ家の家紋をボックスセットのカバーに使用する権利を獲得した。1994年までは、ライナー・キュッヒルとのヴァイオリン協奏曲の録音やミヒャエル・ハイドンのフルート協奏曲のディスクの制作などゆったりとしたペースだったが、このリリース方法をだとより計画的に、より早く録音する必要に迫られた。それ以降は一度に10曲以上の交響曲を録音するため、セッションは最長で2週間に延長された。

録音日は通常午後2時に始まり、最初のセッションは3、4時間続いた。その後夕食のために1時間の休憩をとり、再び午後7時からレストラン・エーデルのキッチンが閉まる少し前、通常は午後10時半から11時まで2回目のセッションが行われた。長い一日だがハイドンを愛し、その音楽の多くが最初に演奏された場所で演奏できる喜びで結ばれた音楽家たちが、自ら望んでこの場に集まったことがこの特別な雰囲気を作り上げてた。私が参加した11年間で、時間について意見が対立したことは一度もない。誰もがその場にいたいと思っていたし、最後の音が出るまで喜んで仕事をしていた。これは、オーケストラの録音としてはかなり特殊な状況だ。最近の録音セッションでも、約束の時間を過ぎたら演奏者が楽器を置きテイクが中断された。

交響曲の外側の速い楽章を最初に録音し、次にメヌエットを夕食前にまとめて録音し、その後夜のセッションで遅い楽章に専念するのがよくあるパターンだった。楽章の順番通り録音しないのは実質的な理由による。この時期の交響曲の緩徐楽章は弦楽器だけであることが多い。それに金管楽器や木管楽器の奏者の多くはウィーン国立歌劇場やフォルクスオーパーのメンバーで、毎晩のように公演を行っていた。トップレベルの奏者を起用するためにはスケジュールには現実的に対応し、完全に録音ができなくなったのは2度しかない。ひとつは小澤征爾指揮のリヒャルト・シュトラウスの「アルペン交響曲」の公演でウィーン中のホルン奏者を動員したもの(この公演のチケットは提供された)、もうひとつはヴィリー・ボスコフスキーの記念演奏会だった。その時も楽友協会から直接やってきたフィルハーモニーのメンバーは、通常の洗練された音楽的に加えて特別に優雅なスタイルでセッションに彩を添えた。

録音セッションにはだいたい決まったパターンがあった。アダム・フィッシャーはフルオーケストラが到着する午後2時前にまず各セクションの首席とリハーサルを行い、その後のセッションで楽章の細部を詰めていく。この時点ではテープレコーダーの電源は切られているが、コントロールルームとホールの間でバランスや特別な効果などについての対話が行われた。最初の休憩の前に楽章を通して演奏し試聴のために録音する。プレイバックには好奇心もあったし、とても良いお茶とビスケットが用意されているので、多くの奏者が聴きに来た。議論はいつも民主的で、アダムは3カ国語を自在に操りながら最高のアイデアと解決策を探っていた。ホールに戻って楽章の冒頭を2回3回と録音し、その後に後半部分を録音する。最後の「演奏会用」の録音は必ず行われ、これが最終的なマスターに使われる素材の大半を占めることが多かった。短いテイクはできるだけ避けたが、必要な時のみに作られた。その時はアダムがマイクに向かってささやくように、難しいソロや合わせにくい部分などの「心理的な理由」に限られた。個性、ドラマ、自発性こそが私たちが求めていたものだが、録音される楽章や交響曲はどうしてもベルトコンベアー式になってしまうので、私たちが最も鋭敏に耳を傾けたのは品質だった。フィッシャーは「重要なのは、音楽が刺激的で説得力があることだ。退屈な演奏は犯罪に等しい」と述べている。

即興的な演奏はしばしば貴重な瞬間をもたらす。交響曲第33番のフィナーレのマスターは、その日の午後、アイゼンシュタットを訪れたウイーン在住のアメリカ大使を含む少数の聴衆の前で行われた即興演奏から、ほぼ全てを抜き出している。音楽的な咄嗟の判断もある。交響曲第35番第2楽章のピチカートによる終結部はハイドンの作品にはなく、再生時に私がアダムに提案したものだ。私たちは全員納得してこの曲を残すことにしたが、スコアを見た評論家の中にもまだこれを指摘した人はいない。 交響曲第38番「メヌエット」のトリオも同様で、弦楽器がピチカートで繰り返し演奏し、オーボエのソロを楽しく伴奏している。交響曲第73番「La Chasse」のプレスト・フィナーレでは、4分13秒のところでホルンの狩猟のモチーフの再現が、ハイドンザールの隣のホールから聞こえてくるという奇跡的な演出もある。ハイドンザールの構造に詳しい人なら、音楽に合わせてステージを出入りするのは物理的に不可能だと分かるだろうが、デジタル編集で重なり合ったテイクを編集するのは素晴らしいことで、最新技術の手際の良さには作曲者も興味をそそられたかもしれない。しかしこのようなことはオーケストラの忍耐力をすぐに疲弊させる。ホルン信号交響曲(第31番)のフィナーレを構成する一連の変奏曲を録音するために私は何度も座席の変更を要求し、すべてを継ぎ目無く編集することを再確認しなければならななかった。

ニンバス ハイドン・シリーズ 1987-2001の物語(4)

再びニンバスのハイドン全集プロデューサーの手記。本日は佳境に入った1994年の話。
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4. 展開部: 1994 年

1994年6月にはパリ交響曲を完成し、同時に40番台50番台の交響曲という比較的未知の領域に突入した。多くの場合にドラティ以外に参考になる録音は無い。この時期はいろいろな意味でシリーズの転機となった。1年半以上のブランクを経てアダム・フィッシャーの解釈は大きく変わっていた。第3巻が交響曲40番から54番のボックスとして発売されたとき、グラモフォン誌ののリチャード・ウィグモアはすぐに注目した。

「アダージョは室内楽的な親密さと繊細さを持ち、アレグロはしばしばドラティの演奏よりかなり速く、見通しの良い、最近のピリオド楽器による録音に近いものだ。また、フィッシャーの解釈は特に短調の交響曲では弦楽器のビブラートを最小限に抑え、より鋭いテンポで神経質で爆発的な演奏により、音楽の不穏さと絶望感をより完全に表現している。」

フィッシャーとスタジオで一緒に仕事をするのに非常にやりがいを感じたのは、彼の寛容さとオープンマインドであり、それはルイ・マクニースがW.H.オーデンについて言った「アイデアは彼に親密で、彼の手から啄むようだ」という言葉を思い起こさせるものだった。フィッシャーの周りには、オーケストラに継続性と安定性をもたらし、音楽的に貴重な意見を述べるプレーヤーがいた。例えば、1994年のセッションでオーケストラのコンツェルトマイスター(リーダー)になったヴォルフガング・レディックは、ウィーン・ピアノ・トリオのヴァイオリニストとしての経験が、弦楽器の演奏にまったく新しい質をもたらし、キュッヒルとホーネックの2人のライナーが培ってきた以前のフィルハーモニーの響きとは微妙に異なるものにしていた。このオーケストラの首席チェロ奏者レジョー・ペルトリーニは、ハンガリーのピリオド楽器フェステティックス四重奏団のメンバーとして当時ハイドンの弦楽四重奏曲の録音に忙しかった。彼はプレイバックの際はしばしばフィッシャーの傍にいて、そのハンガリー語での会話の内容は彼らしかわからなかったが、音楽的にはいつもより面白い結果が得られた。

