本書は、ただの人物歴史書ではなく、著者の先祖に関わりのある探求書になっている。覺明という人物は、長野県の古刹、康楽寺(建暦2年、西暦1212年創立)の開祖。ここに隣接して西光寺があり、著者はこの寺で育った。康楽寺を本房とし、西光寺を門寺と称していたという。
 帯に「七つの名前を持ち、七つの人生を生き最後は小県郡海野庄(小県郡東部町本海野)に念仏道場を開き更科郡塩崎長谷(長野市)の地で没したとされる怪僧の生涯を復元」とある。本書によると覺明は、木曽義仲の祐筆からはじまり、名前を道弘、信救、大夫房覚明、信救得業、信阿または浄寛、西仏と変え平家物語の生成に関わった。名文章をあやつる記録者であったらしい。箱根の温泉の強羅から芦ノ湖の箱根関所跡までに曽我兄弟の記念碑や茶屋跡がある。この曽我兄弟物語のある箱根縁起として、口述物語から文章化したのが、この覺明だとされている。
 著者が親鸞聖人の教えで受けた啓示など、宗教的な精神とのかかわりも述べられている。たまたま、私の檀家寺とでもいうのだろうか、それが、浄土真宗本願寺派(西本願寺)東京教区に所属している。厳正寺といって、住職の姓が北条であるから、おそらく伝統的なものを継承しているのであろう。同じ教区の品川区大井に西光寺という寺がある。謡曲や説経にもでてくる寺の名であるから、各地にあるのかもしれない。
 本書には宗教的精神に触れたくだりがあるが、親鸞に関する本を多少は読んでいたため、著者・崎村氏の心境というのは、かなり理解できた。
 私の住む大田区は、平家物語の「宇治川の合戦」に登場する梶原景季と佐々木四郎高綱にゆかりがある。洗足池のほとりに千束八幡神社があるのだが、ここは源頼朝が戦の旗上げをしたとされている。そこには馬の像がある。なんでも頼朝が磨墨(するすみ)と池月(いけづき)という名馬を調達した土地であるという。近くに馬込という丘陵地帯もあるので、昔は馬の産地だったらしい。また、長野の西光寺というのも私の記憶にある。それは戸隠山・宝光寺の方面にあったという古跡である。私は10年近い前、歴史探訪に戸隠へ訪れたことがある。史書によると、戸隠神社は戦国時代、武田信玄と上杉謙信が国威をかけて争奪戦を繰り広げている。皮肉なことに、それによって戦場となった神社一帯は荒廃し、三千坊といわれるまでの宿坊があったのが、信者は一時山を離れ信仰の場を移転させたという。そのころの西光寺跡地というのがあった。その時、同行した妻は、観光に来たのかと思ったら、あなたは何もない野原ばかり見て歩いている、とあきれていたが、たしかに史跡とはそういう面がある。さらに、戸隠が信仰を集めた元には、九頭龍神話があった。この九頭龍伝説が箱根神社の祭事として今も残っている。箱根神社の宮司の説によると、これは戸隠伝説から影響されたものであろう、という。覚明と「箱根縁起」については、私は箱根神社の宮司・濱田進氏の著書「龍神物語」(日正社刊)でその概略を知ったのである。
 このような経緯があって、興味深く読んだ。主な参考文献だけでも80を超えて列挙されており、大変な労作である。覚明の文献上の追跡はし尽くしている感がある。なかでも、九章「浄寛、法然上人の門に入り、西仏となる」以降は、著者の宗教的経験がよく投影され、学ばされるところが多かった。宗教者にとって、権力者の威光は、それの普及拡大に繋がる場合には呉越同舟だが、いざ教義に関わることについては、対立的になる宿命がある。いづれにしても、文才をもって動乱の時代を生き抜き、功績を残した覚明という人物を、輪郭的ではあるが、よく追跡整理してある。
発行所=さいたま市桜区神田570-7、法規文化出版社、電話048-853-7531
「文芸研究月報」2003年7月号(通巻31号)