PB190002<憲法第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」は、国家(公務員)に命じたもの。憲法は、誰が誰に対して制定したものなのかなど、本質論を語る松村比奈子法学博士(拓殖大学非常勤講師・首都圏大学非常勤講師組合委員長)11月19日、都内で>
 デュー・プロセスの原則=刑事訴訟法336条。「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がない時は、判決で無罪の言渡しをしなければならない。つまり有罪の立証ができなければ無罪とするのである。
 ところが日本で無罪の立証ができなければ有罪となる。被疑者の権利の観点がない。
 松村博士は、日本人はあまりにも検察を信用しすぎて「いないだろうか、と疑問を投げかける。
 たしかに、メディアは警察から得た情報を、そのまま伝える。それが事実かどうかは、確認しようがない。情報は警察からしか得られず、他のからの検証ができない。裁判官は、警察の請求する逮捕状の審査をできない。
 つい最近、麻薬取締官が、事実にない発行をねつ造した捜査書類を提出し、裁判管から逮捕状を取ろうとした犯罪が発覚した。
 また、逮捕したことですでに犯罪者のようにメディアが報じると、その人は犯人とされ社会的なその地位を失う。企業の経営者ならば、銀行が融資を引き揚げ会社は倒産する。
 とくに違法な捜査で犯人を逮捕起訴しても、犯人が無罪になるという状況を描いたアメリカの小説「復習法廷」(ヘンリー・デッカー著、1982年、ハヤカワ文庫)の内容を紹介した。内容は、強姦の容疑者を警察が逮捕した。容疑者は被害者の装身具を所持。被害者の体から容疑者の精液を採取した。被害者の爪から加害者の皮膚の断片がみつかる。当日容疑者は現場の近くで事情聴取・逮捕する。証拠に不備はない。
 しかし、容疑者は無罪となる。それは、仮釈放中の人間は逮捕には弁護士の立ち合いが必要という州法に警察が違反していたからだというもの。
 犯罪の証拠がいくら充分でも、「疑わしきは罰せず」の精神に厳格に従った結果だという。それは「1000人の罪人を逃すとも、1人の無辜を刑するなかれ」。近代法の精神では「一人の犯罪者の悪事より、国家の悪事の方が重大であるという思想によるのである。
 憲法第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
 つまり、憲法に違反可能なのは、国家(公務員)だけなのである。
 それに対し、自民党の憲法改正草案には「1、全ての国民、この憲法を尊重しなければならない」とあるのは、国民に命じているところが、まったく意味不明。見当違いなのである。