私の挑戦はこれをディスクに収めることだった。当時は賛否両論があったが、私はコントラバスを1本にするように主張した。ハイドンザールは共鳴しやすいホールで、コントラバス2本では8人のセクションのように聞こえてしまうからだ。幸いオーケストラのバス奏者フランツ・バウアー(ウィーン・フォルクスオーパー出身)は自己主張の強い奏者で優れた音楽家であったため、この変更に気づいた批評家は一人もいなかった。ただ、1995年から常用された、子牛の皮の小さなティンパニを硬い木の棒でたたく奏法と、管楽器セクションのバランス、特にウィーン独特のオーボエが前面に押し出されたことは、批評家の注目を集めた。この録音は過度の反響を取り払い、ハイドンの非常に巧みなスコアの細部まで明らかにし全体的に魅力的な花を咲かせると、ペンギン・ガイドの著者を熱狂させた。

18世紀と19世紀の多くのコンサートホール、ウィーン楽友協会の大ホールにも共通することだが、ハイドンザールは観客がいるときは音響的に素晴らしいが、マイクだけで演奏するときは問題がある。例えばステージ後方にはしっかりとした壁がなく二重のカーテンがあるだけなので、アイゼンシュタットのセッションは毎回、音を閉じ込め反射させるためにテーブルを立てた即席の壁を作ることから始まり、片付けることで終わる。もう一つの不満は私たちがコントロールできないホールの気候だった。ハイドンザールには暖房がないので10月下旬から翌年の3月か4月までは使い物にならない。18世紀のエアコンディショニング、つまり窓を開けるしか方法がないが、そうすると度々鳥が飛び込んできた。ニンバスとしては鳥の声を入れるわけにはいかないので鳥を追い出したものの遠くには行かず、録音にも鳥が登場しゆっくりした楽章の終わりで歌いだした。アダムは、Nimbusの最小限のマイキングによる「ナチュラルな」録音を高く評価しており、これを「自然の音」と呼んでいたので鳥の声を取り除くためにリテイクを心配することはほとんどなかった。しかし湿度の変化はより問題だった。ある日は暖かく存在感のある音でも、次の日には硬く穴のあいたような音になってしまうので、マイクの位置やオーケストラの座席を少し調整し、状況を均一にする以外にできることはない。このことはセッションで痛感することであり、その後の編集作業で気になることはほとんどなかった。

No.435、2022年9月18日、デュッセルドルフ響、シューベルトとベートーベン

ハイドン全集のプロデューサーの手記はまだ続くけど、今日は昨日のデュッセルドルフ響の演奏会のレポート。

Dusseldorfer Symphoniker
Anna-Lena Elbert SOPRAN
Jake Muffett BARITON
Adam Fischer DIRIGENT

Franz Schubert: OUVERTURE ZU "FIERRABRAS"
Franz Schubert: "BALD WIRD ES KLAR", DUETT AUS "FIERRABRAS"
Franz Schubert: "DER VOLLMOND STRAHLT AUF BERGESHOH'N", AUS "ROSAMUNDE"
Franz Schubert: SYMPHONIE NR. 3 D-DUR D 200
Ludwig van Beethoven: SYMPHONIE NR. 7 A-DUR OP. 92


アダム・フィッシャーはデュッセルドルフ響の首席指揮者として、シーズンに3つのプログラムを指揮する契約になっている。実際はそれ以外にも人権コンサートもあるし、昨シーズンみたいに特別に出演する場合もある。定期演奏会は同一プログラムで木曜日、日曜日、月曜日の3回公演があるので、全部で10回公演を指揮する。ハイドン・マーラーシリーズが終わったので、2年前からシューベルト・ベートーベンシリーズをシーズン1回演奏することになっていて、これはマーラー同様録音する。2028年はシューベルトの没後200年なので、それに合わせてCD化したいらしてけど、アダム自身はあまり乗り気ではないみたい。

デュッセルドルフ響の2022-23シーズンのオープニング公演は、シューベルトの交響曲3番とベートーベンの交響曲7番。ただし交響曲だけだと前半が短すぎるので、シューベルトのオペラ「フィエラプラス」から序曲とデュエット、「ロザムンデ」からソプラノのアリアを付け加えた。

シューベルトは歌曲はたくさんあるけれど、劇場作品が演奏されることはほとんどないし、交響曲だって「未完成」と「グレート」以外は滅多に演奏されない。だからお客さんも知らなくて、拍手のタイミングがよくわからない。最初の3曲はそれぞれ拍手しが出るのはわかるが、交響曲でも拍手する人がいて、アダムはいつも通り「まだありますから」というジェスチャー。最近コンサートだといつも楽章の間に拍手がでる。

前半のデュエットとアリアも短くて印象が薄い。ソプラノの声が小さくてオーケストラにかき消されてしまうのでなおさら。交響曲もシューベルトの18歳の時の作品だから、あまり良い作品とは言えない。第4楽章はかなりテンポが速くて、弦楽器が揃わない部分も見受けられた。やっぱりオーケストラも良く知らない感じ。

休憩の後はベートーベンの7番。アダム自身はデンマーク室内管の演奏と同じ演奏にしたいのだけれど、やはりドイツのオーケストラだからやっぱり違う。この曲の第4楽章はどの楽団が演奏しても盛り上がるけど、デンマーク室内管だと4楽章の最初からパワー全開で、気が急くのか弦楽器のフレーズが滑っている感じでセカセカした演奏になってしまう。デュッセルドルフ響はそんな心配はないけれど、なくとなくクールな印象。それでも繰り返し毎にジワジワ熱くなり、終盤の第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが交互にメロディを演奏するあたりからテンションが上がり、最後の40小節は爆発という感じ。デンマーク室内管に比べるとやはりドイツ風ではある。お客さんは最後には立ち上がって大喝采だった。

ニンバス ハイドン・シリーズ 1987-2001の物語(3)

今日も2001年に書かれたニンバス・レコードのハイドン全集プロデューサーの手記の続き。今日はプロジェクトの初期。
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3. 提示部: 1987-1994

