ポストモダンからポスト真実とされる現代において、その前期であるプレポストモダンというものが、どのような時代であったか、そのてがかりが、菊池寛の著作にある。文芸同志会資料として、記録しておく。
文学思潮としての諸主義(菊池寛)
一、 古典的と浪漫的
 まず古典主義と浪漫主義等について語るのだが、十九世紀以前つまり十七、八世紀の文学を通常古典主義と呼び、十九世紀初葉に欧羅巴を風靡した文学を通常浪漫主義と呼んでいるが、古典的浪漫主義と云う二つの概念は実はそうした文学史的意義には限られず、何時如何なる時代にもあり、また作家それぞれの気質の中にも見出し得る対立的な概念である。
 古典主義は真を求め、浪漫主義は美を索めるように思われているが、必ずしも古典主義は真のみを求めず、、浪漫主義は美のみを求めぬ。
 芸術家の精神は古い範疇を持ち出すと、結局真善美が備わっていることが誰しもの願望である。
 また真とか美とかを分けて考えるのは、それほど古くからある思想ではない。
 古典美という美が明瞭に存するのだから、古典派の作家は真を求むるとは益々云えなくなる。スタンダールは「優秀な芸術は、その生じた時代には、悉く浪漫的であった」と云って居る。
 これはラシイヌとシェイクスピアとを論じた書物の中にある言葉だが、確かに時代的に言えば古典主義時代に属するラシイヌ、シェイクスピアの作品には浪漫的分子が非常に多い。
 シェイクスピアの戯曲が十九世紀の浪漫主義運動を促進せしめたことは周く知るところである。常に新しい文学は既に在る文学に対して挑戦して自己を主張するものだが、この時新進作家の心情には甚だ浪漫的な激しさと新鮮さが働いている。
 これは中世の文學に対して叛旗を翻したルネッサンス運動に於ても見られる現象である。そして新しい浪漫的な色彩を帯びた文學が時流れと共に古典となるのである。
 古典的なるものから見れば浪漫的なものが、破壊的であり、不安定に見えるのはこうした事情に依るのである。同じことを英國の批評家ペエタアは「世には形式と共に出立する生れながらの古典主義の入々があって、その人は芸術や文學の古い記録以前からの、よく認められてゐる模型の美(うる)わしさは、特に印象強くあらわれる。
  これ等の人々は是等の模型に易々と自由にはまらないものを歓迎しない。是等の作は、古い作者の変形か、さもなければ、これを研究するものであることを理想とする。
 彼等は彼等の時代の進歩的な入々に、或いは、五十年の内に誰も欲するようになるものを今から先んじて注意する人々に、「わが子よ!それは芸術の堕落だ」といつもいっている。
 また、他方には、生まれながらの浪漫主義の人々があって、彼等は独創的な、誰も未だ試みない渾沌的な状態にある材料を以て出立する。彼等は之を活々と想像し、これを彼等の作の実質と思考して保持する。
 これ等の人々は、彼等の意想の活発と熱氣とによつて、それに本質上、適当でないものを、遅かれ早かれ、清め去り、遂にはには全体の結果は、な秩序ある比例ある形像に調整されるが、その形象は暫らくした後で、今度は古典的になつてしまう。(田部重治氏訳ペエタア論集)
 これはスタンダアルも論するところで、古典主義が均整や秩序を尊ぶのに、浪漫主義が自由奔放な独創を愛し、精紳としては相反する二つのものだが結局は相交代して芸術の歴更を形成して行く事情をよく語っていると思う。
  浪漫主義は十九世紀に到って、古典主義と対立し、写実主義、自然主義と対立しだが、浪漫主義が勃興しなければ、新文學の溌剌さは生れてこない。
  フロオベエルのような厳正な秩序を愛した写実作家の心情にも、なお浪漫的な想像がどんなに多く働いたか批評家の指摘するところだが、彼の「聖アントアンヌの誘惑」や「サランボー」を読めば直ちに了解するであろう。