PB190001<憲法は、誰が誰に対して制定したものなのかなど、本質論を語る松村比奈子法学博士(拓殖大学非常勤講師・首都圏大学非常勤講師組合委員長)11月19日、都内で)
 憲法がなぜ必要とされたのか、ということの原理的な思想は、トマス・ホッブスの「リヴァイアサン」(Leviathan、1651年)論にある。リヴァイアサンとは、旧約聖書・ヨブ記に登場する無敵の怪物の名である。ホッブスは国家(コモンウェルス)は、軍隊や警察という暴力装置をもつ怪物であると考えた。国民はこの暴力装置をもって、国民を抑圧し、命令一つで財産を奪われ命を奪われる立場にある。
 憲法の改正論のなかで、もっぱら成文が問題視されるのは当然である。しかし、その反面、無視されるという側面があることは、決闘罪のように死文化したものがあることを示した。
 どんなに立派な憲法でも、それが慣習として定着していなければただの紙切れにすぎない。
 アメリカの憲法は27回も修正されていた。その背景には、黒人奴隷は、米国合衆国建国以降から急速に拡大したことがある。19世紀初頭、産業革命の影響でイギリスの綿の需要が急増。南部諸州の農地で人手不足から、1200万人〜1500万人の奴隷を輸入した。
 初代大統領ワシントン・三代ジェファーソンも大農場主・奴隷所有者であった。その後、南北戦争があって奴隷制度の廃止となった。
 1865年、アメリカ合衆国憲法修正第13条・奴隷制度廃止。1868年14条・公民権付与。1870年15条・黒人男性への参政権の付与。
 ところが、1883年の最高裁判決で「アメリカ合衆国で生まれた(または帰化した)すべての者に公民権を与えるとした修正第14条は、私人による差別にはあてはまらない」という判決を出し、実質的に無効化された(憲法学者の松村比奈子博士のレジメ。憲法の先進国であるアメリカの憲法の歴史の解説)。その後も紆余曲折を経て、現在に至っている。
 憲法は誰に向かって作られたものかを考えよ、と松井博士は強調する。それは原則として、国民が作るのであるから、自分に向けて誓うこととするのは、不自然である。法的な強制を国民に行政的に支配する権力者たちが、その権力をもって国民を弾圧しないためというのが、妥当であろう。
 銀行法は、金融に携わる人に向けたもので、国民全体ではない。
刑事訴訟法は、行政権力としての検察。司法権の裁判官。そして、国民が被告人とさせられる構図が存在する。
 従って、憲法は検察官や裁判官に対して、権力を濫用しないように向けられてつくられたものだ。
 近代裁判の原点には「権力は悪なり」という思想がある。「疑わしきは罰せず」である。
 しかし、日本裁判では被告の有罪率は90%を超える。起訴されたらほとんどが有罪とされる。この有罪率は中国よりも高い。欧州など世界的なレベルでは、70%〜80%程度である。日本の異常な有罪率は、警察が起訴さえすれば、裁判官がほとんど有罪としているからである。
  裁判において、有罪の証拠を検察側が証明すべきなのに、日本では被告が無罪の証拠を出さなければならない傾向にある。  
  憲法は、裁判官が国民の立場に立たず、警察権力側について国民を苦しめることを阻止することに使命がある筈である。