1987年6月1日と2日には最初に「時計」と「太鼓連打」(101番と103番)が録音された。ロンドンセットの残りはこの後の2年間に録音され、1989年にセットとしてリリースされた。この時点ではコンパクトディスクではコリン・デイヴィスやカラヤンなどのLPからの焼き直ししかなく、デジタル録音の唯一のセットだった。この時期にはより人気のあるニックネーム付きのいくつかの交響曲も録音している。「告別」と「哲学者」の45番と22番、24番と27番、交響曲第107番として知られるシンフォニア・コンチェルタンテなどだ。これらの作品はすべてハイドンフィルが創立以来毎年レジデントとして参加している、アイゼンシュタットのハイドンターゲで演奏された。ハイドンターゲは9月の第2週に開催され、その直後にレコーディングが行われた。当時オーケストラはまだ比較的新しく、各交響曲をディスクに収録する前に、リハーサルや本番の演奏をする機会があったことは明らかに有益だった。当時の演奏家の質も最高水準を保証するものだった。1971年以来ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを務めるライナー・キュッヒルは常にオーケストラを率い、シンフォニア・コンチェルトではチェロのヴォルフガング・ヘルツェル、ファゴットのミヒャエル・ヴェルバ、無類のオーボエ奏者ゲルハルト・トゥレチェクという3人の同僚と共演した。

1990年6月、私たちは交響曲第1番から始め、前年に録音された第6番から第8番「朝、昼、晩」を除く最初の10曲を完成させた。1990年9月にはロンドン交響曲から逆に88番、90番、92番、オックスフォードを収録したディスクを発売した。89番と91番はその1年後に追加され、パリ交響曲のうちの2曲の83番と85番も追加された。私は1992年9月にプロデューサーの手綱を握り、交響曲第82番と第86番でデビュー以来2001年5月にシリーズが完結するまですべての交響曲の制作と編集を担当した。しかし1993年にはレコーディングが行われないことになった。ニンバスレコードは1980年代後半からマックスウェルメディアグループの傘下に入っていたが、1993年にロバート・マックスウェルが亡くなり、会社は会計士と資産ストリッパーの魔の手にかかることになった。その年のレコーディング活動はほとんど中止された。同様の状況は1999年に一度だけ財務的な締め付けが行われたときに繰り返された。オワゾリールのホグウッド、ハイペリオンのグッドマン、ソニーのヴァイルなど、他のレーベルが次々と脱落していきプロジェクトの完成に疑問を投げかけることになったが、Nimbusが成功したのは、何よりもまず私たち関係者の献身と決意とそして会社の取締役が喜んで説得に応じたからだ。売れ行きはくなかったが「始めたからにはやり遂げる」という原則が勝ったのだ。

ニンバス ハイドン・シリーズ 1987-2001の物語(2)

2001年に書かれたニンバス・レコードのハイドン全集プロデューサーの手記の続き。今日はプロジェクトの始まりの経緯。

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2. 第一楽章 – 序奏: 1986

アイゼンシュタットとは今日の観光雑誌によればハイドンの街であると伝えている。しかし、1980年代の半ばには、1761年から1790年にニコラウス・エスターハージィが亡くなるまでエスターハージィの専属カペルマイスラーだった作曲家にちなんだ名前の通りと1、2軒のレストランがあるだけで、ほとんど何もない状態だった。ハンガリーとの国境に近く、ドナウ平野の端に位置するオーストリアのブルゲンランド州の州都では、農業やそれに付随するビジネスの方が、今日世界中からハイドンファンが訪れる音楽祭よりもずっと盛んだった。しかしこの地域の歴史と地理は音楽だけでなく政治的にも豊かである。

8世紀以降、ドイツ人、スラブ人、マジャール人が移住し、現在でもハンガリー側には数百メートルの距離で言葉の違いがある土地が隣接している。ハンガリーのフェルトードにあるエスターハーザ宮殿からアイゼンシュタットの宮殿までの旅は、歴史の勉強にもなるしショプロンを経由して行くのがいい。オーストリアとハンガリーの国境はここで迂回し、ショプロンをハンガリーの中に取り込み、その結果ノイジードラー湖は2/3をオーストリアに、残りをハンガリーに分割してしまったのである。ブルゲンラントの首都になったであろうショプロンは、堂々とした建築物でアイゼンシュタットを凌駕していたが、1918年の旧帝国解体後に行われた一連の奇妙な選挙でハンガリーへの残留が決定されたのである。しかし、1918年の旧帝国解体後の一連の奇妙な選挙で、この街はハンガリー残留に投票した。その結果、国境はやや不格好に引かれ、選挙のために特別にバスで運ばれてきたハンガリー人は元の土地に戻ることができたのである。何十年も経ってから、ハンガリー人がバスで町を行き来する光景はおそらくニンバスのレコーディングが国境の向こう側で行われていたことを意味していた。ショプロンはオーストリア・ハンガリー・ハイドン・オーケストラのハンガリー・セクションの拠点だった。

ショプロンは、オーケストラの誕生と交響曲の録音がどのように発展してきたかを語る上で、もう一つの役割を担っている。1898年ショプロンのハイドン・モーツァルト・ベートーヴェン・クラブは、毎年聖金曜日にアイゼンシュタットのベルク教会でハイドンの「十字架上のキリストの最後の言葉」の弦楽四重奏版を演奏する習慣を始めた。当時作曲家は城の塔の下に埋葬されていたが、ベルグ教会にはハイドンの廟がある。この伝統は20世紀半ばにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の最も重要なメンバーの一人となり、1986年にはオーストリア・ハンガリー・ハイドン・オーケストラの創立者となった人物の父親が始めた。ヴィルヘルム・ヒュブナーである。ヒュブナーは1914年8月、オーストリア・ハンガリー帝国の最後の子供の一人としてショプロンに生まれた。1954年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の第2ヴァイオリン奏者となり、長年にわたってヴィリー・ボスコフスキーが率いる同楽団の弦楽四重奏団の一人として活躍した。アイゼンシュタットが最前線であった1945年一度を除いて、彼は生涯「七つの最後の言葉」の演奏会に参加し続けた。ヒュブナーは1997年に亡くなりこの公演の100周年には参加できなかったが、息子のアレクサンダーが一族の伝統を新世紀に受け継いでいる。

ヒューブナーは二人の男のアイディアを触媒として実現することになる。その二人はそれぞれ、ハイドンの音楽は彼が生活し活動した場所で、18世紀半ばにエステルハージの庇護のもとに結成されたヴィルトゾーオ・オーケストラの後継者である音楽家によって演奏されるべきだという同じ結論を導いていた。その二人とは指揮者のフィッシャーと当時ブルゲンランド州政府に仕え、エスターハーツィー城の特別な責任を負っていたルドルフ・モラヴィッツだった。フィッシャーはオーストリアとハンガリーの両方の国民で、ブダペストで生まれ同世代の多くの指揮者と同様、ウィーンのハンス・スワロフスキーに師事していた。鉄のカーテンの下で何十年も隔てられていたにもかかわらず、国境を越えて音楽を演奏し解釈する風土的伝統に彼は魅了されていた。国境を超える制約が緩くなった1980年代中頃から共通の音楽言語を話す音楽家たちの再結成が現実になった。「最初のリハーサルからオーストリアとハンガリーの音楽家たちが伝統的な音楽スタイルを分かち合っていたことは素晴らしい。リタルダンドやリズムのずれ、アッチェランド、アクセントなどが音楽の自然な流れを生き生きとさせ、その生来のドラマチックな質を明らかにする。」と彼は書いている。

一方、ルディ・モラヴィッツはアイゼンシュタットで毎年恒例のハイドン・フェスティバルを開き、専属のオーケストラを持つことを考えていた。彼は、ウィーンの2大オーケストラ、フィルハーモニーとシンフォニーの団員が、ハイドンに関してはロンドンセットとその他のごくわずかの交響曲しか演奏する機会がないことを不満に思っていることを耳にしていたのだ。1986年の夏ルディ・モラヴィッツとアダム・フィッシャーは初めて会い、このプロジェクトが生まれた。その年の秋に彼らはヴィルヘルム・ヒューブナーをオーケストラの初代代表に招き、演奏家の人選を手伝ってもらった。ウィーンフィルの楽団長を務めていた彼は理想的な人物であったし、教養と魅力のある人物なのでフィルハーモニーの優秀なメンバーを説得することも容易であった。

最初のHaydntageは、1987年5月末にHaydnsaalで開催された。それ以前にフィッシャーのロンドンのエージェントであるハロルド・ホルトが、ロバート・マックスウェルへの売却で資金が豊富になったニンバス・レコードに、このプロジェクトを紹介した。このレーベルの音楽ディレクター、エイドリアン・ファーマーとフィッシャーのエージェント、ロナ・イーストウッドは1987年の春にアイゼンシュタットを訪れ、オーケストラの演奏を一音も聴かずに音楽祭の直後に最初の録音をする契約を結んだ。アイディアは説得力があり、ハイドンザールでのひと時はニンバスがヨーロッパに埋もれていたコンサートホールの宝物を見つけたと確信するには十分なものだった。エイドリアン・ファーマーは2度手を叩き、6月にマイクを持って戻ってくることを約束した。

ニンバス ハイドン・シリーズ 1987-2001の物語(1)

ニンバスのハイドン交響曲全集のプロデューサー、ドミニク・ファイフェ氏の手記は「エステルハーツィー・レコーディングス、ニンバス・ハイドンシリーズ1989-2001の物語」と題されている。初期のハイドンフィルはウィーンフィルハーモニーの重鎮が参加していたので、日本でもおなじみの奏者の名前がでてくる。今日は第1回目。

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1. フィナーレ2001年5月10日

「これで終わり?」

フィッシャーはもちろん答えを知っていたが、2001年5月10日木曜日の夜8時15分にそう問うことにより15年間の録音の歴史に幕を下ろした。安堵と祝福へのサインだ。

終了といっても2つに分かれていた。まず5月8日(火)には、さまざまな理由でうまくいかなかった3、4楽章のリテイクのセッションがあった。10日間という長丁場、12曲46楽章の交響曲の録音では、いくつかの楽章の質が劣るのはほぼ必然である。最後にやり直したのは交響曲39番の冒頭部分だ。最初のテイクでは強風がHaydnsaalを襲い、この楽章を特徴づける多くのドラマチックな休符を邪魔していた。「シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風激怒)」である。しかし別の日にはそのフラストレーションは無くなり、フィッシャーの指揮は白熱し劇的なト短調のフルストップでサイクルが終了した。その晩はアイゼンシュタットのレストラン「エーデル」でオーケストラ全員と指揮者、マネージャー、そして私と同僚のジョン・グラッドウィンの通称「ニンバスの二人の紳士」をが一堂に会し、一番長いテーブルで夕食会が開かれた。

しかしその2日後にはまるでハイドンザールの日常が繰り返されたようだった。オーケストラのウォーミングアップ、マイクの設置、そしてプロデューサーが隣のヴィルドシュヴァインザールの廊下を徘徊し、すべての接続ドアが閉まっていることを確認する。再結成の理由は簡単だ。過去どの交響曲を再録音するかという議論があったが、スコットランドのフォース鉄道橋の塗装のように永遠に終わらない仕事に例えられていた。現実的な解決策として、最初の録音から解釈的に大きく進化した交響曲を1曲再録音することで、音楽的な「前」と「後」を記録することにした。ライバルであるドラティによるデッカのシリーズはニンバスシリーズの4分の1以下の期間で録音されており、結果として音楽的にも技術的にもより一貫性があることを忘れてはならない。

私自身うれしい事には、アダムは躊躇なく交響曲88番を選んだ。個人的に好きな作品で10年以上前の1990年9月のセッションに参加した曲だ。この録音は素晴らしいもので、ピーター・ヘイワース氏ほかの批評家がオブザーバー紙の彼の最後のレビューで暖かく迎えてくれた。このときのオーケストラは、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者という豪華な顔ぶれだった。コンツェルトマイスターのライナー・キュッヒル、第2ヴァイオリンのヴィルヘルム・ヒュブナー、チェロのフリッツ・ドレザル、オーボエのゲルハルト・トゥレチェク、フルートのマインハルト・ニーダーマイヤー、ホルンのギュンター・ヘグナーなどである。これらの奏者の存在は、指揮者の信念というよりウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の伝統に基づいた独特の音とスタイルを保証していた。今聴くとフィッシャーはこの録音はアクセントが足りなかったと言うのではないかと思う。1998年6月にバービカンで開催された中欧文化フェスティバルのオープニングコンサートで彼の指揮するこの曲を聞いた人なら、この意味がよく分かるだろう。タイムズ紙のヒラリー・フィンチはこう評している。

「彼らの方言はまさに中央ヨーロッパ的である。彼らのフレージングとアーティキュレーションを聴くことは、音楽の主流である標準ドイツ語と比較して、オーストリアの田舎町の方言を聞くことと同じである。フィッシャーは楽器アンサンブルのバランスに気を配っており、メロディーの受け渡しやアクセントのゆらぎで、まるで初めて聴くかのよう感じられる部分が多い。そしてこの音楽が骨身に染みている人たちの弓からは、移民や移住者の文化が豊かな国境地域の遠い民俗音楽の口伝による伝統が新たに浮かび上がってくる。」

2001年5月に行われた交響曲88番の新録音はこのような地域性を記録しているが、ブルゲンランドのもうひとつの名物であるワインによってほとんど台無しにされるところだった。アイゼンシュタットのエステルハーツィー城はハイドンの故郷であると同時に、独自のブドウ畑を持ち自家製ワインを生産している。“Die Schopfung”というラベルの付いた赤と白のワインは趣味の良い組み合わせだ。ハイドンザールの真下にあるワインの瓶詰め工場とニンバスにホールを貸しているエステルハーツィー城の経営陣の間には、長年にわたり不穏な空気が流れていた。これは観光客の侵入、小さな振動、シュロスカフェでのビートルズナイトなどとともに、私たちが最近すっかり忘れていた問題だった。しかし88番のフィナーレの最初のテイクが終わった時、あまりにも聞き覚えのある音が聞こえてきたのだ。数千リットルのヴェルシュリースリングを瓶詰めする音で、14年の歳月をかけた最終日に私たちの努力は報われたのだ。ハイドンもこの冗談を喜んでくれただろう。私たちはしばしば、録音が突然中断された交響曲に新しいニックネームを付けたい衝動に駆られたものである。一般の人はピンと来なかったかもしれないが、例えば交響曲第4番に「ブラウフランキッシュ」というサブタイトルをつけていた、。この日はオーケストラの副団長で第2ホルンのボビー・ロレンツィの真のウィーン人外交と夕食を早めに延長することで、88番の録音はめでたく終了した。

エステルハーツィー・レコーディングのプロデューサー

ファンだからアダム・フィッシャーに関する新聞記事や批評のコピーを集めているのだが、最近アダム・フィッシャーは再びハイドンの録音をすることになったので、ニンバスレコードで録音した時の記録を探してみた。1987年から2001年まで14年かけて録音し、やっと全集が完成した直後にニンバス・レーベルが倒産してしまったため、残念ながら総括する記事は見つからなかった。2002年頃にプロデューサーの手記がネット上に掲載されていたのだが、さすがに20年も経つと見つからない。幸い印刷したものを取ってあったので、それをOCRを使ってデジタル化し、合わせて日本語に訳してみた。今となっては懐かしいが、興味のある方もいると思うので少しずつ紹介する。

まず今日は著者の経歴。「エステルハーツィー・レコーディングス」と題されたエッセイは、アダム・フィッシャー指揮のオーストリア・ハンガリー・ハイドンフィルハーモニーが録音したハイドン全集のプロデューサー兼編集担当者のドミニク・ファイフェ氏が2001年の12月に書いたもの。彼は全体の約7割のプロデュースを担当した。ニンバスが倒産した後はメジャーレーベルのデッカに移り、小澤征爾とサイトウキネン・オーケストラのレコードもプロデュースしているようだ。アメリカのグラミー賞もプロデューサーとして受賞しているようなので、ずいぶんと成功したみたい。私が会ったのは1991年のレコーディングセッションで、まだアシスタントだった。

手記を書いたのは2001年12月で、ニンバスが倒産して新しい仕事を探していたのかもしれない。アイゼンシュタットの常連で友人であるロンドン在住の旅行エージェントが手記を書くように勧めたようで、しばらくはそのサイトからアクセスすることができた。その人も2年半前にコロナで亡くなり、もう手記の原文はどこにあるのかわからないし、もちろん日本語訳も存在しない。翻訳する権利を取ったわけではないけれど、それほど長い手記ではないのでネタの無いときなどに紹介しようと思う。

バイロイト音楽祭のパルジファルとカタリナ・ワーグナーの将来

バイロイト音楽祭はワーグナー家が運営するという暗黙のルールがあったから、過去には総監督の座を巡って一族ないでのスキャンダルが話題になった。作曲家の孫であるウォルフガング・ワーグナーは監督の座に居座り続けたけれど、そのあとを継いだカタリナ・ワーグナーの契約は現時点では2025年までになっている。その契約延長についての議論は今後1年の間に重要なテーマになることから、すでにドイツ国内で話題になっている。

カタリナ・ワーグナーは監督就任以来、演出中心のレジーテアター路線を目指している。だから今年のリングの新制作のように、若手やオペラの経験の少ない演出家を起用し、演出で新しい聴衆を獲得するような方針を取っている。でも保守的なバイロイト音楽祭の聴衆はそれにはついて行けない人も多いみたい。その代表がバイロイト友の会の会長で、バイロイト音楽祭の理事長を務めるゲオルグ・フォン・ワルデンフェルス。バイロイト音楽祭が終わった後にインタビューに答えて、バイロイト音楽祭は音楽中心にすべきで、クリスチャン・ティーレマンを起用しないことに関して反対意見を述べている。

バイロイト友の会というのはバイロイト音楽祭に出資している重要な団体で、予算についても発言権がある。来年の「パルジファル」は演出コンセプトでは立体映像を使うと宣伝しているのだが、そのためには特性の3D眼鏡が必要だ。当初は音楽祭が2000人分の眼鏡を購入するという話だったのだが、ワルデンフェルスの反対により予算が削減され、多くても200ぐらいしか購入できなくなった。これでは現実に3D体験ができるのはわずか1割しかいない。ワルデンフェルス自身は、理事会は芸術面に口出すことはできないが、予算が適正に使われているかどうかをチェックするのは理事の仕事としている。

一方ドイツ連邦の文化庁長官は、バイロイト音楽祭はもっと広い聴衆から支持されるべきと考えていて、総監督はワーグナー家だけ限る必要はないと公言している。それについては保守的なワルデンフェルスは反対していて、カタリナ・ワーグナーは運営する能力があるし、バイロイト音楽祭はワーグナー家が運営すべきとしている。だからもっと音楽に重点を置いた上演にするように総監督に制約を付けるのつもりかもしれない。

ただ現実の問題は毎年バイロイトに集う人々は一般のドイツ人からかけ離れているという事。ドイツのテレビのクイズ番組でもクラシック音楽に関する問題は答えられる人も少ない。ある番組で40年前と同じ問題をドイツのタレントに対して出題する特番があったのだが、当時は一般市民の回答者もワーグナーのオペラの一部を聞いただけでどの作品か答えられていた。同じ問題を出されたドイツ人のタレントは全くわからない。その人曰く「40年前はワーグナーは常識の一部だったかもしれないが、今はそうではない。」と言い訳していたが、確かにその通りなのだ。ザルツブルグ音楽祭のように大部分が企業スポンサーからの寄付で運営されているならともかく、ドイツ連邦やバイエルン州、さらにバイロイト市からの補助金を受けている音楽祭が、ごくわずかの人のために開かれるというのは反対意見も大きくなる。

ゲヴァントハウス管がウクライナ難民を支援する人を招待

ライプツィヒのゲヴァントハウス・オーケストラはウクライナ危機を支援している市民に感謝するため、コンサートに招待する。ロシアのウクライナ侵攻が続く中、多くのライプツィヒ市民が自宅を開放するなど、ウクライナからの難民にを支援している。ライプツィヒの市長によれば、「これは連帯のかけがえのないしるしであり、ライプツィヒの人々が危機の時でも団結し、助けに際限がないことを示している。」

そこでこれらウクライナ難民を支援している市民らを市の支援するゲヴァントハウス・オーケストラの演奏会に招待する。コンサートは9月15日で、首席指揮者アンドリス・ネルソンスが指揮をする。プログラムはメンデルスゾーン、ショスタコーヴィッチ、ベートーベンで、過去数か月ウクライナからの難民を支援してきた市民が登録すれば無料で演奏会に招待される。

ライプツィヒ市によれば、戦争が始まった2月24日以来、1万8百人以上のウクライナ人がライプツィヒに難民として登録された。ほとんどの難民たちは個人の家に滞在している。

バイロイト音楽祭の「フューラー」スキャンダル

バイロイト音楽祭は8月末に終了し、今は音楽祭のマネージメントも休暇を取っている。ところがここに来て、「フューラー・スキャンダル」が再燃している。

スキャンダルは「ローエングリン」の公演での事。本番前の最後の通しリハーサルであるゲネラルプローベでは、ローエングリン役のクラウス・フローリアン・フォクトは最後の部分をワーグナーのテキスト通り、≪Seht da den Herzog von Brabant! / Zum Fuhrer sei er euch ernannt!≫と歌っていた。ところが支配人のカタリナ・ワーグナーはFuhrerつまり指導者という言葉をSchutzer、日本語では保護者に変えて歌うように指示したこと。

この変更自体はドイツの劇場では行われることも多く録音でも歌われることがあるし、バイロイト音楽祭でも過去に変更された歌詞で上演したことはある。Fuhrerとは第二次大戦以前はヒットラーの呼称だったし、当時の音楽祭マネージメントはヒットラーとの癒着があったことは事実だから、特に気を遣うのは理解できる。総監督のカタリナ・ワーグナーも同様の説明をしていた。だから7月の時点でその点について指摘した新聞記事はあったが、今年のリングの演出の悪評のに隠されて大きな話題にはならなかった。

それなのになぜ今頃話題になっているかといえば、「ローエングリン」の指揮者だったクリスチャン・ティーレマンがウェルト紙のインタビューで蒸し返したから。ティーレマンはとても怒っていて「フューラー・スキャンダル」だと言っている。ティーレマンの言うところによれば、≪Fur deutsches Land das deutsche Schwert≫など、ローエングリンだけでも適当ではない歌詞はいくつもある。これを拡張していくと、殺人を扱っているという理由で「トスカ」を上演できなくなる。

多くのメディアはティーレマンの発言を引用する形で報道しているけれど、歴史的背景や上演団体の過去を考慮して「フューラー」という単語を変更する事と、トスカは殺人だから上演しないというの別次元で、理論が飛躍しすぎる。ましてすべての公演が終了し音楽祭が終わった後に蒸し返すというのも説得力がない。だからこの件はティーレマンとカタリナ・ワーグナーの不仲を象徴するものとして報道されている。ティーレマンはバイロイト音楽祭の音楽監督だったが、2019年に契約が切れた後には延長されていない。ティーレマン自身は公には「気にしない」と言っているが、過去20年以上出演したのに少なくとも来年はティーレマンは登場しない。

今年の「ニーベルングの指環」は観客の受けが悪かったこともあり、バイロイト音楽祭は改革の必要性に迫られている。音楽祭の理事長である「バイロイト友の会」の会長は、最も評判が良かったティーレマンを起用しないことについて批判的な発言をしている。一方理事の一人であるドイツ連邦文化長官のクラウディア・ロスは、ドイツ連邦が支援するバイロイト音楽祭は幅広い聴衆を引き付けるための改革が必要であり、それができる人物ならワーグナー家以外でも起用すべきとしている。

でもティーレマンを起用することが「幅広い聴衆」につながるような気はしない。確かにティーレマンは優秀なワーグナー指揮者だけど、あまりに保守的で一般聴衆との乖離が広がるのではないか。この人はほかの団体とも問題があったし、政治的な問題発言もあるからマネージメントとしては頼りたくないのは想像できる。

アダム・フィッシャー73歳

アダム・フィッシャーは1979年9月9日生まれなので、金曜日に73歳になった。1989年から2017年まではこの時期にはアイゼンシュタットでハイドンターゲがあり、誕生日にはリハーサルかコンサートがあって忙しく、家族と祝うことはほとんどなかった。2014年は珍しくリハーサルもなかったのでハンブルグの自宅で誕生日を祝ったのだが、デンマーク国立室内管がデンマーク放送から切り離されるという最悪のニュースが伝わってガッカリした。

その騒動から8年たち、デンマーク室内管は私立のオーケストラとして活動している。今でも文化支援団体からの寄付は受けているが、ポップスコンサートや映画音楽の収録などで年間100公演近く演奏し経営も好調らしい。ブラームスのCDは評判になっているし、ハイドンの交響曲のロンドンセットとパリセットの録音プロジェクトも始まった。来年の1月にはテアター・アン・デア・ウィーンに客演するし、9月にはグラーツのハイドン音楽祭でも主役を務める。

今年の誕生日はデンマーク室内管とのハイドンの録音セッションが終わり、ベルリン在住の娘さんの家族と過ごすはずだった。ところがその娘さんや孫たちがコロナに感染してしまったようで、残念ながらそのイベントは無くなったみたい。週明けからはデュッセルドルフ響とのリハーサルがあり、そのあとはハンブルグでのモーツァルトの再演と新シーズンも忙しい。

因みにコペンハーゲンのハイドンの演奏会、2日めの公演はラジオで放送された。聞きたい方はこちらをどうぞ。

No.434、2022年9月4日、デンマーク室内管、ハイドン音楽祭(3)

Danish Chamber Orchestra
Emoke Barath (Sopran)
Adam Fischer

J. Haydn: Symphony No. 97
J. Haydn: Scena di Berenice
W.A. Mozart: Exsultate, Jubilate
J. Haydn: Symphony No. 98


コペンハーゲンのハイドン音楽祭、最後のゲストはハンガリー人ソプラノのエメケ・バラート。彼女はワーグナー・イン・ブダペストにも登場していて、昨年は「トリスタンとイゾルデ」2幕でブランゲーネを歌っていたはず。ハイドンのアリア「ツェーナ・ディ・ベレニチェ」とモーツァルトの「エクスルターテ・ユビラーテ」。どちらもアダムの演奏会では何度も取り上げられている。特に「ツェーナ・ディ・ベレニチェ」はベルリンフィルをはじめいろいろな楽団と演奏している。恋人の死を嘆いて自身も死にたがっているベレニーチェの心情を歌ったもので、ソプラノにはドラマチックな表現力が要求される。ただモーツァルトはコロラトゥーラが重要なのだが、バラートは得意ではないらしく、少しテンポをゆっくりにしないと歌えなかった。

交響曲97番はアダムが好んで取り上げる曲で、10月のベルリン放送響とのプログラムにも入っている。第2楽章の変奏曲で、弦楽器がコマの上をひくスル・ポンティチェロ指定があることで知られている。ただアダムに言わせると多くの楽団はスル・ポンティチェロはやるけれど、弱音で演奏することはしないのだとか。デンマーク室内管はこの部分もしっかりピアノで演奏していた。

反対に98番は演奏回数が極端に少ない。アイゼンシュタットでの記録は2回だけ。この曲は4楽章の最後にチェンバロのアルペジォ演奏が入る。わざわざそのためだけにチェンバロ奏者を雇うわけにもいかないので通常は指揮者が弾くのだが、指揮者の前に楽器を置くとオーケストラのアンサンブルの妨げになるので、ヴァイオリンの後ろ指揮台から4−5メートル離れたところにセットした。その部分になるとアダムは指揮台から飛び降りてチェンバロのところに行き、片手で指揮しながら演奏した。その仕掛けをしらないお客さんはびっくりさせるのが目的。でもリハーサルでは上手くいかず、何度か繰り返してやっとタイミングがあった。アダムはこういうジョークが大好きだ。

No.433、2022年9月3日、デンマーク室内管、ハイドン音楽祭(2)

Danish Chamber Orchestra
Jonas Lyskaer Frolund (Clarinet)
Adam Fischer

J. Haydn: Symphony No. 95
W.A. Mozart: Clarinet Concerto in A-Major
J. Haydn: Symphony No. 96.


2回目の公演はハイドンの95番、96番に加えてモーツァルトのクラリネット協奏曲。ハイドンの時代にはクラリネットはまだ発明されて間もなく、オーケストラの中に含まれていなかった。だからハイドンの交響曲の中でクラリネットが入る曲は後期のわずかしかない。そこで出番のないクラリネット奏者をソロに迎えて、モーツアルトの協奏曲をハイドンの間に挟んだプログラム。

実はこのプログラムが3回の公演の中でアダムにとって最も大変だった。アダム・フィッシャーはいろいろな楽団からハイドンを頼まれるし、デュッセルドルフ響とのマーラーシリーズもハイドンの作品と組み合わせている。それでも実際にコンサートで演奏する機会のある曲は限られていて、今回の6曲の中では94番と97番以外はそれほど多くは無い。この日の95番と96番はアイゼンシュタットで数回演奏しただけ。音楽祭はプログラムをたくさん用意しなければならないから、ハーサルの時間には注意が必要だけど、本番の経験が少ないとちょっとしたトラブルでもリハーサルの時間が足りなくなってしまう。

95番は序奏のない珍しい曲だけど、ハイドンフィルとは異なりはつらつとした演奏。その後のクラリネット協奏曲はソリストの技術が素晴らしく、お客さんは立ち上がっての大喝采。ソロのフロルンドはデンマーク室内管のメンバーでも最も若い人で、2015年にデンマーク放送から独立した後に入団した。経済的な苦境にもかかわらずうまい若手が入って来るというのは良い傾向だ。

休憩の後は交響曲96番。一般的には「奇跡」のタイトルがついているけれど、シャンデリアが落下したエピソードは実は102番の公演だったと訂正されている。でもニックネームはそのまま残ったみたい。この曲の第4楽章はプレストでハイドンフィルの演奏でもだいぶ早くなっていた。でもデンマーク室内管はものすごく速い。アダム自身も「こんなに早く演奏したことはないけど、オーケストラがやりたがったんだよね。他のオーケストラじゃ絶対にできない」と言っていた。確かに速いから録音でどうなるか興味がある。

No.432、2022年9月2日、デンマーク室内管、ハイドン音楽祭(1)

今年からコペンハーゲンで始まったハイドン音楽祭の1回目の公演のレポート。

Danish Chamber Orchestra
Hakan Hardenberger (Trumpet)
Adam Fischer

J. Haydn: Symphony No. 93
M. Haydn: Trumpet Concerto No.2
T. Brostrom: Sputonik
J. Haydn: Trumpet Concerto
J. Hayydn: Symphony No. 94.


なぜハイドン音楽祭をコペンハーゲンで開くかというと、グラーツから招聘があったから。来年以降9月後半にグラーツの楽友協会がハイドン音楽祭を企画していて、デンマーク室内管がレジデンツ・オーケストラとして招かれているから。その話をナクソスに持っていったら、ハイドンの交響曲25曲の録音プロジェクトが決まり、録音する前にコペンハーゲンで演奏会を開くことになった。

ハイドンが長く生活したアイゼンシュタットのハイドンターゲは、ハイドンザールで開かれたこともあってオーセンティシティをメインにしていたが、ハイドンとは縁の薄いコペンハーゲンだから、音楽祭と言ってもスタイルは全然異なる。舞台の後方には電飾でHAYDNの巨大な文字をつくり、照明も派手でクラシックではなくてポップスの演奏会みたい。

アダム・フィッシャーはとにかくハイドンが大好きだから、夏の間から楽しみにしていたらしい。舞台に登場した時にとてもうれしそう。オーケストらは今一つハイドンには慣れていない部分があったが、ハイドンフィルよりもさらに過激な演奏。ただ第4楽章はテンポが速くて弦楽器がばらけてしまったのが残念。

この演奏会のソリストはトランペットのハーケン・ハーデンベルガー。ボストン響などとも共演している人気トランペット奏者らしい。ミヒャエル・ハイドンのトランペット協奏曲とハーデンベルガーの友人のブロシュトロームが作曲したモダンピースの「スプートニク」はピッコロ・トランペットで演奏。かなり高い音が出る。「スプートニク」ではアダムはお休みでソリスト自身が指揮も担当した。休憩の後は普通のトランペットを使ってヨーゼフ・ハイドンのトランペット協奏曲。

この日最後の曲はハイドンの「驚愕」。第2楽章では定番のティンパニーの強打がある。94番だけは過去にプログラムに入れていたので速いテンポでも問題なし。楽しいハイドンの演奏だった。

50年前の出来事

コペンハーゲンのハイドン音楽祭に行ってきた。詳しくは後日の日記に書くとして、今日は50年前の出来事について。

1972年9月5日は「黒い9月」というパレスチナのテロ組織が開催中だったミュンヘン・オリンピックの選手村に侵入し、イスラエルの選手を人質に取った事件から50年になる。ドイツ国内では事件を振り返った報道番組があった。

1972年8月26日に始まったミュンヘン・オリンピックも後半に入っていた。その36年前、1936年のベルリン・オリンピックはナチの勢力を見せつけるイベントとして政治利用されたので、ミュンヘンではその後大きく変わった西ドイツを世界に示すため、ミュンヘン市だけでなくドイツ全土も力を入れていた。ただテロ事件は想定されていなかったので一般の警察が対応し、世界中のテレビで中継されたので警察の動きが犯人グループに筒抜けなど、結果的には大失敗に終わった。

犯人グループは9月5日の午前4時過ぎにイスラエル選手団の宿泊場所に押し入った。その際に抵抗した選手と役員の2名を射殺し9名を人質に取った。射殺された遺体を警察が見つけたことにより事件が発覚すると、世界中の報道陣が集まりテレビの生中継になった。オリンピックの試合は中断したから当然ではある。

犯人グループはイスラエルに拘留されているパレスチナ人らの解放を要求したが、イスラエル政府はそれを拒否した。だからドイツ政府は事態を交渉で解決することができなくなった。そこでまず地元警察が状況を見極めるために警察官数名を現場に派遣した。テロの経験がないミュンヘンの警察は、わざわざスポーツ・ウェアを着た警官に銃を持たせて建物の周りを検証させたが、普通よりもずっと目立ってしまった。

その後夕方になって犯人グループは人質とともにカイロに脱出する要求を出した。そのためにまず2台のバスとヘリコプターを使って軍事基地まで移動することになった。この時点では犯人グループは5名と信じられていてその情報を元に作戦計画を立案していたが、この時初めて犯人グループは8名ということがわかった。

近くの軍事基地にルフトハンザ機が止められていることは確認できたが、ヘリコプターが着陸して犯人グループの数名が近寄ると、それは無人であることがばれてしまった。そこで警察と犯人グループの銃撃戦が展開し、9名の人質全員と警察官1名、犯人グループの5人が死亡するという最悪の結果になった。地元警察は狙撃犯を用意していたが、夜の狙撃だしテロ対策の専門部隊ではなかったことも要因とされている。

軍事施設を取り巻いていた報道陣は中で何が起きているのかはわからなかった。だから当初は人実は全員無事解放というニュースが伝わり、オリンピックはそのまま継続する話になった。警察の現場検証ののちに真実が伝わると、翌日には追悼集会が開かれゲームの再開が宣言された。

犯人グルーでの生き残った3名はドイツの刑務所に収容されたが、1972年10月に発生したルフトハンザ機ハイジャック事件で乗客ら人質と交換され、リビアに亡命した。この人質交換にはイスラエル政府は反対し、それも原因でオリンピック事件の遺族はドイツ政府と和解していなかった。昨年の東京オリンピックで遺族が求めていた黙祷が実現したこともあり、50年の節目でやっと遺族を含めた追悼式典が営まれた。

コペンハーゲンのハイドン音楽祭

明日からアダム・フィッシャーはコペンハーゲンで3日間ハイドンを演奏する。アダムはハイドンの交響曲全集を録音している数少ない指揮者だから、ハイドンの解釈では定評がある。デュッセルドルフ響とのマーラーの演奏会でも基本的にハイドンを演奏して、ハイドンとマーラーの共通点をあぶりだすプログラム構成をやっていたのだが、デンマーク室内管ではハイドンはあまり演奏してこなかった。その理由はアダムが創設したオーストリア・ハンガリー・ハイドンフィルハーモニーがハイドンターゲで演奏していたし、同じ室内オーケストラとして差別化を図ったというところ。もちろんデンマーク室内管も「告別」などいくつかは演奏しているが、今年からは音楽祭として本格的に取り組む。

なぜそうなったのかと言えば、グラーツの楽友協会からの招聘があったから。アダムの音楽家としてのキャリアはグラーツから始まったこともあり、グラーツ楽友協会はアダムを名誉会員に任命して何度も招聘している。デンマーク室内管も客演していて、その時はモーツァルトやベートーベンが中心だった。

グラーツ楽友協会は来年からアダム指揮のデンマーク室内管によるハイドン音楽祭を開く計画を立てた。音楽祭ではハイドンの後期の交響曲のコンサート4公演とオペラのコンチェルタンテ形式上演が予定されている。

その話を聞いたナクソスは、ハイドンの最後の24曲の交響曲の録音するプロジェクトを決定した。ニンバスの録音は80年代後期から90年代初期だから、アダムの解釈も大幅に変わっている。アダム自身も再録音に意欲的で、録音の前に演奏会を開くことになった。だから今年からコペンハーゲンでもハイドンを集中的に演奏する。

今年は明日から3公演あり、プログラムは明日がトランペット協奏曲と交響曲93番、94番。土曜日がモーツァルトのクラリネット協奏曲とハイドンの交響曲95番、96番。日曜日がハイドンとモーツァルトのアリアと交響曲97番、98番。

私は明日からコペンハーゲンに行く予定なので、日記は数日お休みする。

夏の音楽祭終了

8月も終わりで夏の音楽祭も終了した。ザルツブルグ音楽祭のチケット収入はパンデミック以前とほぼ同様のレベルに回復したとの事。今年の収入は3110万ユーロで、出演者の感染によるキャンセルが無ければ2019年の3120万ユーロも抜いていただろうとの事。

今年のザルツブルグ音楽祭は7月18日に開幕し、オペラ、演劇、コンサート合わせて172公演を実施し、入場率は96パーセント。これは去年よりも16パーセント増加している。音楽祭は8月31日のマンフレット・ホネック指揮のピッツバーグ響の演奏会で終幕した。

一方、バイロイト音楽祭も終了。今年はリング4作に加えて、合唱の少ない「トリスタンとイゾルデ」も制作した。エモーショナルな「トリスタンとイゾルデ」は大喝采だったけど、期待のリングの新制作にはブーイングが多かった。

来年にはパブロ・ヘラス・カサドとナタリー・シュトゥッツマンがバイロイトデビューすることがすでに発表されている。ヘラス・カサドは新制作の「パルジファル」、シュトゥッツマンは「タンホイザー」の再演を担当する。

もう少し先の計画も発表された。2024年には再び「トリスタンとイゾルデ」の新制作を計画していて、指揮者は現チェコフィルのシェフであるセミヨン・ビシュコフ。2025年にはダニエレ・ガッティが「ニュルンベルグのマイスタージンガー」の新制作を指揮する。

総支配人カタリナ・ワーグナーの任期は2025年までで、この契約が延長されるかどうかがこの先の焦点になる。今まではワーグナー一族が運営していたけれど、カタリナ・ワーグナーが進めているレジーテアターは理事会の重鎮であるバイロイト友の会は「バイロイトは舞台上で起こっていることよりも音楽が重要」と反対している。ワーグナー家以外からの支配人選出も含めてここ数年の話題にはなりそう。

バレンボイムがベルリン国立歌劇場のリングをキャンセル

ハーディーは8月30日の午後1時に安楽死させた。明日の朝動物火葬業者が引き取りに来る。かわいそうだけどこれでけじめがつく。

一方ベルリン市民には残念なニュースが飛び込んできた。ダニエル・バレンボイムがベルリン国立歌劇場の「ニーベルングの指環」の指揮を全部キャンセルする。このリングはバレンボイムの80歳を記念した新制作で、演出はドミトリ・チェルニカノフで4作一度に制作する方式。第一サイクルが10月2日、3日、6日、9日で第二サイクルは15日、16日、20日、23日。第三サイクルは10月29日、30日、11月3日、6日。来年の4月のペルリン・フエストターゲの公演としてもう1サイクル予定されているが、今のところこの公演はわからない。

代役の指揮者は第一サイクルと第三サイクルがクリスチャン・ティーレマン、第二サイクルはベルリン国立歌劇場のカペルマイスターのトーマス・グッガイス。グッガイスはカペルマイスターだからバレンボイムがツアーで不在の時は歌劇場を切り盛りしている。だからこのリングの制作にもすでに1年前から参加している。ドイツの歌劇場では音楽監督がダメな時はカペルマイスターが指揮するのが普通だけど、やっぱり遠方からのお客さんへの配慮もあってティーレマンに2サイクルを頼んだのかも。

ヨーロッパのコロナも少し落ち着いてきたから、日本からリングのチケットを購入された方もいるかもしれない。そういう方にとっては残念だけど、最も残念なのはバレンボイム自身かもしれない。本人の声明によれば、春先に患った血管炎が完治せず、ドクターストップがかかったとの事。一日も早く完治して演奏活動を再開してほしいものだ。
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アメリカに8年在住後、20年前にドイツに移住。指揮者アダム・フィッシャーのファンクラブ会長で追っかけ歴は31年。E-Mailはfanclub@haydnphil.orgまでどうぞ。

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